仕事の姿勢

仕事を通してや日常の中で、色々なことに失敗することもある。特に失敗の理由を見つめず相手に押し付けるようなことをするとそれはただの失敗になる。

その仕事を極める時や日常の道の誠心誠意の実践の中で気づかなければならないし必ず改めなければならないというものがあり、そのコツを得るというものの機会への在り方や姿勢が失敗そのものの価値を決めている。

当然、時折、周囲に迷惑をかけてしまい大変申し訳ないと悔しいと思うこともあり、なぜと見つめるとそれは必ず過去とその時に在り方、取り組む姿勢にどこか慢心があったりし先延ばしにしたり、準備不足だったりと、結局は自業自得なのである事が多い。

小さなことや細部を侮り、用心深さや注意深さ、危機感や問題意識よりも自分の快楽や欲望を優先すれば必ず禍は向こうからやってくるもの。

だからこそ、日々に起きることやこれから起きることに対して、自らが「これは善くない」と思ったら熱湯に手を入れるようにすぐ改めるというのは何より大切で、そういう日々の粛々とした厳正なる取り組む姿勢が仕事という社会貢献への姿勢、つまり生き方の姿勢になり志高く学んでいけば失敗というものも成功というものもすべては大事なものになりそれで事を為していることになる。

相手を思いやり、自分を恥じ、相手を尊重し、大義を貫くような人としての道の上で行われるものが真の反省である。それがない反省は動物と一緒であると孟子も説いている。

論語に「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」である、過ちをするものだとし日頃から慢心を改めて感性を磨き高めなければ何も極めることができない。

しかしテクニックばかりを気にする人は、自分にすぐに得意になるもので自分が慣れているからこそさもできるはずと慢心し、用心深くひとつひとつを丁寧に注意して取り組むことを忘れてしまうものである。

よく現代では仕事に慣れているからといい加減に処理したり、流れ作業のように知識やテクニックだけでできるものだと勘違いしている人もいる。

勉強ができ知識が豊富、そして技術もわかっているということにたいした意味はなく、そういう優等生のように生きてきたからそういう仕事の本来の姿勢を学ばないのであろうと思う。

しかし本当の仕事とは、社会貢献や人のお役に立つために行うのが先なのだからその姿勢として自分に驕らず謙虚に感謝の気持ちを前面に出し、用心に用心を重ね細心の注意を払いながら心配性だと言われるくらい丁寧に進めることが禍や事故を起こさないためのコツでもある。

物事に処すときの在り方ができていない人は一向にテクニックや知識などの得意な分野から出ようとはしないから、なんでも多動にやっているけれど、何も積み上がっていないことが多くいつまでも気づくことが少ない、だから失敗してもそれを本当の意味で次へ活かせない。

本来、人は作業ロボットや結果重視の機械ではないのだから優しく秀でた人になるために心を磨き人に常に周囲を思いやれるようなお役に立てる生き方をすることが仕事の場で学べるということであり、仕事で失敗をしないよりも単に周囲への評価などの対面体裁よりももっと大切な人への配慮や気遣いから人生を通して反省や気づきを実践することの方がもっと重要なことなのである。

今の平均的な学校教育の弊害は、そういう生き方や志や姿勢よりも、まず知識や技術、テクニックに偏りすぎなのであろうと仕事を通してもそういう現場をよく感じる。

それはそれであればあった方がいいのだろうけれど、使い手の心をその基礎をまず最初に身に着けさせなければ後でその人が大変な迷惑を社会にかけてしまうことになることに責任を持った方がいい。

現在、新入社員研修を実施しているけれど、大切なのはすぐになんでもできることではなく、一つ一つに心を籠めて丁寧に注意深く配慮し、慢心せずに反省を繰り返し日々心体技の順で正しく行うことを示している。

心は無限、それを実践する体は行動と責任、そしてそれを使い自らの才能を活かす、これはどこまでいっても人間はやり方ではなく在り方が先なのであろうことが仕事の本質であること。

