道徳心といのちの尊厳

今、福島原発のことで世の中は右往左往している。

先日、いつまでもマスクをしていれば変に思われませんかや食べものを避けているのは農家が可哀そうではないですかなどと言われたことがある。

世間では、風評被害に協力しているのかなどと揶揄されていることもある。

しかし本当はどうなのか、別に人がどうこうを気にして道徳心を駆り立てるのではなく、自分がされていやなことはしない、自分がしたくないことはしないとそれぞれが自分で決めたらそれでいいのではないか。

例えば、マスクでいえば大人がマスクをせずに子どもはしなさいというのだろうか?大人が手本を示して、子どもが自ら目にはみえないけれど体に悪影響が出るものを自らで防ぐことは大切なことでそれを自分がやらないということはしたくないと思えばすればいい。

また、放射能が野菜から検出されても農家が可哀そうだからなどというけれど子どもにそういうものを食べさせたいかとなると自分はさせたくない、もし毎回出荷する際に野菜ごとに計るならばまだ買う人の判断だけれどもそういうことは一切知らされず農家が可哀そうだからとなるのはおかしな話である。

自分がされたくないことを人にはしない、自分がしたくないことを自分はしない。それは自分自身が、どちらの方が本当の意味で思いやっているのかということを自分の心に尋ねて自らが生き方を決める事である。

そういう心を育てていくことが、道徳の心であると私は思っている。

当たり前だけれどこの地球には、人間だけで生きているわけではない。人間は目の前の世界だけが自分の生きている世界だと勘違いしているけれど、目には見えないけれどこの世界はありとあらゆるものが譲り合って助け合っていくように本能的に生きている。

他の動植物をはじめ、様々な生命が自分の合った環境の中で偉大な循環に溶け込みその悠久の流れの中で生命を尊重しあって暮らしている。

たとえ自分にとってどんな過酷な環境であっても、先住しているものを尊重し、あえて分限を定め棲家を分け合い生きることはお互いが生き延びるための自然界の原理であり自然の叡智を得ているのである。

それを人間だけで生きていると勘違いして身の回りの生き物を好き勝手に排除していけば、棲む場所を失った命は途絶えていく。しかしそうやって誰かの棲む場所を奪い続けていけば最期には結局自分自身が棲めなくなっていくのは誰にでも想像できる。

やっぱり、互いの生命を尊重しなくなったらこういう流れになるのであろうことは予測できた。

何が良いか悪いかではなく、「いのち」というものは絶対的なものなのである。好き勝手に自分たちの利権でいのちを裁いてはいけないし、命の尊厳を理屈を抜きにして絶対的に守るということで私たちははじめて安心して生きていけるのである。

安心した暮らしとは、多種多様な生命がそれぞれの存在を受け容れられ与えられた場所で役割を担って生きていくことである。生命の尊厳をも、見守られなくなった今日、私たちは本当の意味で危機を迎えているのだろうと私は思う。

こういう時こそ、丸ごと受け容れて前向きに様々なことを見直すチャンスであると気づくことである。

生き方や在り方を固定観念を捨てて見直し、そして自分がどうしたいのか、子どもにどうしてあげたいか、いつまでにどうするのかを決めてそれぞれの持ち場でやれることを真摯に取り組むことであろうとも私は思う。

そういう一人一人の道徳心が、優しい社会を育て、信じる眼差しを広げていくことで流れを易えていくことできるのであろうと私は思う。人間は馬鹿ではない、人間は素晴らしい存在である。

だからこそ、あるがままのすべてを信じて道徳を学んでいきたい。私は、今回のことで犠牲になった方々のためにも根底から見直すことで少しでもこれからの子どもたちのために還元できるように取り組んでいこうと思います。

学び直し

自分が大きく変化成長するのには、今までの既成の概念や知識を超える意識改革が必要になる。それは、まるで虫が脱皮するように、今までの殻を脱ぎ捨てることが必要になる。

つい人は、刷り込みから成長とは右肩上がりで斜めに上昇していくものだと思っている。しかし本当はそうではなく、階段のようにブラッシュアップされていくものである。

植物でも新芽の時機、花の時機、実の時機があるように、人生にも四季がある。そして、同じく人の成長にもその時機というものがありその時機時機に必要な壁にぶちあたり、その壁をひとつひとつ乗り越えることで生長していくようなもの。

