人間らしさ

人間らしさとは何か、それは感性を磨くことで顕れるように思います。もともとの姿が最初にあって、それが次第にわからなくなってくる。その分からなくなってきたものを思い出すためにも私たちは原点を学びます。その原点の中に、真の人間らしさがあるように思います。

例えば、私たちの五感や六感という感覚があります。この感覚は、頭ではわからず体験を通して実感するものです。体験というのは、全身全霊で感じるということです。それをしているうちに、自分がどういうものであるのか感じているさなかに驚きと共に実感できるものです。そこには心がありいのちがあり、繋がりなどもあります。

言語化するというのは、ある意味この体験を形式知にして分類分けするものです。そうなると体験そのもののままでないため、人間らしさというものから遠ざかっていきます。

私たちの身体的感覚というのはとても正直で他の動植物や昆虫のように本能のままに存在します。私たちは手を使いますが、この手もまたなぜこのように動くのか、そしてその手をどのようなことに使うのかでその人の人間性をはじめ人間らしさとなるのです。

自分の根源的なもの、その原点のようなものを人間が感じられるときにこそ人間らしさが出てくるということでしょう。

最近は、あまり感覚を使うことがなくなりそれを機械や便利な道具にさせることによって余計に人間らしさが失われてきているように思います。感覚が失われた世界が、新しい世界だとすると人間らしさはますます消失していくように思います。

AIや道具ができないこと、それは人間らしさでしょう。人間も自然の一部ですから、自然から離れずに人間の感覚を大切にして進化発展していきたいと感じます。

子どもたちにもこの体験というものを通して、人間性や人間力、人間らしさが磨けるように場をととのえていきたいと思います。

不思議さ

一昨日から長いお付き合いのあるメンターの方が場の道場に来られています。御年85歳ですが、まったく年齢を感じさせず目もキラキラとまるで10代のようです。一期一会の哲学を教えていただいてからメンターとして尊敬して、何度か生き方をみせていただきました。その御蔭で、私も将来、どのように生きていけばいいかの指針をいただきました。

メンター自身も親の介護があり、またコロナもあったのでほとんど移動もせずに生活していたこともお聴きしました。しかし、相変わらずの好奇心であらゆる体験を大切に学び、体験から得られた驚きをたくさん私にしていただきました。

この体験からの驚き、まさに好奇心ですが英語ではセンスオブワンダーともいわれます。この解釈は色々とありますが、神秘的な体験としてもいいし、五感をフル稼働して直観的に得られる体験でもいいですがそのどれもが不思議だという驚きと共にあるものです。

私たちは生きていく中で、不思議だと思う感覚や驚くことが減ってくるものです。知識が増えれば増えるほどに、経験をすればするほどに驚きは減っていきます。

私もよく文章や言葉で伝えることも多いのですが、不思議さが観えない人たちはよくだいたい分かったという言い方をします。何がだいたい分かったのかもよくわかりませんが、そのだいたい分かったという言葉が不思議な言葉だなと感じることもあります。

そもそも不思議なことを不思議なままに理解するというのは、純粋な心が必要です。まるで子どもが最初にこの世の自然の道理や現象に触れた時のように驚きの連続です。

冷たいものを触って冷たいと感じる、誰かに声をかけられて耳に音が入ってくる、そして目に映像がうつってくる、そんな驚き、不思議さに触れた感動です。

そういう感動をいつまでも忘れないことは、私たちがいつまでも瑞々しい感性で神秘や不思議を追い求める子どものような心を持っているということでもあります。

私は子ども第一義を理念に、子どもに遺したい憧れた生き方や働き方、あるいは子孫への徳を伝承したいと思っていますからこのメンターの実践は尊敬し私もそうありたいと思うものです。

一期一会に生きるというのは、不思議さや神秘性、そしてご縁を結んでいく生き方です。いつも有難い邂逅とご縁に感謝しています。これからも驚きを味わい、豊かで仕合せなご縁を結んでいきたいと思います。

生きる知恵

心というのは疲れるものです。身体が疲れるように心もまた疲れます。そして身体は心と繋がっているからこそ、お互いに補完しあって活動しているものです。過剰な身体の疲れは、心にも響きます。その逆もあります。