子どもの仕事をする会社だからこそ、何よりもそういう人としての道や仕事の姿勢を大切にしていきたい。

子は宝

原発事故があってから今でも放射性物質の粉塵は出続けている。

環境汚染に対する認識の甘えにはさることながら、資源をすり減らしていくような人間のための経済の最終的な姿がこの事故でも垣間見ることができる。

物質的豊かさの限界とは、いくら便利に人間に都合の良い物ばかりを大量に生んでも決して真の豊かさには辿り着けないことを知る。そこにまず精神的な豊かさがあってこそ、物の豊かさというのが生きるもの。

心を亡くせば、制御できないような大変危険なものにより私たちはそのことで非常に困ることになるのであろうとは神話の時代から語り継がれてきたことだ。

子どものためにどうにかしなければという問題意識と危機感は今回の事故で改めて再認識することになった。目先のことばかりを子どものためにと語る人もいるけれど、大切なのは何世代も先のことせめては12世代以上先のことまで考えて今どうあるべきかを決めることが真の子どものためであると思う。

この先、子どもたちがどうなるのかそれを大人たちが真剣に考え切り、自分たちを律しつつ、より善いものを譲っていこうという心がすべてである。

放射能などは染色体を傷つける、目には見えないからというけれどこの傷ついた染色体が子々孫々へ与える影響を考えてみるといい。本当に子どもが大切ならば、絶対に子どもや妊婦には被爆させるわけにはいかないと人道的な見地からも誰でも分かるはず。

自分の子どもというよりも、世の中のすべての子どもたちに被爆させてもいいという大人がいるはずがない。

子は宝である。

いくら豊富に物質が溢れても、いくらお金が大量にあったとしても子どもたちには敵わない。子どもたちがいるから私たちには希望という宝があり、真の豊かさを享受されていることを自覚するのではないか。

子どものいない世の中ほどさびしいものはない、今の少子化や若い世代の健康不安、荒廃を見て何も気づかないとしたらもう真の豊かさよりも仮初のものに刷り込まれている証拠だと思った方がいい。

環境汚染とは人間汚染である。
人間の汚染は、子どもたちによって浄化される、これが私の信念である。

私はこの仕事を通して、子々孫々へ何が遺せるか、1000年先まで考えた時、今、何をどう設計しデザインして道を導けばいいかというのを西洋的な形式知と東洋的な暗黙知を融合させた新しいモノサシ、いわばさらなる進化に貢献することに大義がある。

今の時代は二者択一の虚しさに満ちている。

子どもたちから学ぶと子どもたちに宝があることに気づく。

子どもたちが未来永劫幸福に生きられる世界、子どもたちが真の豊かさに気づき正直に明るく清らかに感謝とともに生きられる社会、そういうものに今、何ができるのか真剣に考えるときである。

一人一人が考えて、原点に回帰し、今に止まり、目先に流されないことが大切であり、遠くを観て何をなすべきか、子は宝であることを忘れてはいけない。社業とは使命である、使命とは子は宝だと今を大切に子どもたちとともに生きる事である。

保身ではなく配慮

日々のビジネスや仕事を通して、道義に反するのではないかと思えるようなことも時にはある。しかしよくよくその根本を見つめてみると、それは単に全体への思いやりにかける何かがあったのではないかと真心で感じると道義や道理というのは自分都合は関係ない存在であることはよく分かる。

人は片方からの話しか聞かないと本当のことは分からない。なぜならその話の中に自分への保身がち入り混じっているからでもある。筋を通すや筋違いなどの大義も、それはあくまで自分の勘定を入れないときに使う言葉である。

相手や周囲や全体へのことを思いやるよりも先に、自分の身に危険が及ばないかや安全かどうか安心かどうかばかりを気にして優先し確保した後に相手のことや周囲の事としようとしてもそれは最初から自分を勘定に入れていることになる。

