自然の叡智

自然農法で有名な方に、奇跡のりんごの木村秋則さんがいる。

10年間無収穫無収入でも絶対不可能と言われたりんご栽培に農薬を使わずに成功させた方です。今では、全国の農業指導で行脚してその思想や実践を世の中に広めている挑戦者でもあります。

もともと自然農というものは、自分の不自然に気づき、自分の都合でものを動かそうとする自分の内面の部分に光を当てていくものです。

相手や周りのせいにしようとしたら、すぐに楽な方を選択してしまいますし、観えないものを観ようとしたり、心で気付こうとしなければ結局は脳を通して目で見える仮想の世界に負けてしまうのです。この奇跡というのは私の定義では、心で信じた世界がこの世の中に顕われるという意味でもあるのです。

一般的な農家と、この本物の農家の差は何処にあるのか。

一般的な農家は、最初から思い通りにしようと思っているから農薬や肥料、自分にとって都合の良い場所や環境など全部人間側の欲求に合わせて取り組もうとするのです。そうしているから少しでも都合が悪くなると、便利な文明の利器に頼り自分の元々内在する信じる力や自然の智慧を活用しようなどとは思いもしないのです。

何か事があれば、すぐに思い通りにいかなかった理由を簡単便利なメソッドや道具で解決しようとするのです。先日もある園長がアユ釣りに行ったときの長野での話で、雹が降ったあと村内放送で「今雹が降って作物が傷むので皆さんはすぐに農薬を使って対応してください」とあって農家が全部畑にでて農薬をまいていたと聴きました。これなども、最初から道具やメソッドありきで、そもそもそれが何を意味するのか、そういうことを考えようとしません。

前回の大震災でも、震災後に仮設住宅と避難場所を確保したから大丈夫とありましたが何が大丈夫なのか、そこから何の意味があったのかまでは深めずに安易な対策を講じます。

これとは別に本物の農家は、最初から思い通りにはなると思っていないから自然に従い応じて自然に任せつつも、自然を学び、自然に智慧を得て、自然の一部であること、自然とのつながりのなかでそこからまた挑戦を続けていくのです。自分の思い通りにならないことも楽しみ、人ができないと思っていることを信じて取り組みそれを転じて自然と共に生きていくのです。

そしてそこから確かな意味を感じとり、そこからまた自分たちそのものを改善していくのです。

自然の叡智というのは、自然を征服使用や自然に勝とうといったものからは得られません。

自然はそれを受け容れるとき、そこから畏れ敬い感じるときに天啓が得られるのだろうと思います。そしてそれはどちらにしても、心で観ないと観えないのです。天というものや自然には、魂や心があります。

そしてそれは日々に自分の心が澄んでいたり、魂が磨かれていなければそれを実感することはできないように思います。それは自然には人間のような脳みそで簡単に裁くようなことをしていないから、もともと叡智や智慧の中で生きている存在であるからです。

何が賢いのか、何をもって頭が良いのか、天地が逆転しなければ自然農はできません。

そして何よりも人間に信念がなければこの農法はできないと私は思います。
子どもを見守ることも同じで、大切なのは心を澄まし心の眼を持つことだと思います。

大事なことや大切なことを見落とさないように、実践を心を籠めて取り組んでいこうと思います。

脳が誤魔化す

物事の確認をするとき、一体何のためにやるのかが分かるというものがある。

これは素直な心でなければ、自分の思い込みや先入観から正しく感じることができなくなるのです。人はすぐに自分の脳で考え、分かった気になるものです。本来は何のためにやっているのか、そういうものを捉えずに物事の実相が隠れてしまえばほとんどそれは動作的なものになってしまうからです。

そもそもそういう本質や本当は何かということを忘れないためにも、日々の実践があるのです。日々にやっていなければ、次第に脳で処理した現実の方が実相だと勘違いしてそのうち自分が本質からズレていることすらも分からなくなってしまうからなのです。つまりは脳が誤魔化すのに心が征服されてしまうのです。

本質を捉えるというのは、自分を中庸で維持していることに似ています。

何のためにやるのか、何のためにやっているのか、そういうものをまず一呼吸置いて間をとってから取り組むこと、それだけでも自分が本質からずれなくなるために必要なのです。

