自然淘汰

世の中にはあらゆる伝染病があります。かつて人類は何度もその伝染病に感染し多くの人たちがいのちを失いました。感染症が他人にうつらない病気に対し、伝染病は人から人へ、動物から人へと感染します。

最近では、エボラ出血熱やSARS、ジカ熱など致死率の高い伝染病がでてきています。そもそも人間に有害なウイルスや微生物は、太古の時代から存在していました。人間には、人間に有用で効果のあるウイルスや微生物もあります。ワクチンやその他、幼い頃に感染する水疱瘡やおたふく風邪などもある意味で有用なのかもしれません。

実際に有害なウイルスは人間に有害なだけで自然界では必要なウイルスとも言えます。例えば、腐敗菌や悪玉菌、その他のウイルスも自然淘汰するのに必要なものとも言えます。この自然淘汰は、人間の都合でみれば悪いことのように感じますが自然が淘汰してくれるのだからもっとも長い将来に向けて効果的だとも言えます。

自然はつねに長いスパンで循環していますから、その中で強く逞しくするために淘汰するのです。この淘汰については、自然は篩にかけるということです。私たちの先祖たちも昔は篩という道具があり、身近な自然を感じていました。自然淘汰は、この篩に似ています。

何を遺しておけばいいか、何を淘汰しておけばいいか、自然はそれを自ら判別するのです。私たちは自然の篩にかけられて子々孫々を繋いできた生き物とも言えます。今の時代のように自然淘汰をコントロールすることで、果たしてどうなってしまうのか、心配でもあります。

半分は自然に寄り添い、半分は文明を発展させていくことが素直に謙虚に生きることかもしれません。人は病気で苦しいからこそ、自然の仕組みが観えてきます。自然の仕組みを深めてみようと思います。

逞しい力

ここ数日、寒暖差が激しい日々が続いています。野生動物たちはとても厳しい自然の中で、この寒暖差に身を晒します。我が家のの犬や猫、鳥たちも春の陽気から一転急激に寒くなるとピクリとも動かずに丸まってじっとしています。私たち人間は、暖房などで室内を暖め洋服を着脱して体温調整をして寒暖差をコントロールしますが野生の生き物たちはコントロールできませんから自分が順応していくしかありません。

先日、地域で最近みかけた野良猫が鳥小屋の近くで亡くなっていました。よく見ると、どこかの猫と喧嘩したのか顔や首筋に傷があり怪我をしているようでした。数日の激しい寒暖差によって体力が弱り遂には凍死したのかもしれません。すぐに大き目な樹の下の土を掘って埋葬して念仏を唱えました。

一般的に室内飼い猫の平均寿命は18年~20年くらいだと言われます。それに対して、野良猫の平均寿命は5年~6年くらいと言います。環境が快適になればなるほどに寿命は延びていきます。今ですら病気をしても怪我をしてもすぐに死にはつながらなくなりましたが、本来の野生に生きる生き物たちは常に死と隣り合わせに生きています。野生がもつ逞しさというものは、本来の自然の中で必死に生きる中で培ってくるように思います。

私たちは寿命は長くなりましたが、その分、かつて持っているであろう逞しさを失ったのかもしれません。もしも自然界の永いスパンで物事を観れば、ひょっとすると寿命が短くても自然治癒力を持ち、自然の中で逞しく生きることの方が種を永く発展・維持させていくことができるのかもしれません。かつて様々な自然災害を乗り越えてきた生き物たちは今よりももっと激しい寒暖差の中で生き残ってきました。もしも天災が発生し、私たちの文明でも対処できないほどのことが発生したとき私たちは自力と智慧で乗り越える必要がでてきます。そうなると、今まで必要だった能力が一切機能せず、まったく別の能力が必要になるのです。

それを自然の持つ逞しさといってもいいのかもしれません。いつまでも生きるチカラを失わない、その逞しい心は自然を畏敬し、自然と暮らしていく中で育まれていくものです。自然と接すると謙虚になるのは、自分の方を変え続けていかなければ自然と共に生きていくことができなくなるからです。