そしてそうやって自分のことをどうしても考えてしまうのを保身という。

保身というものは、常にどこかに自分の都合や自分勝手な解釈を入れてから判断しているということになる。そこには、どうしても自分側に都合が悪くならないようにと話をもっていこうとしたり自分の方が利点があるようにと引き寄せようと相手のことよりも大多数は自分を優先してしまうものなのである。

特にビジネスでもほとんどの解決は、人間同士の信頼関係の円滑さにあるものだけれどそれを失ってしまえば話はできはしないものであり、まずは心を相手に配り慮り、自分のことを勘定に入れずに相手のことを最大限心配して真心で接することで話ができるのである。

コンサルティング業では、これが本当の相手のためかどうかまで考え抜き相手のことを親身に一体感を持って接しているかどうかというのが重要になる。

そこに自分の保身があれば一体感になったとはいえはなしない、大切なことは相手の立場や相手のことを丸ごと心配して至誠を尽くすことなのであろうとも思う。

今の時代は何かに恐れ不安を持ち、失敗することを過度に怖がり自分の周りからの評価ばかりを気にする人たちが増えている。これも今の社会教育や環境によってであろうが自分の心をもっと大切にし他人を信じる実践を積んでいくことが見守る社会への構築へとつながっているのだと思う。

人の評価が気になるのは、評価ばかりで自分を見失っているからでもある。そしてそれを改善するには、もっと心を配慮したり相手のことを大切にする実践を習慣にし積み上げていくことである。

常に自分よりも相手、相手の人に全誠意を尽くすことに真剣になるのである。

簡単に言えばまず相手のことを何より慮り、相手のことを心配する、そういうところから真の余裕が生まれ、真の優しさが生まれ、その心を持ってはじめて他人を信頼し自他の存在を丸ごと信じることができるようになるのだと私は思う。

日々は、自己練磨の道場であるとともに社会貢献の道場である。

納得いくまで真摯に真心に取り組むことで少しでも皆様と社会のお役にたっていこうと思う。子どもたちにも、必ず相手を大切にすれば遣り抜けば相手から大切にされることを知ってほしい、まずは相手のために自分を尽くすことで一期一会の出会いを自らが楽しんでいこうと思います。

偉大なエネルギー

大きな海原を見下ろし、広い空を見上げていると広大な大地に自分が存在していることに驚嘆することがある。

どんなに自分が何かを考えていても、あの広大な地球の存在から自分を省みれば自分の思考で知っている範囲はとてもちっぽけなものに感じてしまうことがある。

私たちが存在できるのは、あの包み込んでくれる偉大な海や空があってこそであろうと思うとその狭間の自分は一体何者であるのかと感じることがある。

この美しい地球に生まれて、今、私たちは何処から来て何処へ向かうのか。

そういう果てしないものを考えるのも、この海や空の偉大な間にある命だからこそそれを知ることの意味があるのであろうとも思う。

空と海の境目に心の目を凝らしてもそこには靄がかかったようにぼやけて見えてしまう。私たちは海と空を知識では分けるけれど、どこからが分かれているのかなどは感じているとよく分からなくなる。

これも渾然としていて、切れ目などなく常に相応じるままに繋がりの中で存在しているものであろうとも思う。

そもそも言葉というものを生み出してから、二つ以上に分けてものを考えることを人間は行ってきた。そのことで、道具を使えるようになり、そのことで自他の区別がつくようにもなった。

しかし、そのことで今まで当たり前にあった丸ごと一つに繋がっている存在というものを感じる力が喪失されてきたのであろうとも思う。

エネルギーなどもそうであり、そもそもエネルギーはなくならず形を変えて巡り続けるという定義を私は持っているけれどこれも理解してもらうことが難しい。これは物に限らず、自分の念と呼ばれるものや祈りなどの眼に見えないものでも然り、すべてのものはなくならずに循環するものであるからして、他人からいただいたものは他の人へ送ることや、自分が生きているのは必ず他のエネルギーをいただいているのだから感謝と共にそれを受け取るということができなければ繫がりの中で正しい循環を行うことができない。

