知恵を学び直す

むかしの格言には様々な知恵があるものです。それは生きていく中で先人たちが実体験して、得た法則のようなものが取り入れられているからです。それを長い年月をかけて何回も検証し、自然や時代の篩にかけられても残っているものだからです。

実体験を如何に観察していくか、それは反省と改善の繰り返しです。人生経験の豊富な人や長老たちは知恵の宝庫です。それは人生の中で何度も試行錯誤して学んできたからです。

そう考えてみると自然界も同じです。

すべての生き物は知恵を持っています。それが進化に現れていきます。時代が変わっても環境が変わっても適応していきます。そして知恵に生きている生き物はずっと生き延びています。長いもので数億年も同じように生き続けられています。それは自然の法則に沿っていることであり知恵そのものを生きているからでもあります。

知恵は自然の摂理です。自然の摂理というものは、私たちは自然の一部ですから自然が存在している以上、自然に寄り添って自然の知恵を持てば自然と共生していくことができます。

逆に自然から離れて、自然から反するとそれは知恵ではありません。私たち人類は、知恵を捨て知識ばかりを得てきました。知識を得たから自然の摂理を忘れていきました。すると、ある時、自然の摂理を思い出すようなことに遭遇します。そして謙虚にまた知恵を学び直すのです。

私たちは知らず知らずに自然の摂理の中に存在します。この身体も、そして心も精神も、これは空気があるように水があるように、朝晩があるようにあらゆるところに絶対的な影響を受けていきます。そんなものを疑ったり、分かれたりすることは意味もなく、自然であることに安心し、知恵を学ぶことで仕合せの意味を感じ直すこともできるのです。

最近、ウェルビーイングが世界的に流行っています。生き甲斐や働き甲斐、また暮らし甲斐など心身健康である生き方のことです。逆を言えば、心身不健康になっているから求めているということでもあります。

自然に寄り添うということの豊かさ、そして自分自身であることの仕合せ、真の喜びは自然体の中にあり、それは知恵を学び直すことで得られます。私の取り組む「場」にはそれがあります。

子どもたちに子どもらしく子どもが憧れる未来と共に今を歩んでいきたいと思います。

仮想と陰徳

現在、新しい通貨がどうとかこうとか色々と騒がれています。仮想通貨が新しい経済をつくるというのもわかります。もともと仮想というものの定義が何か、IT用語辞典で引くと「実際には無いが、仮にあるものと考えてみること。 仮に想定すること。 ITの分野では慣用的に “virtual” の訳語として「名目上は違うが、実質的には~であるとみなせる」という(本来とは少しずれた)意味で用いられる。」とあります。

仮想は英語では「virtual」と書きます。これははラテン語の「男らしさ」を意味する言葉で「目には見えないがあるもの=事実上の」という意味になったそうです。英単語としては、virile(男性的な)virility(男らしさ)virtually(事実上)virtue(美徳)とあります。

私にとっての仮想は、この「virtue・美徳」に近いものがあります。それで徳積帳を開発したのです。これは「物理的な効力 [virtue] によって本質的に存在することという意味です。つまり、実践することで顕現する効果ということでもあります。これは日本語の仮想の意味とは異なります。本質的な言葉の意味は、「陰徳」なのです。

変なことを言っていると思われるかもしれませんが、私にとっての仮想は陰徳という定義です。そもそも仮想通貨も、通貨の側面を意味しています。価値を道具で交換し合うところから生まれたものですが現代の世の中はお金でなんでも交換できるように仕上げてきました。その結果、ある意味でとても便利な世の中になりました。しかしまたある意味でとても冷めた物質的で機械的なものにもなってきました。

現代、真の豊かさという言葉が出てきているのもまた貧富の差が開く一方であまりにもお金に支配されたこの社会システムにつかれてきた人が増えてきているからかもしれません。

私がこれから取り組む仮想空間は、「場」です。この場には、いのちが宿りその顕現する姿として「道」が現れます。それを「場道」と呼び、現代の人たちが忘れてしまっている初心を思い出すため、暮らしフルネスという体験を通していのちを甦生させていくのです。