何かショックなことがあれば、胃腸に出たり、睡眠に障害が出たりもします。もっと大きなショックだと、心臓や脳などにもダメージがあります。そうやって身体は正直ですぐに反応するものです。しかし現代は、脳を中心にあらゆるものを思い込みで乗り切りますから知らず知らずのうちに心身を誤魔化していることも増えているように思います。

心身が正直でいられなくなると、疲れます。その時の疲れは、歪な疲れでもありどう回復するかも忘れるほどです。本来、休息というのはバランスをとること、調えることだと思います。

自然に生きていれば、あらゆる厳しい刺激があります。そして感受するから感情も動きます。感じるというのは、味わうことですから味わったらまたそれをいつもの状態に戻ります。まるで海のように、荒波もあれば静かな凪のような波もある。その両方で、味わい深い人生を送るのです。

人生はどう感じるかは、その人次第です。大きなアップダウンもあるのも、その人が人生を深く味わいたいからだともいえます。その深い味わいをどのように楽しむかは、自分次第です。過ぎてみれば、どれも必然であり大きな学びと意味があったと思えるものです。

出来事には、常に良い側面と悪い側面、メリットデメリット、喜怒哀楽があります。その両方を深く味わい、福に転じていくことが人生を豊かに生きていくことになるように思います。

福に転じるには、最善であること、最善を盡すことからはじまります。

最善を盡していると、心身は回復していくものです。子どもたちにも、その生きる知恵を伝承していきたいと思います。

供養の心

昨日は、郷里の落雁を製造する友人のところで落雁づくりをみんなで体験してきました。米粉に砂糖、あとは水を混ぜ合わせ、菓子型にいれて固めてから取り出し乾燥させるというシンプルな手仕事です。

しかしシンプルな手仕事はとても奥が深く、味わいがあるものでした。落雁のことはこのブログでも以前書きましたが、日本古来からある伝統の和菓子です。お寺にはきってもきれない関係があり今も大切にされています。

現代は、見た目が落雁である落雁風のものも増えています。本来は、砂糖がなかった古代において甘いものというのは大変貴重で高価なものです。それをまず仏様にお供えするという心が落雁には宿っています。

このお供えというのは、感謝の気持ちそのものを伝えるものです。今の自分があるのは、その前の有難い何かをいただいたことからはじまっている。そのものに深く感謝をする気持ちがお供えをする心でもあります。

亡くなった人や、もう随分前にお世話になった人にはそこでお会いすることも直接感謝することも物理的にはできません。だからこそ、心を伝え、心で接するようになるのだと思います。

心で接する時、心は体と一体ですから心を籠めて手仕事をすればそのものに心が宿るのです。心は宿ったものをお供えすればその心は、感謝というものに転換され届けることができるのです。

お供えものをお供えする側の心の中に、相手の心もあります。心というのは通じ合うことで伝わりますから、自分の心が通じ合うように調えることはとても大切なことだと私は思います。

宿坊で、供養の心を伝えていこうと考えていましたが落雁はとてもいい体験になるように思います。子どもたちに、先人たちの心、そして今を生きる私たちが大切にしていきたい心を伝えていきたいと思います。

精進の結晶

人はいろいろなことを抱え込んでいるものです。そのことから様々な人間関係の問題が発生したりします。自分というものの認識をどのように本来の正しさにしていくか、そしてどのように自分を素直なままで保っていくか。そこに人間力が必要になっていきます。

この人間力とは、自分を育てていくことで磨いていくことができます。この世に生を受けてから、色々なことに取り組むなかで人としてどうありたいか、人としてどうするか、つまりは「生き方」を創っていくのです。

人生は何をしてきたかと訊かれたら、生き方をしてきたことを話すものです。何をしたとかの自慢話ではなく、自分の初心を話してどう生きていきたいかを伝えるのです。それが本当の意味で自分を生きているということだと私は思います。

自分らしく生きるには、人間力が必要です。今の自分のままでも、周囲に愛され応援され、そして思いやり優しくいれるようになるということです。自分の勝手な思い込みを持たないことや、信義に反しないこと、そして甘えずに与えること、相手を尊重すること等々、日々に気を付けて反省し自分と調えていくのです。

私も毎日の日記をはじめ、感謝ノートや自己チェックシート、一期一会語録、このブログもですが向き合っては自分を創りつづけています。

自分が興味があり好奇心もあり色々と特性があります。しかしそれが行き過ぎると周りに迷惑をかけたり傷つけてしまいます。気を付けても生き方の癖はなかなか改善されません。でも気を付けようと努力していたら少しくらいは自分のことを謙虚に見つめて創ることができてきます。そういう日々の繰り返しで、人間力を磨くのです。

