円空の生き方~修験僧の真心~

円空という人物がいます。この人物は、1632年7月15日に生まれ、1695年8月24日に亡くなられた江戸時代前期の修験僧(廻国僧)です。仏師・歌人でもあります。特に、各地に「円空仏」と呼ばれる独特の作風を持った木彫りの仏像を残したことで有名で一説には生涯に約12万体の仏像を彫ったと推定されています。現在までに約5,300体以上の像が発見されているといいます。

円空は、20代の頃に白山信仰にはいります。これは山そのものをご神体として信仰する山岳信仰のことで、白山を水源とする流域を中心に信仰されていました。奈良時代の修験道の僧侶、泰澄(たいちょう)が白山に登頂して開山し、白山信仰は修験道として体系化されたものです。円空も同様に修験道の修行をしたとされています。この修験道とは、「山へ入って厳しい修行を行い、悟りを得ること」を目的とした日本古来の山岳信仰が仏教と結びついたものです。そのほかにも伊吹山太平寺で修行を積んだといわれます。その後、遊行僧として北海道から畿内に渡る範囲を行脚し大峯山で修行したことをはじめ、北海道の有珠山、飛騨の御嶽山、乗鞍岳、穂高岳などにも登拝したとあります。

円空は「造仏聖」(ぞうぶつひじり)と呼ばれました。これは寺を持たず、放浪しながら仏の像を作る遊行僧のことをいい、幕府からは下賤とされていたといいます。しかし一部の貴族や上流階級しかお寺を拝み恩恵が得られなかった時代、庶民や田舎の農民たちには信仰は近づけません。だからこそ、そこに仏像を彫り与えて救いを共に求めたのかもしれません。

円空が出家したのは、母が洪水によって亡くなったことが切っ掛けだったといいます。最後は、その土地に還り64歳の時に断食を行い母が眠る地で即身仏となって入定したといいます。

どのような思いで仏像を彫りこんだのか、これはきっとお母さんの供養からはじまったことです。修行するうちに『法華経』に書かれた女人往生によって母の成仏を確信してこの法の素晴らしさを広めるために仏像を彫る決意をしたという説もあります。しかしこれは本人ではありませんから推察でしかありません、しかし一生涯に12万体以上彫り込むというのは、よほどの強い思いがあってのことです。

多くの人々を救いたい、その一心で彫り込んだからこそこの数になっているのを感じます。

この時代の世の中の人日が造物聖を差別したというのはとても信じられないことですが信念をもって歩き彫り込んで、自らのいのちを削り彫り込み信仰を全うしたことがわかります。そもそも修験道とは何なのか、そして本来のお山の信仰とは何か、この円空から学び直すことばかりです。

お山に入り、木のいのちや徳性を見極め、それを観立てて仏様の依り代にし祈りをもって造形していく。苦しみが救われ、慈悲を伝道していく中にいのちを全うするという生き方。今でも円空仏に心が惹かれるのは、その生き方が仏像に刻まれているからかもしれません。

悩み苦しみには観音菩薩を、病気には不動明王を、災害や雨ごいには龍王を、そして安らかな死には阿弥陀如来を彫っては依り代にしたのでしょう。

時代が変わっても人々の持つ業は失われることはありません。今はさらに効率化や自利欲や金銭が優先する世の中になり不安や不幸も増えている様相です。この時代の円空は誰か、そして円空仏は何処にあるのか。

私なりのその道を辿り継承してみたいと思います。