気づきを気づく

誰かに教わるという学びと、自分から明らかにするという学びがある。

前者は誰かによって教わった世界で物事を考えることでありそれはいつも教わったところでの気づきで自分の気づきを導引するような考え方です。もう一つは、これは今年の師とのテーマではありますが自明といった自らが持っているものを如何に明らかにしていくか、つまりは自分に気づくことに気づくかということでもあります。

私はどちらかと言えば、今までの学び方は自分が気づくために行動して気づいたことを学んでいたように思います。しかし、自分に気づくために学んでいたのとは少し異なっていたのです。

先日、ある方との面談の中でその方が自らの幼少時に気づいたことをさらに丸ごと深く掘りそれが何だったのか、つまりはそれは本当は何かと気づくことを聴かせていただきました。そしてそれは私の中にも在り、子ども心に自分が感じたものから明らかにすることができることを実感しました。

なぜ自分がこうしたのか、なぜ自分がこうなのか、それを客観的な分析ではなく、自らの体験による気づきに気づくといったさらにもう一つ別の丸ごとの自分という場所で理解することを覚えるのです。

よく師が、子どもはそうならないと断言したり、自らの本質が正しいことを証明するために理論化しているところを観れば、知識が先ではなく自分の中に存在する子どもの真実そのものが先に存在し、それの裏付けのために話すことが多いのです。

自分が観ているものの方を信じることや、自分がもともと持っていることの方を確かめるというのは、すべてにおいて自分の気づきを丸ごと学ぶということになるのです。それが刷り込みのない人であるともいうからです。

今年の師からのテーマは、自明。

そこに気づくことはできましたが、これからそれを楽しみながら直していこうと思います。
素直に謙虚に、本物であるように天の真心を感じながらかんながらの道を開いていきます。