例えば、一日のはじめに今日自分が行うことは本当は何かと考えること、そして本当は何だったのかと一日の最後に省みること、こういうことを実践するものだけが周囲に迷惑をかけずに本質からずれず流されないで理念やビジョンを実現することができるように思います。

信念というものも、そういう本質を省みて自分自身を強く正しく向け続ける中で育成できるものであると私は思うからです。自分の都合をそこに入れたり、自分の勝手な楽な方法でその場をしのいだとしてもそれは正しくないのだから素直な心も働かなくなるのです。

直観というものも、自分が本質でなければ働かないように思います。

如何に正しいことをさせてほしいと祈るような日々を送れるか、謙虚に恭しく慎む生き方の日々が素直であるということに他なりません。日々の学びの中で、自分の頭でっかちにならないようにもっと自らの感じ命じるままの実践を楽しんでいきたいと思います。

アウトプットの定理

アウトプットの定理というものがある。

カタチになるものを出していくこともその一つですが、その他には人間関係でもちゃんとアウトプットしていかなければ繫がりの中で循環していくことはありません。

このアウトプットというものは、自分から排出していくことで如何に自分自身が澱まないでいるかということを意識するところからはじまります。組織も同じく、澱む組織というのはきまって乾いておらずジメジメとしていて陰気が漂っているからです。

お部屋などもそうですが風通しが悪いところは澱みます、他にも光が入らないところ、水気が溜まるところ、つまりは乾かないところはカビなどきまって陰気のものが増えていきます。これと同じく何でも澱むというのは、乾いていないということを言うのです。

例えば、誰かが無理をしているとか、誰かが我慢をする、御互いに遠慮しているなどとがある組織は決まってアウトプットができておらず人間関係がうまくいっていません。逆に、オープンでさらけ出してフラット、いつもアウトプットをそれぞれが意識している組織はあのサッカーのなでしこジャパンのようにチームワークも円滑でお互いが信頼し合い安心した明るい人間関係を構築しているのです。

これは個人のタイプにもよるのですが、もともと内向的であれば無理をし我慢し遠慮するというもっとも人間関係が築かないまずいやり方を選択してしまいます。そうすると以上のように澱む状況に陥るため次第に病気が蔓延しやすい状態になり周囲に迷惑をかけてしまうものです。

自分がそのようにならないように、いつも周囲に心を開いてオープンでいることを心がければいいのですがなかなかそれを自分でできるかといえば難しいのです。だからこそ、部屋の中の明るく乾いた環境を用意していくことでそういうことが起きにくくしていくこともできるのです。

自分からアウトプットしていくというのは、信頼できる人に話をするということです。特に経験のある人や解決方法を気づかせてくれる人、自分のすべてで阿ねても助けてくれる人などに心を開くことでそこから自らの力を正しく流していくことができるようにもなるのです。

経営者などは自分で考え過ぎて思い込みすぎて、うまくアウトプットができずに悩むことが多いのです。だからこそ、何でも話ができる相手がいることや相談できる人、そういう距離感の人がいるだけで安心して事に挑むことができるのだろうと思います。

そう考えてみると、如何に自分が澱まないか、そのために排出するか、そして排出できるような環境にするかで循環するとしてこのアウトプットするという意識は何よりも大切な実践であろうとも思うのです。アウトプットさせてあげるだけでも、人は澱まないことを意識するようになります。そしてそれが私のよく言うファシリテーションの重要性の第一義であるのです。

困ったら一緒に悩む、辛かったら一緒に慰め合う、悲しい時は励まし合い、嬉しい時も歓びあい、孤独のときは分かち合う、そういう仲間がいるというだけで人はいくらでもまた澱まずに歩んでいくことができるのではないかと思うのです。

祈りの実践はまさにこのアウトプットであろうとも思います。明るく乾いた関係が持てる社会を増やしていけるように、まずはこちらからアウトプットしていこうと思います。

楽と楽

先日、「楽」の違いについて話すことがあった。

この楽には、らくと書いて楽と、たのしい方の楽がある。

一般的には、らくは自分でやらなくてもいい方法、もともと自分が持っている内在的なものを使わずに誰かに何かにやってもらおうとするときに選択しているのがこのらくの方です。小さい頃で言えば待っていれば誰かがやってくれるや、自分がやらなくても親が全部先に片付けてくれるなどと過保護過干渉の中に育ってしまえばそのうち自分でしなくてもいい方法がらくなことなのだと分かってしまうのです。

