波動の徳

私たちは音というものを感じます。その音は、あらゆるところに無限に満ちています。音はそのまま正直であり真実です。音を聴けば、その物の本体や本性もわかります。音は波動です。

この波動というのは、一部では目に見えないから怪しいとか胡散臭いとか言われますが現在は量子力学が波動を解明していることもありその存在を明らかにしはじめています。しかし実際には、科学で証明できないものも全部含め波動と呼んでいますから解明されたとしてもあくまで一端が見えるだけです。

眼に見えないものの方がこの世には多くあります。これは脳の構造も同じく、人類がいくら科学を進歩させてもほんの数パーセントもわかればいいほうです。宇宙のこと、いのちのこと、一端を知識で得てもそれを感得し気づくためには今のアプローチだけでは限界です。

その歪さからか、世の中や社会情勢も歪になっていきます。本来の原初、原始には何があったか。そういうものは哲学のように語られますが、本来これは当たり前のことではじまりを知ることで人は今につながります。

眼に見ないものの中にこそ、そのはじまりの答えがあります。答えを生きるためにも、私たちはもっとその自然的なもの宇宙的なものも否定せずに全身全霊で味わい語り合っていくことが必要だと感じます。

波動といえば、音の波動の話を先ほど書きました。そもそも音はとても不思議です。耳に聞こえるものだけではなく、全身全霊で感じる音もあります。その音は、イヤホンで聞こえる音ではなくまさに波動を感じる音です。

そもそも波動とは何か、辞書をひけば 「1 波のうねるような動き。 2 空間の一部に生じた状態の変化が、次々に周囲に伝わっていく現象。 水の波・音波などの弾性波や、光・X線などの電磁波などにみられる。」とあります。よくエネルギーなどもいわれます。

私たちの意識も、心臓などの肉体もすべては海の波のように呼吸をしています。自然界の天候や気候、宇宙の星々にいたるまでその波が重なり合ってお互いに影響を与えているということです。

どのような調和をするのかで波動も変わります。例えば、人間にも波動の善い人という人物がいます。周囲がその人といると和み、居心地が善く仕合せになるのです。その人が日ごろ発している波動は生き方です。生き方を磨き徳を高めている人の周囲は落ち着くものです。

波動をどのようにととのえているのかは、物質だけではなく人の周囲にも顕現していきます。音は、それを響かせたり増幅させたり感受させたりする触媒の一つでもあります。

一つの人生のなかで私たちは様々な音や波動に触れて変化していきます。変化を味わうのは音を味わいことであり波動を味わうことです。

様々な体験によって人間が気づき変わっていくのも波動の本質かもしれません。人の出会い、ご縁を楽しんでいきたいと思います。

古代の知恵

最近、古代のことに触れるたびに様々なつながりが増えてきています。世界には似たような神話や歴史があります。不思議なことですが、そのどれもが類似性がありその知恵も同じです。

もちろん風土や環境によって少し変わっているところもありますが、どれも似ています。これは何が考えられるのかと少し掘り下げてみるとはじまりは一つであったということの証であろうと思うのです。

そもそも始まりがあるから今があります。今は始まりの連続の中にあり、この今に思いを馳せれば太古の時代から連綿と生き続けてきた歴史があります。この歴史は、目に見えるものと見えないものがあります。最近はDNAを調べられるようになり、起源がどうだったかが辿れるようになってきましたが遡れば同じ遺伝子を持つことがわかります。

いのちが多様化していくのは、その風土と一体になっていくからです。私たちの意識も体もあらゆるものは、形を変え続けて何度も甦っていきます。同じようにみえて少しだけ変化していく。それは意識が交わり、遺伝子も、生命もすべては渾然一体に重なっていくからです。

