今と歩みを振り返る

昨日は、英彦山守静坊の煤払いや室礼をしてご祈祷したのち氏神様の宗像神社へご参拝してきました。朝から100年以上前の杵と木臼、また木製のせいろも大活躍でみんなで和気あいあいとお餅つきをしたものを鏡餅にしました。お米も自然農法でつくれたもので、安心、美味しくできたお米です。

心をととのえていくなかで、一年間の感謝や御礼をあらゆる人や物へと心を運びます。日々の出来事には、複雑な執着やご縁もありご迷惑をおかけしたものや人への思い出、あるいは助けて頂いた思い出、数々のことを教えていただいたことなども脳裏をよぎります。その一つ一つを、福に転じていこうとするところに素直に伸びていこうとする活力が芽生えます。

人はいろいろな人に出会うことで、数々の生き方を省みることができます。あの人はこう生きるのか、この人はこう生きるのかと、それぞれの生き方が参考になります。そして自分はどう生きるのかと向き合えるものです。

人間は誰しも平等に生き方というものを決めていくことができます。運命や宿命に対して、どのような使命を生きるかはそれぞれの自由です。どれだけ過酷な状況下であっても、普遍的な生き方をする人もいます。あるいは、恵まれ過ぎた環境に漬け込まれ流行に流されるような生き方もあります。それに人には生き方の癖というものがあり、その癖があるから体験方法もそれぞれに異なります。

そういう時、有難いと深く感じるのは先祖を実感するときです。御先祖様というものは、私たちが今に生きるまでずっと繋がっている存在です。この今も、心を見つめると一緒に先祖が語り掛けてくるものです。その声に従って生きているとき、私たちはあらゆるものが同時に重なりあって生きていることを実感します。おかしな話ですが、色々な人生を同時に生きている状態になっているのです。

私たちは網の目のようにあらゆる人生が場に重なりあって存在しているものです。それが見事に結び、絡み合い、時には絆になりながら時を進めていきます。眼に見えるものや、頭で理解できるもの以外にそこには一つの答えがあり答えを生きる自分があるのです。

年末に自らが静かに振り返り瞑想をするのは、そういう自分というものが今何処にいて何をしようとしているのかを味わう時間でもあります。この一年の節目に、出会いを整理して歩みを深めていきたいと思います。

ヨガの妙味

昨日、ご縁あってBAでヨガに参加する機会がありました。瞑想の中でなんどかヨガのような体験をしたことがありましたが現代、流行しているヨガには参加したことがなかったこともありとても豊かな時間を過ごすことができました。少しヨガのことを深めてみようと思います。

そもそもヨガのはじまりを調べると、紀元前2500年頃のインダス文明の頃にはヨガの起源があるといわれます。世界遺産のモヘンジョ・ダロには陶器でできたあらゆるポーズを取る像があり、坐禅を組み瞑想する神像なども見つかったことからそういわれます。

その後は、紀元前1000年頃にウパニシャッド聖典に「ヨーガ」という言葉が出てきて400年頃にはヨガの教典である「ヨーガ・スートラ」が現れます。ここでヨガの定義を「ヨーガとは心の作用を止滅すること」とされます。それを実践するために八支則というものを定めます。そして1300年頃になると「ハタ・ヨーガ」が大成され、この頃から現在のヨガのポーズなどを中心に展開されます。これが現代のヨガ教室などの原型になっているそうです。そして1600年頃までにはそれが体系化し世界へヨガが広がったといいます。

日本には806年に空海が唐より帰国した頃の「瑜伽」が最初に入ってきたものといいます。現代のヨガが日本に広がったのは1919年中村天風によるものだったといいます。そして沖正弘氏がヨガ協会などを設立して広め、日本でのヨガブームをつくりだしたそうです。現代の日本では、ホットヨガというものがブームになっています。これは体の柔軟性が高まる温度、湿度のなかで気持ちよく行うことができるヨガのこといい女性に特に人気があるそうです。ダイエットやデトックスが中心でこれはもともとはインド人のビクラム・チョードリー氏が約40年前に始めたものだといいます。一般的な日常生活ではあまり体験できないくらいの汗をかいて老廃物の排出を促進させるのが特徴だといわれます。