何でも結果や結末が誰かによって決まるのだと信じていたら、自分が無意識にらくを選んでいることにも気づかずに如何にらくに解決するかを望んでしまう欲に負けてしまうのだと思います。

もう一つの、たのしい方の楽はは何かと言えば、誰かにやってもらおうとあてにするのではなく、自分でやろうや、自分から解決しよう、誰がやらなくても苦しくてもそっちを選択していこうと内在的な自分の力を信じて取り組むときにはじめて自分が遣っていることに気づき楽しくなってくるのです。小さい頃で言えば、自分でやると決めたことを自分で考えて取り組めて遣り切ることができる子ども、自分がやれば必ず周囲は応えてくれると、見守りの中で育つことで自分を信じることができるようになるのだと覆います。

誰かに自分の人生を委ねずに、自らが決めた自分の人生を歩むと信じて取り組むのだから自然に楽しくなってきて人生を切り開く歓びや、自分で道を歩んでいる充実感やその実感を謳歌していくこともできるのであろうと思います。

同じ楽という字でも、そこには、自分の持っている内在的な力を信じて発揮しているかしていないかの違いがあるのです。できる人ができないと言われたり、本来はやれるのにやらないと言われる人もいますがこれは自分の内在的な力を発揮せずに周りに期待してしまう生き方のことを指摘されているともいえます。

自分を信じるということは、つい自分が先にそこから逃げたくなるのもらくを選択しようとするからです。そうではなく、そういう時こそ自分を信じる事、苦しいけれど自分がよくやっていると自分を認め、自分を受け容れ、自分を尊重していくことでたのしいを選択できると思うのです。

らくを選ぼうとするとき、元気はなくなります。都会に住んで何でも脳の思い通りにいくなかにいれば次第に心身精神が弱っていくように、思い通りというのはらくを選んでいる自分があるのです。

自然界に出てみるとらくなとどいうものはなく、思い通りにはいかないことばかりです。しかしそんな自然の中で生きてみると肌も眼光も心身も精神もイキイキしてくるものです。つまりは元気にが漲ってくるのです。

らくを選ばずにたのしいを選ぶということは、苦しいと思っても信じたのだから遣り切ろうとする決心の方でいることのように思います。周りも一生懸命生きているのだから、自分も一生懸命い生き切ろうと自然の中にいるように自分を発揮させていくのです、そこに無限の歓びや味わいがあることを感じられる胆力のようなものが育成されていくように思うのです。

一度しかない自分だけの人生、この一回きりの今回の自分の選んだかけがえなのない人生だからこそ、その日々をその今を味わい深い人生を常に選択することで、らくは少しずつ楽しいに転じていくことが幸せなのであろうと思うのです。

自立ということの深い味わいを感じて、さらに見守りの持つ大切さに気づきたいと思います。

めぐりの一生

生きものを観るときにめぐりを観るというものがある。

その生き物がどのような一生を送ろうとするのか、どのように送りたいのかを観るとその生き物のことが理解できるように思います。

つい何かを見るとき、その時々の一瞬を切り取って見てしまいがちですがそれまでの過程やこれからの過程を想像すると、本当はどうしたいのかということが理解できるように思うのです。

ベランダでビオトープをしていて、気づき善かったことはいのちのめぐりを日々に共に確認することができるからです。水草やメダカに至るまで、何をしたいのかというのははっきりしています。

そこには、生長したい、子孫を遺したい、協奏したいと素直にそのものの心が現れています。

めぐりの中にあって、いのちというものを活かし、自分のお役目というものを全うする。

ただこれだけのことかもしれませんが、すべてのいのちは全身全霊でそれを遣り遂げます。その中に自分もいると思えるだけで元気になるのかもしれません。そもそもこの元気というものは、めぐりの中の気脈であろうとも私は思うのです。

この気脈は、私たち人間で言えば血液であり同じようにいきもの中に流れる液体が躍動するのではないかとも感じるのです。流れの中に身を置くということは、澱まないで生きていくということであろうとも思います。