現代の社会では、なかなか意味が分からないことをやっていると思われますがそのうち時代が追いついてくるはずです。その時、この仮想が陰徳であったことの事実を人々は悟るように思います。これは宗教ではなく、自然科学の現象の一つを改めて気づき直すということでもあります。

研究者も増え、そして実践者が増えていくとき、私たちはその価値観を学び直し、先人たちの生き方を尊敬し、子孫たちへ徳を譲る世の中にしていけると思います。

私は粛々と深く静かに私の提案するブロックチェーンが実践して具現化したものを表現していこうと思います。ここで根をはり花を咲かせ、実をつけ、そして種になっていきたいと思います。

和紙とは何か

英彦山の宿坊、守静坊の甦生のクラウドファウンディングの返礼品を用意するために和紙の準備に入っています。和紙の定義は、現在では西洋から伝わった製法の木材原料を主とする洋紙に対して、むかしながらの製法でつくっているのが和紙と言われます。他にも手漉き和紙のみが本来の和紙という定義もあります。また最近では原料に三椏や楮が100%使われたり、機械でも手すきに近いものも和紙と定義されたりしています。

何が和紙というのかは、それは個々人の受け止め方ですから厳粛に何が和紙かということはわからなくなってきています。以前、伝統のイグサで畳をつくっている農家さんからイグサは加工品ではなく生産品であるという話を聞きました。つまりいのちあるものとして生きているものだということです。

私にとっての和の定義は、いのちがあるものということになります。そういう意味で和紙は、私にとってはいのちのあるものでつくっているものという意味です。それでは何がいのちがあるのかということになります。

もともと日本の和紙作りの三大原材料として使われているものは楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)です。この植物を収穫し、丁寧に扱って和紙の原料をつくっていきます。それを和紙職人が、一枚ずつ手で漉いていきます。私もその場面を何度も観ましたが、とても神秘的で神々しい様子です。

その和紙は機械ではでない風合いがあります。これは手漉きだけではなく、最初からずっと完成するまで日本の伝統的精神でつくられているからです。

和というのは何か。

この問いは私にとっては明確な定義があります。それは日本の心でであるということです。日本の心とは何か、それは思いやりのことです。思いやりを忘れない、すべての主体をいのちとして主人公としていのちをすべて全うできるように配慮や尊重があること。

そうやってつくられたものだからこそ、和であり和紙になるのです。

だから自然の篩にかけられても長持ちし、何百年、もしくは千年を超える時間を維持することができるのです。そういういのちを入れるものだからこそ、むかしはお札にも使われていて人々の暮らしを守ったのでしょう。

返礼品は、このいのちをそのままお届けしたいと思います。

英彦山の守静坊から思いやりを伝承していきたいと思います。

徳治の世

自分らしさというものがあります。これは個性でもあり、その人にしかない天命というものもあります。誰かと比較してではなく、その人がその人にしか与えられていないいのちを最大限発揮していくということです。それが自由でもあり自立でもあります。そしてそれが社会の役に立つようになれば人類の仕合せもあります。

社会で役に立つようにするには、みんなでお互いの自分らしさを尊重し合うような寛容な世の中である必要があります。それぞれがお互いに反省し合い、そして認め合う世の中にしていくことです。

誰かが正しい、誰かが間違っているとなっていがみ合えばいつまでも対立構造が変わらず争いが絶えません。しかしお互いに尊重し合うようになれば、自分も正しい、みんなも正しいという具合にそれぞれの違いを認め合えるようになります。

そのためにどうお互いに折り合いをつけるのかを対話するのが人類の叡智です。

人類は、太古のむかしから真の豊かさとは何か、そして真に平和な世界は何かということを何度も何度も反省しては築こうと努力してきました。そして徳による政治を行うことを孔子は説きました。つまり徳治の世にするということです。

自然界というものは、弱肉強食と教えられます。しかし果たしてそうでしょうか。サバンナやアマゾンをみていても、お互いに自制し合い、尊重し合いながら自然の摂理に従ってお互いのいのちを精いっぱい発揮しています。自然界はまさに自分らしくあります。弱肉強食は、何度も立場が入れ替わりますからお互い様ということです。

