逞しさ~ワイルドハート~

今の時代は自然の環境の中いるよりも、人工的な環境の中にいることの方が圧倒的に増えていることが多い時代です。都会に住めばあらゆるところにまで人工物が張り巡らされています。言い換えれば人間が頭で考えたものに囲まれた中で生きているということです。

いのちには本来、「逞しさ」というものがあります。自然界では逞しくないと生きていくことができません。それを生きる力と私は定義しています。しかし都市化人工飼育の中でその逞しさは次第に失われていくように思います。隅々まで人工的に操作したお金や物に頼る安心と安全こそがそういう人間本来の生きる力を奪うのかもしれません。

自然界というものは、数々の困難が待ち受けます。身近な植物をみていても、天候の急変にさらされ、動物や虫に食べられ、鳥についばまれ、あらゆる災難の中で自らの一生をいのちを燃焼させることで生き切ります。そこには野生があり、温室栽培のものとは明らかに逞しさが異なります。

本来、見守るということを感じる力や御蔭様と感謝する心は苦労する中で育まれていく感性のように思います。自分の思い通りや都合よくいかないと思って不平不満ばかりを並べては解決ばかりに固執しマジメになっていても嫌な思いをするだけで苦労をしているわけではありません。

人生は一度きり、一日一生と、今日ある当たり前ではない日々に感謝し、その日を精一杯生き切る中に真の苦労はあるように思います。如何に自分が活かされているか、如何に自分が生きていることが有難いか、平和ボケせずに生きる幸せを深く味わい盡すのです。

それは自然から離れないという意味と同じ意味になるかもしれません。

生きる力が発揮されるということは、野生を生きるということです。それは自然をエコなどと呼ぶのではなく、自然はワイルドであるという本来の意味を間違えないということです。自然の厳しさと慈しみ、それを存分に感じながら自分らしく生きていくことは、この自分のいのちを自ら主体として磨き光り輝かせていこうとする生きる力です。

物の視方を転じて観れば、自然の生き物たちはみんな一緒に逞しく生きています。自分だけで生きているなどという傲慢な気持ちこそがその人を孤独にしているのかもしれません。様々な生き物を育てたり一緒に暮らしたりする中で自然を取り戻していくことが孤独を取り払うことかもしれません。

子ども達には、この先の未来で何が起きても逞しく生きていってほしいと思います。私たちが大人として何を譲れるか、真摯に正対していきたいと思います。

心を磨く

人間は誰しも自分を特別な存在だと勘違いするものです。昔の言い方だと己を愛しています。他の言い方だと自我自利を優先するということです。自分のことばかりを心配してはそこから物事を考えます。

人間は自分がいれば当然相手が発生します。相手がいれば自分があります、これは相対観と言います。人間は我を強く持てば、彼我が強く表れます。自分の我「▢」の中に「人」が入り込むと「囚」(囚われる)と書きます。こうなると自分か相手かと分かれてしまい、相手を自分だとも思えず、自分は相手だとも思えません。人は囚われていると思いやることができなくなり、利己的で自己中心的で打ち解けない人になってしまいます。結局は自分中心という価値観こそが敵味方をつくりだし孤独にするのです。

例えば、御日様と御蔭様があります。私たちは、太陽がなければ生きていくことはできません。太陽が有難いことはこの地球上のすべてのいのちは体感しています、そして畏敬の念をもって御日様といいます。昔はお天道様という言い方もしました。見返りを求めず、いつも同じように朝日が昇り夕日に沈む、そしてまた翌日に出てきてくださる。そこに御日様の有難さを感じて日々にお祈りするのです。世界では太陽信仰がほとんどを占めているのもその有難さを常に感じているからです。

また同時に御蔭様という言葉があります。これは御日様に対して受け手の自分たちの心がどうなっているか、それは太陽があるから影がある。つまりはその陰の向こうに太陽があることを忘れてはならないという感謝の心です。人間は人間同士ばかりで自分のことばかりを相手をぶつけ合えば争いをうみ孤独になり自分も周囲も破滅に導いていきます。今のテロも戦争も、同根はこの御蔭様の心を忘れるところからはじまります。足るを知らず不平不満を並べては自分を被害者にし、相手を加害者にするという相対的な観念に縛られて囚われ続けて負の連鎖はいつまでも断ち切られません。ある意味、当たり前に満たされすぎて心が満たされないことが増えているのかもしれません。