何をもって澱むのか、それは流れないめぐらないということではないかと思うのです。

めぐりの中に身を置いていくというのは、生きるというそのものではないかと思うのです。
子どもたちがめぐりの中に生きられるよう、見守りを深め実践を広げていこうと思います。

競争と協奏

先日、九州の農園で観察していると地力というものを実感する機会がありました。

地面に力があるかどうかなどは、もちろん土の中を掘ってみるとそこに数多くのミミズや土中生物があることである程度は理解することができます。その他にも、その周辺の雑草がとても元気に生い茂ったりするのもそうですし、同じ種を蒔いたとしてもその場所だけ明らかに茂り方が異なることではっきりします。

土地は、何か肥料を施したり耕したりすることで地力を上げると信じられていますが実際に自然農を行えばそうではなく、いのちのめぐりが豊かなところほどに土地が元気であるのを実感します。

多くの虫たち、多くの菌類、数多くの雑草の種類、つまりはいのちが多く躍動するところほど元気ということであるのです。

この元気というものは、お互いが一生懸命に自分らしく生きているときにこそ発揮されています。自然界では、それが多く集まるところにはいのちの生き死にもたくさんあり、そこではいのちの営みが繰り返され他のいのちを活性化させていくようです。

私たちの世代は競争することで勝ち残ることを教えてこられてきましたから、何か競争することは悪いことではないかや、もしくは必ず勝たねばならぬなどと執着を持っていました。確かに物の見方においては、勝ち負けというものがあり生き残るか死ぬかとなれば競争して勝つほどに力を持つ必要があると思い込んだものです。

しかし自然界を観ていたら、これは競争ではなく協奏ではないかと思うようになるのです。

お互いが自分の生を一生懸命に生き切れば、それが何よりの競争になり転じて協奏になるということ。人と競うというものは、自分も負けじと一生懸命に生き切るとやっていたら必ず他のいのちと共に生きるということで偉大なものに活かされたとなるのではないかと私には思えるのです。

自然淘汰といって、弱いものは亡びるともありますがこれはどれだけ自分で生き切ったか、生き切ろうとしたかが大きな影響を与えている気がします。どんなに粗悪な環境に生まれ落ちたとしても、そこでの一生を誰かのせいにはせず、何かのせいにはせずに、その中で自分らしく生きていく中ではじめて真の進化があるように思うのです。

協奏していくということは、自分らしい音、自分らしい持ち味を活かして生き抜くことです。
つまりは自立が共生、共生が自立のことであるのです。

誰かと競うのではなく、自分らしくあることで奏でることこそが皆と力を合わせることのように思います。自然は私たちの物の見方の刷り込みを取り除く、大先生であるように思います。普遍的なものから学び、先生の先生を象り、もう一度学び直しを促していこうと思います。

自然の愛の姿

自然養鶏をしている中で、幼い頃よりの習慣がその後の生涯に多大な影響を与えることを知った。

例えば、雑草を食べるという習慣も幼い時に草を食べていなければ大人になったら草を嫌がるようになりそれをいくら与えても食べようともしないそうです。

他にも生米を与えた雛のような大人になってお腹が強くなることや、あまり過保護にせずに沢山の土壌菌の中で育成した方が健康的で元気なものになるということです。幼い時の生育環境はその後の鶏の一生を決めてしまうほどです。人間は三つ子の魂といい満三歳までと言いますが、鶏では三日だそうです。

これだけ幼児期の環境というものは、何かそこに身体だけではない心や魂といったものに偉大な影響を与えるのだということをどの生命を観察してみてもそれを感じずにはおれません。

それに実際にはじめてみて気づくことですが、今まで見てきた鶏小屋のように狭い中に閉じ込めて飼育するのではなく、平飼といい自由に自分のやりたことがのびのびできるような環境の中に置いてみるととても穏やかで落ち着いているものです。

これはどの動物も同じで、自分にとって居心地が善いと感じると落ち着いてくるのです。その居心地とは安心や安全、見守ってくれている存在がいると本人が実感することで本来の自分のやりたいことがはじまるとも言えるのです。

