人としての自然

身近なところで循環を学ぶことで、どのような生物が環境を用意して集まるのかを実験している。

動物や昆虫たちは、そもそも自然であるから自分の居心地の善いところに次第に集まってくる。逆に、自分の居心地の悪いところには自ら離れていくし近寄らないというようにそれぞれの棲家を分けているのです。

人間が思っているような生態系をいくら水槽のように用意しても、そこに居つくかどうかは相手次第であるのです。この相手次第であることが自然だからこそ、どのような生きものが寄りつくかはどのような環境を用意してどのように見守ることかにつながっています。

例えば、ある人は水や土を汚すような薬をまき人工的で機械的な環境を用意して操作しようとします。またある人は、丹誠を籠めて水や土を汚さないように手作りと手作業で自然を邪魔しないように丁寧に自然に合わせます。

それだけでも、環境を見守るその人の姿勢が異なることが分かります。
つまりは、環境とはどれだけ相手を信じるか、どれだけ丸ごとを信じるかによるのです。

信じないからすぐに信じないための対策をこうじていくというのが不自然であるのです。
リスクヘッジという言葉もありますが、対策は信じる仲間が誰かいればいいのです。
何でも組み合わの妙が働き、ゆえあってのものだから繋がっているのです。

そして生態系というものは、まず何を基本に集まるかといえば水、土、光といったものの組み合わせによってできています。そしてそれは常にあまり目では追わないようなところで行われている循環によって成り立つのです。

川に行けば、水が中心になって水生生物たちが多様性を維持しながら活動しています。また山に行けば土が中心になって山中生物たちが多様性を維持しながら活動し、それを様々な光を触媒にした微生物が環境を創造していくのです。

何でもそうですが、空気や風、水や土、光など偉大に重なり織り合う自然に畏敬を覚えます。

そして人としての自然は何かといえば、徳なのです。
組み合わせを融合し、それを感化していくことこそ自然環境を創造します。

都会だから自然ができないのではなく、人が自然ではなくならからとも言えるのです。
もう一度、人として何が自然か、考察していこうと思います。