みんな人間力を磨いていこうとする環境になれば、人はみんな思いやりを持てる人たちになります。文化というものは、本来はそうやってみんなで創りあげてきたのでしょう。

日本文化の真髄は、この人としてどうあるか、その生き方を創り磨いてきた先人たちの精進の結晶だったように思います。

これからも子どもたちのために、人間力を高め自分を創っていきたいと思います。

尊重し合う社会

ゆるされない我儘というものがあります。これは相手のことを配慮せず、自分の好き勝手にやりたいために周囲に多大な迷惑をかけることです。人は一人で生きていませんから何をするのにも、誰かのお手伝いが必要です。特に親しい人には余計にお手伝いを必要とします。お互いに親しき中にも礼儀ありで、その人を大切にしていくことで自分が配慮する気持ちが欠けていないかと、自分に気づくためにも必要なことです。

甘えもゆるされない甘えというものがあり、他人への配慮がない、相手の気持ちを慮ることもなく自分勝手だと多大な迷惑をかけてしまいます。毎回、相手を慮らず自分の都合を優先すればするほどに周囲は嫌な思いをします。そしてその人の大切なお時間やお金、その人のもつ人間関係、大事にしているものまで蹂躙し搾取していくのですからとても傷つくものです。

しかし我儘と甘えがある自分勝手な人は自分のことばかりに意識があるため、そうしていても相手の気持ちが理解できません。自分ばかりの感情を優先し、同様に傷ついている状況が相手にも起こっているということがわからないのです。人間はお互いを尊重していなければお互いに酷い扱いを受けたと感じるものです。

人はそれぞれにその人なりの価値観があり、世界観もあります。そしてお互いに色々なものをシェアして助け合って人生を謳歌しているものです。お互いを思いやることは、同じ場所、同じ時代に生きるものとして大切にしたいところです。

世界では戦争が起きます。その戦争もはじまりはどこかといえば、誰かが我儘をいい、そして配慮のない行動から発生します。どこかの国の思い通りにならないなら戦争をする、あるいはコントロールしてできないなら破壊するということではあまりにも虚しいものです。それで周囲は多大な迷惑をこうむります。いつもはじまりは一人の我儘から、そして配慮のない甘えから発生してくるように思うのです。

子どもたちも、幼少期より集団や社会のなかでその大切さを学びます、そして大人になっても学び続けます。みんなが喜び合う楽園、仕合せを循環するように協力し合い、助け合い、学び合うのです。

保育の志事に取り組んできましたが、まだまだ保育の奥深さを学び直しています。子どものモデルになれるよう、生き方を見つめていきたいと思います。

生き方の病気

人は知らず知らずに病気になります。その病気は、肉体だけでなく人生の生き方の病気というものもあります。この生き方の病気というのは、魔が差すような甘い汁を吸ってしまうことが当たり前になってしまったり、肉体であれば便利すぎる環境で生活習慣病で自堕落したりするものもあります。常に心身を身ぎれいにし、日々に調えていくことは、本来の健康とは何かを磨き続けることです。

つい自分の都合で周りがやっているから自分も大丈夫だろうとしたり、誰かのせいにしてその仕返しにと勝手な正義を振りかざしてしまうと何が真に正しく、何が本質なのかもわからなくなってしまうものです。うまく見せようとしたり、周囲への見せ方がうまくなってくると嘘で塗り固めているうちに嘘が本当のように勘違いしてしまうものです。

生きていれば必ず周囲の影響を受けてしまいます。それくらい今の時代は、純粋性を保つことが難しい時代ともいえます。例えば、食べ方一つ、お金の稼ぎ方一つ、日々の過ごし方、人への接し方、暮らし方などはすべて生き方から出てくるものです。自分の生き方が、歪まないようにするには自分の初心を確かめたり、周囲に耳を傾ける謙虚さがあったり、間違っていないかと畏れたりと、平常心を意識して反省し改善を続ける必要があります。それでも必ず知らず知らずに無意識に歪むものです。人間はそういうものです。すると何かしらの出来事があって、半強制的に反省させられるものです。そしてその時に反省して悔い改めても、それがきちんとすぐに実行、改善され続けられなければまた同じことが別のカタチになって繰り返されるのです。

