徳の内

昨日は、友人たちと集まり徳積堂を磨き上げました。年内最後の一緒の磨き合いということで、はじめての人も参加し有意義な時間を過ごすことができました。一期一会の仲間と一緒に磨き合える、これだけで人生はとても仕合せなのです。

この世に私たちが生まれてきてからこの世に肉体で存在できるのはあっという間のことです。毎日、寝て起きて過ごしていたらそのうち歳をとりいつかは死を迎えます。大統領でも、有名人でも、いつかは必ずだれにも死は訪れます。

一休禅師が「世の中は食うてかせいで寝て起きてさてその後は死ぬるばかりぞ」といいましたが、まさにただそれだけのことです。

しかし、この生きている間には本当にたくさんの体験を積んでいくことができます。それはすべて徳の内です。私たちはこの徳の一生を与えてもらい、その徳を磨くことでいつまでも心を輝かせていくことができます。

時折、生きている意味を忘れてしまいそうなとき、私たちは磨くことで何か大切なものを思い出します。それは「光る」ということです。言い換えれば、「いのちが輝く」ということです。

いのちが輝いていくことで、私たちは生きていることの仕合せを感じます。この世は確かに生老病死と苦しいことばかりですが、それでもこの世に出てきては体験したいのはいのちが輝く喜びを味わいたいからです。

あの星々が夜空に煌めき輝くのも、それが真理を顕しています。

この徳は、何物にも代えがたく、私たちの暮らしの根源であり幸福の源泉なのです。

一瞬のことだと自覚するからこそ、この今を磨き続けるという境地。まさに必至を自覚することにより、人はこの世に生きる意味や感謝を忘れないで生きていけるのかもしれません。まさに私たちはその偉大な徳の内でいのちを活かされています。

人類が大きな岐路に入っているからこそ、何がいのちの根源であったかを具体的な実践において磨いていきたいと思います。

鏡餅の心

先日、みんなで集まって伝統的な餅つきを行いました。むかしの道具たちをたくさん出してきて、竈で蒸して炊いたもち米を手彫りの臼、そして百日紅の杵などで和気あいあいと大勢で笑いながら餅つきをしました。

餅つきをするとみんなが仲良しになり、笑いが絶えません。まさに福分けの象徴のようなこの福餅を床の間に鏡餅として飾り歳神さまをお祀りして正月を穏やかに待ちます。

むかしは、数え歳でしたからみんな一斉に正月に一緒に歳をとりました。何歳の人も、正月には生まれ変わり新しい歳を迎えます。新年になり、心機一転またその歳をみんなで分け合い魂を磨きます。正月が近づくと、日本全体で清々しい雰囲気に包まれるのは生まれ変わりの神聖な行事をみんなで行い場を清めてきたからかもしれません。

早速、このついたお餅で鏡餅もいくつか拵えました。現在は私が取り組む家が増えていますから、鏡餅の数もたくさん必要になります。昨日は、門松を飾り終え本日には鏡餅の室礼を行う予定です。

室礼をしながらそのものの意味を深めて味わうのはまた一年を振り返る豊かな時間です。門松は、邪気を払い同時に歳神さまが家にやってくる目印になります。鏡餅は歳神様が家に滞在するときの依り代になります。そこに四方紅といって天地四方を拝して災いを払い、一年の繁栄を祈願します。他にも、新葉が出てから古い葉が落ちるので、新旧相ゆずる(家系がつながる)という縁起を祝うゆずり葉、よろこぶ(喜ぶ)との語呂合わせからきた昆布。そして長寿を祈願する、久しく栄える、裏表がないなどの意味があるとされるウラジロ。四方に大きく手を広げ、繁盛することを願うとされる御幣。実が木についたまま年を越すところから代々にかけて縁起がいい橙を室礼ます。