もしも図で表せば、階段はその段の時は平らであるけれどそのまま進んでいたら壁に中る、そしてその壁をどうにかして乗り越える。今までのやり方、今までの意識では通用しない場所へ移動するようなもの。

今までの方法ややり方が通用しないと自覚することも大切で、いつまでも今までのやり方に固執し、意識改革ができなければ頑張っているのになぜかいつまでも同じ失敗、停滞して諦めるという成長が止まっている感覚に焦るだけで悪循環になる人もいる。

しかし人間は、目に見えやすい目先の業務に埋没しつつ今までの知識で何とかしたいと思うもの、そして今までの能力で乗り切りたいと思うもの、不安や恐怖に克てずどうしても意識を改革することが難しいものである。それは自分を見ているからでもある。

目には見えにくいけれど心眼で捉えておくような、向上心や志、また理念や目標という大きく高いものを目指し日々を真摯に取り組んでいる人はブラッシュアップしやすいもの、それは「壁」というそのものの本質的な姿を正確に心が捉えるからであると思う。

そしてその後の意識改革にもっとも必要なのは心の在り方、「素直さ」であると思う。

素直であるとは周囲と同じ目標の下、自分を優先せず全体と心一体になって取り組むことができ、その中で開かれた関係から、あるがままにすべてを丸ごと受け容れることができる、つまりは自分が抱いている意識の壁も客観的に正しく理解することができ行動するからである。

そうすれば次に必ず「学び直し」の気づきを実感し、すぐに自分の意識を変革するために常に真っ新にしていこうとする捨てる力を得るのであろうと思う。

人は、なかなかその両手に今までの経験実績や自信、自分の地位や立場などをいっぱいに持ってそれを手放そうとはしない、これはエゴがが働いている。

もっと自分よりも大切な人のためにや、自分よりも大事な理念のためにという風に、なるべく自分を感じないようにすることもコツである、自分のテクニックや自分の能力を使おうとするのではなく、自分をより大きなもののために活かそうとしたり使おうとしなければ意識は改革できないからである。

そしてその中でその時機時機に、脱皮するための変わる勇気、つまりは意識を改革するために真っ新に学び直そうとする素直な姿勢がその後の未来を変えていくのであると私は思う。

うまくいかないからと、いつまでも頑なに今までにやり方に戻ろうとするのは決してそれは学び直しをしているのではない。それは単に、今までの方法論を
復習しているだけである。

そうではなくて、新しいことを習得するには、「習うより慣れろ」ではないけれど習慣を味方につけるようにし新しい習慣を決め繰り返し取り組み、新しく学ぶ姿勢を正す、つまりこれが「学び直す」ことなのである。

こういうことは学校では教えない、けれど人生の道では必須のことだ。

仕事も同じく、人生も同じく、時代時代の変化にあわせて自己改革をするコツは掴むことだ。子どもたちの成長をみて、何か知識を詰め込むように刷り込むのではなく人は変わるものだと感動したり習慣を持ったり、人生を好循環、善きものへとマネージメントする力を獲得できるように手本を示すのが大人の役割でもある。

