自分が治す

人は病気になりますが、これは薬で治していると思っている人がいます。

実際は、薬で治すのではなくその人が治すというのが本質であるのだと思います。

西洋の治療は、対処療法と言われます。

これは問題の根幹を観て、根深い場所を根治するのではなく、目に見える一部分の症状にだけにフォーカスしそこを何とかしようといった考え方です。その逆が東洋の治療と対比されて語られることがあります。

病気が分かりやすいのですが、治らないのはまだ全部が自分の責任とは思わずどこかで何かのせいや他人のせい、自分以外のなにものかが原因だと思い込んでいるからです。例えば、病気のせいや、自分の置かれた状況のせい、過去の誰かのせいや、あの人のせいだの、問題を他のことに転嫁し、責任を自分から持とうとはしないから病むのです。

そもそもコンサルティングなどの仕事もそうですが、私や誰かが問題を直したのではなく自分が直すから治るのです。それを依存が強くなると、誰かによって治ったや、何かによって治ったといいますが、それは違います。

本来は治りやすい環境を用意して見守っただけで、全部自分自身の力で治るのです。

病気などは最たるもので、どんな怪我をして傷を負っても自分から治っていきますし、どんな風邪をひいて熱が出ても自分から治っていきます。薬は緩和しただけで、症状が和らいだというだけで別に病院が治したのではないし、医者が治したのではない、極端に言えば会社の上司が休めといったから治ったのでもないのです。

それは全部自分が治したのです。

そう考えれば、自分から治る環境を用意することは大変重要なことでそれをしなければどんな病気も治りません。そしてそれが自立というもので、言い換えれば依存しないということなのです。

依存する心というものは、自分の問題を他に挿げ替える力があります。本来の自分の力を出さずに解決しようといった甘えがこれであるのです。しかしすべての生きものは、自分で生きなければ活き活きすることもワクワクすることもありません、ただ楽をしたいことのみでその時々の気分で生きながらえるだけのものになるのです。

自分から治すという意志は、これは自分を信じる事に他なりません。

自分を信じる事ができる人は、自分に感謝できる人です、自分に感謝できる人は、自分に正直で素直な人なのです。方法などは無限にありますが、解決方法はほとんど一つです。それは自分の力で自分を全うして生きるということなのです。

少しでも多くの人たちに「信」の大事さ、自立の意義を実践していきたいと思います。

空っぽにして丸ごと学ぶ

自然を信じるということは、目に見えるものばかりを信じないということでもある。

自然農を続けながら思うことは、自分の中にある刷り込みにどのように自らで気づけるかというものがある。今までに汚いものや、嫌なもの、よくないものといった誰かによって与えられている知識が邪魔をしてもともとの自然よりもその変化を捉える力は落ちています。

例えば、水質や土壌が変化するときその生態系も様々なプロセスを経て自然の状態に近づきます。ここでの自然とは、その環境下での生態系、つまりは全部が平均ではなくその場所に合わせてその場所にもっとも順応したものへと変化を遂げるのです。

当然、田舎の手つかずの山間部の場所で発生する生態系と、都会化されて周囲に生き物があまり住んでいないところの生態系とは同じにはなりません。それはその場所にあったものが自然に集まってくるのであり、そこに合わないものは集まってこないとも言えるのです。

一般的に、言われる最適な環境というものが発生しないからと不安になることではなくそのうち自然になるだろうと自然を信じる力が問われるのです。この自然というのは何もしないことを自然というわけではなく、自然であることを信じるということの連続であるということなのです。

よく私も自然に任せて、自然に応じて、自然体でいることを大事にしますがこれはすべてにおいてそこに「信」を入れることに他なりません。絶対的なほどに、来たものを受け取るということ、起きたことを受け容れるということ、その姿勢がはじまりでありそこから学ぶことに意味があるのです。

よく学びを優先せずに結果を焦ってしまえば、どこかで刷り込まれた平均の理想や、そうでなければならないという先入観から自然というものが分からなくなってしまい、人間の頭で人工的に全部やろうとし欲に呑まれてしまったりもするものです。