ヨガはこの100年くらいでインドの修行僧の一部の瞑想方法から世界中でマインドフルネスやウェルビーイング、あるいはトレーニングなどに取り入れられ新しいものになっていきました。

しかし本来の原点は、瞑想によって心を調え、身体を調えることから心身を穏やかにするための知恵であることがわかります。今の時代は、特に自然から離れ時間を忙しくすることで心を止揚し続けていることが難しくなっています。

あらゆる方法でもその道に入り、取り組む機会が増えていくのは素晴らしいことと思います。商用のヨガではなく、本来のヨガの原型の初心を忘れないようにしながら取り組んでいきたいと思います。

 

循環の妙

英彦山と関わりだしてから山への感覚が深くなってきました。もともと山とは何だったのか、それを深めていると海とは何かということに辿り着きます。この山と海の存在はもともと一体であり分けることができません。川はその山と海をつなぐ存在であり、この川も元々は山と海が一体であることを証明するものです。

私たちは便利な言葉を用いることで、あらゆるものを分別していきました。本来は全体が一体であることが前提になった分別ならまだいいのですが、分別したものを集めて全体にしようとなったときにそのものの本質が分からなくなっていったのでしょう。

その弊害が、あらゆる自然環境の破壊につながり、人類の知恵を消失させている理由になっています。教え方が問題というか、人工的なものだけですべてを理解できると思い違いしたことに一つの理由があるように思います。野生的なもの、本能的なもの、自然的なものとのバランスが崩れると人間は歪んだ方向へと進んでいきます。

神代や古代は、そうならないように指導者やカミという人類を守る存在があってバランスを調えていきました。どうしても目先の欲望や、近視眼的になってしまう宿命がありますからそれをそうならないようにする仕組みを保っていたのでしょう。

山に住む山伏たちやその暮らしもまた、本来は指導者や守る人としての役割を果たしたのでしょうが現代はそういう人たちは特殊な生き方をしている人たちとしてあまり身近に存在も感じません。人間社会でのバランスも職業や商品、商売なっていますから山もその商品の一つになっていくのでしょう。

今の時代は、人工的な世界の方が常識ですからその人工的な知識を優先にした山の理解や海の理解が歪な環境改善をさらに促進しより深い断絶を増やしているように思います。

本来、山は山の養分が川に流れ、その川が海にいくことで生命は潤います。水というものは触媒であり、無色透明であらゆるいのちを通過していきます。つまり循環のいのちの根源はこの水ということになります。この水が何を運ぶのか、それはいのちの元を運びます。それぞれの生命が、それぞれのいのちを充実させ結実したものを運ぶのです。それは目には見えませんが、見える分を養分とも呼びます。人間でいえば、糞尿なども養分といいます。

こういうものが自然に流されますが、それは単に栄養素だけが流れるのではなく充実したという証が流れます。それが海に到達するころには山から地上のあらゆる生命の養分が渾然一体となって海に到達します。

その海に到達したものがさらなる新たないのちを掻き混ぜていきます。以前、貝磨きをする方と一緒に貝を深めたことがありますが貝はこの養分を得ていのちを守る存在として顕現してきます。

私たちは、美しい貝を観てはいのちの辿る道やいのちの本体を直観してきました。私は法螺貝を吹いていますが、法螺貝はそのいのちの結晶の一つです。山で法螺貝を吹くとその音色が山に響きます。

山の養分が海にいき、そして貝になる。

その貝が山に還り、山で音を立てると山が喜んでいく。こうやっていのちは、真に豊かに廻ることで徳は永遠に磨かれるのです。

自然環境の改善は、いのちのリサイクルの仕組みが必要です。私の天命も近づいてkました。世界に人類の新たな道筋を示し、子どもたちに普遍的な循環の妙を伝承していきたいと思います。

知恵の甦生

歴史というものを語る時、そこには知識と知恵があることが分かります。例えば、何かの事実を突き止めて歴史の事実を科学的に調査し証明するとします。そうすることで知識は増えて整理され、歴史を学ぶということの知識の豊かさがあります。もう一つは、歴史の中で伝承されている生きた人たちの間で用いられている知恵というものです。古代から今までその知恵を伝承することで人々は仕合せを得ることができました。今の私たちに繋がっているものは知識の歴史ではなく、知恵の歴史であることは間違いないことです。