文明が栄えたとしては如何に分度分限を守る生活をしていくか、それは子々孫々へと先祖たちの遺してくださった遺徳を譲り渡すために必要なことです。何でも新しいものがいい、人間の発明したものがいいとなってしまえばその反面に失われるのは先祖や自然が与えてくださった自然治癒の力、つまり逞しさなのかもしれません。

逞しさを遺すには、私たちが自然と共生する道を選んでいくしかありません。地球は滅亡しませんが、人間は脆くも早く滅亡してしまうかもしれません。一人の気づきが万人の気づきになりますから、いち早く気づいて自分自身がその生き方、暮らし方を伝承していきたいと思います。

 

 

 

希望に生きる

人は幼い頃から、周りの期待の影響を少なからず受けているものです。例えば、それが親からの期待であったり先生からの期待、また周囲の関係する間での期待などもそうです。その期待に無意識に応えようとして、知らず知らずに本当の自分ではなく期待に近づこうとしている自分になってしまっていることも多い様に思います。

例えば、親の望む子どもの姿になるために本心ではない自分でも相手が喜んでくれるのならと装飾し演じているうちに自分がそういう子どもになっていくのです。これは相手を喜ばせるのではなく、自分が気に入ってもらったり相手に好かれるために期待に応えたいと思う感情です。これらの感情はごく自然なもので、好かれたいからこそ期待に応えるというのは好きだからこそ出てくるものです。本来、自分で選択してそれを行う場合は判断できるのですが無意識に期待に応えるのが自分だと思い込めば刷り込みを深くしているかもしれません。

今でも親から刷り込まれた自分を本当の自分だと思い込み、悩んでいる人がたくさんいます。親の夢が自分の夢だと勘違いしたり、先生の期待が自分がなりたい自分であったりと取違をしていくのです。自分との正対と内省により、本当に自分が望んでいるものが何かを確認することは刷り込まれた自我を取り払うことで実現しますがそれを自分だけで行うのは難しいものです。よく内観し自我を取り払う人や本質的な人の力をかりて自分の本心を知ることが効果があるように思います。

そして希望というものがあります。これは期待とは全く異なるものです。英語のTODOに対してTOBEでもあります。どうするかばかりを思うより、どうありたいかの方で生きることに似ています。しかしどうありたいかですら、自分の期待通りにすることだと勘違いしていることも多いのです。本来の希望は、自分の期待やどうありたいがあろうがなかろうが関係がなく初心や理念を信じるということです。期待は、相手次第、自我次第でいくらでも自分の思い通りに動かそうとします。しかし希望はそんなものでは一切なく、思い通りにならなくても大切な理念や初心の方を優先し信じている状態だということです。

希望に生きる人は、希望を失うことはありません。希望の反対は失望という言い方をする人もいますが希望の反対などなく希望はその人の生き方なのです。生き方を覚悟し定めた人は希望に溢れています。先日から紹介している三木清にも希望について書かれたものがあります。

「希望を持つことはやがて失望することである。だから失望の苦しみを味わいたくない者ははじめから希望を持たないのがよいと言われる。しかしながら、失われる希望というものは希望でなく、かえって期待というごときものである。個々の内容の希望は失われることが多いであろう。しかも決して失われることのないものが本来の希望なのである。」

希望が期待にすり替わり、気が付くと自分の思い通りにしようとする。希望を失ったり絶望したりとあるのは、知らず知らずのうちに希望が期待になってしまっているのです。本来の理念や初心を優先できなければ生き方はいともたやすく無意識のうちに自我慾に取って代わられ入れ替わります。つまり人生は己に負けてしまえば期待になり、己に克てば希望になるのです。だからこそ己に克つ人はいつまでも希望を失うことがありません。最後の最期の瞬間でも実践を怠らないのです。それが信じるということです。

希望には未来があります。

それは希望が道を歩んでいる言葉であり、希望が志を顕す言葉であるからです。未来への希望とは、続いている道を諦めないということでもあります。希望に生きるとは、理念や初心に生きるということと同義です。子ども達のためにも、希望を歩む生き方を実践していきたいと思います。