何かをやり直すことであったり、もう一度はじめから学び直すなどといったとき、結果から考えればやることがいっぱいあり忙しいのにまたかと一般的にはメンドクサイや嫌な気持ちになったりするものです。

しかしそれは単に学んでいなかったから学び直し、そしてやっていなかったからやり直しが必用ということなのです。新しい目標を設定したり、理想が高くなれば当然、そこに対してのやり直しや学び直しは必然的に発生するのです。

常に自然は、学びとセットで成り立ちます。

そうやって私たちの先祖は、大切なことはすべて自然をお手本に学び続けてきて智慧を授かったとも言えるのではないでしょうか。人智というものは、自然があってはじめて成り立つ恵みであるのです。

やり直しというのは、「まだ学ぶことがあった」、学び直しは、「まだ学ぶものがあった」ということでそれは本来はまだまだ教えてくださっていると素直に感謝してもう一度、空っぽにしてから丸ごと受けさせていただきますという自分の姿勢が大事なのです。

自然であるということは、心を澄ませて自然であることに任せようとした心であるのです。
自らの信で、様々な自然に溶け込んでいこうと思います。

未来の逆算

時間というものは今というものを考え方で捉え方が変わってきます。

ある人は今というものは、未来が今になっている今の時間であるとし、またある今は、ただ目先の今というものを今の時間だと思います。

今がゆとりがある人は、常に前者のように未来というものが今だから今努力しようと余裕を持っていますが、後者の人は今の今が時間なのだからいつも過ぎてしまう今のために追われるように焦ってしまうのです。そして後者が余裕を持とうとする場合に無理をして落ち着こうとしても、それでは単に未来を持たないということになってしまうだけだったりするのです。

同じように今を一生懸命といっても、それが未来のためか今のためかで全然違うのです。

仕事でもそうですが、いつも何かに追われてしまうのは過ぎ去ろうとするすぐ今のことにだけ一生懸命なってしまうからなのです。出来る人というのは、未来のためにしか今を使おうとしませんから必然的に未来のために今を活かすのです。

例えば、仕事で言えば、半年後にはこういう結果になるのだから今のうちにそれを準備しておくための今の使い方をするということなのです。よく営業で数字が上がらない人がありますが、これは今の数字を今追ってしまうからなのです。そうではなく、本来は半年後の数字のために今を使う方が確実で、今の時間に未来のための今やることやっていると自然に半年後はその状態になっているのです。

英語や語学なども、いつまでにそれが必用かその目標を設定しそれを逆算してからスケジューリングしてそのために今を活かす、つまりは準備する、余裕とゆとりを持って取り組んでいくということなのです。

目標を設定して、今に取り組むということはこの今は未来のために今の使い方になるのです。それを漠然としたものしかないままに、ただ今を一生懸命に取り組んでいたらどうしてもゆとりや余裕がなくなり準備不足だったといった後悔ばかりをして迷惑をかけてしまうのです。

つまり、今というものに対する自分の在り方を見つめることがまずは大前提なのです。

これはまず思考パターンとしての自分、つい未来をあまり肯定していない自分、目標を設定する勇気のない自分、そういった自分の感情をまず受け容れることが要ります。そしてそれを受け容れたら具体的な訓練としてのスケジューリング、つまりは目標管理を繰り返す中で自分の思考パターンをブレークスルーしていく必要があるのです。

やはりここでも全部ではないですが、今の学校の教育の刷り込みがあるのかもしれません。目標設定をさせずに今だけをやらせて取り組ませるような指導方法が染みつけば、流されるような日々を送らせることにもなるのです。まず未来にどのようなビジョンを設定するか、そしてそれを実現するためにこの今をどのように活かすのか、それが自己管理でもあるのです。

何でもそうですが、未来のために時間を使う人は今に余裕がある人です。

そうやって未来を逆算していくことこそが、今に希望を持つことになっていくのだと思います。目先で何かがあっても、未来から逆算した今はそれが全部学びになり将来への布石になったりもするのです。