何かに抑制されたり、不安を感じている状態でのやりたいというものはどちらかと言えば抑制からの解放がしたいだけで本当にしたいことではありません。よく休みになったからと激しく遊ぼうとする人がいますがこれも解放がしたいのです、働き方と生き方が一致している人の遊びは仕事でも遊びでも充実していてとても穏やかなものです。

昔から、衣食足りて礼節を知るとも言いますがもともとの抑制がある状態ではそこで礼儀や節度などを学ぼうとはしないかのように思います。

もちろんその人の気性の差などもあるのでしょうが、それでも全ての生きものは安心する=自分のままでいるということが何よりも居心地が善いようです。

これは同じく人間関係でもそうですが、いつも不安を感じている人たちがいます。それは自分のままではよくないのではないかと何かどこか怯え、いつも情緒が不安定であるからそうなってしまうのです。

ありのままの自分をさらけ出せるというのには、自分が安心できるかどうかというものがあるのです。それはどこまで出してもいいのかと出し惜しみを悩むのではなく、心が安堵するということ、つまりは信頼する人、その信頼の輪の環境の中に自分がいるという自覚があればいいのです。

そしてそれは自分が信頼される人になることがもっとも近道であるのです。

観察すると、子どもの時から親兄弟の愛をたっぷり感じてきた生きものたちは、それだけ情緒が安定しています。しかしそれをちゃんと感じる力が足りないと、すぐに不安になっているように思います。

親というものや兄弟というもの、 これらの体験は何にも欠かせない心の養分です。
自然から学べるのは、親兄弟が顕現する自然の愛の姿なのかもしれません。

絶対的に信頼するものがあってこそはじめて強く優しく生きていくことができるように思います。

ここから自然の学びをさらに深めてみようと思います。

魂は何を望むのか

自分自身が望んでいるところに心や魂の声というものがある。

心というのは、思遣りからくるもので皆が自分のように思える気持ち、全体として捉えているという感じがあります。魂というものは、自然からくるもので自分が本当に望んでいることを自ずから明らかになっていくという感じがあります。

どちらにしても、自分の欲などを超えてそういうもともと持っているそのものが存在するのです。

そしてそれを思うとき、魂のメッセージは常に両極ではなく大極、もしくは両義性や矛盾といったものを選択するようにと声が入るような気がしています。

「これでいいのだ」ということもその魂の道への入り口であり、もともとどちらかでなければならないという発想自体がとても視野を狭くし欲の世界へと我欲に囚われさせていくものです。

生きていれば、どっちがいいのかと選択していくものだと思います。しかしそのどっちがいいのかは実はほとんど定められていて自分が決めたようで自分が決めたようではないことを感じることがほとんどです。

なぜ今の自分がこのような人生になっているのか、なぜ今のようになったのかは、どう考えてみても自分以外の偉大な働きでそうなったとしか思えないようなことばかりだからです。そうして思うとき、では魂の意志とは何かということであるのです。

本来の選択とは、選ばないということで、この選ばないというのは全ての出来事は丸ごと肯定し、全てを受け容れ、如何に善転するかということが魂のテーマであるのではないかと省みるのです。

「魂は何を望んでいるのか。」

それを思うとき、決して楽な方を選択して得られたことはありません。どちらかといえば、楽よりも苦を選択しそれを受け容れた時、なぜこのようになったのかの意味を感じたり、そして私の場合は声に目覚め、それでも往くのだと後押しが入るのです。

自分の頭では無難でいようとしても、それを留めさせない魂の声が入るような感じなのです。その衝動を信じて、直観を信じたおかげで今の自分がいるようにも思います。

尊敬する一人、吉田松陰先生がかつて魂のまま詠んだ言葉「かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ 大和魂」にも魂のメッセージが籠められています。

これはこのようにすれば結果がこうなると分かっていながらどうしても已めることができないのは大和魂があるからだという意味ですが、今ならその意味がよく分かります。

人はどのような結末になるのか先に分かっていても、それをどうしても已められない衝動にかられることがあるのです。そしてそれはどのような運命が待ち受けているとしても、それでも避けずに丸ごとの出来事をありのままに受け容れ、天を信じ己が善転するかという自ずからの魂に従うかどうかがあるからなのです。