まるで網で編まれたような羅網の世界です。

そこは誰が統治するのではなく、統合させようとしなくても自然に渾然一体に調和していきます。この調和というものこそ、知恵の結晶です。

今に生き切るという言葉があります。

この今というものの今は、一体なんのことをいうのか。今とは、縦軸と横軸、すべてがととのっている状態のことをいうように思います。それはすべてに主体性が発揮され、自立していて協力し合っているいのちのハタラキの姿です。

古代というものは、そのいのちのハタラキを存分に発揮していたことは直観的に感じ取れます。多様化してきて、原点が観えなくなってきたからこそ今こそルーツを辿る必要があります。

明日は英彦山で仙人苦楽部がありますが、これは子どもたちのために知恵を遺し、共に学び気づき合い、それを暮らしのなかで活かしていこうとする取り組みの一つです。

今回は音を使った波動の体験になりますが、かつての古代の人々が音をどのように感じ取っていたのか、実体験を通して今につながる知恵を甦生させていきたいと思います。

宇宙創始の妙味

私たちの今のいのちは、ずっと以前からつながっています。このずっと以前からはいつからなのか、それは宇宙創始からということになります。こうなると、人間は考えれないからと思考を停止してしまいます。しかし、そもそもが繋がっているという感覚を辿れば誰でも宇宙創始までに気づきます。繋がっているのではなく、分けているから気づかないのがこの繋がっているという感覚なのです。

私たちの身体は粒子でできています、意識は波動だといわれます。波動は物の影響はなく、広く心を通じてまるでラジオのチューニングを合わせるかのように波長を合わせればつながっています。そして粒子は、形を変えていますが宇宙の一部として繋がっています。

この世はすべて繋がっていないものなどは一切なく、時空ですらも分かれていません。例えば、過去と思っているものは過去ではなく繋がっている今になります。そして他人と自分とも思っているものも実はご縁によってずっと結ばれています。出会いはすべて必然であり、偶然のように思えるのはつながっていないと思っているからです。

循環というものも同じです。水がすべてを通して廻っていくように、私たちは水と繋がり続けて容を変化していきます。水という性質は変化しても中心は変化していません。これは粒子というものの存在を明確にさせるものです。

そして繋がっているからこそ、みんなで分け合いながら助け合います。この助け合いや分け合うというのは、繋がり続けることの証明でありつながりそのものの中で存在している仕合せを味わうものです。

繋がりを切る仕組みというのは、人間が自分が宇宙創始と切り離す仕組みです。切り離すことで別の存在のように人間を意識するようになりました。実際は何も変わらない宇宙の一部であるのにも関わらず、人間だけが別の物になるのです。

つながりというものは切れませんが、切ったことにするという仕組みを用いたのです。これが人間が宇宙を創始したと勘違いすることを産み出し、知識や科学を生産しました。

今の時代、霊性への目覚めなどいろいろと語られますが本来の原点、仕合せとは何かということをみんなで分かち合い分け合う時代になっているということでしょう。これは今までの反省であり、新たな改善でもあります。

今までこうなったのだからこれもつながりの中の一つです。このつながりから何を学んでいるのか、そこにまた宇宙創始の妙味もあります。つながりの中の自分を大切にしながら、さらにもう一歩、実践を深めてみたいとおもいます。

本来の子孫

私の志は子どものためです。この子どもは、子孫とも言いかえれます。自分がここまで生きてこれたご恩に対して報いたい、そういう感謝の気持ちがあります。同時にこうしてくださった親祖から先人たちへの尊敬と感謝もあります。続いていくもの、繋がっているもの、結ばれているものに永遠の徳を感じるからです。そういうことから、私は初志や理念を子ども第一義と掲げてきました。

しかし周囲は何のために今、これをやっているのかというのはそんなに見えません。やっている行為や具体的な事象のことから、きっとこうだろうやああだろうと決めつけられそういう人になっています。そのうち、勝手に期待されたり噂されたりするものです。そのほとんどは当たっていないのだから気にはしないのですが、人間は周囲や身近な人が影響を受けると悲しくもなるものです。