道志

昨日、侘び寂びの孤独について書きましたが孤高について少し書き足してみます。孤高というのは、シンプルに言えば一人自分の志を守る境地のことです。自分の志があったものを俗世間の価値観に迎合されてしまえば志を守ることができません。自分の志は自分の中にあるものですから、その志は自分で守らなければなりません。その守り続けている状態のことを孤高とも言うように思います。

論語に「三軍も帥を奪うべきなり匹夫も志を奪うべからざるなり」があります。これは大軍であってもまとまっていないとその総大将を討ち取ることができるが、たとえ身分の低い男でも意志が堅ければその志を変えさせることはできないという意味です。これもまた孤高を表し、その人がもしも志を守るのならだれもその志を奪うのはことはできないということです。

志というのは自分との約束でもあります。自分自身がどう生きるか、その理想、道を決めたならそこに嘘をつかないということです。その志だけは失わないで守っていくのは自分自身の信念でもあります。

孤高とは志のことであり、志こそが孤高なのです。

志がある人は、自ずからその志によって道に出会い仲間に出会います。大事なことはその志を守ればいいのですが、実際には己に負けてしまうからその志が守れなくなるのです。己に負けまいと精進する人は、自分の中の志にいつかは気づくように思います。世のため人のためにと生きる人は、志によって自分が動かされていることに気づくからです。

そしてそれが道と志、道志に出会うということです。孤高は道志を顕現しますから、決してそれは悪いものではなく孤独も孤高も自分一人、己との正対なのです。

吉田松陰にこういう言葉が遺っています。「道を志したものが、不幸や罪になることを恐れ、将来につけを残すようなことを黙ってただ受け入れるなどは、君子の学問を学ぶ者がすることではない。」と。

道は過去から未来につながっていますから、それを今世の役目を果たそうとする人物が見て見ぬふりなどできるはずがないと。当世の自分だけの保身のために生きては将来のツケになるのをわかっていても何もしないなどで君子の実践学問などできるはずがないということです。

孤高とは、それぞれに道を実践するということでもあります。誰が見ていようが見ていまいが、自分自身が観ているのだから自分に正直に志に素直に取り組んでいくことで日々は孤高の仕合わせを感じられるように思います。

子ども達のためにも、孤高で生きること、道志を高めていきたいと思います。

 

孤独の意味

世間では今、孤独感とか孤独死の話題がよくニュースに出て来ます。孤独に対して似た言葉に孤高があります。孤高とは俗世間から離れて、ひとり自分の志を守る姿のことを言います。世間では俗世の中で孤独を感じるのと、俗世を超えて孤高でいることが同じようにも扱われているようにも思います。この孤独について深めてみようと思います。先日から紹介している三木清が孤独について「人生論ノート」でこう語ります。

「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の「間」にあるのである。」

これは俗世の孤独は、人と人との関係性の中にあるということです。そしてそれは決して一人になったから孤独ではなく、大勢の中にある間にこそあるということです。そしてそれは言い換えれば「孤独は社會の中にこそある」と私は感じています。

俗世とは社會のことであり、社會がどのようなものかで人間の孤独がどうなっているのかが分かるのです。社會がもしも思いやりに溢れていれば、その時人間は孤独は感じません。しかし社會が冷たく歪んだ個人主義や利己主義に溢れていれば孤独を感じます。

人間の孤独とは他人の心の通じ合いに由ります。心の壁をつくり、他人の個性を受け容れない世の中になれば自分がどのようなことに役に立つのかが見えなくなります。本来は、人間をはじめすべての自然物は意味があって存在します。それを人間の基準、人間のモノサシで善悪、必要不必要を分別すれば孤独感を感じるものです。

前述した人間の間にある孤独感は、社會そのものを変えることでなくなっていきます。人が思いやりとぬくもり、やさしさに溢れて心を包み合い許し合うのならそこに自ずから「徳」が発生し、その徳恵は自然界の太陽や月、水やその他の無限の循環の慈愛と同じような世界を感じ人は仕合わせを実感できます。