王陽明にこういう言葉があります。

『反省は病を治す薬だが、大事なのは過ちを改めるということだ。もし悔いにとらわれているだけなら、その薬が元で別の病がおこる。』

薬だけで治るのではなく、本当に自分が治すのだと決意して生活習慣病や生き方の方を改善しなければ必ずまた同じことが別のことで発生するということです。周りに流されたり周りのせいにする前に、自分自身が自分自身を正し続けるという修養に集中するしかありません。

ある意味、人は誰でも失敗や後悔を通して人は生き方を見つめ直す機会を神様や天に戴きます。それはとても恵まれていることで、いつも見守られているともいえます。その時に、本当に素直な人は気づいてすぐに反省し変わります。人は変わる生き物ですから、その時々に変わったものが真の価値なのです。

失敗や後悔をして別の方法を探す前に、「もう二度とこの生き方はしない」と心に決めて後は行動、実践していけば改善が福になり運も善くなります。運が善くなるというのは、自然の運行、天地の道理にかなってくるということです。

自分が真に自分らしく自分の道を歩んでいくためにも、反省させていただけることに感謝して謙虚に素直に改善していきたいと思います。

ありがとうございます。

子孫のために今できること

ものづくりをするとき、捨てることを考えてものづくりするよりも売れるものを考えてものづくりを優先するところがほとんどです。その結果、大量のゴミが発生します。しかも、そのゴミの中には分解できないようなものもあります。それはそのまま土に埋めたりしていますが、何万年も何十万年も土の中で分解されずに循環しない環境にしてしまう有害なものが多くあります。

みんながそんなことをしていたら、この地球には循環しない場所がたくさんうまれその後処理に子孫たちが大変な思いをするということが予想されます。

私は空き家のことや古民家甦生を通して、それを実感してきました。本来は、子孫のためにと先人たちが知恵を結晶して建てたものが今では負の遺産となり破壊され続けています。そしてその逆に、環境を汚し後片付けもできないような建物ばかりを建てています。

自分の子ども、そしてその先のずっと子ども、孫たちや子孫たちがどんな思いをするのか、想像力が欠落してしまっている現代ではまるで空気のように当たり前になってしまい解決しようとすることもありません。

それくらい今は、消費経済、資本主義の流れを換えることができません。自転車操業をして今の体制で走り続けなければこけてしまうからです。一度、コロナで立ち止まってもまた周囲の流れに乗っかってしまい元の木阿弥です。

では孫たちのために、子孫たちのためにどうすればいいのか。

それは私は徳積循環経済を創るしかないと思っています。今の循環を換えるのです。ちゃんといのちや、純粋な子どもの心のような思いが循環していく世のなかにしていくのです。そのためには、どうにかしてでも別の流れを仲間を集めみんなで創っていくのです。

それが私の考える結づくりの意味です。

本当は、そうやって先祖代々、先人たちは孫や子孫のために本当の経世済民に尽力してきました。石田梅岩が倹約を中心にしたのも、二宮尊徳が報徳を中心にしたのも、三浦梅園が正徳といったのも、渋沢栄一が道徳経済合一としたのもすべては子孫のためです。

今の自分のことだけ、自分の世代だけのために経済をやるというのはあまりにも寂しいことだと思います。そしていつまでもそれをやっていたら、冒頭で話したようにいつの日か子孫たちに大きなツケをまわしてしまいます。それは先人たちも先祖も望んでいないことは簡単に想像できます。

だからこそ、私たちは今こそその本質に気づき徳積循環経済に舵を切る必要があると思います。これは、誰にでもできることですしすぐにでも実践できるものです。しかし一人では流れを換えるまではかなりの時間がかかります。だからこそ、みんなで結づくりをしてその勢いを強くする必要があると私は思います。

この場所で、まずはその徳積循環経済をつくる体験と結に参加してほしいと思います。子どもたちの未来のために、今しかやれないこと、自分にしかできないことをご一緒していきたいと思います。

花粉症とデトックス

昨日は、英彦山の宿坊のお掃除やご祈祷などを行いました。あまりにも空気が美味しく、清々しい風が吹いていたので花粉症のことを忘れていたら朝方から大変なことになっています。