現代は、歴史は知識としての認識がほとんどで知恵とはなっていません。なぜなら教科書で教える歴史の中では伝承されにくいからです。ほとんどの人が、頭で分かるものだと認識して実際に自分で伝承していこうとはしないからです。本来の歴史を学ぶというのは、自分で伝承してみてはじめてその価値を感じるものです。その結果として、どうやって人類は今までその仕合せを文化にまで昇華させてきたのかがわかります。

世界には様々な文化があります。その文化は歴史が築いてきたものです。この文化を机上で学べば年号や地理、出来事などは暗記できますが文化を習得したわけではありません。実際の文化の習得は、知恵の伝承ですから真摯に歴史を実践していく必要があります。

歴史の実践というものは、知恵を学び先人と同じように知恵を用い幸福になることです。つまり私たちの先祖たちはどのように幸福な暮らしを実現してきたか。それを学ぶのが歴史の実践です。

例えば、伝統的な暮らしの中には知恵が溢れています。私は室礼や年中行事を実践していますが、ここにはまさに知恵の宝庫です。どのように日本人が代々、家庭教育をしてきたか。また連綿と続くいのちのバトンをつないできたか。あるいは、その土地を豊かにして永続できる環境や場をととのえてきたか。それが日々の暮らしの実践の中に溢れています。

特に私は炭を使いますが、この炭の暮らしを実践するだけでもあらゆる知恵が入ってきます。こうやって知恵を生活の中で活かしている人は、仕合せであり真の豊かさを知ります。つまり徳を積むのです。

徳を積むというのは、人類が幸福になる唯一の道です。

だからこそ、本来の歴史を学び直す必要を私は感じています。世の中が終末期、人類は過酷な時代に入っていけばいくほどに歴史の必要性を感じます。全人類が平和でなければ、平和はない。身の回りの小さな知恵の実践でみんなで力を合わせなければ、不幸や不満は増大する一方だからです。

子どもたちのためにも、知恵を甦生し未来へバトンをつないでいきたいと思います。

日本人の徳~やまと心の甦生~

日本人の心の風景を譲り伝わるものに「歌枕」というものがあります。これは辞書によれば「歌枕とは、古くは和歌において使われた言葉や詠まれた題材、またはそれらを集めて記した書籍のことを意味したが、現在はもっぱらそれらの中の、和歌の題材とされた日本の名所旧跡のことをさしていう。」とあります。

またサントリー美術館の「歌枕~あなたの知らない心の風景」の序文にとても分かりやすく解説されていました。それには「古来、日本人にとって形のない感動や感情を、形のあるものとして表わす手段が和歌でありました。自らの思いを移り変わる自然やさまざまな物事に託し、その心を歌に表わしていたのです。ゆえに日本人は美しい風景を詠わずにはいられませんでした。そうして繰り返し和歌に詠まれた土地には次第に特定のイメージが定着し、歌人の間で広く共有されていきました。そして、ついには実際の風景を知らなくとも、その土地のイメージを通して、自らの思いを表わすことができるまでになるのです。このように和歌によって特定のイメージが結びつけられた土地、それが今日に言う「歌枕」です。」

そして日本古来の書物の一つであるホツマツタヱによる歌枕の起源には、「土中の闇に眠る種子のようなものでそこからやがて芽が生じるように歌が出てくる」と記されています。

日本人とは何か、その情緒を理解するのに歌枕はとても重宝されるものです。「古来・古代」には、万葉人が万葉集で詠んだ歌があります。その時代の人たちがどのような心を持っていたのか、その時代の先祖たちはどのような人々だったのか。私たちの中にある大和民族の「やまと心」とはどのようなものだったのか、それはこの歌枕と共に直観していくことができます。

しかし現代のような風景も人も価値観も文化も混ざり合った時代において、その時代にタイムスリップしてもその風景がどうしても純粋に思い出すことができません。ビルや人工物、そして山も川もすべて変わってしまった現代において歌枕が詠まれた場所のイメージがどうしても甦ってこないのです。