そして孤独には人間が対立して味わう一人ぼっちになる孤独感と自然の中にある侘びや寂びといった孤独感があるように私は思います。孤独は味わい次第では、それはいのちの側面を感じることであり自然界に陰陽あるようにその陰陽を感じる力ではないかと私は思います。

三木清に「孤独を味ふために、西洋人なら街に出るであらう。ところが東洋人は自然の中に入つた。彼等には自然が社会の如きものであつたのである。東洋人に社会意識がないといふのは、彼等には人間と自然とが対立的に考へられないためである。」があります。

これは西洋人が人間を中心にした思想感からでしか孤独を感じないのに対し東洋人には自然を中心にした思想感から孤独を味わいますからその孤独の味わい方の意味が異なるということです。

山に入るというのは私たちにとっては自然の中に入り孤独を味わうということです。これは自我を超越し「無」になることです。無になることで私たちは自然と一体になります、ここに心そのものの侘び寂びがあるのです。この侘び寂びの観念を文化や営みそしてそれを人生の使命にまで高めたところに私たちの民族性の柱である「大和魂」があるように思います。

そして三木清がこの日本人の孤独の感性について面白い例えを記しています。

「東洋人の世界は薄明の世界である。しかるに西洋人の世界は昼の世界と夜の世界である。昼と夜との対立のないところが薄明である。薄明の淋しさは昼の淋しさとも夜の淋しさとも性質的に違つてゐる。」

つまりは対立する「人間の間」ではなく、大和する「自然の間」があるということです。

私も夕方のある時間帯、薄明の時間はとても寂しく感じます。これは侘び寂びを感じるこころが感応するのであり、黄昏を味わう孤独を感じる間であり、昔から昼と夜が移り変わる時間帯、降魔時、大禍時といい現世と常世の境目を味わっているのですす。ここに自然の間、余韻の時に入ります。この余韻の時こそ、私の感じる孤独の味わい深さであります。

そしてこの孤独の味わいは人間の間にある孤独とは明らかに異なります。誰と一緒にいても心は常に余韻の時、侘びと寂びを感じているのです。さらに言えば自然観というものの中にある孤独感は、無のことです。そして人間観にある孤独感は、亡のことです。

人間の中にある孤独を和らげ、仲睦まじく仕合わせに暮らしていけるようにするには社會福祉を改善し続けなければなりません。人間の中にある孤独こそが戦争を引き起こし、貧困を広げ、破滅を引き寄せていくからです。社会福祉法人というのは、本来は社會を改善していく同志たちであるということです。

引き続き、子ども達のためにも自然をお手本にして本来あるべき人間の社會を創造していきたいと思います。

 

自然体の本質

世界において日本人であるということの重要性は昨日も書きました。なぜ日本人でなければならないか、そこには私たちの世界における存在意義にも関係します。そしてそれは単に世界の中での日本民族というだけにとどまらず、結局は自己を活かすということの本質に深く関わっているからです。

そもそも人は自分という存在をどのように理解しているかで観えている世界が変わっていきます。例えば、単に自己という自分が今までの過去のことや身近な存在から理解する狭い範囲の自分というものと、民族の一人として先祖代々からつながっている自分であると理解するのでは自己認識が変わっていきます。前者は私的なものですが、後者は歴史全体的なものです。言い換えればこれらの歴史全体的な民族的使命を持つことによってはじめて本来の意味での個性というものに出会うということです。これを三木清が分かりやすく例えています。

「すべての理念的なものは運命的なものを通じて実現される。個人の任務は民族を通じ民族のうちにおいて世界的なものを実現することである。個人は自己の民族を世界的意義あるものに高めねばならず、そのためには個人はどこまでも自主的に民族と結び付くことが必要である、個人が自発的でないところでは人類的価値を有する文化は作られないから。」(論文 全体と個人より)

はじまりの初心をもって誕生した先祖たちの道をその後の私たちが受け継ぎ歩んでいるのですからその道を高めそれを民族の目指した姿として顕現させていることが今の文化とも言えます。文化があるというのは、かつての祖親の真心をカタチにした個人があったということです。人類的価値とは、その初心という理念においてそれをどのような道筋と道程を実践して文化にしたかということです。だからこそ三木清も「すべての人は、自らの民族が持つ文化を世界史的意義を有するものへ磨き上げそして高めていかなければならない」と言います。