こういう物と心の循環というものを正しくすることが、自然の原理を内包する働きを活かすことであり、こういう循環をしなくなればそのうちエネルギーが枯渇してしまい誰か多くエネルギーを持っている人に縋ることになるのであろうとも思う。

大切なことは、自分のものではないと思うことでありそういう偉大なものを循環できるようにと今、自分の持っているエネルギーを御蔭様という感謝の心で他人に与え続けることでさらに良いものが循環するということである。

呼吸と同じく、息を吐き出せば次は吸い込むというふうにどんな息を吐き出せば次にどんな呼吸を吸い込むかはある程度分かるもの。自分が心を籠めて吐き出したものは、そこから長い時間旅をし善いものをひきつれて戻ってくるのであろうと私は思っている。

人間は偉大なエネルギーをお借りして使っていることを忘れ、自分の手元で作り出したものだと勘違いするのがおかしいことであるのだと私は思う。呼吸するのも、水を飲むのも、食べるのも、すべては偉大なエネルギーの一部を使わせていただき生きるという膨大なエネルギーを利用していることを忘れているのだと思う。

だからこそもっとエネルギーへの姿勢を畏敬と感謝に換えて、それを多くの生命と分かち合っていくことの方が善い循環を生むのである。

常に自分の小さな思想で物事を判断してはいけない、偉大なる叡智や直観を磨き本来のあるべき姿を捉えていくことを大切にしていくことだ。

子ども達には自然の叡智を学びそこから偉大なる循環に気づけるような環境を用意していきたい。もともともっている自分の中のエネルギーがより貢献に使われるようにと見守っていきたい。

スローライフ

ゆっくり生きるということは大切なことでそれは日時や時間で決められた通りにあわせて決めるのではなくあるがままの流れにそって自然と同じように生活をしていくことをいう。

それは太陽が朝に昇り、夕方に沈みゆくなかで、涼しい時には涼しいなりに、暑いなりには暑いなりに、またある時は雨が降れば雨にあわせ、またある時は風が吹けば風にあわせるというあるがままに無理をしないで大自然を受け容れる生き方のことをスローライフというのだと思う。

つまりスローライフというのは、別にただゆっくりすればいいのではなく生き方としてそういう自然の流れをあるがままに受け容れ大いなる循環や悠久の時の流れにあるがままに溶け込み渾然一体となった営みのことであろうとも思う。

私が尊敬している立派な方も、自然を内包されたまるで人生の達人のように無為自然に生きている。

今を生きている自分がこれでいいのだと丸ごとあるがままに受け容れるとき、人は自分というものの人生そのものをスローライフというように味わい深く幸福に満ちながら歩みつづけることができるのだろうと思う。

今を生きるという風に無為自然に生きようとするのは、人間社会で迷い惑い緊張などで心が疲れた時には特に清涼感があり癒されるから不思議な感覚を覚えるものだ。

そしてこれはきっと自然から離れた私たちが帰りたいと思う根っこであるのかもしれないと私は思う。

私はこの根っこの存在こそがとても重要だと思え、風土や環境の中での営みに憧れるのはそこから離れて生きているからだとも思う。身近な存在、身近にあるものを大事に見つめれば身土不二や地産地消、土着民ではないけれど、その土地に生きる記憶が私たちの根を思い出させるものであろうとも思う。

今を生きることが、何より意味を生きることになる、そして今を大切にしていくことがその心身の根を大地へはっていくことになるのであろうと思う。

時代はグローバリゼーションという名のもとに様々な人々や様々なものが世界を行き来するようになっている。周辺のタンポポなどの野草や川や池の魚でさえ外来のもので埋め尽くされている。

そのうちに風土らしきものがなくなりどの風土でも同じようにしようとする力が働く中で手つかずに残っている自然もまだ多くあることに気づくことも増えてきた。

そこでは、消えない灯が燈り続けていて有難いことに今も変わらずスローライフを楽しむ様々な生命が存在しそこへ往けばいつも自分の根を思い出すことができる。

私には其処に故郷があり、あの手つかずの自然に悠久の流れやあるがままの声を聴くことができる。そこにいるだけで、無理をしていた分が癒され、また社会の流れの中でもスローに自分を持ち続けることができる。

