天地の学

天地自然の法というものがあります。これは誰かが教えたものではなく、誰かに倣うものでもありません。人間が人間として解釈するのではなく、自然がそのままに存在して運行するものです。

私たちは便利に誰かが観察したものをもってそれを理解して分かった気になれるものです。畢竟、便利さというものはどこか大事なものを欠けさせているものです。結局、便利なものに縋って生きてしまうと便利なものが大事なことになってしまい本来の天地自然の理などは後回しになるものです。

先人たちの中には、安藤昌益や三浦梅園のように誰かの教えたものを観ずに直接天地自然を観察した人たちがいます。本来、人はその師をどこに置くかでその求めているところを直観するものです。

その直観は、人が疑問に思わないところ、当たり前すぎて考えもしないところに置かれるものです。誰も考えないというのは、それくらい当たり前にあって気づかなくなっているものです。

例えば、この呼吸というもの、身体の神経、他にも光や影、空間や場などもです。あって当たり前のもの、なぜそれがあるのかを考えるところに自然を観察するための入り口があります。

なぜというのは、真理の入り口でありそのなぜをどの場所でなぜと思うかで人は学びの場所が変わるということでしょう。

これだけ知識が増えて複雑になった世の中では、知識はさらに便利なもの、特殊なものばかりに偏っていきます。しかし天地というものは、悠久に変わりなくこの先も永遠に普遍です。本来の学びというものは、何を主軸にしているかで自分たちの在り方も変わっていきます。

後世に名を遺すような偉業、つまり子孫たちのために何をすべきかを問う学問は常に天地と正対しているものです。

私も先人たちの生き方に倣い、脚下の観察と実践を味わっていきたいと思います。