しかしその連鎖を正の連鎖にするには、御蔭様であることを自覚し、自他はお互い様であると思うところに囚われの▢を取り払った人になります。この「▢」は自分の中にある大前提、つまりは価値基準です。そして「人」は、同じ方向をむいて手を合わせて祈る、「一緒、助け合い」の意味です。自分か相手かという相対観は、不信や疑い、孤独や独善の価値観に縛られます。しかし御蔭様という絶対観では、お互い様や絆、素直や一緒になどの自他一体の境地に入れます。

人生は良いこともあれば悪いこともあります。しかしそれを自分を磨く試練だと受け止めて、良いことはもっと善いことにし、悪いことは善いことに転じて福にしていくことが醍醐味のように思います。実際には、悪いことがあったからその体験が誰かの役に立ち、また善いことがあったからそれもまた誰かの役に立つ。悪いことから抜け出すことばかりを感じるよりも悪いことを転じたことで人の役に立とうと切り替えたり、良いことばかりを追いかけるよりも良いことがもっと善くなるように転じてそれをまた人の役に立てていこうと思う事にも人生の無駄のなさに感謝ができます。

利他行や下座行は、まさに御蔭様の実践であり御日様の有難さを学べる人間修養の要のような気がしています。

最後に坂村真民さんの詩を紹介します。

「手のひらと足の裏」(坂村真民)

利他行に
あけくれるひとの
手のひらの
うつくしさよ
きよさよ
あたたかさよ

下座行に
あけくれるひとの
足の裏の
こうごうしさよ
ひかりよ
ありがたさよ

手のひらと足のうらはどちらもぱっとは見えないところですが、その真心はもっとも顕れるところなのかもしれません。心を自ら開き手と足を伸ばすことを日本の神話では手伸ばし「たのしい」と詠むそうです。自分の今の生き方は「たのしい」かどうか、本当にそれでたのしいかと自問自答し、変化の方、たのしい方を選んでいくことで自他の境界にあるこの「▢」組を「人」にし、一緒になって「大」の真心の実践にしていけるよう心の精進を重ねていきたいと思います。

裸の心

人間はみんな我があります。特に我が強いということは、理想が高いということでもあります。しかし同時に我が強いということは、それだけ自分に執らわれやすいということでもあります。自分に執らわれれば執らわれるほどに自利に走ってしまいます。

以前、ある住職の言葉に出会いました。

「俺が俺がの我を捨てて、御蔭おかげの下に生きる」という言葉です。

この言葉を紹介する住職の方は、池田智鏡さんという女性の方ですがご自身の壮絶な人生体験を経て尼になり、この言葉に出会いそれまでの生き方を見直し、全て一からやり直して住職になって人々へ心の支えとなるべく全国各地へ講演をなさっているそうです。

私自身はとても我の強い人間です。

我が強く、どうしても感謝がまだまだ土台になりきりません。やさしさだけでは自分に甘くなり、強いだけだと厳しくなるだけ、マジメになっては思いやりの実践が途切れ途切れと猛省の日々です。どうやったら心が寛く大きな人になれるのか、今でもよくわかっていません。

自分の力でやったと思う驕りや慢心の心を澄ませて有難いと感謝する慎み深く謙虚な真心は出たり消えたり、人生道場はいつも真剣勝負の連続です。自分がすごいのではなく御蔭様がすごいのだと思える日もあれば、我が強く出ればやはり逆の自分になってしまいます。一生懸命にやってみては、できた日もあればできない日もある、一進一退の中で呼吸するかのようにただ直向きに前に進んでいるだけです。

人は孤独を感じるのは二つあると言います。その一つは無視、無関心に自分を扱われたことへの怒り。もう一つはわがままが人を孤独にするといいます。謙虚に周りの御蔭様と思えるようになるには、この我の強さを心を磨きどう芯の強さに換えるかという心の修業が誰にしろ必要のなのかもしれません。

池田智鏡さんはこう言います、「助け合うこと。自分さえよければいいという考えは、自分も滅ぼし社会も滅ぼします」と。この自分の認識次第では周りへの回路を断ってしまい小さな自分に囚われてしまいます。「忘己利他」に生きるというのは、その強すぎる我を少し下げて己に克ち己を少しでも捧げることができるということでしょう。人道の極みはこの自然体、裸の心でいることのように私には思えます。