そして都会で生きる選択をした私たちは、都会でも心は同じくスローライフを楽しむことができるもの。

それは人生の起こりうる出会いや出来事をあるがままに受け容れその人生の四季に溶け込み生きる事であろうとも思う。

今の自分の人生をどうゆったりと感じられるか、それは無理をしないで生きることに繋がっている。無理をしないとは、無為自然であること、考えず正しく流されるにはまだまだ心を素直にしていく実践が必要になる。

周囲の評価や偏見を恐れず、もっと自分らしくあるがままに生きることができればそれもスローライフであるのだ。

焦る事よりも、今のすべてを受け容れることで子どもたちにも根っこを思い出させることができるような気づきを与えていきたい。人間関係につかれる人が多い中で、皆が根っこを取り戻すことができるような保育環境を用意していきたい。

価値観の創造

その時代その時代に価値観というものが人間社会の文化として生まれ、人は何かその時にもっとも民衆が謳歌している大多数のモノサシを優先して時代を創っていると思っているものである。

例えば、戦後、戦争に負けて今までの価値観が間違っていたかのように欧米の価値観をそのまま輸入し流行りにまかせて今までの価値観を否定してきた歴史がある。

つい先ごろまでずっと東洋人として大切にしてきた美意識や循環する生き方、また大和の精神も、この数十年でアッという前に払拭され渡来品に埋め尽くされ衣食住すべてがまるでずっとこのままであったかのように自分たちの先人が風土にあわせて築いてきた習慣や文化を誰も思い出そうともしなくなってきた。

人間の順応性というものを逆手にとってとてもわかりやすい植民地化であろうとも思う。別に国を奪わなくてもいい、文化を奪えば自分の国の一部であるかのようにお金をという富を利用し拡大していく世界戦略であろうけれどうまくできていると本当に思う。

しかし人間は、そんなにバカではなく如何に価値観をコントロールしようとしても天の定めた理法や原理原則までは誤魔化せはしない。物を大切にしなければ物によって気づかされるし、生き方を蔑にすれば幸せになることはできはしない。

物と心があり、その両面、いやまず心を優先し豊かになってからの物であることを忘れればいつの時代も空しい結果を招くだけであろうとも思う。

このような時代、価値観をどうするのかというのはとても大切なこと。

私は若い時に、価値観が世の中すべてを決めていると悟ってから目に見えないけれど確かに存在する人々のモノサシにどう影響を与えられるかというのをライフワークにして生きてきた。

先日の震災後、ついにその価値観変動が起きるような予感と共にこれからどう生きるのか、そしてどのような価値観を創造するのかは私のビジネスでも大変重要なポイントになっている。

復讐や反抗心、もしくは無駄な抵抗をする暇はない、自分の人生は子どもたちのために遣おうと決めている以上如何にすべてを大調和しかんながらの道を貫竟するかにかかっている。

それぞれの人が自分らしい価値観で生きる事、個々の主体性とはそういうときにこそ顕われるものである。私自身も、世界の中の日本人としてそして国際人として自分の価値観を練磨し研鑽し、文化を拡散していく援助をしていこうと思う。

子どもたちには、その根が何処にはればいいのかだけは遺してあげたい。

自分の生きざまを養分に換えて、大地に土に、その根を深くおろしていきたい。

命の尊重と随神の道

神話というものには私たちが本来、直観で掴み取っていた物事を悟る力があった時代に書かれたものであろうとも思う。

例えば、日本書紀ではすべての出来事や物事に神々が通じているのを透明で澄んだ感性で捉えている。

私もよく風を感じるときに、日頃制止している空気が季節によって身体を透過していく際に何ともいえない心の揺れに目覚めることがある。

これは海でさざ波の音を肌で感じるときにも気づければ、蝋燭が炎に揺られているときにも確かにそこに何かがあることを感じることができる。それは有る無しの世界観ではなく、無い中にも在るという西洋的に言えば精霊ともいえるようなものであろうか。