常に今は未来の準備だとし、今できることを時間を惜しんで取り組んでいこうと思います。
未来の新商品のために、今を存分に活かしていきます。

恩創造

今、新商品の開発を行う中でしみじみと実感することがあります。

何でもそうだけれど、何かを行うときにはそのタイミングというものがある。
そしてそのタイミングには、数多くの出会いが存在していることに気づくのです。

以前、ソフトを開発するときもあの時、あの場所で、あの人たちと出会わなければ完成することはなかったというものがあるのです。何かの物づくりや、何かの気づきや何か新しく創造するということは、その時にしか出会えない人たちとの邂逅が存在すると私は思うのです。

よく天の時、地の理、人の和ということが言われますが、これは本当に正しいもので振り返ったときにいつも必ずそうなっているという実感があるからです。

本当に今がその時か、これを行える環境が整っているか、そしてそれを為し遂げられる人たちが集まっているか、そういうものが自然発生的に興るときはじめて実現するとも言えるのです。

そしてその中でいつも見守ってくださる大切な心があることに気づきます。
それは素直に謙虚にそういったすべてに感謝しているかということではないかと思うのです。

未来へ向けて自分の願いや祈り、そのビジョンのようなものは歩みの中でカタチを変えて顕われてきます。そしてそれは過去に出逢った人たち、いや、その人だけではなくすべての出逢いと邂逅によって創りあげられているのです。

この会社もそうですが、全部丸ごと人の出逢いでできていますし、今の商品もまたすべては人との邂逅から創造してくださったのです。あの時、あの場所で、あの人とという邂逅、その御恩のバトンを渡してきたからこそのこの今の新しい商品というものが生まれるのです。

そういうものを思えば自然に感謝の心、素直に有難いと思えるような気持ちになります。そしてその恩に報いたいと願う心こそが新商品というものを生み出すのだと私は信じているのです。

心というものは目には観えませんが、その物にいのちが宿るのはそういう恩創造が入ってからだと私は思います。新しいものが出来上がる時、それは愛と感動といったストーリーがその傍で同時に出来上がっています。

皆様の御蔭をカタチに換えて、感謝と感動の真心を籠めて創りあげようと思います。

 

いのちの堆積

屍の層の話を自然農で学んだことがある。

様々な生きものたちが活動した上に、私たちの新しい活動があるという話である。

それは今生きて私たちが活動できているのはその前に活動を繰り返ししてこれまで永い間ずっといのちのバトンを繋いでくださった多くの生きものたちの恩恵で成り立っているとも言うのです。

これは身近でもよく土を観ていれば、土の上で活動する私たちの下で今までのいのちが土に還りそれが発酵していきまた次のいのちを活かすように存在しているのがよくわかります。枯草を取り除いてみれば、その下にはたくさんの虫たちがいます。よくレンガの下でもそうですが、いつも土の中と上には様々な生きものたちがちゃんといのちを守ってくれているのです。

ここ数か月、微生物から自然の学び直しをする中で如何に私たちはその目には観えない偉大な生きものたちの御蔭でこの自分の身体を維持できているか、そのいのちを保つことができているのかを理解します。

例えば、自分たちの食べるものはすべて腸が分解し体に取り込んでいます。そのためにたくさんの腸内細菌や微生物たちが一生懸命にそれを分解してくれ私たちが血肉として取り込みやすいように手伝ってくれているのです。

そしてその後の自分たちが排泄する便には一生懸命腸の中で活動してお役目を果たしてくださった多くの微生物たちがびっしりと詰まって出てくるのです。観えないところでいつも私たちのことを見守ってくださっている、そういう存在に感謝する心があれば本来はいつまでも心も体も健康に維持できるはずなのです。

しかし今は目に映る派手なところに心を奪われることも増え、そういう私たちを蔭ながらいつも助けて見守ってくださっている存在のことを忘れ、ゴミやカスなど排泄するものを人の目に視えないように隠し、またそれは汚いという刷り込みを与えることで考えもできないような仕組みになっています。