江戸時代の儒学者に佐藤一斎がいます。この方の言志四録は、西郷隆盛、吉田松陰なども座右のように学んだとあります。その言葉には、志を貫くために必要な知恵がちりばめられています。私も海外に留学するとき、または仕事をはじめてすぐのころは何度も読み返していました。しかし、壮年になった今でもその知恵は燦然としています。

志は、自分自身が見失いそうになるものです。それだけ目の前のものや周囲の言葉、心の安逸に流されていくからです。志を立てているからこそ悩み悶えます。しかしその時こそ志は成長し、磨かれ、研ぎ澄まされていきます。まるで人生の砥石のように志が自分を研いでくれます。

子孫のためにと取り組むとき、大切な知恵が言志四録の89条にあります。

「当今の毀誉は懼るるに足らず。後世の毀誉は懼る可し。一身の得喪は慮るに足らず。子孫の得喪は慮る可し。」

これは自分自身に対する世の中の評価などは恐るに足りないが、後世までもその世の中の評価が遺ることは恐ろしいことだと考えなければなりません。自分自身における利害得失などは心配しなくてもいい、しかし子孫の代までの利害得失はよく考えなければなりませんと。

子孫のためにと決めているのなら、今の時代の自分のことなどはたいしたことではありません。だからこそ今の世の中の評価や嘲笑など気にはせず、至誠を貫きなさいということです。

私が尊敬する吉田松陰も、そして二宮尊徳も同じように先の時代を見据えて、その時代を生き切りました。私も心に同志がいますから、同じように生きたいと願っています。競争や比較、そして評価にさらされてきた子ども心はそれだけ世の中を気にする人を増やしてきました。

そうではない世の中にしようと社業を立ち上げ、今では徳を立てようとしています。それは社会がよくならなければ、子孫を守ることができないからです。自分の子孫ではなく、世の中の子孫が本来の子孫です。

世界の子どもたちは今、どうなっているのでしょうか。

子どもの純粋無垢な心はどれだけ尊重される世の中になっているでしょうか。子孫たちの繁栄を願う時、私たちは両親の慈愛の真心に触れるものです。

古の同志の言葉に救われながら、この道をまた一歩踏み出していきたいと思います。

徳の本体~暮らしフルネスの妙味~

洪自誠という人物がいます。この方は中国明代の著作家で本名は洪応明といいます。有名な著書には儒仏道の三教を融合した随筆集『菜根譚』、仙界・仏界の古典のなかから逸事や名言を抜き出して編集した『仙仏奇蹤』四巻というものがあります。

この人物が生きた時代は、儒教道徳が形骸化し、国の道筋を示すべき政治家や官僚たちが腐敗していたといいます。誰もが派閥争いにあけくれ、優れた人材が追い落とされ、ずるがしこい人物だけがとりたてられていたそうです。政治のニュースや世の中の大衆流行の世相を眺めるとどこか今の時代に類似しているところを感じています。

この菜根譚の「菜根」という言葉は、「人はよく菜根を咬みえば、すなわち百事をなすべし」という故事からです。これは「堅い菜根をかみしめるように、苦しい境遇に耐えることができれば、人は多くのことを成し遂げることができる」という意味になります。普遍的な生き方を目指して実践した人物の言葉は暮らしフルネスを実践していくなかで、とても共通するところがあり心に沁みます。

そのいくつかをご紹介します。

「幸福は求めようとして、求められるものではない。常に喜びの気持ちをもって暮らすことこれが幸福を呼びこむ道である。」

「自分を反省する人にとっては、体験することのすべてが、自分を向上させる栄養剤となる。」

「静寂な環境のなかで、得られる心の静かさは、ほんものの静かさではない。活動のなかで、心の静かさを保ってこそ、最高のあり方を体得した者といえよう。」

「太陽が沈んでしまっても、それでもなお夕映えは美しく輝いている。だから、人生の晩年に当たって、君子たるものは、さらに精神を百倍にも奮い立たせて、りっぱに生きるようにすべきである。」