人間はその自然の尊重し合う仕組みを捨てて、一方的に権力や権威で集団をまとめようとしていきました。その方が、都合もよく実は時代が変わってもこの辺はあまり変化していません。しかし、この時代、情報化も進み、人類も世界と結ばれ、国境もなくなってきました。人類としてどう生きるのか、どう自分らしさによって真の豊かさに近づけていくのかをみんなで対話する時が近づいているように思うのです。

そのモデルをどの国の誰がやってみせるのか、そして深く静かに実践することで形どっていくのか。今、人類は試練の時です。だからこそ、子どもたちのために徳積財団を立ち上げ、徳治の世を実現しようと挑戦をはじめたともいえます。

いよいよ、宿坊の甦生もひと段落して本懐であった徳積堂の運営をはじめていきます。子どもたちに譲り遺していきたい懐かしい未来を今、この時代に甦生して実践していきたいと思います。

自然のリズム

先日、浮世絵師・廣重の東海道シリーズ「三嶋」の中の三嶋明神前でほら貝を吹く男の図というものを見ました。これは何の図だろうと深めていたら、むかしはお役人さんたちが宿場町で時を知らせるのに法螺貝を用いたとありました。山伏だけではなく、むかしは役場職員たちも法螺貝を吹いていたということになります。そういえば、先日、インドから来られた留学生もインドでは朝や夕方にみんな法螺貝で今でも時を知らせているといわれていました。それだけむかしは、法螺貝は暮らしの中で当たり前に存在した道具だったのでしょう。

話は変わりますが、もともと今のような24時間を分刻みで生きるようになっているのは現代の特徴で少し前までは不定時法といって自然のリズムに合わせた時間が用いられていました。

一日の長さを等分に分割する時刻制度を「定時法」で、これに対して一日を昼と夜に分けそれぞれを等分するやり方を「不定時法」といいます。江戸時代までは日本はこの不定時法が使われていました。つまり昼と夜をそれぞれ6等分し、一単位を「一刻」と呼びました。

これを使えば、一日のうちでも昼と夜の一刻は長さが違い、同時に昼夜の長さは季節によって変化しました。つまり時間が昼と夜と季節によって変わるということです。時間に合わせるのではなく、自然のリズムに合わせた時間を生きていたということです。

そしてその時の呼び方も数字ではなく真夜中の子の刻から始めて、昼夜12の刻に十二支を当てました。一方で子の刻と午の刻を九ツとして、一刻ごとに減算する呼び方も使いました。子の刻が九ツ、丑の刻が八ツで巳の刻の四ツまで行ってまた午の刻で九ツから数えます。これは数字だと、同じ数字が2回出てくるのでどちらの2つとか、どちらの3つとか聞き直すこともあったからでしょう。それで夜の九ツ、昼の九ツ、明け六ツ、暮れ六ツといった区別をつけたのです。泣く子も黙る丑三つ時というのもここから出てきます。

これはよく幽霊が出てくる時間帯といわれ怖がられました。これは中国の陰陽五行のもっとも陰の強い時間帯のことです。陰陽はたとえば「月は陰、太陽が陽」「裏は陰、表は陽」ともなります。そして「丑は陰」で「寅が陽」となり、その中間にある「丑寅(午前3時)」は「鬼門」です。つまり「鬼が出入りする」方角となるため、近い時刻の「丑三つ時」が「鬼門」と深い関係があると解釈されこの時に幽霊が出ると信じられたのでしょう。

むかしの人は昼と夜の時間を棲み分けしていたといいます。昼は人の時間で夜は神の時間だったのです。そうやって自然のリズムで自分たちの働き方を換えていきました。今では働き方改革には自然のリズムが無視されています。そのすべては人間中心です。

私たちの暮らしフルネスでは、自然のリズムを取り入れています。人間が本来持っている暮らしの時間は、今まで生きてきた時間軸を使うことで甦生していきます。子どもたちが真に豊かな時間を持てるように、この時代で逆行小舟と言われようとも子どもの憧れる生き方と働き方の実践を磨いていきたいと思います。

今度、法螺貝で時を知らせてみたいと思います。

身近な自然との調和

現在、「サル痘」という感染症が世界で流行り始めています。このサルという名前がついているのを調べたらあまりサルとは関係がないことがわかりました。このサル痘ウイルスによる感染症は、1958年、最初にこのウイルスが発見されたのが医薬品開発のために集められたサルだったことから、サル痘と呼ばれはじめたそうです。

