歴史を紡ぐ

私たちが生きている今には、様々なものが継承されている。

歴史を学べば、どこからか大きく方向が変わって本流を見失っている時代があることを感じることがある。歴史は、その国の誇りでありその国の在り方を示しているもの、歴史を持っていることが私たちの存在を盤石にしているのは困難を乗り越えてきた証であるからである。

歴史を紐解けば、日本では戦後に今までの価値観が否定され教科書が黒塗りにされたように、ひとつひとつを黒塗りにしてやってはいけないと教育されれば最初がどうだったかなども思い出すことはない。

どちらかを否定することで、新しいものを取り入れやすくするというのは都合よく何かを利用しようとする側からすればやりやすいのであろう。そうやって刷り込んでいけば、誰も疑わなくなればそれでことな為したようなもの。

教育も、意図があるものを教え込むのと、そのものを信じるものとでは相対的か絶対的かの違いがある。

現実を受け容れることが壁を乗り越えて前へ進むことであり、否定して避けて通ろうとするのは壁から逃げる事である。歴史は頭で教えるのではなく、歴史は心で感じるものが歴史なのであろうと私の体験から思っている。

時代時代に、受け容れ難いことがあったとしてもそれを否定することではなくどう受け容れるか、場合によっては耐え忍んでも信念を失わず根気強く取り組むかというものが大切な灯を次世代に燈すことに繋がっているのだと思う。

世間には、その灯の役割の人たちもたくさん存在している。
そして、そういう本も探せばまだたくさん残っている。
そういう思想も、そういう場所も問題意識を持っていればたくさん出会う。

そう考えてみると、完全に消し去ることはできないのは私たちの遺伝の記憶に歴史は刻まれているからであろうとも私は思う。

そういうものを覚えているものだとし、心の赴くままに大切なものは何か、生き方として何を優先して生きていくのか、そして壁をどのように乗り越えるのかを学んでいけるということが私たちの生きる力の中に満ちている。

子ども達には、何も教えていなくてもその遺伝子の記憶があるようにも思える。なぜなら、子どもたちの心には大事なものを見抜く感性、大切なものを見通す感性、本物を見極める感性が最初から備わっているからである。

なぜ心を澄まし、正直に、清く明るく生きていくのが大切なのか。

それは創始の心をそのままに、様々な困難を乗り越えていきなさいと見守る存在を感じることができるからである。

どんなに世界が目を覆いたくなるような現実の中でも、私たちはその根底に心の在り方を見失わず手を取り合って受け容れ乗り越えた歴史がある。

その歴史に励まされているからこそ、私たちは歴史を尊重し学ぶのだろう。

これからどのような歴史を紡ぎ、織りなしていくのか、その反物の質をどのように高め、そして生命を尊重しあって生き抜いていくのか、時の中にある生命の神秘には驚くことばかり。

まだまだ日々を練磨し、感謝とともに歩みを深めていきたいと思う。
子ども達には、真の歴史を紡ぐための環境を用意していきたい。