「個人は抽象的な人類や世界ではなく却って民族というが如き具体的な全体と結びついて具体的な存在であるのである。個人は民族を媒介するのでなければ具体的に人類的或いは世界的になることができない。単に人類的と考えられるような個人は抽象的なものに過ぎぬ。単なる世界人は根差しなきものである。」(論文 全体と個人より)

個人というものの定義をどのように捉えるか、自分らしさというものをどの価値で定めるか、そこが肝心だと私は思います。自分自身とは何か、それを正しく理解できてこそはじめて真の個性を活かし発揮することができるのです。単に個性の発揮とは、自分の好きなことをやればいのではなく真に自分らしさ、自然体であるのです。自分らしさが自然体とも言いますが、では自然体とは本当は何かということなのです。

私の自然体の定義はもっとも日本人であるということです。

言い換えれば今まで脈々と受け継がれてきた私たちの道統の存在そのままになっているということです。それがあってはじめて自分らしさであり、それが本当の個性なのです。私が日本人を目指し文化を学び直すのも自分の中にあるその個性を磨きたいからです。日本の精神とは何か、その精神を磨くのもまたそれは民族としての心を高めてはじめて日本精神を磨くといえます。そして三木清はこうも言います、「国家・民族という精神的バックボーンがあってこそ「個人」が真に活きる 」と。

私も同感で、まず「国」とは何を指すのか、そして「民」とは何を指すか、真に「国民」であるということはどういうことか。自分が国民の一人として自分を発揮していくには、まず本来の国民に回帰する必要があるのです。その回帰した姿において如何に文化を世界に発信していくか、そこに民族的使命がありそこに個々の天命があるように思います。

運命というものは天命のことで、天命は運命と自然体になればなるほど同化していきますから自分が民族の文化そのものであるということを忘れてはならないと私は思います。

そのために何を実践していくか、どんな手本を示して子ども達に道を譲っていくのか、自分の使命とはそういう民族から受け継がれてきた使命のことですからその道を譲り渡す時、真の幸福もまた受け渡していくことができるように思います。最後に三木清の言葉で締めくくります。

行動の哲学は歴史の理性の哲学でなければならぬ。歴史の理性はもとより抽象的なものでなく、一定の時期において、一定の民族を通じて現れ、一定の民族のうちに具体化されるものである。そして一つの民族は民族である故をもって偉大であるのではなく、その世界史的使命に従って偉大であるのである。

歴史に顕れる日本の先人たちの中には、全てその民族の偉大さが顕現します。私の尊敬する方々もみな、その自然体の本質を持っています。吉田松陰然り、高杉晋作然り、源義経然り、私たちの民族には「徳」と「義」が脈々と受け継がれています。

本当の意味で世界が滅びるというのは、世界史的使命が失われるということです。民族多様性を如何に遺すか、それはそれぞれの民が文化を重んじて生きていくということです。時代がいくら激変しても道は変わらずそこにありますから道を継ぎ道を弘め、道を繋いでいけるよう自然体に近づいていきたいと思います。

国の原点回帰

日本人とはどういうものか、日本の国とは本来どうであったか、それを深めていくのに歴史があります。歴史を観直し、それまでの日本人の精神を調べていくと一つの姿が見えてきます。

時として、「国」というものを考え直すときに何をもって国というのかと考えます。国の定義は、様々で専制君主の独裁国家もあれば民主主義の国家もあります。様々な国家の姿がありますが、本来の国のカタチとは民族の姿であろうとも思います。日本人がどんな民族であったか、それが国の姿です。だからこそ国を語るとき、日本の姿とは何かということを原点から自覚していなければ本来は語れないように私は思います。

この国家というものは、どのように生きてきたかという民族の生き方でありこの民族がいつも優先してきた初心でもあります。それを理念とも言いますが、太古の昔から道が続いておりその道を守るのが私たち子孫の使命とも言えます。それが先祖代々の「道統を継ぐ」ことであり、それを守ることが「国」を守ることであろうと思うのです。つまり、単に国家という今の形式や名前を守ることが国を守っているのではなく日本の古来からの道を亡くさず、日本民族の初心やその生き方を守ることこそが「国」を守ることであろうと私は思います。

