子は宝

原発事故があってから今でも放射性物質の粉塵は出続けている。

環境汚染に対する認識の甘えにはさることながら、資源をすり減らしていくような人間のための経済の最終的な姿がこの事故でも垣間見ることができる。

物質的豊かさの限界とは、いくら便利に人間に都合の良い物ばかりを大量に生んでも決して真の豊かさには辿り着けないことを知る。そこにまず精神的な豊かさがあってこそ、物の豊かさというのが生きるもの。

心を亡くせば、制御できないような大変危険なものにより私たちはそのことで非常に困ることになるのであろうとは神話の時代から語り継がれてきたことだ。

子どものためにどうにかしなければという問題意識と危機感は今回の事故で改めて再認識することになった。目先のことばかりを子どものためにと語る人もいるけれど、大切なのは何世代も先のことせめては12世代以上先のことまで考えて今どうあるべきかを決めることが真の子どものためであると思う。

この先、子どもたちがどうなるのかそれを大人たちが真剣に考え切り、自分たちを律しつつ、より善いものを譲っていこうという心がすべてである。

放射能などは染色体を傷つける、目には見えないからというけれどこの傷ついた染色体が子々孫々へ与える影響を考えてみるといい。本当に子どもが大切ならば、絶対に子どもや妊婦には被爆させるわけにはいかないと人道的な見地からも誰でも分かるはず。

自分の子どもというよりも、世の中のすべての子どもたちに被爆させてもいいという大人がいるはずがない。

子は宝である。

いくら豊富に物質が溢れても、いくらお金が大量にあったとしても子どもたちには敵わない。子どもたちがいるから私たちには希望という宝があり、真の豊かさを享受されていることを自覚するのではないか。

子どものいない世の中ほどさびしいものはない、今の少子化や若い世代の健康不安、荒廃を見て何も気づかないとしたらもう真の豊かさよりも仮初のものに刷り込まれている証拠だと思った方がいい。

環境汚染とは人間汚染である。
人間の汚染は、子どもたちによって浄化される、これが私の信念である。

私はこの仕事を通して、子々孫々へ何が遺せるか、1000年先まで考えた時、今、何をどう設計しデザインして道を導けばいいかというのを西洋的な形式知と東洋的な暗黙知を融合させた新しいモノサシ、いわばさらなる進化に貢献することに大義がある。

今の時代は二者択一の虚しさに満ちている。

子どもたちから学ぶと子どもたちに宝があることに気づく。

子どもたちが未来永劫幸福に生きられる世界、子どもたちが真の豊かさに気づき正直に明るく清らかに感謝とともに生きられる社会、そういうものに今、何ができるのか真剣に考えるときである。

一人一人が考えて、原点に回帰し、今に止まり、目先に流されないことが大切であり、遠くを観て何をなすべきか、子は宝であることを忘れてはいけない。社業とは使命である、使命とは子は宝だと今を大切に子どもたちとともに生きる事である。