まずは自分自身が、常に壁に気づき乗り越えるように学び直しに素直に真摯に取り組んでいこうと思う。

吾唯足知

先日、ニュースで米国と日本の借金の額を見て資本主義の末路と非現実的な貨幣経済に偏った状況を垣間見て信頼できる社会とは何かについて考える機会があった。

際限なく、消費を続けて自国の景気をよくし続けることで成り立つ社会とは疲弊経済でありこんな状態はいつまでも続かない。

問題は、まだまだ大丈夫だという慢心とまさか自分だけはないだろうという人任せ運任せの生き方そのものの危機感のなさは歴史が繰り返すことを示唆している。

震災で感じた防災への意識も、子孫へ訓示を遺してくれていた先人の智慧の価値についても人間がどのようなものかを実感する善い機会になった。

ネイティブアメリカンの格言に「7世代先の子供達のことを考えて、今を生きよ」という言葉がある。

これはどのような実践を行うべきか。

二宮尊徳の夜話に下記がある。

「嘉永5年正月、翁おのが家の温泉に入浴せらるゝ事数日、予が兄大沢精一、翁に随つて入浴す。翁湯桁にゐまして諭(さと)して曰く、夫れ、世の中汝等が如き富者にして、皆足る事を知らず、飽くまでも利を貪り、不足を唱ふるは、大人のこの湯船の中に立ちて、屈(かゞ)まずして、湯を肩に掛けて、 湯船はなはだ浅し、 膝にだも満たずと、 罵るが如し、
若し湯をして望に任せば、小人童子の如きは、入浴する事あたはざるべし、
是湯船の浅きにはあらずして、己が屈まざるの過なり、
能く此の過を知りて屈まば、湯忽ち肩に満ちて、おのづから十分ならん、何ぞ他に求むる事をせん世間富者の不足を唱ふる、何ぞ是に異らん。夫れ分限を守らざれば、千万石といへども不足なり、一度過分の誤を悟りて分度を守らば、有余おのづから有て、人を救ふに余りあらん、夫れ湯船は大人は屈んで肩につき、小人は立つて肩につくを中庸とす、百石の者は、五十石に屈んで五十石の有余を譲り、千石の者は、五百石に屈んで五百石の有余を譲る、是を中庸と云ふべし、 若し一郷の内一人、 此の道を蹈む者あらば、人々皆分を越ゆるの誤を悟らん、人々皆此の誤を悟り、分度を守りて克く譲らば、一郷富栄にして、和順ならん事疑ひなし、古語に、一家仁なれば一国仁に興る、といへり。」

少し長いけれど、これはこのままが価値がある。

まず、人には天分というものがある。
そして、その中で自分が定める分度分限というものがある。

これは分度というものは、全部が全部自分のものにするのではなく自分の範囲を定めてそれ以外は子孫のためにや周囲の人たちのために譲っていくことが大切であることを説いている。

直訳すれば、「世間の富を求めるに足るを知らない人は自分が屈むということを知らないでいる。お風呂でいえば、自分がお風呂に立ったままではいくらお湯があっても腰までしかつかれない。しかし、もしも自分が屈めば少しのお湯でもつかることができる。これと同じく、満たされるということは自分がその範疇での生活を行い足るを知り余剰を発生しそれを譲ることで真に富むことができるもの。自分の収入で言えば、収入内での分限を定めるに、限度枠いっぱいでやるのではなく半分で設定し残ったものを子孫や周囲への発展に貢献していくことであるとする。

この「分度」というものは本当に大切なことであると私は思う。

そしてこの分度を思うとき、如何に自分が足るを知ることが大切なのかを思わないことはない。

いつも物足りない、もっと欲しいと満たされず不足を思えば当然手に入れようと躍起になっていく。しかし、もしもいつも足りているとし、十分ですと足るを知れば手に入れるよりも譲ってあげたいと思うようになる。

これは生き方や在り方にも顕われる。

会社の経営でも、仕事のマネージメントでも同じく、利益というものが足りない、売り上げが足りない、時間が足りない、人が足りないなど、いつも足りない方ばかりに目を向ければ当然手に入れようと躍起になってしまい短期的な目線で疲弊してしまうことになる。

そうではなく、利益は譲ることであり、売り上げも譲ればいい、時間も譲り、いつも足りている、つまりは譲っていく方に目を向ければ長期的な目線で持続し安心して穏やかに暮らすことができるようになる。

当然、有事無事があったとしても生き方や在り方としてどちら側が富むものであるか、どちら側が満ち足りた側であるかは一目瞭然である。

経済とは、不足を思うことではなく足るを知ることから改善できる。

そしてそれは経済力を上げる下げることではなく、経済を譲ることである。
これこそが中庸であり、人は思い譲る、つまり思いやりの中で生きる事で安心した穏やかな発展、つまりは悠久の繁栄を約束されているのであろうと思う。

循環する経済、人との信頼と信用の輪を広げていく豊かな社会こそ人心が満ち足りた平和な社会でもある。不足だと貪り続けることで、足りないものを足そうと借金をし続けて行き着く先は無限の欲望のなれの果てである。

私たちは、子孫や子どもたちのために感謝を譲るための心が大切である。

今の時代は、かつてないほどに物に溢れた裕福な世界、しかしそれを裕福に感じれないところに真の問題がある。

足るを知る心とは、天が与えたくださった恩恵に感謝する心。

当たり前ではないことをよく自覚し、ありがとうとともに歩んでいくこと。
生き方や在り方は将来を決めるもの。

子どもたちのためにも、自らが実践していくように学んでいきたい。

生き方の見直し

色々なことがある中で、自分の生き方を新たに見直す機会に人は何度か出会うもの。

知らないうちに様々な影響を受けて環境や時代に流されてしまえば、自分らしい人生を最期まで歩むことはできない。起きる出来事に対して、その都度自分はどのような決断を積み重ねていくのかということは生きる上でとても大切なこと。