私は古民家甦生のなかで、歌枕と風景が描かれた屏風や陶器、他にも掛け軸や扇子などを多くを観てきました。先人たちは、そこにうつる心の原風景を味わい、先人たちの心の故郷を訪ねまた同化し豊かな暮らしを永遠と共に味わってきました。現代は、身近な物のなかにはその風景はほとんど写りこみません。ほぼ物質文明のなかで物が優先された世の中では、心の風景や大和心の情緒などはあまり必要としなくなったのでしょう。

しかし、私たちは、どのようなルーツをもってどのように辿って今があるのかを見つめ直すことが時代と共に必要です。つまりこの現在地、この今がどうなっているのかを感じ、改善したり内省ができるのです。つまりその軸になっているもの、それが初心なのです。

初心を思い出すのに、初心を伝承するのにはこの初心がどこにあるのか、その初心を磨くような体験が必要だと私は感じるのです。それが日本人の心の故郷を甦生することになり、日本人の心の風景を忘れずに伝えていくことになります。そのことで真に誇りを育て、先祖から子々孫々まで真の幸福を約束されるからです。

私の取り組みは、やまと心の甦生ですがこれは決して歴史を改ざんしようとか新説を立てようとかいうものではありません。御先祖様が繋いでくださった絆への感謝と配慮であり、子孫へその思いやりや真心を譲り遺して渡していきたいという愛からの取り組みです。

真摯に歌枕のお手入れをして、現場で真の歴史に触れて日本人の徳を積んでいきたいと思います。

 

 

流域を見つめ直す

昨日、友人が流域を改善する必要性について話をする機会がありました。この流域とは何か、世界大百科事典大2典によれば「地上に降った雨や雪は,一部は蒸発や蒸散により大気中に戻されるが,残りは地表面や土壌中を流下し,場合によっては地下水を涵養した後に,河川水となって海に排水される。ある河川の河口に着目したときに,その河口から排水される河川水のもとになっている降水のもたらされる範囲を流域という。流域は河口についてだけ定義されるものではなく,河川のある1地点(たとえば,合流点,ダムの建設地点,架橋地点)をとった場合には,その地点に流下してくる降水のもたらされる範囲が,その地点からみた流域となる。」と記されます。

つまり河口から河川で海まで流れ辿り着くまでの範囲のことを指しています。この流域を再思考し観察することで自然災害と自然との共生を考えようとするということの話でした。

そもそも人類というか、すべてのいのちは水よりはじまり水に終わります。私たちは水を循環していのちを分け合い、いのちは水と共に移動してすべての生命を潤し身体も支えます。小さな微生物から昆虫、動物、植物、すべての生きとし生けるもの、無生物と人間が思っているものに至るまで水がなければ活動することはできません。水がすべての活動の根源です。人間であれば、すべての細胞は水を必要とします。その細胞一つ一つは生命があり、その生命を支えるものも水です。そう考えてみると、この流域で考えるというのは真に理に叶ったものであることはわかります。

そこから考えてみると、今の人間社会はどうなっているのか。

水などすべて無視して経済活動だけを優先しています。古代から大切にしていた水は、当たり前に水道を開けばどの家にも流れこみますしその水がどのように海に流れているかなどは考えることはありません。

以前、高島市にある里山の針江生水の郷を見学したことがあります。水路を中心にあらゆる生き物たちがその生活を循環できるように配慮されていて人間の食べ物のカスなどは魚が食べ、その魚もまた食べと小さな循環で生活を営んでいました。私も家で烏骨鶏を飼っており、野菜くずや虫たち、玄米を食べて一緒に暮らしをすると卵をいただきそれがまたお互いの共生を助けます。卵を産まなくても、一緒に暮らしていますから朝の鳴き声で眼を覚まし、日々の緩やかに安心して過ごしている姿に心も満たされます。

この小さな循環というのは、私たちが日々に実践できるものです。それを私は暮らしフルネスの中でも提案しています。人類は人口が増えて、今、宇宙にいこうとか、削減しようとか、バーチャルで乗り切ろうなどといっていますが古代の人はこれを聴いてどう思うでしょうか?知恵は使っていない知識の欲望に呑まれた人類を悲しく思うかもしれません。

