命の尊重と随神の道

神話というものには私たちが本来、直観で掴み取っていた物事を悟る力があった時代に書かれたものであろうとも思う。

例えば、日本書紀ではすべての出来事や物事に神々が通じているのを透明で澄んだ感性で捉えている。

私もよく風を感じるときに、日頃制止している空気が季節によって身体を透過していく際に何ともいえない心の揺れに目覚めることがある。

これは海でさざ波の音を肌で感じるときにも気づければ、蝋燭が炎に揺られているときにも確かにそこに何かがあることを感じることができる。それは有る無しの世界観ではなく、無い中にも在るという西洋的に言えば精霊ともいえるようなものであろうか。

かんながらの道を歩んでいれば、誰しも古代の日本民族の感性に目覚めることができるもの。素直であること、清く明るく、そういう純粋で真っ白で透明な心のままに天の理法に則って生きていけば誰しも命を感じることができるものであろうとも私は思う。

大事なものは、常に命を捉える感性である。

それはどんなに静止しているものであっても、大切にすること、もったいないと思うこと、つまり簡単に言えばゴミを捨てないということ、ゴミというものは存在しないということ、循環の中に生きる様々な命を尊重することであろうとも私は思う。

神話には、あまりにも目に見える世界だけの存在で裕福さというものをはき違えるとその物質文明により滅びることを示唆している。物は所詮物である、物は実は大切な物なのであるというふうに、物質ではない側面、そこにも大切な神が宿り命や心が存在していると感じなくなることが危険であるということだ。

水はただの水だけれど、そこに祈りや心を籠めれば水が感応し癒しの水になることがある。それは日々の生活を通して、如何に水に癒されているかを感じれば誰にだって分かるものである。

しかし、火も同じく火だけれど、それをただの火だと思って便利に目に見えるところだけを都合よく利用すれば最終的には原発のような大変危険なものになる。これも今回の事件をみてもすぐに分かるものである。

私たちは原点に帰るべきではないか。

それは別に神話の時代のように科学の進歩もない古代に戻れというわけではない、天の理法に則って日本人らしく素直に謙虚に物を大切に人との和を重んじ、楽観的に苦を乗り越え感謝とともに生きていく道を選ぼうということである。

現代でも、それはいくらでも工夫することができるもの。物を捨てないようにすることや、見どころのある青年のように嫌事でも喜んで気持ちよく取り組むことや、禍転じて福としようと希望に待ちつつ皆で協力して思いやりのある明るい社会を築こうなどは今でもできるはずである。

生き方というものを見つめる時代が私の定義する成熟した時代。

こんな時代に生まれた自分にも運命を感じる、私にできること、このかんながらの道にある未来と過去の大調和である今に純粋な思いを透過していきたい。日本人に生まれたこと、この国に在ることに深い感謝を覚えます。

まだまだ道半ば、直観を信じて取り組んでいきたい。