かんながらの道を歩んでいれば、誰しも古代の日本民族の感性に目覚めることができるもの。素直であること、清く明るく、そういう純粋で真っ白で透明な心のままに天の理法に則って生きていけば誰しも命を感じることができるものであろうとも私は思う。

大事なものは、常に命を捉える感性である。

それはどんなに静止しているものであっても、大切にすること、もったいないと思うこと、つまり簡単に言えばゴミを捨てないということ、ゴミというものは存在しないということ、循環の中に生きる様々な命を尊重することであろうとも私は思う。

神話には、あまりにも目に見える世界だけの存在で裕福さというものをはき違えるとその物質文明により滅びることを示唆している。物は所詮物である、物は実は大切な物なのであるというふうに、物質ではない側面、そこにも大切な神が宿り命や心が存在していると感じなくなることが危険であるということだ。

水はただの水だけれど、そこに祈りや心を籠めれば水が感応し癒しの水になることがある。それは日々の生活を通して、如何に水に癒されているかを感じれば誰にだって分かるものである。

しかし、火も同じく火だけれど、それをただの火だと思って便利に目に見えるところだけを都合よく利用すれば最終的には原発のような大変危険なものになる。これも今回の事件をみてもすぐに分かるものである。

私たちは原点に帰るべきではないか。

それは別に神話の時代のように科学の進歩もない古代に戻れというわけではない、天の理法に則って日本人らしく素直に謙虚に物を大切に人との和を重んじ、楽観的に苦を乗り越え感謝とともに生きていく道を選ぼうということである。

現代でも、それはいくらでも工夫することができるもの。物を捨てないようにすることや、見どころのある青年のように嫌事でも喜んで気持ちよく取り組むことや、禍転じて福としようと希望に待ちつつ皆で協力して思いやりのある明るい社会を築こうなどは今でもできるはずである。

生き方というものを見つめる時代が私の定義する成熟した時代。

こんな時代に生まれた自分にも運命を感じる、私にできること、このかんながらの道にある未来と過去の大調和である今に純粋な思いを透過していきたい。日本人に生まれたこと、この国に在ることに深い感謝を覚えます。

まだまだ道半ば、直観を信じて取り組んでいきたい。

正の遺産

毎日、食べるものがあり生きていけるということはあまりにも当然になればその有難さに気づかなくなっていくのが私たちであると思う。

あまりにも当然のもの、例えば太陽や空気、風や雨などに対して私たちは感謝するということを忘れてしまうのもあまりにも偉大な恩恵に対してはあって当たり前になるから気づかなくなるのであろうとも思う。

当たり前にあるものの存在が、これほど愛おしいと思えるのは失ってみてはじめて分かるものであるからこそ当たり前のことを決して忘れてはいけないと私は思う。

今年の新入社員研修は、畑で土を耕し腐葉土を山へ探しにいき、灰をいただき藁や枯草など、その他、土壌の菌を活性化させるようなことを丁寧にして野菜を植えた。

自分たちの会社で食べることができるようにと、一部のものはパートナーの方々にもお菓子なとにしてお渡しできるのを心待ちにしながら夏野菜を植えて今はその成長を見守っている。

新入社員にとっては農作業は人生ではじめての体験だったようで土を耕しじっくり待った後の土の感触やミミズや虫がたくさんいたのを見て嬉しそうなのが印象的だった。

野菜はお金で買うものではないということに気づけましたという本人の言葉からも、私たちは元来お金ではないモノサシの中で自然とともに生活を営んできたことに安心と幸福を感じていたようであった。

この後、私たちはこの野菜を育てみんなで収穫の歓びを味わい食べることでその助け合うことを学ぶことになる。つまりこれが食育の本質、食=育なのであろうと私は思っている。