あの身近にあるいのちの役目を終えた生きものたちが共に流れて還ることを運ぶ川の水はいつの日か、大きな海に流れ着いて堆積していきます。その海には、土と同じようにたくさんのいのちが還元され新しいいのちのバトンを渡すような土壌を堆積し転換され母なる慈愛と滋養を循環するいのちの泉源となるのです。

この地球の大地も海も、すべては私たちのいのちの活動の集積の故郷でもあるのです。
私たちが捨てたもの、私たちが流したもの、私たちが活動した証がそこにはあります。

だからこそ、私たちはそういう目には観えないけれど今までの先祖の活動に心から感謝しその恩に報いるためにも推譲の真心で自分のお役目をしっかりと果たそうと、その天命を最大限活かすよう自然の一部としての今を精進していく必要があるのだと思うのです。

土の中や土の上では、多くの虫や植物などの生きものたち、そしてそのさらに上では私たち人間や動物たちが生きています。そうやって地球の何層もの生活圏をシェアしながら、積み重ねていく円満な活動を通して地球の循環の中にスパンと入ってはじめて安心立命をするのだと私は感じます。

大事なものはいつも地味なところ、偉大過ぎて観えないようなところにあるものです。
自分の感性が大切なものから離れないよう、常に自然をお手本に学んでいこうと思います。

置換力

全ての出来事を考えた時、それが自分にとって必然かどうかと思うというものがある。

例えば、他人に起きている問題は他人のことだと思い込んでいる姿勢の人と、他人に起きている問題は自分のことだと思って真摯に受け取るという姿勢の人がいる。

前者は、他人のことなのだからどこか相手のことにしているから相手の問題としてしか考えられずつい出来事なども頭で処理をし目で追ってしまい本質が分からないままに悩んでいたりするものです。しかし後者は、どんな相手の出来事もこれは自分のことではないかと置き換えるから文字通り他人事ではないことだとより自省しつつ真剣に何かのメッセージがあるのではないかと一緒に物事の意味を考えることができるのです。

人の一生は自分と関係のある情報を取捨選択して生きているとも言えます。

この情報を選ぶのも、テレビやニュース、出会った人々、それがどんなに自分が偶然に覚えたことでも実はそれは自分の人生に大変な意味が在ったりするのです。自分のセンスや直観が冴えわたっていれば、すぐにそれが自分の問題を解決するものであることやこの先の将来に関係することであることにハッと気づくことができます。言い換えれば、相手は自分の鏡、向こうからいただける情報はすべて自分へのメッセージであると感じる力があるかどうかということなのです。

そのアンテナでどのように自分への意味を受信して今の瞬間瞬間の決断をし続けるかことが置換力とも言えるのです。

人は意味のない人生など一つもありません。

それはその人が目指しているもの、生まれてきた達したいこと、いのちを活かしたい何かが必ずあり、そしてその役目役割が必然的に存在するからです。人の一生はそれを探しているうちに終えるともいえます。

生きていればどんな情報もそれが自分の役割に繋がっていると思えば、どんなものも必然として一つ一つを自分のことだとするのか、関係がないとして自分以外の誰かのものとするのかでは今までと今、そしてこれからの生き方が変わってしまいます。

共感することも、自他を信じ、活かすことも、これは自分のことだと思えるか。そういう懐や器を養成していくことも、学問の醍醐味であろうと思います。

どんな小さなことも見逃さないよう、日々を振り返り様々な出来事を置き換えていこうと思います。将来の子ども達のためにも、今の自分の身の周りのことに置き換えてひとつひとつ丹誠を籠めて解決していこうと思います。

刷り込みを取り除く

学校での一斉画一化された教育を受けてそのままにしていると、たくさんの刷り込みにあってしまいます。

例えば、自分らしくいることはよくないことであったり、自分が自由にいることが罪悪であったりと、本来の自分というものを自然に理解していくことが難しくなるのです。

そのことから、弱みばかりを注目して弱みばかりを解決しようとしてしまう癖を持ってしまったりしてあまり変わらないけれど努力していればそれでもいいというような非建設的な方法ばかりを選択してしまうこともあるのです。