さらに、一つ一つの質を極めて積み上げていく中で絶対的なゴールをどこに定めているのか、自分はどう生きているのかということを知ることはより一度しかない人生を歩む中で重要なことだと思う。

そのゴールまでのプロセスの中でどのような生き方ができたのかそれこそが人生そのものの価値でもある。自分の価値をより高め、自分の価値がさらに偉大な価値が出るようにマネージメントすることが強みを活かすことでもある。

つまりは、自分にしかできないことをやることである。自分の存在価値そのものが、貢献そのものになっていることがもっとも価値が高いからである。

あるがままの自然のように、それぞれが価値ある生き方をしていくことがもっとも全体の調和を生みだすものであり共生と貢献であると言い切れるものでもある。

しかし人は、自分らしくある前にいつも何かと比べたりして絶対的な場所をすぐに相対的なところで頭で裁こうとしていくもの。

王道ではないけれど、本筋に的中するには心で自然を絶対的なところで感じることであり、そのままの自然を比べようのないところで捉えていく感性が必要なのであると思う。

それが子ども心でもあるし、遊び心や好奇心なのでもあろうとも思う。
そういうものの質を高めていくにはどうすればいいか。

やはり、自分の生き方を自然に溶け込み合わせていくように在り方そのものを見直すことであると思う。

今まで、ひょっとしたらこういう未来になりそうだというものが自分の理想とかけ離れた未来があったとすれば、それは即ち生き方と在り方を易えるチャンスであると受け取ることである。

そしてすぐに自分で生き方や在り方を学び、決心して実践すればすぐに未来は易わったことに気づけるもの。その先に、希望が生まれ人は新たなゴールを創造することができるようになる。

未来とは、今の心であり、今の心とは生き方と在り方そのものをどう決めるかという決意の集積であるのだとも私は思う。

今のように未来が想像できないような時代、今、どうあるべきか、今、どう生きるべきか、仕事では、今、どう働くのかを決めること、そして勇猛果敢にその信念に向かって挑戦することであろうとも思う。

子どもたちのためにも、今、この瞬間からすべてを見つめ新たに見直し未来への道筋を切り開いていきたいと思う。子どもは未来、子どもは希望、子どもを愛する心を自然に描写し新しい関係性をデザインしていきたい。

歴史を紡ぐ

私たちが生きている今には、様々なものが継承されている。

歴史を学べば、どこからか大きく方向が変わって本流を見失っている時代があることを感じることがある。歴史は、その国の誇りでありその国の在り方を示しているもの、歴史を持っていることが私たちの存在を盤石にしているのは困難を乗り越えてきた証であるからである。

歴史を紐解けば、日本では戦後に今までの価値観が否定され教科書が黒塗りにされたように、ひとつひとつを黒塗りにしてやってはいけないと教育されれば最初がどうだったかなども思い出すことはない。

どちらかを否定することで、新しいものを取り入れやすくするというのは都合よく何かを利用しようとする側からすればやりやすいのであろう。そうやって刷り込んでいけば、誰も疑わなくなればそれでことな為したようなもの。

教育も、意図があるものを教え込むのと、そのものを信じるものとでは相対的か絶対的かの違いがある。

現実を受け容れることが壁を乗り越えて前へ進むことであり、否定して避けて通ろうとするのは壁から逃げる事である。歴史は頭で教えるのではなく、歴史は心で感じるものが歴史なのであろうと私の体験から思っている。

時代時代に、受け容れ難いことがあったとしてもそれを否定することではなくどう受け容れるか、場合によっては耐え忍んでも信念を失わず根気強く取り組むかというものが大切な灯を次世代に燈すことに繋がっているのだと思う。

世間には、その灯の役割の人たちもたくさん存在している。
そして、そういう本も探せばまだたくさん残っている。
そういう思想も、そういう場所も問題意識を持っていればたくさん出会う。

そう考えてみると、完全に消し去ることはできないのは私たちの遺伝の記憶に歴史は刻まれているからであろうとも私は思う。

そういうものを覚えているものだとし、心の赴くままに大切なものは何か、生き方として何を優先して生きていくのか、そして壁をどのように乗り越えるのかを学んでいけるということが私たちの生きる力の中に満ちている。

