いのちの歓び

マクロビオティックの桜沢如一に「遊ばざるものは、食うべからず」がある。

如何に自分の人生を最幸のものにしていくか、その遊びというものの中に自分を忘れるほどの自分というものが存在しているか、そういう遊びの中にこそ生きる価値があるということであろうかとも感じます。

子ども達の遊びのように、何かに無我夢中になることは自然の恵みの中で謳歌しているあの鳥たちや昆虫たちと同じような環境下になるのです。

人は、全身全霊で自分を活かそうとしたときはじめて陰陽に中ります。
そこで人生そのものの姿としての全体性といった調和が生まれるのです。

現在、重ね煮に取り組む中で「人生の目的は、やりたいことをやってやってやり抜いて、堪能するほどやり抜き、自由で楽しい人生を生き、艶なる人に喜ばれること」という桜沢如一の言葉にまた出会います。

すべてを活かそうとする発想には、自分だけではなく他も、他だけではなく自分もすべてのものを活き活きとしていこうとする自分のいのち自体を輝かせていこうといった根源的な思想が必要なのです。

私たちは常にいのちをいただきながら、自分のいのちを延ばしています。限りある人生の中で私たちは食べて食べられ、そのいのちを繋いでいるのです。だとしたら、私たちはこのいのちに感謝してというのはどういう行動を言うのでしょうか。

それは私なら、一生懸命に全身全霊でこのいのちを活かす、生き切るということになると思っているのです。一度しかない人生、自分勝手に平均からの寿命を逆算してペース配分して生きるというのは果たしてこのいのちを最大限謳歌していると言えるでしょうか。

時間を惜しみ、今に生き切るというのは、いのちの有難みを動的に自覚しているとも言うのです。もちろん、静的にもゆったり過ごし、今に生き容れるのも同じくいのちの有難みを実感しているのです。

つまりは、私たちはいのちをいただきながらいのちを活かすということが大前提なのです。

私の中の無双原理は、いのちというものの理解に尽きます。
自然界にいる私たちはいつもいのちをトータルで捉えていく必要があるのです。

何よりも、この今、この瞬間の奇跡に重ねていくいのちの歓びを感じて学んでいきます。