かつて五箇条の御誓文というものが明治時代に発行されました。これは改めて日本という国を再認識するために、武家や公家、全国民に対して発信されたものです。そこには日本民族の今までの生き方や、これからの在り方について改めて「国」の姿を再認識しようという意志が見えます。紹介すると、

五箇条の御誓文 

一、広ク会議ヲ興シ 万機公論ニ決スベシ

(広く会議を開いて、すべての政治は、世論に従い決定するべき)

一、上下心ヲ一ニシテ 盛ニ経綸ヲ行ウベシ

(治める者と人民が心をひとつにして 盛んに国家統治の政策を行うべき)

一、官武一途庶民ニ至ル迄 各其志ヲ遂ゲ 人心ヲシテウマサラシメンコトヲ要ス

(公家と武家が一体となり、庶民にいたるまで、志をとげ、人々の心をあきさせないことが必要)

一、旧来ノ陋習ヲ破リ 天地ノ公道ニ基クベシ

(古い悪習を破り 国際法に基づくべき)

一、智識ヲ世界ニ求メ 大ニ皇貴ヲ振起スベシ

(知識を世界に求め、おおいに天皇政治の基礎を盛んにすべき)

ここから日本民族が合和し、衆智を集め志を優先し心ひとつにして原点回帰するのだというようにも感じられます。これは私たちの先祖たちがどのような「国」のビジョンをもって取り組んできたか、私たちの民族が「国」と呼べるものがどのようなものであるかを再認識できるように思います。このように「国」を原点回帰したうえで次に今の日本憲法が策定されるのです。

当時の吉田茂首相はこう言います。

「日本の憲法は御承知のごとく五箇条の御誓文から出発したものと云ってもよいのでありますが、いわゆる五箇条の御誓文なるものは、日本の歴史・日本の国情をただ文字に表しただけの話でありまして、御誓文の精神、それが日本国の国体であります。日本国そのものであったのであります。この御誓文を見ましても、日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります」

つまり「御誓文の精神こそが日本の国そのものの本来の姿である」ということなのでしょう。日本人として守るのは、領土やGDPを守ることもいいのでしょうが本来の日本人というものをなくさないようにしていくことが国を世界で存続させる何よりも大切なことだと思います。グローバリゼーションによって、もはやどの国も同じように十羽一絡げになってきていますが改めて原点回帰することの大切さを感じます。

ますます国境が取り払われ、世界の中の一つの民族として活動するときが近づいてきています。私たち日本人の民は、これから世界の中でとても重要な役割を果たすように感じます。だからこそ日本人であることは、私たち自身だけではなく世界にとっても尊いことになっていきます。

これからも日本の心を持った人こそが最小単位の国であるとし、その国を大事にしていくことが国民を大事にしていくことだとして、子ども達に日本の精神を譲っていきたいと思います。

ナレッジマネジメント~活人仕法~

組織において情報共有の仕方をみればその組織の大事にしていることが観えてきます。例えば、スケジュールで共有する組織、思いやりで共有する組織ではその進め方が異なることはすぐにわかります。結局は、情報共有とは人が一緒に働く仕組みであり、一緒に働くときに何を優先して働くかが関係しているからです。

情報共有のことを英語では「ナレッジ・マネジメント」と言います。この「ナレッジ・マネジメント」はPF・ドラッカーが知識社会パラダイムにおける経営改革手法として紹介されています。次の社会においては、知識だけではなくその知恵を集めそれを具体的な日々の経営に活かす時代に入るということです。これは人を活かす経営か、人を殺す経営かと言い換えれるかもしれません。

人は単なる大量生産大量消費のモノではなく、人は智慧を創造するいのちであるという考え方でものと見直すと如何に一人ひとりの衆知を集めてその知識を智慧にまで高められるかということにかかっているように思います。