実際にはいろいろな自然動物の血液を解析したところ、リスやネズミなどのげっ歯類がこのウイルスを持っていてこれらの動物にかまれたり、血液・体液・発疹などに触れたりするとヒトにも感染するということがわかっています。それがヒトからヒトへ感染になると大変です。飛まつ・体液・発疹などに触れることで感染していきます。

ヒトからヒトへの感染はあまりないといわれていますので感染拡大はないといわれてますがすでに20か国で感染拡大があったそうです。

また6月から海外からの入国が緩和されていきますが、これから発生してくる感染症をどのように対応していくのかはまだ解決していません。コロナでここ3年間くらいを過ごし、もしももっと強力な感染症が流行ったらまたどうなるのでしょうか。

人間と自然との共生関係やバランスが崩れて行き過ぎると、すぐにこのようなことが発生してきます。島国の動物たちなどがよく絶滅するのも、本来そこにいない生態系やウイルスが入ってきて抵抗力のない生き物たちが絶滅していきます。

現在、アフリカの奥地にあるようなウイルスや、ひょっとするとシベリアの永久凍土の中にあるようなウイルスも人間の移動や輸送のときについてきます。虫たちも船や飛行機と一緒に入ってくれば、それまでの風土の生態系が崩れます。

感染症の問題は、生態系の問題でもあります。そうなってくると環境問題、つまり人間の問題が産み出しているということですから解決がなかなかできないのです。

ウイルスとのイタチごっこですが、治療薬もそんなにすべてをすぐにつくりだすことはできません。この辺で、冷静になって人類はどのようにこれから本来の暮らしをとのわせていくことが永続する未来につながるのかを身近な実践から見つめ直していく必要があるのではないかと思います。

暮らしフルネスの実践を磨いて、身近な自然環境との調和をととのえていきたいと思います。

 

ハレの精神

宿坊に遺された先人たちの道具を丁寧に洗浄し磨いています。墨で年代を書かれた箱に入った食器などは200年以上前のものばかりです。それくらい前からずっとあるというのは、それだけ多くの人たちが使ったということとそれだけ長く大切に今まで保たれたということでもあります。

お椀などは漆が塗られていますが、だいぶ傷んでおり修繕できるもの、できないものがあります。どれも土台はしっかりしていて、塗り直せばまだ使えるものばかりです。

昔の人たちは、道具や物を大切に扱い、使ったら仕舞っていました。日用品とは異なり、ハレの日や大切な時に用いたものだったからでしょう。今は、仕舞うというよりは倉庫や棚に入ったままになるのでどうしても使わないものになってゴミになって捨てられていきます。

ハレの日に使うというものは、ハレの日が何かということがきちんと定義されていたからかもしれません。現在、辞書でハレの日を調べたら節目のことだと記されます。

このハレの節目というのは、何か物事が転換される時、また何か成長をする大切な時機、種から芽が出るように新たな人生の物語がはじまる時などにケガレを祓い清めて晴れ晴れとするということになります。

心を澄んだものにし、雨上がりの美しい晴れ間のように心を澱みや汚れを洗い流して新たに生き直そうとする日本人の大切にしている生き方を顕すものです。禊もまた同じように、穢れを祓い清めハレるために用いられます。

節目を大切にすることで、心を清め続けたのかもしれません。

この古い道具たちに新たな出番をどう用意していけばいいかと思案しています。この道具たちとのご縁があったからこそ、ハレの日を待ち望む未来のためにさらに寿命を伸ばして大切に今の時代も使われるようにしていきたいと思います。

一期一会の出会いを大切に、子どもたちのために精進していきたいと思います。

日本人の伝道

昨日、親しい友人たちをお招きし久しぶりに祐徳大湯殿サウナの石風呂に炭を熾して入りました。備長炭を10キロほど使い、4時間ほど温めていきます。もともとこの石風呂は、日本の伝統的な文化を基盤にして創り上げたものです。

仏陀の温室教を参考にし、千利休の茶室の知恵も融合し、さらにフィンランドサウナの善いところ取りもしています。日本の歴史に精通している人であればあるほどに、温故知新したこの石風呂に感動していただけます。