私自身、同じような体験をしているものの同じように乗り越えようとする人たちの苦しみを分かち合い許し合えても、それを具体的に乗り越える方法も工夫も今はまだ発明できていません。しかし、祈るような心で自他を一体に大切な人だからこそ真摯に一緒に乗り越えさせてほしいと心から思うのです。

機会とご縁は、必要なことであり人生には一切の無駄はないのだから裸の心で生きて子どもたちの模範になるような大人を目指していきたいと思います。面白い人生を愉快な仲間づくりを味わいながら思い出深く刻んでいきたいと思います。

 

永遠の余韻~魂の航海~

人生は人それぞれで違うように人の夢もまた人それぞれで異なります。みんな誰にしろやりたいことがあり、そのやりたいことを成し遂げようと人はみんな産まれてきます。

しかし実際の社會に出て見渡せば、そんな我儘は許されないと厳格なルールと秩序によって特別な人や特殊な人を認めようとはせずに十羽一絡げにしてはその価値をなくしてしまおうとします。本来の価値はダイバーシティ(多様性)であり、それぞれが異なるからこそ持ち味を活かせ本来の人間としての歓びや倖せにつながる役割に気づくことができると私は思います。

そういう意味では人生は誰にしろ冒険であると言えます。

私が小さい頃から大好きだった冒険家に植村直己がいます。今になってなぜあんなに大好きだったのかを自明してきました。夢をあきらめず、好奇心いっぱいに子ども心のように生きて働いた生き様、そしてその心の大きさに惹かれたからです。

今になって齢を経れば経るほどに、同じように生きているだろうかと自分の冒険心を内省します。枠があっても枠を超えていく、前人未到の境界線を引き直していく、常識にとらわれず真実や本質を実践によって子どもたちに伝えていく、その生き方に感動するのです。

植村直己は下記のような言霊を遺します。

「大切なのは夢の大小ではなく、その夢に向かってどれだけ心をかける事が出来たか。心の大小が大切なのだ。」

心の大小といいました。まさに心をどれだけかけるか、そこに夢の価値があるのです。人からなんと言われても、自分の真心がそう思うのなら至誠天に通じるとして人事を盡すのが夢ということです。

「人の生きる本当の価値は、お金や肩書きなどではなく、夢を追い求め一瞬一瞬を精一杯生きることにあります」

そして心が決めたなら二度とない今を真摯に生き切ることが生きている喜びであり、産まれてきた充実であると自身の体験と実感から語り掛けます。さらに事に正対しては下記のように言います。

「あきらめないこと、どんな事態に直面してもあきらめないこと。結局、私のしたことは、それだけのことだったのかもしれない。」

希望を失わなかった、好奇心を忘れなかったというように私は解釈しています。しかし最後は冬のマッキンリーの登頂で山頂に国旗を遺し同時にいのちを失ってしまいます。その植村直己は私たちにこう伝えます。

「冒険で死んではいけない。生きて戻ってくるのが絶対、何よりの前提である。冒険とは生きて帰ることなんです」

吉田松陰も植村直己も、至誠を貫き最期は非業の死を遂げましたがその魂は燦然と光り続けて子どもの心に燃え続けています。人がなんといおうが、その人が遣りきった人生というものは永遠の余韻が遺るように思います。魂はまるで死んでおらずいつまでも後に続くものたちへ受け継がれていくかのようです。

過去の偉人はみんなすごいことを成し遂げているから蛮勇だと思われがちですが、実際は大変な臆病者であったといいます。植村直己も冒険家の資質とは臆病であることと言い切っています。負けない戦いができるもの、謙虚に己に打ち克つものだけが到達できる境地こそ真の臆病者=達人ということなのでしょう。

最後にこの言葉で締めくくります。

「始まるのを待ってはいけない。自分で何かやるからこそ何かが起こるのだ。」

自分で何かやるからこそ何かが起こるというのが世の中の事実です。誰かが何とかしてもらうのを待つような自分の一生ではなく、自分が何とかしようと自らの実践を積み重ねることで世界を丸ごとを素晴らしく変化させていくことに生きるのです。

人類が目指す理想に向かって、冒険家たちを集めて無二の航海を楽しんでいきたいと思います。

 

 

 