神話の中にも、何か問題が発生したとき八百万の神々が集まり話し合いをして智慧を絞り出して話し合って解決する場面が何度もあります。例えば、天照大神が天の岩戸に御隠れになったときも神々が皆で火を囲み車座になって衆議をしそれを集めて智慧にまで昇華して物事を解決しています。

誰かが専断専行するような独断と独占、独善的であることを良しとはせずあくまで衆議・衆知を集めることにこだわり「智慧を重んじた」ことが先祖の生き方として遺っています。そのあと、聖徳太子が出て「和をもって尊しとせよ」といったのは日本で明確にナレッジ・マネジメントをはっきりと示したように私は思うのです。

私たちは先祖代々より他を尊重してよく傾聴し共感し受容し、それができれば智慧になるというようにマネジメントの在り方を実践してきた民族とも言えます。今の組織でよく情報共有がうまくできなくなった理由は、その初心を忘れて不和になっているからかもしれません。不和とは偏った意見、誰かの意見だけに従う姿であり円満に事が進むやり方ではありません。

一円観のように、すべてを丸ごと傾聴し思いやることですべて善いことになっていることや聴けばいいことになっているというような安信した状態でいることで和は尊ばれるようにも思います。

そしてその和はすべて真心や思いやりによって行われます。情報共有は思いやりである理由は一緒に生きている仲間だからこそ、相手のことを思いやることで感謝が結ばれ絆が産まれ御互いに助け合うことができ衆知が集まり衆知を活かし、そして人々の持ち味を活かすことができるように思います。

持ち味を活かすには相手を思いやりそれぞれの考えを聴く必要がありますからよくよく話を聴く組織、つまり思いやりが溢れている組織ほど最高のナレッジ・マネジメント(活人仕法)ができていると私は思います。

引き続き、子どもの現場に働く大人たち一緒に先祖代々から伝承されてきた仕組みを温故知新し未来へと継承していきたいと思います。聴福人の実践を積み重ねていきたいと思います。

日本刀の精神

先日、日本刀用語の中の「付け焼刃」について書きました。他にも似た言葉で「にわか仕込み ・ 一夜漬け ・ 間に合わせ ・ その場しのぎ」があります。付け焼刃は剥がれやすいやメッキが剥がれるなどもそうですが、本当の実力を身に着けなければ乗り切れないということに使われます。

しかしではなぜ付け焼刃が横行するのか、それを深めてみると今の教育の在り方や、誤魔化して済むような世の中の風潮も観えてきます。結局は、生き方を決めず覚悟を持たないでも生きられるものが溢れる豊かな時代、精神を如何に厳しく磨き鍛えるかということが求められているということです。

例えば、一夜漬けという言葉で思い出すのは学校のテストです。テストさえ乗り切ればいいのだから、一日、二日覚えていればその場しのぎで乗り切れたものです。他にも、その場さえ乗り切ればというものは沢山溢れています。特に器用な人やテクニックが高い人は、能力でその場を乗り切ることが出来てしまいます。一度、そうやって楽を覚えてしまうと次からまた楽な方法で乗り切ろうとするものです。逆に不器用な人は、それができませんからいちいち時間をかけて丁寧に愚直に取り組んでいくものです。

そのうち社会に出てからも、調子よく世渡りをする人と不器用だけれども真摯に世の中に貢献する人に分かれます。このことを考えるとアリとキリギリスの寓話を思い出しますが、結局は「己に克ち日常を怠らないこと」に尽きるように思います。その場しのぎの逆は平素を正すことだからです。何かあった時だけ乗り切ろうとするのをやめるのは日頃をキチンと正しておけばその時がきてもいつも通りにやればいいからです。

付け焼刃というのは、日頃の鍛錬よりもその場さえ乗り切ればで研ぎや付け足し刃をつけます。しかしその刃はすぐにまた切れなくなり、ただのなまくら刀になります。この鈍刀というのは、だいたい大量生産で造られたものです。本当の日本刀は、折り返し鍛錬によってはじめて切れ味の光る唯一無二のものが仕上がっていきます。

教育がもしも大量生産をしてしまえば、人間もまた鈍刀のような付け焼刃のその場しのぎばかりが育ってしまいます。本来の人間に必要な素養は、刀を打つ鍛冶師のような心構えで取り組む必要があるように思うのです。