本来は、人類の知恵は今でも私たちは先祖たちの御蔭で使うことができます。その知恵を使うことで、私たちは永続する未来を約束されていました。今、水の問題が地球から人類の進む方向へ警告がはじまっています。地球の声をどう聴くかは、知恵のある人たち次第です。

子どもたちの未来のためにも、今、できることから取り組んでいきたいと思います。

 

いのちの充実

食べ物には「いのち」というものがあります。いのちは充実することで溌溂とするものです。いのちが元氣な人は、いつもこのいのちが充実するような暮らしを行っています。いのちは、あらゆるものを体験し、さらに輝きを増していきます。そのためには、そのいのちの元氣を支えるための食は必要です。

例えば、いのちが元氣なものというのは自然に育成されたものです。その生のすべてを全うして存在しているものです。生を全うしたいのちであれば、そのいのちは充実し溌溂としますから元氣です。

この元氣溌溂としたものをいただくことで自分自身も元氣が甦生していきます。

今はこのいのちが充実する時間を食べ物に与えません。早く、効率よく、さらには便利に表面上の味わいだけを味付けしたものを食べさせています。元氣のないものを食べるから、さらに元氣はなくなっていきます。

植物でいえば、土が元氣なものはいのちが充実します。植物は土が化けたものであり、私たちは土を食べて元氣をいただているともいえます。海であれば、海が元氣なもの、山であれば山が元氣なものがいのちが充実するのです。

いのちの充実というものは、人間であれば何か。

人間であれば、自分の初心や目的に真摯にいのちを輝かせて生き切っている人たちが充実して元氣溌溂としています。その逆に、日々に流され初心や目的を見失ってしまうといのちは輝きません。人間は主人公として、独立自尊し自立するときに元氣が甦生します。

子どもも同様に、発達を見守りその自由に生きる喜びに生きるときにいのちは充実します。

生き方というのは、その人のあらゆるものに出てきます。どのような生き方を志すかはその人人の自由ですが、その生き方を通していのちを分け合い、尊重し合い、いのちを繋いでいくのです。

子どもたちのためにもいのちの充実する暮らしを紡いでいきたいと思います。

煤払いの暮らし

昨日は、聴福庵と和楽のすす払いを行いました。この煤払いは一般的には12月13日に行います。もともと旧暦12月13日は、婚礼以外は万事に大吉とされる鬼宿日(きしゅくにち)とのことで江戸時代に江戸城で煤払いが広がったからといいます。

もともと神聖な歳神さまをお迎えする神事として厄払いを兼ねて丁寧に準備をして待つという意味でも行われてきました。この後は、正月に向けて門松やお餅つきなども行い新年にむけて清浄な場をととのえていきます。

有難いことに今年は、ご縁のあった曹洞宗の和尚さんに来ていただき家祈祷を行いました。この一年の道具たちや暮らしのあらゆる場に対して御供養していただきました。思い返せば、今年も竈や囲炉裏をはじめ火の神様と共に歩んだ一年でした。当たり前ではなく、この火があることの有難さ、尊さ、そしていつも豊かな人生を助けてくれる暮らしのあらゆるものへと感謝する機会になります。

和尚さんと共に数日間を暮らしていると、朝は日が昇る前に起き座禅をしお参りをします。そして元氣よくご挨拶をしてお掃除をします。一緒に朝食を食べ、一日を合掌と共に過ごします。心豊かに保ち、どんなこともご縁であり学びであるとよく聴きよく観て手を合わせます。夜になれば湯あみをして穢れを払い、またお経を唱えてはお参りをしてお休みします。

丁寧な生き方が暮らしを支えています。

もともと私たちは宇宙の運行や自然の循環とともに丁寧に和合する暮らしを営んできました。その時々の季節のめぐりと身体と心を一致させ感情をととのえて豊かに生きてきました。健康であることの有難さ、静かに過ごすことの仕合せ、太古の昔から足るを知り、幸福を味わって一生を終えていきました。

現代は、人間の都合で経済活動を中心とした時間とお金に管理されて暮らしが消失していきました。季節感もあまりなく、毎日は人間同士の活動で忙しくしています。太古からの暮らしは今では遠いむかしの過去の出来事です。

私は煤払いをはじめてから、懐かしいふるさとを感じる機会が増えたように思います。年末まで色々とあったことを振り返り、一年が豊かで恵まれていたことに感謝するのです。その感謝は、煤を払ったときに美しくその場にととのうものです。