そう思えば、私がもっとも憧れるのは自分の魂の声に従って生きたかどうかそれに尽きるように思います。真実の自分らしくとは、この人生の歩み方が魂と共に歩んだかという軌跡にこそ顕現するからです。

人は試練というものを得て、人生の妙味を味わい尽くしていくようにも思います。
人生に真摯であればあるからこそ、人生に正面から向き合えるようにも思います。

試練を避けて生きる人は運に恵まれないように思います、なぜならそれは運と向き合わないからです。本当に運の善い人は、自分は運が善いと信じているのです。それは運が善いということでどんな現実も魂の声に添って運に従い運を受け容れ、運に応じて、運と楽しむことができるからに他なりません。

一度きりの人生、どのように生きるのかはその人次第ですからこれも自分で決められます。

自然が求めてくるその同化の魂の声に常に耳を傾けて真摯に歩んでいこうと思います。

自然の魂

鶏が朝早く鳴くのは魂がそうさせるからです、そして植物がそのものらしくあるのも魂です。

もともと自然とは何か、それは魂というものであろうと私は思います。

昨年、セルフイメージに出会い、そして自明というものに邂逅し、自分というものの中にもう一人の自分とも言うべきものをはっきりと再認識することができました。

昔から直観というものを信じ、自分にいつも助けられているもう一人の自分がいることは分かっていました。しかし、そのもう一人はどこか自分ではないのだろうと思い込んでいましたがこれがもう一人の自分であることを自覚したのです。

人は、もともと自分がやりたいことがあり自分らしさというものの輪郭が次第に顕われます。
それを徳とも言ってもいいかもしれません。

人は人格というものが、調和するときそのものが本来具有しているものが出現します。
そしてそれがその自分らしさともいう魂が顕われている状態のように思います。

人は生きていたら様々なことに出会います。
いや出会っているようにも観えますが、最も近い物には出会っていないのです。

まさか自分の中に全体と一部ということが存在しているとは思わないのでしょう。
自分というものは、自のところと分があるのです。

生きているのだからバランスが必要でそれが見える世界と観えない世界なのでしょう。
魂の声にもっと耳を傾けることが、自然を学ぶ要諦です。

かんながらの道の先に、自分の使命が在ることに安心します。
自分らしく生きて、様々な境界線の上で縦横無尽に楽しんでいきたいと思います。

生きのびる戦略2

森の中にはそれぞれの戦略で生きている生きものがたくさんいる。それぞれに自分の棲家を定め、そこでしたたかに戦略をもって生きています。

同じ場所を共有するのだから、如何にお互いが戦わないか、つまりは共生するかをよく観て自分を順応変化させてその場で末永く生きていくのです。

もともと西洋の狩猟民族のように、同じ食べ物をたくさん食べて場所を移動するという考え方は広い土地が必用でそこを求めて移動していくしかありません。一時的に大量の収穫があったとしても、来年またそれが保障されているとはいえず転々としながら食糧を求めて棲家を移動していたのです。

しかし農耕民族は、同じ場所でずっと生きていくために自分たちと共に共生する生き物が何かを選び、みんなが豊かになるように農耕をおこない何世代もそこに棲んだのです。

地球という土地は、広げていけばいくほどに収穫が一時的に増えたとしても必ず乱獲が発生し資源は枯渇していきます。人口のバランスなどを考えれば、今の狩猟的な発想ではそのうち行き着いてしまい食糧と棲家を求めて争うしかないものになるのです。

浅く広く早く何かを行おうとする狩猟民族は、もともと自然を征服することを基盤にします。
しかし深く狭くゆっくりと行う農耕民族は、もともと自然を活かそうとすることが基盤です。

自然をじっくりと眺めれば、自然は全てを活かそうとする発想を持っています。

これが戦略の中に生きている自然の叡智ではないかと私は思うのです。
どんなものも要らないものはない、そこには何か活かすためのものがある。

相手が悪いと思ったり、周りがよくないのだと決め込む前に、本当は相手も活かそう、周りを信じて自分を活かそうと思っているのが自然なことでそれが生き残りの戦略であったのです。

順応するのは、相手に合わせてするものではなく自分を活かそうとして行うものです。今の時代こそ、私たち人間も生き残るためにどのような戦略を持てばいいか、考え直す時機がきているように思います。