孔子は、世の中がもしも道徳的で素晴らしい状態のときに誰にもとりたてられないのであれば恥だと思えといったといいます。その逆に、世の中が不道徳なのに出世してとりたてられたら恥だと思えとも言いました。

君子は、常に静かさを保ちます。この静かさとは本当の仕合せを生きているともいえます。常に人の道を見失わず、人間として自分に与えられた真実の生を全うするのです。

幸福とは、単に誰かと比較して富をもっているとか、健康だとか、あるなしの基準で得るものではありません。自分のたった一度の与えられたその役割を味わい噛みしめ、その生に対して素直に謙虚に感謝と喜びで生き切るということです。

そしてこうも言います。

「せっかちで心が粗雑だと、一つの事さえ成し遂げられない。なごやかで平静だと、多くの幸いが自然に集まる」

「最も高遠な真理というものは、最も平凡なものの中に宿っており、至難な事柄は最も平易なものの中から出てくる」

「古人の書物を読んでいながら、聖賢の精神にふれなかったならば、それは単なる文字の奴隷であるにすぎない」

どの言葉も、魂に響きます。まさに普遍的な生き方から出てくる言葉は、理屈ではなく本質です。言葉の奴隷、文字の奴隷、周囲の奴隷、時代の奴隷、人は縛られているものばかりです。しかしそういうものを開放するとき、心は本来の真心に回帰します。

人生の中で、文字や言葉には何度も出会いますが聖賢の精神は日々の当たり前の暮らしの中で出会います。それが暮らしフルネスの本懐でもあり、徳の本体です。

子どもたちのためにも、徳を磨き、徳を積み、徳を高められるように当たり前の暮らしから反省と改善を継続していきたいと思います。

いのちのバトン

いのちのバトンというものがあります。私はよく誰かのバトンを受け取ることが多く、後を任せて託されることばかりです。そのバトンは生前ほとんど関わっていないのに託されいなくなったあとに深い関係になり親しくなるバトンもあれば、長い年月、ご指導していただきその教えを学びそれを実践するなかで託されるバトンもあります。他にも、一度もお会いしていないのになぜか同じことを同じ場所で託されているバトンもあります。

このバトンは、リレーで使う棒のことで他には指揮棒や杖などの意味もあります。これを渡され次の人に渡してはじめてバトンはつながれていきます。バトンは、次のことをするから渡すバトンもあれば身体がなくなるから心で一緒に歩んでいこうとするバトンもあります。どちらにしても、バトンにいのちが宿っています。そのいのちのバトンを託されたものと託したものはいのちを分かち合い共に歩み続ける関係であるのです。

バトンを渡したらあとは関係がないということではありません、またバトンを託されたら託した人はいなくなったのではありません。これは一蓮托生になったということです。この一蓮托生は、仏教の言葉で死後、極楽浄土で同じ 蓮華の上に生まれることを指します。この意味が転じて、ものごとの善悪や結果のよしあしに関係なく永遠に最期まで行動、運命を共にすることをいいます。これはいのちがつながりが永遠になっているということです。

よく考えてみると、人のご縁というものはそういうものです。

今の自分はいのちのバトンをつないでいただいた存在としてこの世に生を受けます。そして死後もまた自分のバトンを誰かに託して共にいのちを分け合い存在し続けていきます。いくら頭で忘れても、いのちのバトンを託された中で暮らし続けています。