本来、強みを伸ばすという考え方は自分らしくいるとき、自分が自然で居るときもっとも貢献できるもの、皆に喜んでもらえるものを優先することで伸ばされてきます。

引き出すというのは、誰かによって引き出されるのではなくその人が自然に自由であるとき、つまりは安心して自分らしさを発揮することを喜びに感じているときにこそ出てくるものなのです。

いつも何かを行うときに、主語がどちらかということでその人の刷り込みが観えるのです。

例えば、私たちの仕事でも大人が主語なのか、子どもが主語なのか、発酵技術でも人間が主語なのか菌が主語なのかでも、その人の刷り込みはよくわかるのです。

そして当然、この国では国家が主語であるから個々の人権というのは主語ではありません。

教育は誰のためにあるのかと思うとき、それはやはり本来はその人たちの幸福で豊かな人生のために用意されているはずのものなのです。しかし、それが今の社会システムなどに呑みこまれ、本来の姿から外れてしまっていることに気づかなくなっている人も多いのです。

子どものための施設が、実際は主語は誰のために施設になっているでしょうか。

人間は謙虚でなければ、相手を主語にできません。

自分がやったのだや、自分の力でなど自己満足や自己欲求が優先するのでしょうが本来は感謝や御蔭様、皆様の協力があってと思う方を優先しなければ、結局は刷り込みに巻き込まれるのです。

もっとも刷り込みを取り除く方法は、今の現実が当たり前だと思わないことです。
それは自然のことを当たり前に思わないこと、元々の姿を実感することだと私は思います。

子ども達のためにも、何が本当のことかから外れないような生き方を示していこうと思います。

愛と関心

マザーテレサに、「愛の反対は、憎しみではなく無関心です」という言葉がある。
この関心と無関心ということについて考えてみる。

よく関心を持っているというのに、いつも相手のことを気にかけるというものがあり思いやりを持って配慮し続けるというものがある。例えば、今、どうしているかなやどんなことに興味を持っているのか、また何か変わったことがないかなど心配することでもある。

その逆に無関心というのは、自分のことで精一杯で他人のことはどうでもいいや、自他ともに心を使わず頭でだけで処理をして気にもかけないということでもある。

関心があれば、関わろうとするのだから繋がりがそこに発生し何らかの変化が生まれますがそこに関わる気もないのではあれば何も変わることはありません。人と人の間に、愛があり、その繋がりを持とうとしないところには愛がないとも言えるのです。

愛は関心とも言えるのは、関心とはお互いの配慮、つまりは心を繋げることを言うからです。

だからいつも気にしているのは愛を育てていくのです。

私にとっての最大の関心とは、「一緒に行う」ということです。関心を持つ人たちが学びたいことや、配慮している人たちが取り組んでいることに同時に取り組む、自分も楽しむ、自分もそれを好きになる、自分からその情報や体験を積んでいくということが実践だと思うのです。

それがよく他人に、すぐに勝負するや,、ムキになってや、子どもではないのだからなどと言われたりしますが、無邪気に関心を持っている自分の行動がそのように顕われていくのです。

関心とは、自分が相手だったらと自他同通というか同じ人生の一つにする、自分の人生の周囲の人も自分そのものとする気持ちが先にあることが大切であると私は思います。どんなご縁も一期一会、どんな繋がりも自分の一生の財産、そう思えばどんなことにも関心を示して取り組んでいくことだと思います。

真心で大きな愛を育てていこうと思います。

 

奇跡の感性

日々に歩んでいく中で時折振り返っていると、奇跡というものについての定義が変わってくる。

もともと世の中で奇跡と言われるものは、自分の思っている通りになったり、もしくは思ってもいないところから不思議なことが組み合わさって考えもしなかったことが起こったりするときに使っているものです。

しかし実際はそういうものは奇跡というものではなく、偶然にそうなったというだけだということになります。

本来の奇跡とは、この生きている今のすべてそのものではないかと私は思います。

例えば、目に映る今の景色、今自分が感じているもの、生きてきた思い出、多くの人たちの繋がり、そのどれもがあるはずのない奇跡の集積であるのではないかと思います。

特に今がなぜこうなったのかと振り返れば、あの瞬間瞬間の判断や出逢いこそがあの人や自分を景色をこの今のすべて生み出してきたのだと感じればまさに奇跡そのものを生きているのではないかと自然に覚えることができるのです。