単に見た目が日本刀であればいいなんていう刀を、誇りを持つ鍛冶師は打つはずがありません。鍛冶師がブレれば研ぎ師がブレ、その他の鞘師、白銀師、塗師、柄巻師、装剣金工の関係者もみんなブレていきます。常にみんながブレずに日本刀を造るからこそ日本刀の精神が宿りそして伝承され後世に遺るのです。一本の日本刀が仕上がるまでにどれだけ本気で皆がそのものを造り上げるか、そこが何よりも大事なのです。

鈍刀に仕上がってしまった刀は、見た目は立派でも切れ味のない実戦現場では使えないものです。今の時代、それで苦しんでいる大人たちが本当に多い世の中になったような気がしています。こうなるのも周りの人たちがどれだけその人を信じて本気になって正直に育ててきたか、見守ってきたかではないかと私は思うのです。

言い訳をしない、正直に生きるということ一つも日本の心であり大切な徳目の一つです。そういうことを怠り日常の鍛錬を積もうともしないで、いきなり目の前の出来事を一時しのぎ、その場しのぎ、一夜漬けで乗り切ろうとするその生き方から修正しなければなりません。

日本刀の中に見える私たちの先祖が大切にしてきた生き方から本来の大和魂とは何か、日本人の在り方とはなにかを学び直していきたいと思います。

暮らしの道具

昔の生活道具を身近で使っていると、その当時の日本文化に触れることができます。頭で考えるのではなく、直接触れていくことでどんな暮らしをしていたのかが直観的に感じ取ることが出来ます。今の時代は何でもスイッチ一つですぐに簡単便利に何でもできた方が幸せという価値観ですが、昔は手間暇かけて面倒でも充実している方が仕合わせという価値観だったようにも感じます。

例えば、竈という昔の生活道具があります。私の自宅では古鉄の羽釜を用いて炭でご飯を炊いていますが、出来たご飯は本当に格別の味がします。今どき面倒ではないかと思われますが、炭を扱う技術さえ身に着けばかえってガスよりも分量に対する調整ができたり火加減も自由自在で美味しいご飯ができます。火吹き竹で微調整して炊くご飯は美味しいだけではなく楽しく、食べるころには心が充実しています。単に満足するだけのご飯ではなく、充実するためのご飯を食べられるのもまた昔の道具がそれを演出してくれているからです。

この竈は50年前くらいまではどの家庭でも使われていたもので、電気炊飯器が登場してあっという間に見なくなりました。簡単便利に電気でできるご飯は、急速に発展し消費する社会では邪魔者になったのかもしれません。もともとこの竈は、おくどさんとも呼ばれ、約1500年前頃に朝鮮半島から登り窯や置き竈とともに伝来したとも言われています。これにより須恵器の生産もはじまり、茶碗なども一緒につくられるようになりました。

置き竈ができ、後に火鉢が開発されてそれからずっと日本人の暮らしを下支えしたパートナーだとも言えます。炭は火鉢と一緒に発展繁栄してきましたから、我が家の炭を中心とした暮らしでは火鉢と囲炉裏が大活躍してくれています。

毎朝、薪を入れ炭を熾し、井戸水を汲んでご飯を炊き隣で味噌汁をつくりました。漬物をおかずに朝餉を食べて残ったご飯はおむすびにして味噌を添えて野良仕事に出ていきます。夜になればまた囲炉裏を囲み一日のことを振り返りながら月明りとともに休み眠ります。

このゆったりした一日の暮らしの中で、心身共に充実した日々を過ごしていたのが道具から伝わっています。生きているもの、いのちがあるものは、いのちの時間を持っています。それは今のスケジュールのような時間ではなく、悠久の時間です。循環にははじまりも終わりもありませんからその時間の中にいることはとても充実するように思います。心の充足もまたそこに在るように感じます。

一日のはじまりと一日の終わりに、循環を感じることは仕合せを味わうことです。引き続き子ども達に遺していきたい生き方としての昔の生活道具、暮らしの道具を深めていきたいと思います。