花粉症というのは、人間の免疫の防御システムが過剰に反応することからだといわれます。身体というのはとてもよくできています。アレルゲンが体内に入るとマクロファージという細胞がそれを異物とみなして食べはじめます、その食べたという情報がリンパ球に伝達します。するとそのリンパ球はそれを異物と認識してすぐに防御するために抗体をつくるのです。この抗体が血液や粘膜の中にある肥満細胞に結ばれます。そして再びアレルゲンが体内に入ると抗体のついている肥満細胞の表面でアレルゲンと抗体は合体します。そして炎症を引き起こすヒスタミンロイコトリエンなどの化学伝達物質が肥満細胞から出てヒスタミンが知覚神経を刺激することにより鼻水やくしゃみがはじまり、ロイコトリエンは鼻粘膜を刺激して鼻づまりを引き起こすというメカニズムだそうです。

先日、コロナにも感染したときに感じましたが自分の免疫によって自分が大変しんどいことになるという感覚です。よかれと思って防御するのが行き過ぎると自分を攻撃するようになるということです。

アレルギーは、一般的にはデトックスの量が追いつかないことで大変になるといいます。本来は、防御が安定して入る分が出ていればいいのですが溜まってしまうとそれを出そうとして苦しくなります。

体外に排出する方が増していればいいのですが、入ってくる分があまりにも多いと対応することができません。この時機は、特に春先で冬からの毒素排出をしていますから身体の声を聴いて対応していくしかないように思います。

デトックスに力をいれる、浄化ともいいますが様々なことを清らかにして排出を高めていきたいと思います。

貝に導かれる人生

昨日から私が尊敬する友人が来庵しています。この方は、真言宗の僧侶で法螺貝を愛する人物ですが生き方が共感することが多く話をお聴きして学ぶことや気づきをたくさんいただけます。

もともと法螺貝の音色もとても情熱的でまっすぐで、その振動は全身から汗がでてくるように水を揺らします。夜中まで法螺貝談義で盛り上がりましたが、その中でも特に貝に導かれる人生についてのところは有難い気持ちになりました。

私の貝との最初の出会いは、宮崎の日南海岸です。出張で、車で海岸沿いを走っていたら海の中に光る不思議なものを発見し、スーツでしたがズボンをまくり上げて数十メートルの浅瀬を歩いていき手を伸ばした先に小さな巻貝がありました。

その体験の時の出会いが忘れられず、終生お守りとして大事に保管しています。その後の留学や海外での仕事、東京での一人暮らしのときもこの巻貝をいつも持って一緒に暮らしてきました。眠れないときは、耳に当て海を感じ、一期一会を思い出すときは手にとってお手入れをしていました。

そこからは千葉で貝磨きの方と出会い、貝を磨くことで光ることを学び、素晴らしい貝に出会うと磨き上げていました。そして、気が付けば法螺貝に出会い、法螺貝を磨き吹くことで多くの人たちとの出会いがはじまりました。

尊敬する友人も、法螺貝に導かれる人生を送られていました。幼いころにお父さんが吹いていた法螺貝に憧れ、そこから法螺貝に魅了され修行を積まれます。今では、貝がどのようにしてほしいかを直感し、貝の手入れをされ指導や修繕などを手掛けられます。

あくまで法螺貝を優先するので、法螺貝を売るのではなく法螺貝の声を届けるという生き方です。

私も古民家甦生をはじめ、あらゆるものの古いもの、懐かしいものの声を届けることを実践しています。それは同じ感覚で、古民家を売り買いしたいのではなく家がどうしたら喜ぶか、そしてこのいのちがどうやったら甦生するかということしか興味もなく、行動もしません。

たまにこれを仕事にすれば儲かるなどという人もいますが、そもそも動機や目的が子ども第一義からきているものですから、生き方が純粋でなければ、そして本志本業が一致していなければ生きている意味がありません。

生き方というものは、昔の人たちはとても大切にしていました。自分を守るために、切腹するほどに大切な生き方を優先していました。自分を守るということは、自分の純真や純粋性を守るということにほかなりません。

私の周囲には、そういう方がたくさんおられます。私自身も刺激され、生き方を磨く環境をたくさんいただけています。今回も、貝がつないでくれたご縁です。ありがたく、貝の声を聴き届けていきたいと思っています。

法螺貝に感謝して、法螺貝とともにこれからも歩んでいきたいと思います。