室礼しながら、芽出度いこと、福が訪れることを心を清めながら静かに待ちます。この心魂を研ぎ澄ませながら歳神様をおもてなすことに仕合せと喜びを感じるのです。

思い返せば、今年も本当に多くの人が家に滞在されていきました。その都度、おもてなしをして豊かなお時間を過ごしました。お客様が神様という言葉もありますが、あれは決してサービスをする対象としてのカスタマーではないことはすぐにわかります。

私たち日本人には、八百万の神々という思想がありこの世のすべては結び合いつながり合い一つであることを自覚しています。いのちを共にするからこそ共生して貢献し合うのです。その存在としての神様をお互いの心のうちに見合うとき、お互いが神様のような澄み切った素直な状態になります。

まさに相手も自分もなく、自他一体に神様のような状態になる。それを家という場を磨き、その舞台で共に語り合うとき、私たちはそのうらおもてなしの美しさに和み合うのです。

日本人の初心を忘れないように、歳神様の心の鏡に観照されながら素直と感謝を磨いていきたいと思います。

新しい幸福論~暮らしの徳を磨く~

幸福論という言葉があります。これは、人間の仕合せとは一体何かというものを突き詰めたものです。有名な幸福論には、ヒルティの『幸福論』(1891年)、アランの『幸福論』(1925年)、ラッセルの『幸福論』(1930年)による3つの幸福論があるといいます。

ウィキペディアには、アランは健全な身体によって心の平静を得ることを強調。すべての不運やつまらぬ物事に対して、 上機嫌にふるまうこと。また社会的礼節の重要性を説くとあります。ラッセルは、己の関心を外部に向け、活動的に生きることを勧めるとあり、またヒルティは神のそば近くあることが永続的な幸福を約束するとする宗教的幸福論であるとします。

難しい言い方をしていますが、シンプルに共通するものは自分らしく生き切っているということでしょう。これは人類の幸福に限らず、自然界は自分のいのちを信じ切ってあるがままでいるとき、仕合せを感じるようにできています。

これは自然と一体になっているともいい、私はそれを「かんながらの道」とも言います。そしてその自然と一体になっているという状態がどういうことか。それを具体的な実践として実在させているものこそが日本の伝統的な暮らしであり、その暮らしを充実させて日々を豊かにしていくことが仕合せなのです。

私の幸福論は、真の豊かさというものは何かということを突き詰めたものです。

自然を深く観察し、いのちの繋がり合いの中でお互いを尊重しながら活かしながら生きていく。そしてお互いの徳を磨いて、いのちを輝かせ、真善美の調和の中で時を超越して心を開放し魂の旅を味わう。まさに、自然一体の境地に入ることで私たちは何物にも代えがたい存在であることを知り、宇宙の一つであることを自覚します。当たり前のことかもしれませんが、生き物たちが喜ぶように一緒に私たちも喜ぶとき、そこに真の暮らしは実現しているのです。どちらかだけが喜ぶというのはいのちの自然界では不自然なことなのです。

この喜ぶという心境は何か、それはいのちがお互いに活かされている、甦生し磨かれていると実感するときに得られます。共生と貢献の中でむかしの人たちが、永い伝統的な暮らしの中で自然のセンスを磨き合い高め合ったように本来は今の私たちにもそれはできることなのです。

人間が楽になるために便利さや効率を選択し、それを優先するあまり日本人もかつてあったものを忘れていきました。気が付くと、現代はその忘れものが一体何だったのかも忘れてしまい時間と引き換えにして本来の幸福とは程遠い歪んだ豊かさや富のみを追いかけるようになりました。

世界が同時に影響を受けたコロナウイルスにおいても、立ち止まり振り返る機会を得られたはずなのにまた目先のことに迷い元通りに忘れようともがいています。私は、今こそかつての日本人の美しい記憶を思い出す時機ではないかと思うのです。