新しい道

人はそれぞれに役割があるように思います。その役割とは全体の中で自分がやるべきことは何か、自分にしかできないものは何かを感じて実行する力のことです。その広さをどこまでの広さでみるか、どこまでの高さでみるかで自ずから使命の設定も変わってくるものです。

自分が何のために産まれてきて、自分が何を求められているのかを知ることは世界の中で自分が一体どういう生き方をするかを決心していくことに似ています。

例えば私の場合は、子どもたちのところにいて今までの人たちができなかったことを成し遂げなければなりません。もちろん今の人たちが行うことも必要なことであり、私はそれぞれの信念で取り組んでいけばいいと思っています。しかし業界や組織というものも時代の変遷と継承の中であまり村社会の秩序や既成概念による世間の常識に捉われすぎると変化が滞りかえって凝り固まって本質を失ってしまうこともあります。

そういう時は一度、ゼロに戻して自由に冒険をしてみないといけません。しかしこのゼロ冒険は固定概念の中からはほとんど起きません、それまでの否定はみんなできないのです。そういう時、敢えてゼロから冒険をするチャレンジャーがいります。危険な方を敢えて選択して、みんなを鼓舞してやってみせる人が要ります。時代はそういう人によって世間の価値観や考え方もまた刷新され、新しいモノサシを自分たちが持つことができるのです。こういう人たちのことを新たな道の開拓者と言います。

そういえば先日、蟻の通り道を観察する機会がありました。

同じように蟻が行列をつくりみんなが一つの道を辿っていく中で、敢えてその道を通らずに往く数匹の特殊な蟻たちがいます。その蟻たちは不思議な感覚で、近道や今まで考えもつかないような道を探し出します。そして一たび、新たな道を開拓したならばそれまで通っていた他の蟻たちもその新たな道に方向を転じて歩んで往くのです。

蟻だけではありません、常に誰かが冒険をしなければ新たな道は切り拓けないのです。

世間から変なことをしていると言われようとも、誤解され非難されようとも、またおかしなことをやっていると揶揄されようとも、前人未到の挑戦をしていかなければならない已むに已まれぬ大和魂もまたあるのです。カグヤもまたその一端を担うものであると私は信じて進んで往く途上です。戦略というものがなぜ必要かというのは、新しい道にたどり着くためです。

天を敬う思いやりや真心には人はみんな正直でいられます。人生を決して自分のモノだけにせず、志を定め天の命に従い人事を盡したいとするのは人は誰もが感謝に包まれている心があるからです。

自分の欲しているものは相手から手に入らなくても、いつもその時々に必要なものを全部丸ごと与えてくださるのが天でありご縁ある方々です。ここまで来れたのも天の御蔭様、今があるのも皆様も御蔭様だと念じて、枠の外に出て冒険し子どもたちのためにこれからも新たな道を切り開いていきたいと思います。

 

人類の夢

昨年から巨樹老樹の実生を育てている中で色々なことに気づき直しています。

ドングリやコナラなどの樹は成長が速く、すぐに種をつけますし短いサイクルでいのちをめぐります。それとは異なり、私が今見守り育てているのは銀杏や蘇鉄、榧など寿命の長いゆっくり育つものばかりです。

生長の速いものはなんでも速く変化がありますが寿命は短く、生長のゆっくりのものは変化もゆるやかですが寿命は長くなります。

これは生長変化の理でもあり、樹木に限らず人の生長についても同じように思います。どれくらいの寿命で生きようとするか、それは志にもいえることで一代の野心のみで生きる人の生長と変化と、何代もかけてつなぐような夢で生きる人たちの生長と変化ではその役割もまた異なるように思います。

特に今の時代は、効率優先、競争社会、大量生産、大量消費、簡単便利で快適でスピーディを価値観にしている時代です。短期間で評価されないものは捨てられるようにできていますから、当然、生長も一気に一斉に短期間で行うことが良いという価値観が蔓延しています。

ふと気づけば、自分の寿命よりもずっと長生きしてしまうこの目の前の幼い樹木をみていたら如何に後世を託す人たちにつなげばいいかばかりが思い廻ります。

時間をかけてもいいという贅沢さや、ゆっくり変わっていけばいいという豊かさ、自分なりの生長でいいという優しさや、一生懸命に誠実に生きていけばいいという美しさ、本来の”ゆとり”というものは慎ましく謙虚に自分らしく生きている自然の姿のことです。

