弱くてゆっくり

聴福庵に90年くらい前の石油ストーブが届きました。早速、手入れをして火を入れてみると緩やかに弱くゆっくりと温かくなってきます。強い火にすることもできますが、昔の道具たちはあまり強いものを好まないので弱火で使うことにしています。

そもそも弱くてゆっくりというのは自然の仕組みです。

老子は弱いもの、ゆっくりなものこそ自然の中では至上であるといいました。人間でいえば赤ちゃんこそが至大至強の存在であるとも言いました。老子の中にこういう言葉もあります。

「人之生也柔弱、其死也堅強。萬物草木之生也柔脆、其死也枯槁。故堅強者死之徒、柔弱者生之徒。是以兵強則滅、木強則折。強大處下、柔弱處上。」(人は生まれたときは柔らくて弱いが、死ぬときは堅くて強ばっている。全ての物、草や木も生まれたときは柔らくて脆いが、死ぬときは枯れて干からびる。つまり、堅固で強いものは死んでいくもので、柔軟で弱いものは生き続けるものだ。このように、強大な兵力でも滅び、強力な武器でも折れる。強大なものが下になり、弱小なものが上になるのだ。 )

私たち人間が思い込んでいる生態系ピラミッドは弱肉強食の構図です。食物連鎖の中でもっとも強い存在が百獣の王であったり、人間であったりと考えています。しかし自然を観察してみるとすぐにわかるのですが、植物でいえば小さく柔らかい雑草、虫でいえば同じく弱弱しい虫たち、動物においても争わないで食べられているようなほうが「長い年月」で照らしてもどちらが長生きしているかはよくわかります。

私たちが勘違いする最強とは、非常に短期的で刹那的な強さとも言えます。盛者必衰とか言いますが何をもって盛なのか、自然の摂理と人間の理屈はまったく同じではありません。

つまりは短期的な強さは、悠久の中ではたいした強さではなく本来の強さは永遠的なものを持っているのです。そしてそれはさきほどの「弱くゆっくり」という仕組みを持っています。屋久杉のように長寿の大木は、ゆっくりと長い時間かけて少しずつ成長します。私が大事にしている榧の木は、300年かけてはじめて成木になります。それだけ年輪を刻み、敢えて少しずつ成長することで揺るがない至強の存在になっていきます。

自分の代だけのことを考えて取り組むことの如何に脆弱なことか、それは歴史を鑑みれば自明します。ずっと先の未来のことを慮り、今何をするのかは決して大それた目立ったことをやる必要もありません。

身近な暮らしや生き方から、弱弱しくてもゆっくりと変化させていくことで悠久の流れに従うことができ、そのゆっくりと弱い成長こそが何よりも偉大な存在とつながり世代を超えて自然の摂理を活かすことができるように私は思います。

昔の道具たちは、先人のこういった智慧が籠っています。改めて自分たちの今の刷り込みを見直し、じっくりとちょっとずつ時間を重ねていくような日々を過ごしていきたいと思います。

自然の流れに逆らわないものこそ、柔弱謙下の徳を持つことができます。

引き続き、弱さの中にある真の強さ、弱さをさらけ出して生きていくものたちが持つ真実の美、自然体の善境地、あるがままの一体感を様々な実践から学び直していきたいと思います。