人類の幸福とは何か、そして新しい幸福論とは何か、そこに原点回帰をもってもいい時機だということです。私の原点回帰、それは「暮らしの徳を磨く」ことです。暮らしの徳は、便利な暮らしでは出てきません。どちらかといえば、不便なものしかありません。いのちは不便と共にあり、不便とは人間都合ではないのです。自然の都合に合わせて生きていくことは、決して辛く苦しいことではなく実は偉大な存在と共に生き、偉大な存在を活かしあう、いのちの道を歩んでいくということです。そのいのちは磨けば光るように、徳を積めばさらに豊かさは増幅していきます。

真の豊かさとは、お互いのいのちを磨き合うことであり、いのちは磨き合うことで新しくなります。幸福論もまた、その時に出たものが終わったものではなくそこは道ですからその時代時代に幸福論もまた磨き続けなければなりません。

私が子どもたちに譲り遺したい幸福論は、1000年後の未来に必要な幸福論です。

引き続き、日々の暮らしを豊かにしながらすべてのいのちを新しくしていきたいと思います。

日本人の忘れもの

現在は、新しいものがなんでも価値があるとし、古いものは価値がないという認識をあちこちで耳にします。

しかし本来、古いものというものは、自然の篩(ふるい)にかけられた古いものであり、それだけ長い年月、あらゆる淘汰に耐えて今まで残った本物とも言えます。古いもので残ったものはすべて価値があるものであり、決して古いものが価値がないわけではありません。

よく私の暮らす「場」に訪れる人たちから、私が古いものを使いあらゆる新しいものを行うのを観て感動されることがあります。古いものを新しくするというのは、そこにある発見をしているということでもあります。

当たり前すぎて気づかないことでも、古いものをよく観察しその智慧を現代に活かそうとするのなら必ずそこには普通では気づかない発見、もしくは発明をしているということになるのです。

古来からあった忘れられたものや、当たり前すぎてやるのをやめたもの、それは今の日本人の忘れものなのです。

私たちは、新しいという言葉を使う時、何をもって新しいというのか。今まで見たことがないものを新しいというのか、もしくは今まであったものを再発見した時に新しいというのか。

私にとっての新しさは後者であり、私が取り組むブロックチェーンもその後者の智慧を最大化させたものです。まだ見学に来られない人には、私が取り組んでいることがよく分かっていないように思います。

決して私はコードをかくわけでもなく、そして何かの論文を出すわけでもありません。しかし、私が取り組む古い偉大な智慧がすべてこの新しい技術に注ぎ込まれるとき、真の新しいものが誕生します。

そして私はこのプロセスを仲間たちと味わうことで、この「場」に未来を創造しようとしているのです。ご縁のある方々と、この今を深く味わいながら新たな暮らしを独創しています。

忘れものを思い出すのに、古いものを触るだけではなくその古いものを活かして新しい技術に活かしきるとき、そこに日本人は忘れたものを思い出すと私は信じています。先人たちの生き方、残してくださった遺志を守り、子どもたちのためにも道を切り拓いていきたいと思います。

存在価値

人間の存在価値に対して、承認欲求というものがあります。これは認められたい、理解されたいという欲求です。他人の評価が気になるのは、人間は自分はどれくらい価値があるのかを計算しているということもあります。

誰にどれくらい理解されているかというのはその人にとっては重要なことであり、承認欲求によってその人の価値が決まります。しかしその人の価値は本来は、他人の評価で決まるわけではありません。

その人の価値は、その存在自体が価値があるのであり誰かの評価は存在とは異なり、自分を主軸にした価値基準ということになります。そう考えてみると、もっとも厄介なのはこの承認欲求であり、真心や至誠を盡すと決めていても相手にとって自分がどういう存在かを確かめ続けていたら気が付くと嫌われたくないや好かれたい、愛されたいという感情によって自分に向いてしまい初心を忘れてしまうこともあるかもしれません。

人間は、結局は自分との修行であり、自己を研鑽して自他一体の境地に入っていくために日々に向き合い魂を磨いていくしかありません。本当の喜びや仕合せは、、評価を超えた存在価値にこそあります。

自分が何の使命があってこの世に生まれてきたのか、そして天は自分に何の用を与えているのかに気づく道でもあります。まさに誰かに何かを理解されていようがいまいが、必ずその人には天から与えられた大切な役割があるのです。