子ども達には、何も教えていなくてもその遺伝子の記憶があるようにも思える。なぜなら、子どもたちの心には大事なものを見抜く感性、大切なものを見通す感性、本物を見極める感性が最初から備わっているからである。

なぜ心を澄まし、正直に、清く明るく生きていくのが大切なのか。

それは創始の心をそのままに、様々な困難を乗り越えていきなさいと見守る存在を感じることができるからである。

どんなに世界が目を覆いたくなるような現実の中でも、私たちはその根底に心の在り方を見失わず手を取り合って受け容れ乗り越えた歴史がある。

その歴史に励まされているからこそ、私たちは歴史を尊重し学ぶのだろう。

これからどのような歴史を紡ぎ、織りなしていくのか、その反物の質をどのように高め、そして生命を尊重しあって生き抜いていくのか、時の中にある生命の神秘には驚くことばかり。

まだまだ日々を練磨し、感謝とともに歩みを深めていきたいと思う。
子ども達には、真の歴史を紡ぐための環境を用意していきたい。

理念を思う

利は義の本なりがある、そしてこれは経済とは道徳であるという意味と同質の言葉であると思う。

会社で言えば、どこでも利益を出すことを最優先にし経営をしていくものである。しかしその中で利益に偏ると次第に自分都合の利になってしまいがちであり、そうなってしまうと義というものが次第に見失われていくもの。

そして逆に、利益の方を気にせずに義にばかりに偏ると自分都合の義になってしまい社会へ利も義も循環していくことができなくなる。

この利や義というものを、一円に融合させたもの、それを絶対的なものにしたものが理念である。

例えれば、会社であればその利益は大義のために必要なものかを考え抜いて理念というものを絶対的に定めてそのために何をどのようにいつまでに貢献するのかというものを決める。

その後、それがはっきりと結果で顕われてくるのが数字であり、その数字を見てさらに戦略を立ててより義と利が正しく循環するように貢献するためにバランスを確認するということであると思う。

すぐに数字さえ上げていればや、大義だけがあればなどと一方だけの見方に囚われるのはまだまだ本質を考え抜いていない証拠であり、相対する矛盾を包有した中で本質・本物の仕事の質を追及していくことを怠っているからでもる。

論語に、「利を見ては義を思う」がある。

これを判断するのにその利益は、本当に必要な利益だったのかと考えるとき、その貢献は、本当に必要な貢献だったのかを思う。その利益が、人の道として正しく本当に価値のあるものだったのかと考えるとき、その大義が正しく実践されているかどうかを思う。

つまりは、利とは義であり、義とは利なのである、これを併せ持ったものが理念、その理念を全うすることが原点や初心からいつまでもブレナイで経営をすることに繋がるのだと私は思う。

つい人々が一般的に語られる理念とは、相対的に二者択一の場所で語られる。利益と理念を比べたり、目先の問題と理念を入れ替えたりと、理念というのはそういう場所で使われるものではない。

そこを自覚すれば、事象により迷うことが少なくなり、本来の目的に対して最適な判断を下していくことできるのであろうとも思う。

目の前のことの事象が大きな問題に見えてしまうのは、眼には見えないけれど確かに存在する理念の実践を怠るからであり、本来、どういう理念で会社を経営するのかという道に根ざせば正しい判断ができるようになるのであろうとも思う。

そうやってひとつひとつを正しく経営の道の質を高めていけば、好循環になり巡り巡って利益は自分を通して社会へ環し共存共栄という繁栄と発展を継続していくことができるのであろうとも私は思う。

実践は、頭で思うようにはいかないからこそ理念を学び生長し続けることを本義として何よりも自分を理念に近づかせていく努力や精進を怠らないことであろうとも思う。

一つひとつ丁寧に自分らしく生きること、自分があるがままでいることを理念に定め実践していくことで最終的にはみんなが幸福になる社会を築けると思う。

私自身もまだまだ道を学んでいる最中、様々な出来事に心を痛めることもあるけれど最終的には子どもたちのため理念に近づき、理念に寄り添い、理念と一体になって日々を実践に親しんでいきたいと思います。

理念と貢献

貢献というものを考えてみる。

人はただ貢献といってもその人その人で貢献の定義が異なるし、その時の状況や内容でそれぞれに好きにその貢献という言葉を使っている。

例えば、ある会社では利益さえ上げれば貢献だといい、またある会社ではお客様の喜びであればそれが貢献だといい、またある会社では一生懸命に自分のできることをやっていれば貢献だという。