きっと私たちは昔から、土から育て土に帰し、また土に待ち、循環の中で私たちは成長をゆったりと見守る豊かさ、信じる事の大切さを学んでいたのではないか。

自然の叡智から私たちは、自然を通して信じ合うことの素晴らしさ、つまりは生きることを学んでそれぞれが自分らしく命を輝かせていきてきたのであろうとも思う。信じる事で命が輝くことを待つことで学んだのが私たちの山野学習なのではないかと私は思っている。

今の都市化された社会で個々が忙殺され、今のようになったのは自然に循環しなくなった切り取られた社会の中で居場所をみつけられずゾンビのように生きているからでもある。

何が当たり前なのか、何が本当のことなのかがわからなくなれば人はおかしくなってしまうものである。おぼつかない不確かなものに縋り依存し生きていけばそのうちに食べるということもわからなくなってしまうのであろうとも私は思う。

食べるということは、もっとも信じることにおいて大切な最初の学びなのであろうとも思う。産まれた赤ちゃんが母乳を飲むところから始まり、死にゆくものが口の渇きを潤そうとするように食べることができてはじめて私たちはこの世に存在していることを知るのであろうとも私は感じたことがある。

食べるとは、ただモノを口に入れればいいのではない、食べるとは循環の流れの中でその命を育て養うことである。

小さな野菜作りからも世界は見通すことができるし、小さな土づくりからも真理に近づくことができるもの。

感性を磨き、一度しかない人生に確かなものを掴み取っていきたいと思う。

前々からやろうとしていたことに躊躇う時間はない、今の大人たちの無責任な社会問題で先延ばしの醜さを生き方を大事にしない怠惰な姿を保身の中で垣間見たからである。

子どもたちのためにできることを自分の志に照らしひとつひとつを根気強く実践していこうと思う。子どもに遺していける正の遺産とは何か、私たちが受け継いであるものを見える形にして還元できるよう知恵を振り絞りつつ祈りを深めていきたい。

想念実現

想念実現というものがある。

これはまだ若いころ、ある人の秘書のような仕事をしていた時にその生きざまから学び、背中を通して如何に念を強く想い続けることでそれを具現化していくかということの大切さに気づいたことがある。

同じことをただ一つのことを記録を常に塗り替える程に強烈な意志で念じ続けることで、そのイメージに近いものが引き寄せられてくるという感じだろうか。

私はそもそも念が強いタイプのようで、思えば思うほどにその糸を手繰り寄せるように其処に向かおうと力が無意識に働いてくる。時間の感覚がおかしくなり、かなり先のことを今やっていたり、今やっていることがかなり先のことだったりと行き来しているような感覚になることもある。

しかしその念は自分勝手に故意に行ったり、念じているものが自分都合の欲望であれば引き寄せられることはない。

それが誰かを守るためだったり、それが皆の幸せであったりするときに出来事ひとつひとつが決して粗雑にならないように大事に抱きしめるように活かしていくようにしている。

向こうから来たものに対して、如何に素直に受け容れるかというのには思想も哲学もいるし、何より真心がいる。虚心坦懐に本心本音の真っ白な心でなければ、直観で物事を捉えることはできないからだ。

目に見え頭で判断し選択している世界と、目には見えないけれど心で感じて選択している世界があるとする。

私たちは、目先のことは頭で判断できるのだろうけれど、遠い未来や広大な世界のことはすべて大調和の心で判断しているのであろうとも思う。

心が望んだものに対して頭で判断していくという順序で直観を信じて地味に歩んでいくことがどのように生きるのかという問いそのものにつながっているのであろうとも思う。

人はそれぞれに生まれてきた時から、何のために生まれてきたのかを頭で考えるようになる。自然に考えないで人生を丸ごと受け容れれば次第に理解してくる自分らしさも感じないままに誰によって刷り込まれたものに囚われ、また現在の社会環境に依存していくものであろうとも思う。

それをどう断ち切り、人々が自分の人生にリーダーシップを発揮していけるのかというのは想念実現する過程でそれぞれが夢を実現していくことができて成り立つのであろうとも思う。