李白に「天、我が材を生ずる、必ず用あり。」があります。

今は、自分が何の価値があるのかを分からなくても誰に与えられなくても必ず生きているだけでその意味は必ず存在します。だからこそ生きていればいいのです。この時代、生きていくことは弱さを力にして弱さを絆にしていく必要があります。

人はみんな弱いのだと強さに憧れるのを休め、弱さの本質を受け容れるところにこそ、自分というものを受け容れる鍵があるように思います。

真心や至誠は、天に観照していただき真摯に自己を磨くのみです。

子どもたちのためにも、憧れる世の中に易えるために精進していきたいと思います。

煤払い

昨日は、東京のカグヤライトハウスで煤払いを行いました。煤払いといえば、一般的には煤が出るような竈のそばやおくどさんの周囲をイメージしますが東京では火を使っておらず排気ガスの煤くらいなものです。

今回の煤払いはそういった物的な煤払いではなく、心的な煤払いということでクルーが提案してくれたものです。それぞれに、心の煤もまた同時に溜まっていきますからその煤を払おうということでみんなで煤を出しながら清掃していきました。昨日は、煤が結構溜まっているなということはわかったようですが清掃をここから丁寧に行っていきます。

どのように清掃するのかはこれからですが、むかしの人たちは若い衆や元気な人たちがこぞって煤払いをしてそのあとは打ち上げのように楽しんでいたようです。そして子どもや病気の人はあまり煤をあびないように奥の部屋や小部屋に隔離して行ったそうです。そして江戸では、煤払いが終われば乾杯して主人を胴上げしたところもあったようです。これは楽しそうな習わしです。

この胴上げというのは、地面から体が浮かび上がった状態を「非日常で神聖」、手で支えられた時を「日常」として表現し、この二つの世界を行き来するのを「胴上げ」という形で表したものだといいます。江戸時代、神事である奉納相撲において、当時の最高位であった大関を「胴上げ」する習慣がありましたが、それがいつのまにか祝福の儀式となり、広く浸透していったそうです。

おめでたいという時に、みんなでそれを事前に予祝する。日本人の福を待つ大らかさを煤払いでも感じます。歳神さまがここからは来てもらえるように、玄関に門松を用意し、場を清め、床の間に御鎮座いただくようにお餅を用意します。

一年の穢れを祓うというのは、ある意味でその人の苦労を労うことです。無理に何かをするのではなく、大変だったということをみんなで労うことで心は清め洗われるのかもしれません。

そしてこの一年の煤をもっとも受けた人に感謝するのかもしれません。煤が出るというのは、それだけその道具も使われたということであり正月はその道具に休んでもらうように労います。ここに私は日本人の優しさや思いやりを感じるのです。

私も多くのハタラキをいただいた一年ですから、周囲に思いやりと優しさを忘れないように煤払いをしたいと思います。

 

ぬくもりの灯~場徳の祈り~

私が徳積財団を立ち上げた理由は、子どもたちのためです。子どもたちとは、未来の子孫のことであり先祖たちが私たちのために遺してくださったものを更に磨いて後世のものたちにバトンを渡すためです。

私たちの肉体は滅びますが、精神や魂は永遠に生き続けています。その証拠に、私たちは何千年も何億年も前からこの地球と共に生きてきたという事実があり、この宇宙で宇宙を感じて歩み続けてきている道を感じることができます。

現在は、物質文明に偏り過ぎていて心の荒廃が進んでいますが私たちは心を磨かなければ仕合せにはなれませんから必ず目が覚めて新たな時代を拓いていくことになると思います。

そのためにも、私たちは先人が守り続けてきたぬくもりの灯に炭をくべてその火を絶やさないように火を吹いていく必要があります。この吹くという行為は、福という行為でもあり、磨くという行為です。

