十三夜の仕合せ

昨日は、徳積堂で十三夜祭を行いました。この十三夜というのは、日本で生まれた風習です。通常の十五夜では月の神様に豊作を願いますが、十三夜は稲作の収穫を終える時期で感謝しつつ美しい月を愛でるのです。十五夜が芋名月(いもめいげつ)といわれ、芋をお供えしますがこの十三夜は栗や豆が収穫できる時期で豆名月(まめめいげつ)栗名月(くりめいげつ)と呼ばれています。

夜はみんなで秋刀魚を備長炭でじっくりを焼き、焼き栗、そして酵素玄米の小豆ご飯、たくさんのきのこを使ったきのこ汁を外で月に見守られながら感謝を味わいました。そして、みんなで場所を換えて、雨上がりで澄み切った秋の空の月光と、月の雫を浴び、雲のグラデーションに感嘆しながら語り合いました。そして息子たちと東京にいる姪っ子も参加してみんなでギターの音と歌を唄いあいました。

懐かしい暮らし、まさに暮らしフルネスです。

気が付くと、昭和のころまであった当たり前の団欒や穏やかに自然を愛で感謝するゆったりと流れる時間、そして旬のものの美味しさや素晴らしさを深く味わうような場、心も体も満ち足りた繋がりや思いやりを分け合う結びつき、人間らしいことが次第に失われているように思います。

都市化され経済のみを優先してお金にならないものは価値がないとまでされた環境の中で次第に、私たちは先人や伝統、そして伝承といった文化の源泉を忘れてしまってきているように思うのです。

そしてこれは頭でわかるものではなく、暮らしを実践するなかでこそ思い出すものであることはわかります。体験を通してしか実感できないものは、やはり体験を通して伝承するからです。これを徳ともいい、恩ともいえます。

しかし今の時代、恩徳をはじめ、他にも目に見えないものを語る言葉は次第に死語のようになっています。すべてなんでも目に見える言葉に換えないと怪しいと毛嫌いされたり不快感を持たれたりします。

もちろん目に見えないものを科学で探求して明らかにすることも大切かもしれません。そうやって自然の叡智や知恵を引き出して科学にすることで便利な世の中にしてきました。しかしそれは、あくまで全体のほんの一部を抽出しただけでそのバランスのツケは必ず後世にまわっていきます。後世とは何か、それは自分たちの子孫のことです。

子孫にツケを遺さない生き方とは何か、もっと真摯にみんなで考える必要があると私は感じています。今だけ自分だけお金だけというのはあまりにも本来の自分を見失った生き方になるように感じます。1000年先、どのような世の中になっていてほしいか。そして今、自分たちが何をすることが1000年先の未来を真に豊かにできるか。

先人たちも考えて考え抜いたその答えを、今の私たちも生きることが大切ではないかと私は思いこれらの活動をしているのです。気づかせるなどというとおこがましく思います、自分たちがまず実践してみることで気づく人が増えていくことが純粋な伝承になっていくように思います。

月夜に魂を磨かれて、透明になっていく喜びは格別です。

これからも徳が循環する経世済民にむけて、一歩ずつ歩んでいきたいと思います。