生きる実感

人は人に共感するとき、はじめて同じ気持ちで相手に寄り添うことができます。

苦しみや悲しみなども、自分が体験を深めてそれを乗り越えていくことはその同じ苦しみを持つ人たちの御役に立つのです。人はなぜ一人でできないかといえば、そういう寄り添ってくれる人がいなければ心が動かないからのように思います。

何のためにやるのかとなると根底には、つながりや共生の中で自分を役立たせたいという使命が存在しているからのように思います。そもそも自分がここにいるのはなぜかといえば、何かつながりの中の役に立つために生かされているようにも思えるからです。

だからこそ人は自分のためにというよりも、より多くの周りのために、誰かのためにと自分を使う時の方が、より勇気も覚悟もそして仲間もできるように思います。何の役に立つかについては、天からのお情けでといった謙虚なところでなければ理解できるものではないのでしょうが人は必ず自分が何のためにと自問自答を繰り返していけば自然に共通の目標も顕現してくるように思います。

そしてそれは実際の経験や体験の中で心や魂が揺さぶられたときその使命を再確認するのです。場数というのは経験のことで、それを積み上げていくことで五感で自分が何とつながり何の御役に立つためにいるのかを実感できるように思います。

共感とは自他一体のところで行うものだからこそ、常に相手のことを先に慮り、何のために自分がそこにいくのか、自分があるのかを準備していくことが心を先に使うことのように思います。心を先に使っていけば、自分の身の周りに起きていることが何かということの本質にも気づけて相手と自分は同じ存在であると目覚めるように思うからです。

そうやってつながるからこそ、人ははじめて生きている実感を憶えるのかもしれません。

最後に岡村孝子の歌の「夢をあきらめないで」の歌詞の抜粋です。

「苦しいことに つまずく時も きっと 上手に 越えて行ける 心配なんて ずっと しないで 似てる誰かを愛せるから 切なく残る痛みは 繰り返すたびに 薄れていく あなたの夢を あきらめないで 熱く生きる瞳が好きだわ あなたが選ぶ全てのものを 遠くにいて信じている」

人を愛するということは、自他の境を乗り越えて相手の懐に入り共感していくことのように思います。相手を思えば思うほどに、自他一体になるからこそ真心の言葉も誠の行動もできるようになるからです。共感というのは、相手を見てからするものではなく自分の中に相手を容れてその上で相手の気持ちに寄り添うことのように思います。

夢をあきらめないというのは、こういうことをいうのかもしれません。

 

ゼロに挑戦~無一物中無尽蔵~

ゼロから考えるということを深めてみました。

どうしても人は過去の自分の限界や、今までの経験から古い知識の中で物事を考えようとします。今までやったことでしか考えなくなるのは、挑戦するのではなく無難で居る方を選択していくのです。

そして不安になるというものも、過去の出来事にアクセスしては自分が勝手にそれをフラッシュバックし不安になっているのです。例えば、成功事例や失敗事例などもそうですが成功している記憶にアクセスしては成功を続ける人と、いつも過去の失敗事例に囚われては余計な不安を増大させ気が付くといつまでも同じようなことにしてしまい、それを何度も繰り返してしてしまう場合があります。現象が異なっていても、主観では同じことになっているのだから同じことの繰り返しとなってしまうのです。

ゼロでいるとは囚われないということであり、事物にこだわらないということ、つまりは私心や私欲を取り除き、捨て去って常に融通無碍に素直でいれば白紙の状態で物事を想像し自由に取り組んでいくことができるようになるということです。

松下幸之助さんに、「今までやってきたこと、それを一ぺん白紙に戻す。その知識にとらわれず、一からやり直す。すると、その捨てたものも有意義に働き始める。」という言葉があります。

囚われを捨てていく、過去のしがらみを乗り越えていく、自分を縛り付ける重荷を取り除いていくこそが、ゼロになることかもしれません。このゼロとは、私欲のないところで物事を考えるということではないかと思うのです。

そしてそれは夢も同じく、今の自分で描く夢ではなくまったくのゼロから何の夢を描くかというものができてはじめて新たな目標というものが芽生えていくのかもしれません。師の人柄でも実感しますが囚われが少ない人の方が、素直でいられるのはそれだけ私欲に縛られていないということでしょう。

知らないうちにこの我欲は自分というものを縛りつづけます。特に評価を求めてはできる人になろうとすればするほどに重荷になります。逆にできた人と言われるような徳を目指していればいつも裸になって気楽になれるのです。