私たちが使うこの言葉や文字、そして生活文化、あらゆるものはいのちのバトンを託されたものです。それを私たちは頂戴しながら道を歩み続けます。

もしも自分がいなくなってもよろしくお願いしますと、頂いた偉大な恩恵や光を多くの人たちに渡していきます。そうやって道を照らし道統を継いでいくのです。

それが道の偉大さであり、いのちのバトンの有難さです。

私も偉大なメンターを今年の7月に亡くしました。15年以上、有難いご指導をいただき見守ってくださいました。今でも目を閉じればすぐに心に存在が映り声も聴こえます。不思議なことですが、この世を去られた瞬間にご指導いただいた長年の言葉や意味が自分そのものの言葉や意味になりました。まるでいのちが一つになったかのような感覚です。今までその人の言葉と思っていたものが、自分の言葉と和するのです。これがバトンを託される感覚なのかと改めて直観しました。

このいのちのバトンというものの本質は、バトンこそいのちであるということかもしれません。

人間は無私無我の境地で悟り、存在そのものに意識を合わせればそこにあるのは「いのちのバトンのみ」です。これからの私の役割もまた、そのいのちのバトンと共にあります。

いただいたご縁に深く感謝し、私の役割を精いっぱい果たしてまたあの世とこの世に報徳と朗報を伝道していきたいと思います。

節目は終わりではなく、新たなはじまり、これからも共に精進せよということです。今までご指導に心から感謝しています、そしてこれからも新たによろしくお願いします。

一期一会

ハタラキ続ける存在

私には尊敬している人がいます。その人はすでにこの世にはおられませんが存在はいつまでも生きておられます。人は生死だけではない、存在というものを持っています。これはいのちという言い方もします。別の言い方ではハタラキと呼んでもいいかもしれません。

生前、死後の別なく、ハタラキ続けておられる存在。ハタラキが観えている人たちはそのハタラキそのものの存在に感謝をします。これは自然界も同じです。自然の生き物たちはいのちがあります。そのいのちのハタラキをしてくださっているから感謝しあうことができます。この世界、宇宙にはハタラキをしていないものなどは存在せず、常にハタラキ合うことで調和しています。

存在がハタラクからこそ、その感謝を忘れないというのは先祖が喜ぶ生き方です。なぜなら先祖もまた終わったものではなく、今でもハタラキ続けてくださっているからです。

私たちの物質的な見方では不思議に感じますが、無から突然有がでてきます。何もないところから出てくるからそんなはずはないと思うものです。それは意識が同様です。なぜこの意識が産まれてくるのか。そのはじまりは何か、誰がつくったのか、深めてみるとそこには偉大な存在があることに気づきます。

この時代、というよりも人類は目覚めというものを必要とします。常に気づいて目覚めることで今の場所をよりよい場所へ移動していくことができます。今居る場所はどのようなところか、この環境のなかで自分はどのようなことをしているのか。人間は環境の影響を受けて抗えないからこそ、様々な問題は環境に現れていきます。

私たちがもっとも平和で謙虚だった環境はどのようなものか。こういう時代だからこそ原点回帰する必要もあります。自分が産み出す環境がどのような環境であるのか。それぞれに環境を構成する一人として、みんながそれぞれに気づき目覚めていくしかありません。

自然に包まれているのを感じる感性、童心という好奇心、呼吸するたびに感じる感謝の心など、もともと在る存在に気づいてこそハタラキのなかで仕合せを味わうことができます。

尊敬している方がいつまでもハタラキを与えてくださっている感謝を忘れずに、私も子どもたち子孫のためにハタラキのままで今を磨いていきたいと思います。

自然とのかかわり方

自然とのかかわり方ということについて少し深めてみます。そもそも自然と人間というものを分けて考えるとき、人間は自然の一部ではなく別個の存在であるかのような認識をするものです。しかし、私たち人間の身体はすべて自然が形成したものでありこの身体こそまさに自然そのものの一つです。

別の言い方をすれば、自然との関わりとは自分自身の身体との関わりにも置き換えることができます。自分の身体の声を聴いて大切にしていけば自ずから自然の声もまた聴こえるというものです。

