人生の味

人は病気になることで健康の有難みがよく深くわかります。人は何かを深くわかるために、その陰陽の二つを同時に折り畳みその中で混ざり合ったものから味を感じ取るものです。

本来、その両極のものは同質のものです。健康を深く味わいたければ病気の味を知り、病気を深く味わいたければ健康の味を知る。このように味というものはその両方を感じる中で複雑な妙味を感じるのです。

他にも年数というものがあります。経験もあります。時間をかけて何度も振り返ることで、その深い味わいの意味やその理由などがわかります。人生というものは、深く味わうなかで様々な体験を通して感覚と記憶を直観するためにあるのかもしれません。

コロナに感染して、臭いや味がなくなると今まで如何に臭いや味があったことが有難かったを知ります。食べ物がおいしいのは、もちろん体全体が調和して美味しいと感じるのですがその感覚が一つ、二つ失われるだけで味わえなくなります。この味わえなくなることの辛さは言葉にできないものでした。

以前、私がイギリスに留学しているとき親友からある言葉を教えてもらったことがあります。その中には、苦しみを避けて通るのではなく苦しみは味わうことができるというものがありました。いやだなと思うのではなく、その苦しみはどのような味かを感じることができるという選択肢があることで人はその苦労の味の深さを学びます。

苦労というものは、例えば人格を磨きます。そして愛を学びます、他には感謝ができます。それをさらに時間をかけて忍耐強く正対していたら、苦労の醍醐味というか得難い体験をさせていただいていることに気づくものです。

そうするととても逆説ですが、苦労は嫌だけれどもなぜか苦労をしたくなってくるというように味をしめてしまいます。苦労の味を知ってしまうと、わかっているはずなのに苦労をしたくなってしまうのです。

大変な方を選択したり、苦労する方を選択する、他にも自分にとって困難だと思えるような道を選んでいく。それはどのような味が体験できるのだろうかと、人生を味わう方を選択していくからです。

一人一人の人生はそれぞれに天命があります。どのような天命かは、その本人にしかわかりません。しかしその天命をどう玩味するか、妙味を味わい尽くすかはその人次第であります。

どんな意味があるのか、なぜこの時機なのか、そしてこの環境なのか、この出会いか、一つ一つを深く丁寧に味わうと善悪正否を問わず人間はいただいているご縁の味に触れて感動するのです。

味を学び、意味を知り、その人生の最幸の味付けをするのは自分次第です。

初心と原点、一期一会に触れながら日々を味わっていきたいと思います。