何千年もこの先に生きていくであろう幼い樹木を見守りながら私たちも同時にこの樹木たちと一緒にこの先、子孫が何千年も生きるつもりであろうかと内省するのです。

今の生き方を否定する気はありませんが、やはりそれだけではいけないと感じる日々です。人類の冒険はまだはじまったばかりです、この難局をどのように乗り越えて新しい人類の夢を実現していくか。

人生は一つのミラクルジャーニーです。
私たちのミッションもまたその中にあるように思います。

私自身、かんながらの道を辿りつつ、人類の夢を追い求めていきたいと思います。

 

樹と話す~大和心~

昨日、樹と対話するということについて話を聴く機会がありました。例えば、樹を使い何らかの道具を創る人たちや、植木に関する人たち、樹医などは樹と対話をしてはその樹のいのちを見極めそれを伸ばす力があるように思います。

もし樹と話すと言うと、今の時代では不思議な人だと言われたり、もしくは奇人変人、何かしらの怪しい信仰の人などと言われそうなものですが現実に農家であれば土から学ばなければなりませんし、動物を飼育してもその動物から教わらなければできませんし、たとえビジネスでもそのビジネスそのものから勉強していかなければ本質を理解することはできません。

なので昔の職人と呼ばれる方々は”そのものと対話する”ということを基本に据えて学んできた人たちなのです。私たち日本人は職人文化を持つ種族であると世界も認めています。老舗企業がもっとも多いのも、職人的に様々な文化を伝承する技術が遺っているからです。これもまた、そのものとの対話をする方法で伝授します。

法隆寺宮大工棟梁の故西岡常一さんは、樹を通して飛鳥時代の工人たちと対話をしその時代に使っていた道具、槍鉋を復刻されました。このように時空を超えて、そのものと対話するというのは別に宗教地味ているなどという話ではなく本来、知識が増える前の私たちの先祖が当たり前に行っていた自然の学び方であったのです。

もしも私たちに言語と知識がなければ当然マニュアルは存在しません。そうであれば、私たちの学び方はそのものから学ぶということであったはずです。昨日は、樹の声を聴くということをテーマに、樹のいのちをどう伸ばすかについて体験しましたが、樹の特性を見抜きその樹が何の役に立つかを見定めそれがもっとも価値ある別のいのちへ変化するのを目の当たりにすると感動を覚えました。

最後に世界で有名なヴァイオリン職人の中澤宗幸さんがあるヴァイオリンを解体した際にその内側に詠まれていた素晴らしい詩をご紹介します。

「私が森にいた時、木陰で人を憩わせ
今はヴァイオリンとなって歌って人を喜ばせる」

まるで樹の心を代弁するかのような詩に、このバイオリンの職人の方はきっとその樹と対話をしていたのではないかと感じます。人は心があります、そして同時に”もの”にもまた心があります。これがわかることを日本では大和心があるといい、開祖代々から「もののあわれ」として数々の神話や物語の中でずっと語られてきたものです。それは私たちには本来自然の中で対話し聴く力が備わっていた、つまりはどのような”いのち”とでも真心で対話をしてきたということなのでしょう。

果たして豊かになったと言われている現代の私たちは、今ちゃんと対話をし本当に聴いているでしょうか、真心で聴こうとしているでしょうか。

先人たちの智慧はいつまでも光り輝き私たちに後世のためにどういう生き方をすべきかを訴えかけてきます。引き続き、子どもに関わる志事をするのだから聴けなければなりません。そして魂を磨き心を救いたいと祈るのだからこれからも聴くとは何か、話すとは何かということと正対し深めていきたいと思います。

 

 

 

自己有用感~存在価値~

人は有用であるか有能であるかということはとても大事な価値観であろうと思います。特に今の時代は自信を失っている人が多く、自己有用感を持てないという人が増えているようです。これは一言でいえば、自分が役に立っている実感が自分自身で持てないということです。