それを解き放つために、常にゼロベースで取り組んでいくことだろうと思います。結局は過去に負けて過去に縛られて同じことの繰り返しをするのではなく、真っ新な白紙のところからはじめていく面白さと楽しさを優先していくことがいいのでしょう。

以前、私にとても大きな影響を与えて下さった方の座右を急に思い出しました。

「無一物中無尽蔵」

謙虚に、素直に、裸になって新たなスタート、ゼロに挑戦します。

実践という名の自信

先日の愛媛の糠床でも感じましたが、思いやりというものに距離も時間も超えているものを感じます。生きものと生きものは、思いやりの中でつながるのはそこに心の共感があるからのように思います。

一般的には自分の先入観や過去の知識から、頭で推測していくことは共感ではなく強制になり、相手の気持ちに自分の心をじっと寄り添い共に歩んでいこうとするのが思いやりであろうと思います。

人は自分のことが自分で一杯になっていると、自分の主観や価値観のみで判断してそれをもっとも正しいと思ってしまいます。そうなると素直といいながら、根深いところに自我が入り込んでいて本来の素直ではなく自己満足や自分勝手になっていくものです。

なので人はじっと一人で慎み内省をする時間が必用で、素直になるには自分がどうなのかという自分への矢印を正しく向けるのを先にし、相手にばかりに意識を向けなければいいように思います。

先日の糠床の話で、離れていてもいつの時間帯でも今のその糠がどのような状態であるかが分かると女将さんが仰っていました。まるで子どもを育てるように、いつも気持ちを合わせることができているのは互いに信頼し合い、生き方を照らしあって、共に実践していくことができるからのように思います。

この信頼を薄めていくものは目先の不安のように思います。自分が不安にならないというのは、まず自分が信じていることを自分から実践し続けているからのように思います。信じることは安心であり、安心するのは信じる実践によって維持していくように思うからです。そしてそれは自分の価値観を中心に置くのではなく、共通する理念を中心に置くからはじめて共有することができるようにも思うのです。

この糠床と自分との間にも、確かに信がありそこからがつながりと絆がはじまります。

せっかくの機会ですから、菌の実際の生き方や働き方と合致させたところで自然発酵と自然腐敗を学び直していきたいと思います。実践という名の自信を確信に換えていくまで、根気強く真っ新で学んでいきたいと思います。

一縁善転

昔からピンチはチャンスという言葉がある。

この世の中は禍福一円、陰陽一元、表裏一体と全ては円環の中で循環しているようなものです。その全体の循環の中心に自分を置いてモノゴトを観ている自分が居るだけであるとも言えます。

しかしピンチというものは一般的には大変弱ったことだと疲弊してしまうものです。それをピンチだけの方向から見てしまうと、なぜ自分がいつもピンチになってしまうだろうとそこから逃げる人もたくさんいます。しかし本来は、ピンチとは挑戦しているからピンチになるだけで挑戦もしない人ではピンチすら訪れないのです。無難に戻すことが本当のピンチであり、ピンチに真正面からチャレンジしさらにそこからもう一歩前進し勇気を奮いだして取り組むことが真のチャンスになるのです。

そもそもピンチが多いというのは、それだけ挑戦して変わろうとした結果でもあるのです。人が変わるのが嫌だというのは、無難ではないということで変わるのはそんなに簡単なことではないということを本能で知っているからです。

しかしそれでも大事なもののために変わろうとすれば、必ず大なり小なりのピンチは訪れるのです。そもそも無難なのは変わらなくてもいいから無難を目指すのであり、難があるのは変わりたいから難があるのです。

そしてそのピンチを乗り越えるのに、冷静になるのは自分がこの機会に何を学ばせてもらっているのか、どんな有難いことがおきているのかを感じるというのがあります。

例えば、そのピンチから教えられたことは何か、そのピンチに感謝したことは何か、そのピンチは自分の何を成長させるのか、そのピンチの蔭で見守ってくれた人たちは誰か、そのピンチに自分の生き方はどうだったか、そのピンチに平常心はどうだったか、そのピンチは自分の何を変えたのかと、そう内省して感じていけば次第にピンチがチャンスに思えてくるものだからです。

それをいつまでも自分の見方ばかりにこだわると、大切なその側面や同時に発生している有難い恩恵や感謝の心に出会えなくなるものです。私の場合はそういう時は、ご縁のあった方々への恩返しのために今回も必ず悪いことにしないと心に決めて、何を大切に抱き実践することが最も善いことになるのかに真摯に取り組みます。