何気ない日常、奇跡など滅多に起きないような意識があったとしても、実際はこの何もないこと自体が奇跡の中にいることなのです。

当たり前のことの中にこそ本質があり、何よりもかけがえのない大切なことは存在しています。こういう奇跡の感性がいつまでも心に在るよう、今を常に真心のままに精進を重ねていきたいと思います。

 

基本姿勢~努力の心~

何かを取り組むのに基本姿勢というものがある。

中学の頃、バレーボールなどでもそうだけれど最初はほとんどボールを持たせてもらえず只管に走り込みや筋力トレーニングを行う日々が一年近く続く、そしてはじめてボールを持たせてもらってもその後の一年はほとんど基本中のパスやトス、サーブを徹底して練習し、持ち前の基本の実力だけで最初の公式試合を迎えるという感じだった。その後は、試合の中で自分たちの強みを見つけては技術や技能といったスキルを向上させるという順番だった。

何でもそうだけれど、自分の基礎力や基本の体力がどこまであるのかはとても重要なことです。もしもこれが最初に誰かの受け売りのテクニックを覚えてそれですぐに試合に出て運よく勝ってしまったりもするのです。

そうなると次第に難易度が上がっていくたびに次第に勝負に負けるようになり、その時の負ける理由は全部自分のスキル不足のせいなのだとその人が勘違いしてしまうことがもっとも大きな問題なのです。

スキルというものは、実は結果論として後で勝手に身に着くだけでその大前提としてのまず基本や基礎があっての話であるのです。

私の言う基本や基礎というのは、「努力の心」というものなのです。
先ほどのスポーツでもそうですが、基本はすべて「諦めない」「粘り強く」「妥協しない」「遣り抜く」「真剣に打ち込む」などの自分の姿勢、取り組む時の自分の真摯なハートを身に着けることをいうのです。

スキル云々やテクニックや技術がどうこう言う前に、まずそこがどうなっているかなのです。
何かに取り組むときは、まず努力です。

そしてその努力の質量が結果を生むのです。

一般的に若い時に、本気で努力して精進し仕事をしてきた人はこの真摯に直向に取り組む姿勢ができています。するとその人はどんな困難があっても、その時の努力の厚みや広さ深さの幅の御蔭でその困難を乗り越えます。

逆に、そういう努力を体験していない人はその努力の厚みが薄く浅く、その範囲内を超えればすぐに妥協を繰り返すようになり負け癖がついてしまってなぜか何をしても躓いてしまうようになっていくのです。

そう考えると、自分が煮詰まったときは仕事を学び直すときであり、それは必ず一度は真剣に仕事を始めて努力するぞと決めた時の頃の初心に帰って何よりも向上心を持って我武者羅に一心不乱に打ち込むということが何よりも大切なのです。

それは営業では、必死に飛び込みをしながら自分の何が足りないのかを見つめて知識を蓄え、何度も鏡を見ながら自分を正し、大きなプレッシャーや使命感の中で、本懐を遂げ、お客様のために真摯に取り組んでいくという、言い換えれば「汗と涙の結晶」といった根気強くても地味に努力精進するといった基本姿勢から出直すのです。

これは営業を例えただけですが、どの仕事でも同じくまず基本というのは向上心を持ってまだまだだと根気を据えてそのモノゴトと一体になるほどに打ち込む姿勢のことをいいます。

今はすぐに頭でっかちにスキルを追おうとする人もいますが、人間は誰しも平等でそんなに天才や完璧な人などもそうはいませんし、すべては努力の上に花が咲くのです。

そういう必死に努力していく体験は、その後の人生を大きく支えてくれるものです。

なぜできないのと嘆くのではなく、もう一度ゼロからやり直そう、この本意は努力の心という基本姿勢からとやっていくといいと思います。

そうすればいつかスキルは必ず活かせるレベルに達すると思います。