ではなぜこうなってしまうのでしょうか、そこには西洋文明の影響を強く受けた今の日本社會の価値観が関係しているように思えます。

人は誰かによって価値を定められ評価されているものです。それは自分を含めて、集団であったり国家であったり、自分の所属する場所に置いて自分自身の価値が判別されていくものです。本来、人は存在価値という価値があるのですが、能力価値だけをみるならば能力がない=不必要という解答になってしまうように思います。これは人や物が溢れてくると、あらゆるものを粗末にするようになり物質的豊かさの陰にある心の貧しさが広がっているからかもしれません。または信じるよりも疑う方が楽だと信じる努力を止めてしまうから自己防衛のために先に自ら評価を入れては勝手に自分の価値を自分で決め込んでしまい、自分の価値はこんなものだと先に裁いてしまうのかもしれません。どちらにしても何らかの理由で心を閉ざしているのです。

本来、価値というものは存在しているだけで価値があるものです。何かしら意味があって産まれてきたし、何かしらの価値は必ずあるのが自然界です。その価値を誰かの都合で一つの価値基準に合わせさせようとすればその基準に合えば有能であり、合わなければ無能というのでは誰でも自信を持つことができなくなるように思うのです。

人が自信を持つというのは、何かしら自分の価値を自らが認めているということです。言い換えれば自分の存在は必ず誰かの役に立っているという実感があるということです。それは決して何かしたから役に立ったのではなく、存在しているから役に立っているのだという実感です。

人は自己認識というものを他の人を通して行うものです。善い仲間がいれば、その仲間の中で自分が存在していいという実感があることで自分は必要とされていると感じることができます。そのためには自分から心を開いて仲間と本心を通じ合わせて、自分自身が周りを必要としていることを自らが発信していくことのように思います。

今の時代はなんでも一人で完璧にできる人を目指させる傾向が強くあります。完璧主義の刷り込みを持った人たちはたくさんいます。しかしもしも全ての事が一人で全部できるのならば他の人は要らないということになれば人類の人類たる由縁を忘れてしまいます。いくら便利な世の中になってもどんな人間も倖せになりたいのが本来の姿ですから、一見メンドクサイと思っても敢えて周りの人たちと仕事を分担してみる、一見自分でやった方が早いしミスがないからと思っても敢えて一緒にやってみる。そんな中ではじめて「楽しい」という体験ができ、その楽しい体験を通して自分が有用であることに気づくのです。

結局は自己有用感とは、誰かと一緒に働くことで得られる「楽しい」感情のことです。自分の価値観の中で有能さがある人は、能力だけで判断して役に立つかどうかを決めつけて結果を邪魔しないために具体的にかかわることを避けようとします。しかし、何もできなくても一緒にやっているのなら後ろからエールを送るだけでも、もしくは思いやり心配して励ますだけでもそれは一人の人間として十分に役に立っているのです。

自分の中の刷り込みを取り除くのは今までの自分の評価や価値基準を脱却するほどに大変なことですが、その先にある倖せな仲間との邂逅であったり、人と一緒にいることの愉快さ安心さを味わえたりを思えばブレークスルーしようと挑戦することの価値を感じます。結局は有用も有能もそれは人との絆や結びつき、真心によってはじめて活かされるものなのです。

そのための第一歩として自分が本当は何ができるのかを親切に教えてくださるのは周りの仲間たちです。自分で決めつける前に仲間に聴いて、自分の何を必要としているのかを心を自分から先に開いて素直に受け止め本人が自分からそのままでいいと感じ進んで殻を毀していけるように心の見守りを強めていきたいと思います。

因果の妙法

仏教に自因自果という言葉があります。

この「自因自果」とは、自分のまいた種は自分が刈り取らなければならないという意味です。人は善行を行えば善行がかえってくることをなんとなく分かっています。しかし悪行を行っている分についてはなかなか自分が認めたくないものです。

実際に何かの事件が発生するとき、それはもうだいぶ昔に自分が蒔いた種が花が咲き実をつけたものです。善い種を蒔いていたから善いことが起きて、悪い種を蒔いたから悪い種が出たということですがそれがだいぶ前のことだから思い出すこともなく眼前に一喜一憂してしまうのです。

特に悪い種の場合は、相応の自分にとってつらいことが発生するものです。しかしその悪い種を認めてその種を蒔くことを止めて、別の善い種に変えようとしなければやはり同じように芽が出て実をつけてしまうのです。これは永遠に繰り返されます。

自分でも気づかないような悪習慣は、他の人に教えてもらったり、体験を素直に内省して改善していかなければその種を蒔くのをやめないものです。同じように善い種ということにも気づいて如何に全体に善い種を蒔き続けるかということも大切です。