しかし、この場合働いている人たちの声や思考を聞いているとそれぞれに自分勝手に解釈したその貢献の定義があり、本来の貢献とはどういうことかということを考えなていないことが多い。

当然、広義の上では誰かのために自分を使い助けていくことは貢献であるのだけれど時としてそれがかえって全体への迷惑になったりすることがある。

それは、利益さえ上げればいいと闇雲に稼いでいると大義から外れていたり、お客様を喜ばせられればとして言いなりになってしまうと本質やポリシーから外れたり、一生懸命にやればやるほどに逆効果となり会社や周囲を疲弊させてしまうということもある。

これはなぜかというと、単に優先しているものが観えなくなるからでもある。

では何を基準に優先するものを決めるのかといえば、それは会社の理念が最優先でどのような決断をするのかという今の優先順位のことである。

本質的な貢献をするには、まずは理念ありきのもので、その会社の理念が一体世の中全体にどのような貢献を生むのか、言い換えれば「自分の会社が全社会に対してどんな意義があるのか」という貢献の定義を根底にそこから何をするのかを決めていることが大切なのである。それがあわなければ、持続可能な会社にもならず、それがどのようなものであるかで過去今将来が決まってしまうもの、それが理念である。

そういう理念を持たないで判断すれば、それぞれの個人の勝手な理念が優先されれば支離滅裂になってしまう。まず自分を含む全体が何を優先するかという理念で全員が一つの目的のために自分たちを何に活かしていこうとするかという共通理解があっての貢献なのである。

つまり、何を貢献したかではなく、何に貢献するのかを決める事である。

理念からブレナイというのは、そういう本来定めた目的やビジョンを見失わないように様々な出来事の中でも常に自分が何に貢献するのかから外れない決断をできるかということなのである。

そういうものを持たないと、部分では最適なものに夢中になり頑固に実務に没頭しているうちに周囲が理解してくれないと哀れな自分を慰めようとし被害者意識を持ち、そのうちに組織をバラバラにしたりする原因になるものだ。

日々のひとつひとつの実務は確かに大切なことである。しかしその実務は理念があってのものであり理念に溶け込まない実務はあまり全体に対して効果がないものなのである。それに気づくことが大切で、気づく環境も大切なのである、それが理念を実践することでもある。

緊急な業務も重要な業務も、それが理念のどこに根ざしているのかを常に考える事、本当は何のためにやっているのかを自覚することこそが理念に向かってみんなと一緒に一体になって取り組んでいることになるのだ。

人はそういう目に見えないものに対しては、心が決まっていなければすぐに事象にさらわれてしまうものだと思うし、信念を醸成していかなければすぐに目の前の出来事に右往左往してしまうもの。

理念というものを可視化し、それをどれだけ誰よりもこだわるか、その理念に溶け込むかが将来本当に遣り遂げるために重要なコツなのであると私は思う。

純粋にその理念に感動していることや、純粋にその目的をやるために自分を使っていくこと、目先ではなく本来のビジョンにあわせていくことの大切さは仕事を通してもよく感じる。

私はこの国は、神話から流れている創始理念はそのままに受け継がれているし、神道を通して生活の中にまだ自然からのメッセージは息づいている。

その理念が、将来の貢献の意義や子どもたちを健全に育てていくのであろうと確信している。何も誰もいわなくても、自然がすべてを教えてくれる、そこから理念を紡いでいけばいいのである。

これからも自分がまずその理念に溶け込めるようにかんながらの道を深めていきたい。

心のモノサシ

人は自分の在り方というもののモノサシをどう持つのかでその生き方が変わってしまうもの。

例えば、責める生き方、無理をする生き方、競争する生き方、疑う生き方から、許す生き方、無理をしない生き方、自由な生き方、助け合う生き方、信じる生き方など、その人が自分の在り方においてどのようなモノサシを心の棒にしているかでその在り方が変わってくる。

責めるというモノサシで生きている人は、自分が強気でいるときは誰かを責め立て、そして自分が弱ると今度は自分を責め立てる。常に責めようとする感情に支配され、何かを責めていなければ生きられない程になっていることもある。

