自然との共生

英彦山は先週からの大雨で道が土砂に埋まり、ところどころアスファルトも削られ陥没して通行止めが続いています。守静坊への道も、川のようになり滝ができて道がえぐり取られてしまっています。それを大きな石や砂をかぶせては修繕していますが、自然の威力の前ではまた壊されるだろうと思いながら手入れをしています。

水の流れが変わってしまうと、そこに新しく川ができます。その川の流れるところに道があればその道は川になっていきます。道を維持するには、流れを変えるしかありません。そこで堤防をつくるのですが、最近の雨量はその堤防を簡単に超えてきます。

こうなってくるといくら高い堤防を築いても難しく、かえって堤防をこえたときにどうなるのかを考えて治水していくしかありません。治水を学ぶというのは、先人たちの知恵を学ぶことに似ています。先人はどのように治水をしてきたか、そこには自然への畏敬や感謝を忘れないものがあったように思います。

英彦山にはたくさんの巨石を含めた石があります。その石を上手に使い、水の流れを調えてきました。経験や先見の明から、水の流れをよく観察し山の状態をよく見極め、家を建ててきました。

今でこそ流域ということを言われますが、むかしの人たちは自然と共生するなかで自然にその全容を理解していたようにも思います。極端に言えば、身近な草花や石ころの配置、水の変化から宇宙を悟っていたのかもしれません。ミクロもマクロも表裏一体で、反観合一していましたから常に全体を俯瞰して見通していたのでしょう。

だからこそ風の流れが悪くなるようなものは立てなかったし、水の流れが滞るようなものもしなかったのでしょう。よく考えてみると、崩れたところを見つめているとそこはかつては別のものだったのがわかります。本来なかったものを、新たに近代になってつくったところや障害になったところが崩れているのです。本来の姿に近づこうとして崩れたともいえます。

人間は自然に精通していないと、かえって自然から大きなしっぺ返しが来ます。何が自然で何が不自然かがわかるということの方が、人間社会だけで立ち回ることよりも子孫のためによくなるようにも思います。

そういうものを徳としてむかしから大切にして伝承されてきたようにも思います。自然との共生の意味をこれからも伝承していきたいと思います。