しかし現代社会をみると、身体にとってよくないことばかりが環境に発生しています。環境問題も突き詰めればこの身体との関わりと繋がっているのです。

例えば、合成甘味料や防腐剤を使った食材、簡単便利にレンジで食べられるレトルト食品、他にも栄養に偏ったサプリや薬、脳ばかりをつかって運動をしない生活習慣、自然のリズムを無視したスケジュール優先の心身の酷使、他にもあげればきりがないほどです。

若い時は、対応できても年齢を経ていけば身体はボロボロになってきます。これは現在の自然環境でも同じことが起きているのです。

もう早くから自然の声を聴こうという活動をしてきました。しかし、自然よりもお金儲けや権威権力権利の肥大化に力を注ぎ、比較競争、国家管理していくなかで自然の声よりも人間の周囲の声ばかりが入ってくるようになりました。

身体でも少し問題が起きると、周囲がああすればいいこうすればいいと処置や対応策ばかり出てきますが根源的な解決をするのではなくあくまで対処療法によってその場を乗り切るだけです。環境問題も似たようなもので、根源的なものはできないことになっていて新しいテクノジーや治療法に期待しては何も変えようとはしないものです。

人間は根源的であればあるほどに魅力を感じないようで他にすぐに目に見える解決法を躍起になって探してはそれをお金で買い上げていきます。結局は、人間の欲望が勝ってしまうということです。

健康というものも失ってみてはじめてその価値が分かったりします。健康のときは、欲望が勝りますが一度身体を壊すと健康の有難さが骨身に沁みて欲望が消失していきます。本来の仕合せや健康を取り戻す過程で、自然の有難さを痛感して反省するのです。

つまりは纏めると、環境問題の解決は一人一人の自分の問題を解決するということに尽きるということです。

自分一人がまず自分の身体とよく向き合って身体の声を聴いてととのえていくこと。身体はどのような暮らしを望んでいるのか、そして心身は何を求めているのか。その一つ一つと丁寧に毎日向き合って暮らしを改善していくことだと私は思うのです。

暮らしフルネスは、まず足るを知る暮らしからはじまります。欲に目を晦まされているものを少し離れ、落ち着いて今に集中します。土に触れ、風に揺れ、火に癒され、水に清められ、月に諭され、太陽に元氣を戴く。つまり「いのち」を喜ばせていきます。

地球というものは本来、いのちが喜び合う場所です。そして本来の人間は、いのちを輝かせる存在です。いのちが輝き合うような暮らしを実践することこそ、真に環境問題を解決する根本的な方法だと私は答が出ています。

議論をすることも大切かもしれませんが、議論よりも実践していく方が自他一体の仕合せに貢献できます。自他が喜び合うような暮らしをととのえていくこと。私は私の場所で、世界の環境問題を解決する答えを生きていきたいと思います。

風土徳の循環

昨日、ある方から「土徳」というお話をお聴きしました。具体的には、この大地、つまり土が私たちを無償の愛で育ててくれている。見返りも求めずにただ与え続けてくださって今の私が生きている。その存在そのもののこそ土徳であるといわれました。

確かに土こそ徳の顕現であり、徳は土そのものです。

この土徳という言葉を辞書で調べて出て来ず、深めていると民藝運動で有名な柳宗悦が富山県の城端を含む南砺地方一帯にある精神風土を表した造語と出てきます。具体的には厳しいけれど豊かな環境のなかで恵みに感謝しながら土地の人が自然と一緒につくりあげてきた品格のようなものだともいわれます。

そもそも私たちはその土地の風土と生活文化は一体になっていました。今でこそ、都会の生活が当たり前になり田舎でも都会とほとんど同じものを食べ、同じものを着て、同じものをつくります。私は故郷の伝統野菜を守って育てていますが、これはこの土地でしかできないものです。しかしスーパーやインターネットで購入できるものはどこでも同じものがつくられ購入されます。