これは自他を責めるかどうかの問題ではなく、そもそも責めないとする生き方つまりは「許す生き方」に変換する必要がある。もしそれに人が気づいて自他を責めるというモノサシではなく、自他を許すというモノサシにすれば自分も許し相手を許すことになればいいだけである。そうすることで、周囲の人や自分との関わりが破滅的ではなく建設的な生き方になるものである。

もう一つ例を出せば、自他を疑うというモノサシがあるとする。自分が強気でいるときは誰かを疑い、自分が弱気でいるときは自分を疑う。自他を信じるというモノサシに変換できていなければ、一生その感情のモノサシにより自分の人生はいつまでも建設的に好転していくことはない。

人生とは、その人の生き方が決めるものである。

「明るく素直に正しく、他人に優しく言葉を大切に与える方を優先し、真心で助け合い、尊重し認め合い、勇気と元気と健康に今を大切に謙虚に感謝とともに生きていく」という言葉があるとする。これは全てこの世の善い循環で生命が楽しく豊かにあるために自分もその一部として好循環に溶け込み生きていれば次第に幸せになっていくのである。

そうするだけであの豊かで幸福な笑顔で、いつも穏やかに自由にある存在のようになれるのである。

これとは逆に、いつまでも人生がうまくいかないと苦しんでいる人たちはやっぱり原理原則としての心のモノサシが以上のような「明るい」とか「素直」とか「謙虚、感謝」などというものではなく、冒頭の責めるとか、疑うとかをはじめ、不安とか恐怖という感情に支配されてしまい、いつまでも自分のあり方の方が大切であるのだということに気づくこともない。

その根底に気づかないのはその手前にある感情の刷り込み、つまりは自分の根底にいくまえに壁が立ちふさがっているからでもある。

この壁は、誰かから傷つけられたトラウマであったり自分の傲慢なエゴであった、もしくはその人の持って生まれた先入観だったりもするけれど、それを受け容れたり手放したり取り除いたり改めなければ何をやってもいつもうまくいかないということになるのであると思う。

性質が悪くなるのは、そのモノサシを変えずに何度も失敗を繰り返すと、どうにもならないからと自分を慰め自己憐憫をし被害者妄想で自分が被害があるのは誰かや何かのせいだと一向にそこから改善するよりもその状態に浸っていたいという逃げが入り人生が循環せず停滞してしまうだけである。

自分の生き方が周囲へ好循環を生むように、自分の価値観を変換することはとても大切なことであろうとも思う。特に、子どもの周囲にいる人たちは子どもにどのような生き方を見せるのか示すのかというのは大変重要なことであると私は思う。

なぜなら、子どもは知識はその辺の本や情報から得られても人格や陶冶とは周囲の大人の生き方や関わり方で学んでいるからである。

周囲の大人が働きかける関わりで、生き方として味わう喜怒哀楽の感情のモノサシをオープンにするのかクローズさせるのかを決める。傷を与えるような関わりの大人であれば、子どもは自閉気味になり不自然になる。そして傷をいやすよう見守る関わりの大人であれば子どもは自由に生きていき、明るくオープンに自然体でいるようになる。

子どものためにも何かを子どもへ要求する前に、まず自分をの生き方を見つめ直して、在り方を見直していかなければならない。

今は、現場で傾聴して相談を受けているとたくさんの人たちが何ともいえない抜け出せない閉塞感で心が苦しんでいる。子どもといる幸せを感じる余裕もなくなっている人がいる。

楽しく豊かで幸せな生き方をするためのモノサシとは何か、そういうものを気づきの中で共有できるようにカグヤはそれを子どもの仕事に取り入れていきたい。

質への転換

物事を感じるとき、それをどのように自分が質へ転換できるかどうかに人間としての価値が生まれてくるものであると思う。

どんな物事があったにせよ、それを自分が深く探り取るかどうかというのは質へと転換できるかどうかによるもの、量だけを経験すればいいのではなくやっぱりそこへは高めたかという日々練磨修養を積み上げていく生き方が大事なのであろうと日頃の経験から感じる。

人との出会いであっても、質が高まるものにしていくのは自分がより一層出会いを大切にしたいと願う生き方の実践が如実に関わりに顕われてくるもの。

素晴らしい物事との出会いとは、そのものとの深い関わりを感じることでそれを紡ぎ合わせていくなかで人生の妙味を楽しむこともできるのであろうとも思う。

そしてこの転換には、色々と捨てることができるかという新しい境地への挑戦というものがある。

今までやってきた知識や経験では得られないようなことを今までの範囲で取り組もうとしてもそこからブラッシュアップできることはない。新しいこととは文字通り今まで知り得なかった新境地に自らを運んでいくことをいう。

