いのちの堆積

屍の層の話を自然農で学んだことがある。

様々な生きものたちが活動した上に、私たちの新しい活動があるという話である。

それは今生きて私たちが活動できているのはその前に活動を繰り返ししてこれまで永い間ずっといのちのバトンを繋いでくださった多くの生きものたちの恩恵で成り立っているとも言うのです。

これは身近でもよく土を観ていれば、土の上で活動する私たちの下で今までのいのちが土に還りそれが発酵していきまた次のいのちを活かすように存在しているのがよくわかります。枯草を取り除いてみれば、その下にはたくさんの虫たちがいます。よくレンガの下でもそうですが、いつも土の中と上には様々な生きものたちがちゃんといのちを守ってくれているのです。

ここ数か月、微生物から自然の学び直しをする中で如何に私たちはその目には観えない偉大な生きものたちの御蔭でこの自分の身体を維持できているか、そのいのちを保つことができているのかを理解します。

例えば、自分たちの食べるものはすべて腸が分解し体に取り込んでいます。そのためにたくさんの腸内細菌や微生物たちが一生懸命にそれを分解してくれ私たちが血肉として取り込みやすいように手伝ってくれているのです。

そしてその後の自分たちが排泄する便には一生懸命腸の中で活動してお役目を果たしてくださった多くの微生物たちがびっしりと詰まって出てくるのです。観えないところでいつも私たちのことを見守ってくださっている、そういう存在に感謝する心があれば本来はいつまでも心も体も健康に維持できるはずなのです。

しかし今は目に映る派手なところに心を奪われることも増え、そういう私たちを蔭ながらいつも助けて見守ってくださっている存在のことを忘れ、ゴミやカスなど排泄するものを人の目に視えないように隠し、またそれは汚いという刷り込みを与えることで考えもできないような仕組みになっています。

あの身近にあるいのちの役目を終えた生きものたちが共に流れて還ることを運ぶ川の水はいつの日か、大きな海に流れ着いて堆積していきます。その海には、土と同じようにたくさんのいのちが還元され新しいいのちのバトンを渡すような土壌を堆積し転換され母なる慈愛と滋養を循環するいのちの泉源となるのです。

この地球の大地も海も、すべては私たちのいのちの活動の集積の故郷でもあるのです。
私たちが捨てたもの、私たちが流したもの、私たちが活動した証がそこにはあります。

だからこそ、私たちはそういう目には観えないけれど今までの先祖の活動に心から感謝しその恩に報いるためにも推譲の真心で自分のお役目をしっかりと果たそうと、その天命を最大限活かすよう自然の一部としての今を精進していく必要があるのだと思うのです。

土の中や土の上では、多くの虫や植物などの生きものたち、そしてそのさらに上では私たち人間や動物たちが生きています。そうやって地球の何層もの生活圏をシェアしながら、積み重ねていく円満な活動を通して地球の循環の中にスパンと入ってはじめて安心立命をするのだと私は感じます。

大事なものはいつも地味なところ、偉大過ぎて観えないようなところにあるものです。
自分の感性が大切なものから離れないよう、常に自然をお手本に学んでいこうと思います。