考えるとは何か

人間は当たり前すぎるものを考えなくなる性質を持っています。例えば生きていく上で大切な呼吸をはじめ、食事、睡眠などの意味を深めようとはせずに何か問題があるとすぐにほかの理由を探したりするものです。

しかし人間のカラダというものはとても正直で、頭で考えて理解するのとは程遠く実際の今の状況を語らずして伝えてくるものです。

例えば睡眠というものもそうですが、生きているものは睡眠を持ちます。一緒に暮らしている動植物から虫に至るまですべての生き物は睡眠をとります。これはなぜかということですが、単に疲れを回復するためとか、細胞を甦生するためとか、そういう目に見えるところだけの効果があるのではなく本当はまだまだ未知の領域がたくさんあります。

人間の知識では追いつかないほどの叡智は、頭で考えられないところで働き続けているのです。そう考えてみると、よく学校で「考えてやりなさい」というのは果たしてどれだけの意味があるのかと疑問に思います。

人は考えずにあらゆることを行動で行います。睡眠も呼吸も排泄もすべては考えていないところでやっています。それはまるで全自動で頭で考えれば不可能とさえ思えることも簡単にやってのけています。これは考えてやっているのではなく、「考えずにやっている」のです。

そもそも考えるというのは、単に知識で自分の頭で理解することを言うのではなく私に言わせれば深めるということです。この深めるというのは、叡智に近づくということです。自分の知らなかったことを深めるというのは、分かった気にならずに実践し続けて叡智と一体になるということです。そしてある「境地」を持てる人になるということです。それが考えずにできるようになること、会得や体得の境地です。これはすべてにおいて経験によって実現することです。

経験なしに考えなさいというのは、土台無理な話で人間は経験するからこそはじめて考えることができるのです。ここでいう考えるのは先ほどの深めるに置き換えれば、経験するから深めることができるということです。

つまりは深めるということは経験が伴わなければ深まらないということ。そして深めている最中だからこそはじめて人は考えることができるということ。考えて動きなさいではなく、動くから考えているということです。

シンプルな言い方だと、「なんでもやってみなければわからない」ということです。そして今度は、やってみたから何の発見があったのかを内省することでその事物そのものがその人の先生になって自分を導いていくのです。

自分はあまり考えないタイプですから、来たものを選ばずに何でも有難く受け止めてやってみることにしています。そしてやってみたことが一体何だったのか、その意味を紡ぐ間に点が線になり面になり立体になり空間になり全体になり無限になり転になり点になります。

人生は知識が先にあったのではなく、経験した人たちによって知識が発生してきたのですから過去の産物をいくら勉強してもそれは経験をなぞっただけであって自分自身の経験とは関係がないものです。自分の人生を味わうというのは、経験を味わい尽くすということです。

子どもたちの主体性を奪う前に、本来の経験をさせてあげたいという親祖の真心、そしてそれを見守る親心を大切にしてあげることが私は「育」ということの大前提に据えられるものだと自分の実体験から感じます。

それでもやりたいということがあるから、人間は面白いということ、人生は愉快痛快になるということ。引き続き、子どもたちが憧れるような生き方を目指して挑戦していきたいと思います。