しかし本当に尊いのは、変わろうとしたという事実です。

自分を変えよう、何かを変えようとすれば必ず同時にピンチは来ることを本当の素直な心はそれを知っているように思います。だからこそ、変わるという挑戦を始めれば難は誰にしろ訪れるものなのです。 それは栄誉ある挑戦だからこそ、そのピンチをチャンスだと思えるのは最初に決めた覚悟が試され、それに挑む勇気がそこで必要になるのだろうと思います。

「艱難汝を玉にす」

これは本当の珠玉の言葉であろうと思います。

そう考えてみると、人生は覚悟と勇気でできているのかもしれません。
福というものは、一縁善転によって訪れるのでしょう。

一つ一つのご縁と機縁に、感謝しながら善いことになることを念じていこうと思います。

 

継続の妙

先日、9年前から毎月一度収録をしているGTウェブラジオが無事に100回目を迎えることができました。

収録している先生が多忙なのは当然ですが、そういう私も日程を調整していくのには色々と工夫も必要でした。もともと多動で何でも興味を持つことから、一つのことに長続きしないタイプでしたが不思議ですが継続していくことができました。

決めるということや言行一致していくということは、流されないということですが流されないために日々の行いを持つというのは内省していくにも効果があるものです。

人は日々の喧騒の中で、自我が揺さぶられ情にほだされ、または今の安逸なサービスに囲まれた生活の中で迷ったり惑ったりを繰り返していくものです。それを日々の日課や継続していくことで、原点を忘れないことや自分がもっとも大切に決めた時のその「心のありよう」を忘れないでいようとすることが自分を守ることにつながるような気がします。

ブレナイというのは、自分の心で決めたことに誠を尽くしていくことのように思います。

そして継続というのは、それが現象によって惑わなくなること、遠くを観て自分を正し続ける実践を行うことになっているのだろうと思います。平常心とか、無我とか、そういう境地というものは遠くの光を観続けて実践に断じていくという状態なのかもしれません。

先日のウェブラジオの収録では、昔のことや苦労話なども行いました。

過ぎ去ってみると、大変だったことが全て愉快な出来事であったこと、それでも今も新鮮な気持ちで取り組めていること、いつまでも錆びないことを学び続けられていることなどを再確認することもできました。

関係がいつまでも古くならないというのは、真摯に学びの姿勢が最初にお会いした時から互いに変わっていないということなのかもしれません。ご縁というものの神妙さと、一期一会の邂逅の有難さを実感します。

常に初心を大切に、明鏡止水の心技体で新たなスタートをきっていこうと思います。

自律と自立~苦しいよりも楽しい方を選ぶ~

以前、見守ることの話の一つで、ある園から自律の話を聴いたことを思い出しました。

普通の保育園では、一般的に子どもたちは大人の言うとおりに厳しくしつけられ、一斉画一の中では放任か指導かという二極の考え方で保育を行っています。なので子どもたちは自分で考えて自分を律するというよりも、先生の顔色をみたり空気を読んだり、むしろ好き放題に過ごしているところが多いそうです。

しかし見守る保育を行う園では、子どもたちが自分で選択をし、自分で責任を持ち行動していく中で周りに甘えずに自らを律する力を持てるようになっていきます。社会で共生していくには、この甘えは禁物で甘えてしまうことで周囲に迷惑をかけるようになってしまうからです。甘えるのではなく他人に頼ることの大切さを身につけるのもこの幼少期の社会での体験が活きるように思います。

以前、私が最初に就職したところである上司にこんなことを言われたことがあります。「君は私から厳しく注意され指導されるのと、私から何も言われないのはどちらが本当に厳しいと思うか?」と尋ねらました。その上司は、かなり厳しく言う人だったので言われる方が厳しいのではとその時は返事したのですが実際は「君は私に何も言われなくなったら御仕舞でそこからは自分でやらなければならないんだぞ、言われているうちはまだいい、それを忘れずに必死に私が厳しいうちに学んでおきなさい」と諭されたことがありました。

これは今思い返せば、他人から注意されず誰からも言われないということはこれはよくよく自分を厳しく律し、甘えを捨て去らなければ責任を持った一社会人として会社で自立できないのだぞということを言われていたんだと思います。そのあとは、実際に何も言われなくなり自分で必死に言われないことの厳しさを味わいながら難しい仕事を取り組んだ思い出があります。