夢とはなんであるか。

夢とは何のために生まれて何のために生きるのか、自分とは何かを知る事であると私は思う。きっと生き物は偉大なる意志により生かされていると仮定すれば自分の人生を思う存分に生き切るのに別に理屈はいらないのであろうとも思う。

酔生夢死というふうに自分らしく生き抜けばそのような感覚になるのであろうかとも思うけれど、人の道として自分を信じるということを、周囲を信じるということに換え周囲の一人一人が自分らしくあるように生きてこそ安心立命できる温かい社会が出来上がっていくのであろうとも思う。

素晴らしい社会の姿とは、一人一人の個が自らあるがままに主体的に生きていける人間が皆で助け合っている姿である。

忘れかけた一過性の一斉画一の社会では個が押さえつけられてしまう、いつまでも人間のそういう生きる力を目先の損得で抑え込めるはずはない、気づいた人たちから変わっていくことが大切である。

どんな想念を抱き、どんな社会を実現するか、それは一人一人の生き方にかかっているからこそ子どもたちを丸ごと受け容れるような実践を大切にしていきたい。

子どもの仕事

ちょっと昔の出来事が今では考えられないことが起きているのが変化でもある。

何処までをやり、何処まではやらないか、その伸縮や出し引きを叡智や哲学を存分に発揮し様々な調和を維持してきたのが私たち人間でもあった。

遠い未来を見通し、そこから逆算し、今の目先は一時的に良くても子孫や将来に善くないと思えることは自律協調してきたものである。

自然界も自律協調の中でとても繊細かつ大胆に見守り、満ちては引き、引いては満ちる波のようである。

私たちは自然の叡智を親とし子として学び仕えることで、感謝の心と知恵を働かせて自らを耐え忍び希望を持ち悠久の流れに身を任せてきたのであろうとも思う。

何かを待つことができない社会というのはその将来の社会に希望を持てないということであり、何かを待てる社会を築くというのは、子どもに希望を持たせるような社会を創造していくことなのである。これは壊れても壊れても、また創ればいいのだと人生に希望を持たせることができる社会でもある。

壊す側もいれば創る側もいる、それでいいのである。
ようは全てを丸ごと受け容れた上で、自分はどちら側で生きるのかを決めればいいだけである。

そして私の定義する子どもの仕事とは、未来の仕事、遠い先のことを逆算して一人でも多くの人たちの人生観を目覚めさせ変えさせる仕事であり、それは少しでも多くの人々を道心に回帰させていくことでもある。

そしてそれはそれぞれの人生において、自分は一体どう学ぶのか、そして一体どう死ぬのかというような死生観を正しく持たせることでもある。子ども自身は自分らしくあるがままに一生懸命味わい深く豊かに自らを生きる事である。

生まれたばかりの子どもたちは毎日、ああやって一生懸命に今を生きている。

そしてこの先、どう生きるのかというのを身近な大人や社会から学んでいるのでありその周囲の大人の生き方や在り方こそがその子の道心に繋がっていくのであると私は思う。

今を生きる大人が、自分の人生を諦めたり、道を志さないでどうするのか、どんな境遇や環境であれ、しかし自分の生き方は選択することができるもの。どちらの人生も自分の人生だからこそ、どうあるか、残りの持ち時間をどう生きるのかは自分でまず決めることがすべてである。

同じくどのような社会にするのか、どういう世の中にするのかも決めるのは一人一人が生き方を決断するように在り方を決める事である。

私の思う子どもの仕事とは、そういう人の生き方や在り方を学ぶ仕事である。

子どもが好きなら、もっと子どもに見せられるような生き方や在り方の実践をしようと志すことであり、あの真摯な子どもに恥ずかしくないような真摯な背中を見せる事である。

ないものを探すよりもあるものを探す方が今は善い、これだけ残された沢山の自然を愛し、聖人や偉人の足跡や、その言霊を受け継ぎ、いつまでも天に恥じないように生きる生き方や在り方w子どもに示していきたいと思う。