私はもともと歴史を深めて、日本の文化を深く愛しています。日本人であることと、日本人とは何かということを子どもたちに伝承しようとして取り組んでいることがほとんどです。

最初の動機や目的を伝えていくことで、その味わいもまた深く格別なものになります。お昼も、穴料理といって日本の伝統的な食を味わいました。日本人としての歴史の一つ一つのつながりが、全体で結ばれるとき、私たちは何か不思議な感覚を覚えます。

ととのうという言葉も、本来は原点回帰や調和などをいいますがその深さが真に文化に根差したものであるときにこそ訪れるのではないかと今では感じます。

久しぶりに炭の話をしていたら遠赤外線のことについて色々とワクワクすることがありました。もともとこの遠赤外線とは、波長が3000nmから1,000,000nmの光のことをいいます。ほとんどのものには、遠赤外線が出ています。炭からも石からも、そして私たちの身体からも遠赤外線が出ています。

この遠赤外線を吸収した物は分子が振動します。その分子の振動が激しくなると温度が上がる仕組みです。そうやって分子を振動させる力によって私たちは熱を発するのです。その遠赤外線は、水の中に吸収されます。水の分子を動かすのです。太陽の光をあびて私たちは体の中に遠赤外線を吸収し体温があがります。

そう考えてみると、この世のすべては朝太陽が出てすべてのいのちが遠赤外線を吸収して熱を持ち、分子レベルを振動させて活動していくのです。この分子をととのわすのに、私は石や炭を使います。

炭はもともと穏やかに遠赤外線が放射されています。炭の近くにいてぬくもりを感じるのは、この遠赤外線を感じているからです。そして石は演繹外線を貯めこむことができます。特に波動が高い石、振動が強い石が遠赤外線を貯めこみ密度を高めて放射すれば水分子の小さなものまで極限状態の振動を与えていきます。

その振動を身体に浴びることで私たちはととのうことができます。この時の整うのは、私の言葉で定義すれば「自然のリズムで分子が振動することができた」ということです。

自然のリズムを崩すと、振動もまたバランスを崩します。私たちは常に自然と一体になって振動している存在ですから、あまり都市化された中でありとあらゆる電磁波を受けていたら分子もおかしくなっていきます。それと元の状態に戻すために私はあらゆる禊や法螺貝、仕組みの知恵を使っているのです。

非科学的に思われるかもしれませんが、本来の科学とは自然をどこまでわかっているか、つまり自然と共に実践をして自分のものにしているかということでもあります。知っているだけではものにはなりません。だからこそ五感や六感を研ぎ澄ませてそれを科学するという発明が必要になるのです。

子どもたちのためにも、私の実践で伝道していきたいと思います。

伝統固定種の甦生

昨日は、自然農の畑で伝統固定種の堀池高菜の種どりをいつも親しくしている情報工学の学生さんや友人のご家族と一緒に行いました。新緑のいい風が吹いていて、今年は特に種をたくさん収穫することが目的でしたからしっかりと種どりを行いました。

もともと高菜というのは、漬物にすることで有名です。日本三大漬け菜として「高菜漬け」「野沢菜漬け」「広島菜付け」があります。そして九州を代表する漬物がこの高菜なのです。

高菜というのは、前にもブログで書きしましたが平安時代くらいに種が日本にも入ったといわれています。平安時代は8世紀末ですから1200年以上前からずっと日本で育ってきたということになります。日本の風土に根付いて、日本の味になり、さらに九州の風土の各地に根付き、それぞれの美味しさに進化してきました。

調べると西暦892年発刊の『新選字鏡』には高菜の事を「太加奈」と記載してあるといいます。明治時代には中国四川省から高菜の在来種というべき青菜が日本伝わり九州・東海地方に伝わったといいます。そこで九州では紫高菜、柳川高菜、相知高菜となり高菜漬に適した三池高菜になったそうです。もともと筑豊地域の高菜漬けはとても美味しかったと年配の方々からよくお聴きすることがあります。

炭鉱の時代、炭鉱夫はお腹を空かせてたくさんのお米を食べたことでしょう。その時、もっとも食卓でご飯の友として食べられたのがこの高菜だったことは簡単に想像できます。それが今では、飯塚のほとんどの農家さんが積極的に高菜を作っていません。