昔から「善いことは御蔭様、悪いことは身から出たサビ」という言葉があります。

如何に自らが御蔭様を感じて善い実践を積み重ね、自分自身に打ち克ち、日々に手入れして磨き上げ錆びないように実践研磨するかは本人の心がけ次第です。

人はみんな放っておけば誰しも傲慢になるように欲深くできていますから、如何に日頃から謙虚に御蔭様を感じ勿体ない有難いと実践を積み重ねて余計なことをしないかが正しく因果を見つめることかもしれません。

しかし振り返ってみれば善い悪いはなく、ただ福があったというのが人生です。どんな種も芽が出て花が咲けば自然界のいのちの何かしらのお役に立てます。

どんな出来事からも学び、それをより善く活かしていこうとするのが天の真心かもしれません。善いことはもっと善いことへ、悪いことも転じて善いことへ、それぞれの持ち味を愉しみ活かすことが因果の妙法なのかもしれません。

日々に執らわれない心を育てていきたいと思います。

恩師

昨日は、一年ぶりに中学校の頃の部活の恩師に会いました。私はこの恩師の御蔭で本当に人生を変える大きな道しるべと心には宝をいただき今まで歩んでこれました。まさか25年ぶりに再会し、今の年齢になって色々とじっくりお話ができるなんて夢にも思わず人のご縁の奇跡にただただ不思議に思います。

教育という深淵に触れたのも先生があったからです。

自分の人生に正面から向き合ってくださって、その上で人間としてどう生きようかと一緒に歩んでくださったこと、そして大事な局面ではまるで自分自身に喝を入れて叱咤激励するかのように遠慮なく全身全霊で愛情をかけてくれました。

懐かしい思い出は、目を閉じ眼れば今も心の中に鮮明に残っています。

その先生から指導についてのお話を今、お聴きできるのもこのタイミングで私が大事なことを学ぼうとしているからかもしれません。不思議ですが「今必要だと渇望していたら誰かが必ず愛の手を差し伸べてくれる、いつもご縁は初志を離れない」ことも改めて実感します。

私が部生活を通して習った恩師からの戦略は、”勝つバレーではなく負けないバレー”でした。いつも試合がはじまると、相手のチームが勝っているように感じているのになぜか試合が終わったらいつも相手が負けているという戦い方です。相手の監督や選手からもいつも不思議がられていました。

これは日頃の練習こそが本番で基本、その上で如何に自分に打ち克つことが仕合いだと私たちも先生も一体になって戦ってきました。その結果として、敵は周りにはおらず自分自身であることもそこで学んだことを今でも覚えています。先生はいつも自らの実践として練習を重視し、いついかなるときも選手の姿を見守り、常にプレーを通して生き方をきめ細かく指導してくださっていました。

試合ではいつも練習を出せばいい、思い切ってやれといい、試合に負けたら先生の責任だからといい、試合に勝ったら一緒に克ったなと心から喜んでくれました。厳しい中にも深い思いやりがある優しい先生です。先生の生き方は私の人生観に於いて、多大な影響を今でも与え続けています。

最後に先生からいただいた有難い言葉がありました。

先生にも尊敬している先生がいて、その方にある質問をしたそうです。それは「私のような未熟で不完全な人間が指導しても良い人間などできないのではないか?」という質問です。それに対して先生の先生はこう答えたそうです。「世の中に完全な人間などはいない、その中でも自分で勉強して、”こんな人間であろう”としっかりと勉強しなさい。子どもは、小学生でも、中学生でも、高校生でも、自分のその顔つきとか目つきとかでちゃんと人間性が出てくるから。」と。

それを心に、生徒指導の道を歩まれてこられたそうです。まさに論語の「己達せんと欲して人を達せしむ」です。 生徒指導を30年以上勤めて様々な智慧を持つ先生はいつまでも私の先生です。

不思議なことですが今になってみて、尊敬していた先生の生き方を知り、私は深く薫陶を受けていたことを感じ、自分の志事が自分勝手なものではないことに改めて気づきます。初志に教えていただけるのはきっと自分が何を大切に歩んでいるかから離れていないからです。

これからも素直に正直に、指導の原点を学び直していきたいと思います。

素敵な誕生日プレゼントを有難うございました。