自共生

人は共生していることやその根源を知るとき、自分から安らかなところに入る事ができる。

例えば、当たり前と言われるものの中にすべての本質があるように呼吸や水や土、風や光、星々や体や心などその中に共通するいのちを覚えるときに自分が共生していることを知るのです。

人の間にも当たり前すぎて意識しないものの中に共通するものがあります。それは御互いに認め合うといった尊重や尊敬という生かしあいというもの、つまりこれはお互いの存在に対する深い感謝ができているという共生が入っているのです。

古語に「親の心子知らず」や「親の恩は子を持って知る」、また「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」や「老いては子に従え」などもそうですが、この親子間の道理にも共生という信が入っているという先人の智慧が法理を述べています。

この法理から観れば親のことを尊敬せず、孝行しない人では人生も成り立ちません。
また子どもを尊重せず、育てようとしない人も人生は成り立ちません。

これはお互いが認め合うといった信じる世界、つまりは共生があって互いが存在するのは絶対であるという意味なのです。当たり前ですが互いに生かしあい活きることで私たちは自分の役割を知ることができますし、それを全うすることではじめて周りに貢献するという幸せを噛み締めることができます。

そもそも「いのち」というものは、決してそのもの単体では存在できないような仕組みです。
全ての生命は食べ食べられるように、御互いがそれぞれのお役目を果たすことで成立します。

それはいくら自分がこれをやったや自分が生きているのだと錯覚しても、正確には何かに活かされないとこの体も維持していくことができないのです。そこには先述したような、共通する当たり前のものが確かに存在してそこに一本の大道が通っているのだと私は思います。

自分が生きるということは活かされているということを生きること。
つまりはそれは共生する中での自共生。

いのちがイキイキワクワクと躍動していくような、本気で豊かな自然に身を委ね、自らの子ども心に正直に、一度きりのオモシロイ人生を歩みきった背中を遺し譲っていこうと思います。