しかし人は、どうしても今まで慣れ親しんだやり方が捨てられず新しい境地へ入ることができないでもいる。そこには、迷惑をかけるや不安、迷いなどの躊躇いがありどうしても挑戦する気持ちを避けようとするものである。

そういう躊躇いや遠慮が、物事を停滞させエネルギーを枯渇させていくものであろうとも思う。

本当に全体にとって善いか、これは社会貢献できるものかと考え抜くものでなければ動けないように、自他の小さな範囲ではなく大きな視点、大局的な見地で物事は決断することが大事なことであろうとも思う。

如何に長い目で布置を見定め、将来をデザインするか、リーダーの仕事は環境を用意して見守る事ではないかともこれからの時代を眺望していると私はそれをよく感じる。

その環境を通じて人が人と出逢い、そして紡ぎ織りなしていく時間の中で私たちはそれぞれに使命を果たそうとするもの。

大きい小さいでもなく、多い少ないではなく、質を高めるために新しい境地を楽しみ、今というものを感じてその出会いの神妙な不思議を信頼して身を委ねどれだけのものを手放すことができるのか。

人生の醍醐味は常に人との出会いの中にある。
素晴らしい日々は、出会いそのもの。

子ども達には、新しい発見と創造に満ちた豊かな環境を用意して見守れるように社会の在り方に対して新境地を社業を通じて見出していきたい。

持続可能

人類は今まで様々な困難を乗り越えてこれたのは、人間は高度な社会を形成することができたからであると師から伺ったことがある。

私たちは今まで、なぜ生き抜いてこれたのか、その問いは人々が人との関わりを大事にして互いに貢献し共生してきたからこそ繁栄と発展を享受することができた。

たくさんの人たちと関わればいいのではなく、一人ひとりを大切に接していくことで思いやり、出会いと繫がりが絆で結ばれているからこそ助け合うことができたのであろうとも思う。

持続可能である生命とは、自然界がもっとも私たちに示してくれるようにお互いの深い信頼と絆で助け合い生きていこうというメッセージを常に顕現させていただいているものであると私は思う。

みんなで分け合い、みんなで助け合い、みんなで認め合い、みんなで話し合い、みんなで分かち合い、みんなで生きる。

みんなが持続可能に生きるという目的に焦点をあわせてそれぞれが助け合っていくことで今まで生きてこれたのであろうとも思う。

何十世代の前から私たちのために、生きていくための力を遺してくださった先祖の方々、その生きる力を私たちは心に秘めて今を生きている。

その生きる力を捨てて、自分の殻に閉じこもったり、他を蹴落としたり、奪い合ったり、自分の身ばかりを守ったり、絆を断ち切ったり、関わりを表面上の希薄にしたり、対話を避けたりするから滅びのサインが様々なところに顕われてきているのであろうとも思う。

人間は、様々な困難を乗り越えたのはみんなが共通のテーマであるどう生きるのかということを真摯に考えて協力してきたからだ。それは、生き方でもあり在り方でもあり、みんなで生きるということの素晴らしさを尊重してきたからでもある。

なぜ人は生きるのか、なぜ死ぬのか、それを思うとき必要としている人たちがいてその人たちのために自分を生き、自分を死ぬことが幸福なことではないのか。

人は決して一人では生きられない、それは人類は一人では生きられないことを意味している。

だからこそ、他人との繫がりや関わりをどれだけ一期一会に大切にできるかということが人類持続可能の至高の一手であるのだろう。

都会の煌びやかに派手に映るネオンに目を眩ませてはいけない、人間が内部に持つ本物の光にこそ眼を向けてその光を観ることである。

その光を観れば、心が安らぎ、命の偉大さを実感し、優しさや思いやり、そして穏やかな楽園をそこに見出すことができるもの。

持続するものとは、もっと競わない穏やかな世界にあるものだ。

私たちは今こそ、みんなでひとつになってチームになり地域を再生し、人々との和を紡ぎ合わせていかなければならないのだと私は思う。

持続するのは紡いだ命の糸をみんなで織りあわせていくことである。

持続可能な世界を子どもたちと一緒に力を合わせて築いて生きたい。