その土地にしかないものではなく、どの土地でもできるものに変わっていったともいえます。本来、その土地でできるものというのはその土地の徳が顕現したものです。以前、桜島大根を育てたことがありますがやはり桜島でだからこそよく育ちますしそこに相応しい味になります。他にも現地できびなごや温泉にも入りましたがすべて鹿児島を感じられるものでした。

これは人間がつくったのかといえばそうではなく、その土地の風土がつくったものです。そういう土地の持つ本当の力を少しいただいてその土地に住む人たちがその土地と一体になって工夫して繋いできたものが文化であり、その無為の偶然にも奇跡のように巡り合わさった循環こそが徳を顕現させているのです。

私は徳の循環を目指して様々なことに取り組んでいますが、改めて風土徳の循環を思いました。

自分にしか与えられていない道があることを知りながら、どうしても何も行動をしていないと迷い自分がいます。本当は、もう風土徳の中で導かれていることも感じています。

まずは足元の大地から、風土の徳から磨き直していきたいと思います。

真心を磨く

現在、人間社会が自然を凌駕するような生活に一変しかつての自然との関係は崩れてしまっています。人工的な自然を自然とし、人間の法を自然の法と挿げ替えていることにすらも気づかなくなってきました。教育や環境によってさらに自然という本来の真の自然は遠ざけられ、私たちには人間が作り出している人工的なものを自然と呼ぶようになりました。

都市型の生活においては、自然はほぼ失われ人間の人工的な暮らしが当たり前の日々に代わります。水よりもお金が重要視され、これはいくらくらいかかるものかということが生活の中心になっていたりもします。

本来、人間は自然の中で活かされているそのほかの生き物と同じ立場にいるものです。虫たちも鳥たちも、またあらゆる小さな生命、そして植物のような存在にいたるまですべて自然が等しくいのちを活かしています。その一つとして人間もいるのだから、みんなが循環し助け合い支ええ合う中で私たちは生きることができいのちは輝きます。みんな謙虚に生きて、自然の恩恵をいただき暮らしを充実させていくのです。

それが人間の生活だけで好き勝手していくなかで自然を破壊し、自然を征服していきました。資本主義の本当の問題は人間の問題ですが、もっといえば人間と自然の関係の問題だともいえます。

人間が謙虚になっていかなければ資本主義がどうかとか環境問題がどうかとかの問題ではありません。本来、自然に活かされている人間はどのくらいの自然のおこぼれに肖り生きていくかを問題にしなければならないと私は思うのです。

そもそも暮らしフルネスの足るを知る暮らしというのは、自然との関係の話です。自然の恩恵は人間だけにあるものではありません。これはみんなのものです。ある時は、猪のものですしあるときは鹿のものにもなります。

うちの畑でも猪が入り、掘り起こされました。せっかく種を蒔いたのにとショックをうけておろおろとしますがお互いに生きていますから仕方がないと少しの対策をしたらまた種を蒔き直します。また別のところを掘り起こせるように配慮して、全部を奪わないようにしたりもします。生きているのが人間だけではないのだから、どうやったらみんなが喜ぶかを考えて農業を生産するのです。

つまり自然からいただく生産は、みんなで分け合う生産であるということです。

太古の時代から私たちは徳を循環させてここまで生き延びてきました。みんなで分け合い、助け合うことは徳の循環を促していきます。そしてその方が自然の恩恵や利子をたくさんいただくことができるのを知っていました。

自分が精いっぱい、自然と一緒に生きていけば自分も喜びみんなが喜ぶことに気づいていたからでもあります。人間の世界は、そうではないから傲慢になっていきます。奪い合い、戦争し、悲しいことがたくさんおきます。自然の災害は深い慈愛がありますが。人間の災害は辛い後悔があります。

自然と人間がどのように折り合いをつけていくか。そろそろ本気で向き合う時代に入ってきているともいえます。その中心を私は「徳」であると確信しているのです。引き続き、変わらぬ日々でも自分を変え続けていくためにも実践を真摯に積み重ねて真心を磨いていきたいと思います。