大掃除という言い方ではなく、煤払いという言葉の中にその意味を感じます。積もった雪のような灰も煤も、暮らしの余韻であり仕合せの宝。それを綺麗にふき取って磨いていきまた元の状態を確認していくこと。私たちの日々は、払い、拭いて磨いてお手入れをしていくなかで味わい深いものになり心は安心するものです。

安心できる日々は、生きている深い味わいと実感を得られる日々です。

子どもたちに安心できる豊かな日々を共に創造していきたいと思います。

時代を歩む

人はみんなそれぞれに道を求めて旅をします。旅のなかで自分の出会いたいもの、自分と同じように実践する人を求めては訪ねていきます。それが短い間でも長い間でも、求めているものを探してはご縁を辿ります。

そうやって心を交わし、魂を混ぜ、共鳴して自分自身の人生の道の一つに組み込んでいくものです。出会いによって人生は変わり、道を歩き旅をすることによってその味わいは深まっていきます。

よく考えてみると、仲間というものや同志というものは同じ道を求めているから旅を伴にします。旅をしながら道を辿り、その時々の出会いや発見によって自分の道を深めていきます。時に助け合い、或いは時には支え合い、切磋琢磨、激励し合いながら目指している目的地に向かってそれぞれの場所で挑戦していきます。

気が付けば、旅のあちこちに仲間がいることに気づいて感動もし元氣も養えます。

むかしから同じように旅をしてきた人たちによって今の私たちの時代があります。いつまでも今も人は旅をしながら道を歩み、みんなで一緒に時代を歩んでいるのです。

大きな意味で、人間は意識の旅をしています。

その意識の旅は、時代の旅です。

この時代に生まれてきたこと、出会ったことに深く感謝して私も旅をより美しく味わい深く歩いていきたいと思います。

 

1000年の暮らし

私たちが自立という言葉を使う時は、社会の中でということが前提になっています。自然界ではそもそも自立していないものはなく、すべてにいのちを精いっぱい輝かせて活かしあい生きています。これは循環のことを指しています。私たちが自立するには、循環の中にいる必要があるからです。

しかし実際の人間の社会では分断の連続で循環しなくなってきています。そうなると自立ではなく、依存や孤立、特に今の個人主義という思想による利己や自利によって本来の自立とは程遠くなってきています。

自分を大切にの意味も本来の意味とは異なってきています。他にも自己管理の意味も自分を閉鎖し、無理をし我慢することのようにもなっています。

自由の意味も拘束の中の自由となり、鎖に繋がれた範囲での自由を目指して結局は本来の自由を知りません。

自然界の持っている開放感は、何をやっても許されるという安心感です。そこには、自立というルールがあり協力し合うことで喜びを感じ合えるという仕合せに満ちています。

本来の循環は水のようなものです。すべての生き物、いのちを通って海に流れそして雲になりまた雨となって山に降り注ぎます。その途中も経過もすべて水はそのいのちを透過していきます。それを遮断するとどうなるか、ダムなどを見ても明らかです。水が澱めばいのちの循環途切れます。途切れれば、不自然なことが様々に発生します。例えば、その分何かの生物だけが無理を強いられたり元氣をいただくことができず弱っていきます。

つまり真の循環というのは遍くすべてと分け合うときに実現するものなのです。空気も同じく、海も同じく、遍くものに循環をしてはじめて真の豊かな自然は実現するのです。

人間の言う循環は、本来の循環ではありません。特に資本主義の循環などは循環とはもっとも程遠いものです。しかしだとしても人間が長い年月で暮らしてきた歴史は、真の循環の時もあります。これは人間の心の循環も同じです。何度も途切れたり繋いだりしながら3歩進んで2歩下がるような一進一退ですがそれでも人格が磨かれ徳が積まれていけばいつの日か、真の循環に近づいていくと信じてもいます。時代の流行もまた真実ですから、どちらかを否定するのではなく今あるものを使いどう徳を磨くかということが大切だと私も感じています。

子どもたちのお手本になるような生き方、人生の味わい方をバトンとしてさらに善いものにして渡していけるように1000年先を祈り実践していきたいと思います。