先日、中村哲さんという医師がアフガニスタンで亡くなりました。この方は、大医であり、病を治すだけでなく人を治し、国を治しました。まさに二宮尊徳と同様の実践をされた方です。治水を学び、多くの人たちに水を飲めるように尽力しました。そしてこの方はそれを私はただ水やりをしただけだと言っていたといいます。

私も二宮尊徳の「報徳」思想に大きな影響を受け、この時代にもっとも必要なのは一人ひとりが目覚め、各々の使命で徳を積むことだと信じています。この徳積みと何か、私にとっての徳積みとは、「たた磨くのみ」であり、囲炉裏に炭をくべただけだと言うと思います。

この世の心の荒廃は、心を澄まし清め整えることで癒されます。そしてそれは、日々の暮らしの中で生き方を磨くことによって実現します。それが暮らしフルネスです。

徳積活動をするには、私一人だけでなく大勢いの仲間たちが必要です。仲間と磨くと、その光は太陽の如く天照らし、月の如く闇を清浄に満たすことができるからです。

古今の先達が必ず遺す言葉、それは「一灯照隅」です。

徳を共にし、共に磨く同志たち、徳積堂の炭のぬくもりに集まり、法螺貝を響かせ、この世に調和の豊かさを一緒に実現していきましょう。

炭の豊かさ

急に寒くなってきて、家は冬支度をととのえています。冬といえば、もっとも重宝するのが炬燵です。現在、西洋建築が中心に建物はたっていますから炬燵の需要は減少しています。

しかし、暖房とは異なる炬燵の暖かさや豊かさは炬燵でしか味わえないものがあります。思い出せば、冬の寒い日に家族がみんな炬燵であったまりながらそれぞれに好きなことをゆったりとして過ごす。時折、みかんやおかし、そしてご飯を食べながらまた団欒する。お互いに場所を分け合いながら、みんなで炬燵に入ってほっこり過ごすところに和の心を感じます。

私の使っている炬燵は、一つは炭団(たどん)といって炭(木炭、竹炭、石炭)の粉末をフノリなどの結着剤と混ぜ団子状に整形し乾燥した燃料を使う炬燵です。櫓炬燵といって、炭団をいれておく陶器があってそこに炭団をいれると8時間くらいはぬくもりが拡がります。まるで温泉にでも入ったかのような温かさで、遠赤外線で炬燵からでても体がポカポカするものです。聴福庵では、冬はいつも2階で過ごしますが居心地がよく穏やかに冬を楽しむことができます。

もう一つはBAある炬燵でここは豆炭を使っています。この豆炭(まめたん)は、石炭や低温コークスや亜炭や無煙炭や木炭などの粉を混ぜ、結着剤とともに豆状に成形した固形燃料のことをいいます。炭団とは異なり、多少の臭いもありますが熱量は強く超機関燃焼します。あんかとしても使うことがありますが、豆炭をサシコマット(ガラスウール)でくるんで燃焼させる燃焼器を櫓の中にいれて使います。うちで使っているのは、通風口の開閉により強弱の調節や使用する豆炭の個数による調節もでき温度調整ができます。

今では電気の炬燵が便利だと思われていますが、火力の強い豆炭を岩綿でくるんで酸素の供給量を調整することで使えるようにするというのはその時代は大発明だったでしょう。

やっぱり電気と異なり、豆炭も遠赤外線で芯から温まり使うと冬がまた格別です。火は、危ない側面もありますが私たちの暮らしをいつも支えてくれている大切な存在です。その火の徳性をよく観察し、それを上手に活かした日本人の智慧には感動と感謝が湧いてきます。

子どもたちに、この暮らしの豊かさを伝承し和の心を育てていきたいと思います。

和合の精神

日本には古来より、和合という精神があります。これは二つ以上の性質のものが一つに親和しあって融け合い一体となっている姿の事です。

たとえば、美しい自然の風景の中にある里山での暮らしを眺めているとそれがまるで人間の暮らしが自然と融け合って自然そのもののように観えることがあります。これは人間が自然とは別のものではなく、自然と親和しあって自然の一部と化しているときにそう感じるものです。

