評価基準?

昨日は、韓国の企業や財団が運営する保育所を3施設ほど見学しました。施設はとても充実しており、保育環境は国家の評価基準によって均一的に準備されています。どこでも同じような施設、同じような保育、同じような環境があり多少の設備の差があってもほとんど同じサービスが提供されていました。

当然、日本の病院と同じく同じ病気で通院するのにあまりにも異なる治療をされたら患者さんは不安で病院にいけなくなりますから同じサービスをするというシステムが機能しています。それと同じで韓国の学校もその同じ質を求めて一定ラインの標準化がされているように感じました。

しかしあまりにもそこに「質」というものを求めすぎると似たような同じものが最高だと信じて本質から外れてしまうように私は思います。韓国では整形手術が流行っているといいます、みんな同じような顔になっているのは来てみるとすぐにわかります。

先日もニュースで、ミス韓国を選出する出場者リストの写真には同じ顔ばかりが並んでいました。これを見た人たちからはコメントで「同じ顔ばかり」「姉妹が出ているのか」「一人が何回も応募しているのか」というものであふれていたといいます。

これに対し韓国事情に詳しい文筆人の但馬オサム氏が「韓国人の〝美の基準〟というのは、ものすごく狭いのです。ひとつの美の型が決まると、皆それに合わせて作る(整形する)のが韓国の感覚です。私は〝韓国式たい焼き美人〟と呼んでいます。たい焼きのように同じ顔が量産されるということです。ミスコンで同じ顔ばかり、ということは、つまり、美の理想型に近い、全員美人ぞろい、ということで、むしろ〝褒め言葉〟になります」と指摘したといいます。

誰かの定めた評価基準に従っていれば理想という考え方は、果たして本当の質を高めるのかと私は思います。そういう意味で私はこの評価基準というものの用い方についてかねてから疑問を感じているのです。

韓国ではこの美醜が、その後の学校の成績や就職にまで関連してきます。誰もが同じ道を通り誰もが同じ理想を求めて競争して比較していたら劣等感ばかりが育っていきます。その劣等感を解消するために、美の理想の型に近づけるというのは本当に自分に自信を持つことができるのだろうかと思います。

「あるがままである権利」ということを昨日も書きましたが、ここにきてそのあるがままの権利の意味とその価値を再認識することができました。

一つの基準だけでなんでもやろうとするのは無理がありますし、その基準は時処位で変化しますからもはや理想は原理原則から離れています。理念を持ち実践し生き方で示す原理原則の体現者がそれぞれに必要であり、またその実践をする体現者が常に現れるように切磋琢磨しその物差しが歪にならないように常に注意していく必要を感じます。

私にとっての原理原則、その物差しは自然ですから、自然は人間の都合で変えられることはありません。常に自然に沿って自然体でいることこそがあるがままであるとし、今回の学びをまた子どもたちに還元していきたいと思います。