信仰の研鑽

何かのご縁を実感するということは、人の話をどの場所で聴くかというものです。ご縁とは素直のことだからです。

素直になっていくと相手の話が自分が本来聞こうとしているよりもずっと高いところで聴けるものです。そういう自分の相手への信仰のようなものが、ご縁そのものを実感していくことなのかもしれません。

そもそも、ご縁を実感するというのはいつも何かを教えてくださっているのが出来事そのものであると実感したり、今日のあの言葉はきっと私も気づいていない大変なことを気づかせてくださっていると思うことからうまれるものであろうとも思うのです。

一つのことを流さないことも、一つのことを深めることも、それはご縁を大切に信仰しているかという自問自答そのものです。よりよく生きることは生きることへの真剣な道であり、その中で人と出会うご縁とは人間への信仰ともいえ、その人間への信仰は自分自身の中にある人間そのものとの一期一会を続け丸ごと自らの尊い命を遣り切るということであろうとも思うのです。

人の話を聞くのに、良いことを言っているなぁくらいの信仰なのか、それとも、またかけがえのない尊いことを教えていただきましたと感謝するのかはその人の信仰の度合いによるもののように思います。

どんなことからも学んでいこう、どんなことも気づいていこうとするのは積極的にご縁を活かそうとする姿勢のように思います。そうした姿勢そのものが自己研鑽であり、日々に身削ぎをして素直でいようとしていくことであろうとも思います。

最後に松下幸之助さんにこういう言葉があります。

「お客様の苦情から商品の欠陥が判る。お客様の要望が新商品のヒントになる。お客様とは本当に有難いものです。」

お客様は神様ですと言ったその意味は、何でもサービスを高めればいいということではなく、お客様の仰っている本当の意味を自分の耳で素直に聴いていく、つまりは崇高で純粋無垢な真心で受け止めていくことだろうとも思うのです。

商品を創らせていただけるのは、お客様の声を常に素直に私心なく聴ける実践からです。お客様の御蔭でいただいたご縁と御恩を感謝でカタチにしていくのが商品の本質だからです。

このように日々に自己研鑽を怠らないことは、人の言うことを素直に聴けるほどの信仰へ高めていくことであろうと思います。

まだまだ私は何かあるとすぐに分かった気になってしまう自分があります。
師の存在があることに大変有難く思います。

善いか悪いかなどにも囚われず、感謝と御恩返しを決して忘れず信仰の研鑽という実践をしていきたいと思います。

  1. コメント

    自分に都合のいいところだけを信じるのも、自分が神になって相手を裁いたり、その内容を評価するのも、信仰とは言えない態度です。「どんなことからも学ぼう」という姿勢は、「どこにも教えがあり、いろんな人を通して導いてもらえる」という信仰だと言えるでしょう。それを信じるなら、内容によって変わるのではなく、いかなる時もまず「素直に耳を傾ける」という態度が大事です。私は、いつも「尊敬の念をもって」という態度でいたいと思っています。

  2. コメント

    どんなことからも学んでいこうとする心意気はもっていても、振り返りが追い付いていないのは自己都合に学んでいるからなのかもしれません。在りたい像を目指すことだけに捉われず、楽しんでいる周りのクルーのようにもっと自由に柔軟な気持ちで実践を積んでいきたいと思います。

  3. コメント

    自分の都合で聞いている事に自分自身が気が付かない事が怖いです。だからこそ、自我でないところでまずは受け取れる素直さと、頂いた機会をやり切る直向きさを自分の心に問い続ける事を大切にしていますが、自我はいつも気が付くとそこにいる、、、という気がします。まだまだ、一歩ずつ歩んで修養して行きたいと思います。

奥山 卓矢 へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です