他にも、炭火で炭と火が一体になって燃える様子や月の光が海面に映り眩い様子の中にも親和しあって和合していることを感じます。

私たちの先祖は、この「和合」という精神を何よりも重んじで来ました。

現在は、対立概念が優先する世の中になっていてなんでも比較したり白黒つけたり、分類化したりして何かと何かをあえて分けようとする傾向が強いように思います。あっちかこっちかと比べて競い争っているうちに次第に離反しあって離れ離れになっていきました。

本来、循環というものは和合することです。

相反する性質のものをどう上手に和合していくか、例えば発酵などもそうですが漬物や御酒造りに至るまで本来の性質を上手く調和させた技術の御蔭で奇跡のような技を産み出していきます。これらは伝統の技術の数かすの中で今でもはっきりと見出すことができるものばかりです。

日本人は特にこの和合を重んじ、それがモノづくりから人づくり、そして国家づくりにいたるまで活かし続けてきました。

改めて、私たちは原点に帰り自分たちの先祖たちが何千年、何百年の間何をもっとも尊んできたのかを振り返る必要を感じます。私が提案する暮らしの中には、その先人たちの智慧がふんだんに組み込まれ、場には和合の仕組みが働き懐かしいものを思い出す切っ掛けになっています。

伝承は文章や文字で行うものではなく、先人からの暮らしと一体になることで伝承されていくものです。暮らしと一体なっていく、まさにそれもまた暮らしフルネスの境地です。

引き続き、子どもたちの未来のためにも暮らしフルネスの実践と丁寧に紡いでいきたいと思います。

暮らしの幸福論

先週から、暮らしフルネスの体験をしているピザ職人の人と一緒に一円対話を行う機会がありました。今は遠隔でオンラインとオフラインになりますが、振り返りの機会を設定し初心を忘れない場が持てることは素晴らしいことです。

その振り返りの言葉の中でとても印象深いことを聞かせてくれました。例えば、「毎日、毎日最高の日々を刷新していく」「他人軸ではなくて自分軸でいることを感じられる」「感情も心も整っていく」「ここのどの場所でも居心地が善く自分が解放されてく」「感覚が研ぎ澄まされて毎日が充実していく」など発言を聴くとこちらの方も仕合せな気持ちになっていきます。

私は特に研修をしているような自覚があるわけではなく、ただ一緒に暮らしをしているだけです。しかしこの一緒に暮らしをする中で、自然発生的に勝手に幸福を感じられ、自分自身であることの喜びを感じています。

それはきっと私自身もこの暮らしの中で、自分自身を精いっぱいに生きているからかもしれません。そして同時にこの一緒の中には、物や道具、そして環境などのいのちもまた精いっぱいに自分らしくあるからだと私は思います。

私にとっての暮らしの定義は、このいのちが輝いていることであり、それはお互いに尊重し合いながら豊かに仕合せな今を生きることで精いっぱいの喜び、つまりフルネスを生きる幸福に満たされるということなのです。

暮らしフルネスの幸福論を書いてほしいとある人に言われて書いていますが、そもそもこれは文字で伝えることは至難の業です。言葉にすると、もうどうでもいい気がしてきてすべてあるのだから何も言葉にしなくてもいい気持ちになります。

ただ仕合せを感じる今があるということ。

この今に生ききるというのは、一期一会のいのちを輝かせていくということです。そうなってくると、未来も過去も関係なく、他人も世界も関係がない、一切関係がない中にこそもっとも深い全生命との関係があり、まるで細胞の一つが全体と合わさって元氣になっていくようにいのちが丸ごと充実するのです。

表現としてはここいらが限界ですが、鳥の鳴く声、太陽が昇る音、風の揺らめき、光のシャワー、澄んだ空気に温かい影、この感覚のすべての世界が調和と共に暮らしは整っています。

暮らしを見直すことで、人はいのちの本体を見直します。

磨き続けていきたいと思います。