その理由は、やってみるとわかるのですが重労働にもかかわらず見合う収入が得られないということがほとんどです。高菜は安いわりに大変な労力がかかるのです。よくラーメン屋にいけば無料で高菜がついていたりします。他にもスーパーなどで販売していますが、どれも安いことが分かります。高菜イメージが安いというものでできていますから、それが高いと売れないという理由もあって農家さんの収入の役に立ちませんでした。

そういうことがあり農家さんの高菜離れが拍車がかかり今ではほとんど作らくなったということです。さらに福岡には三池高菜があり、その有名な高菜を種をもらい筑豊でも三池高菜の種を植えるようになりました。他にも大手種メーカーで自由に高菜の種を買えますからそれを植えています。そうするとそれまであった地元の伝統固定種と交雑しますし、さらには農薬や化学肥料をつかうことで本来の味わいも落ちていき形状も変わっていきました。

本来の伝統固定種というものが失われていくのは、こういった消費優先の経済活動によってそれまで醸成されてきた1200年の文化ともいえる進化が消失するのです。

よく考えてみたらわかりますが、今もむかしも重労働であったのは1200年間変わっていません。それでも人気だったのは、郷土の知恵料理であり、懐かしいふるさとの味を子どもたちにつないで残していこうとした先人の想いや願いもあったことがわかります。

それが今、安易に生活できないからという理由や便利さを優先し簡単に変化し守る努力を諦めてやめてしまえばそれまでの歴史も潰えてしまうのです。時代が変わっても流行で価値観が変わっても、変えてはいけないものがあると私は思います。それが未来への宝になり、子孫たちへの与贈になるのです。

必ず時が経てば、本当の価値や真実は時間と共に明るみになります。希少価値とはそういうものです。しかしその時にやろうとしても種が残っていなく栽培できる環境がなく、消えてしまってはあまりにも悔いが残ります。これを新しいテクノロジーを活用し温故知新して新たなものにし、新たな価値に乗せて守り育てていきたいと改めて感じる一日になりました。

手触りや手入れは、心とつながっていますから目的や初心を忘れることはありません。人間に寄り添うテクノロジーを私は突き詰めていきたいと思います。伝統と歴史、地域や風土、人、物、心の和合、堀池高菜からはじまる伝統固定種の甦生を楽しみにしています。

嘘の情報の時代

今の時代は、情報が氾濫して何が本当のことかが分からなくなってきています。情報ツールがいくら増えても、その情報の本質が歪んでいたら一体何が本物かもわかりません。

本来、情報というものは誰かが言っていたからやみんな言っているからなどということが本当のこととは限りません。また安易にメディアを信じても、それが確かかどうかは編集されていますからわかりません。

正直で嘘がない世の中になっていれば、情報はほとんど歪まずに存在します。しかしそこに嘘や偽りがほとんどの世の中になっていればほとんどの情報は歪んでいくのです。

今の時代がどういう時代かをよく観察していたら、今が嘘の情報の時代であることはよくわかります。だからこそ、これは本当だということを証明するための仕組みをみんな探します。おかしな世の中ですが、社会というのは全体がどちらに傾いているかでその世の中の情報の姿も変わります。

特に歴史をみれば政治という人の権力にとって統治する仕組みの中では情報操作は常に行われてきました。情報こそが人の権威や権力を左右するからです。今、世界は情報戦が繰り広げられています。

本来の言葉の意味も換えられ、歴史も換えられ、価値観も文化も換えられていきます。何も考えていないで情報に受け身になればあっという間に情報戦の餌食になってしまいます。

だからこそ自分自身で本質を深めたり、掘り下げたり、または自分から五感や六感をフル稼働し、現地で体験しながら生の情報を獲得していく努力が欠かせません。

今の読んでいる古い本、そしてこのブログでも、本当にそうなのか、本当は何なのか、これはいつからはじまったのかと、最初からゼロベースで調べていく努力が必要です。

主体性はこの情報のところにも存在するのです。

子どもたちのためにも、本当のことを自ら深め、本質的な実践を積み重ね、天に恥じないような誠を自分自身と正対して実践していきたいと思います。