もう一つ別の話に以前、師から子どもの夢をみた話を聴いたことがあります。園にいる他所から転園してきた在る子が「僕はまえの園のように先生や周りに何でも指示して指導されて遊びも全部決めてもらった方がいい」と言われたそうです。しかしそれに対して「そうだね、大変だよね。でもこの園はお友達のみんなと自分で選択して自分で決めて、自分で全部やっていく園だからね」というと、「まえの方が楽だったのにね、、うん、分かった、いいよ」といったやり取りがあったそうです。

これは一つの自律のことを指すことで、甘えないというのは自分で甘えないということが分かるということができるようになるということです。例えば、仕事でいえば接客もそうですし、日々の業務連絡や全体への参画もそうですがそこで甘えるというのは自分のできることのモノサシで自ら周囲に甘えて妥協してしまうことをいいます。ここでは他人を頼ってでも品質を徹底して維持していこうではなく、自分に出来ない場合は出来ないのだから仕方がないと誰か任せにしてしまい甘えてしまうが妥協という意味です。

例えば、高級な旅館や飛行機のファーストクラスに乗ったとするでしょう。いくら常連だし、株主であったり、経営者の親友だからといってもそこでのサービスが二流であったり、いい加減な対応をされたらいくら仲が善いからといってもそれは大変不愉快な思いをします。

以前、伊勢神宮でご縁があった運転手や神職の人達もお仕事が大変厳しかったと言っていました。そこには公職や皇族の方々もいらっしゃるし、信奉していらっしゃる方々もいるので24時間365日、全く一切の気を抜かずに勤めていたと話を聴いたこともあります。自分でそれができない人たちは1,2年ですぐに辞めてしまったと言っていたのが印象的でした。

自律するというのは、甘えを断ち切り集団が目指す夢や理想のために自ら妥協点をてっぺんに合わせるために他と協力して他に頼りながら進めることができるようになるということであろうと思います。もちろん、理念をどうしても優先するからと他のことができなかったということはあるかもしれません。しかし本来は、それも実力をつけて理念をやって現実もそれに見合ったものがあって当然といった甘えのない自分を打ち立てていくことで会社もはじめてその価値に見合ったサービスや営業を展開していけるのではないかと思います。

この見守るの大変気を付けないといけない点は、そこが甘えになって本来の「らしさ」というものをはき違えてしまうことかもしれません。自由奔放に自分の好き放題でいることはらしさではなく甘えです。本来のらしさというのは、見守られる中で自律し自立することではじめて自分にしかできないことができるようになる、つまり社会や集団、世界へ貢献することができるように思います。

この自律は人生の中では大変厳しく辛く苦しいものかもしれません。しかし甘えてしまうことはそれ以上にもっと苦しむことになるだろうと思います。同じ苦しみも甘えているときと、頼るときでは質が異なっているからです。苦中楽ありの方の苦にしていくことが、私が善く言う「一緒にやれば苦しみは半分、歓びは倍」の意味になるからです。

楽しくなるにはやはり自らで自律できるようになり、自らが自立していくしかありません。人生は自然と同じものだからそこから習い、そもそも厳しいものだからこそ甘えて苦しむよりも、信じて楽しむ方を選んでいく方が尊いように思います。

理念から自分で考え抜いて、どうあることがもっとも自立なのかと出来事から内省し子どものことで深めていきたいと思います。

自分を尋ね、道を訪ねる

道を歩んでいく中で先覚者という人たちに出会うことがあります。

私の師もそうですが、その後ろ姿からどのように道を歩んでいるのかを学び習い歩んでいく楽しさを味わっていくことができるのです。他にも何百年も何千年も時のふるいにかけられても残存している書物や言霊、その生きざまや思想にも道の心得が学べます。

畢竟、この世に何をしにきたのかと問われれば人は学びに来たといっても過言ではないと思います。だからこそ、真我というものに気づけるかどうかはとても大切なことであるように思います。

人間には感情がありますし、根深いところに我が入るので真我といった無我の境地でいることはなかなかできません。いくら自分が素直になったと思っていてもそれは怪しいものだったりするからです。ただ穏やかでいることと静かでいることと、真実を信じるというのは同じことではないからです。

先日、師が常に他人の話を聴いて自分を確かめるようにいるのではないかとインスピレーションがあったのも道はそうやって正しいかどうか確かめていくものであるからかもしれません。そうして自分でいくら善いはずと思い込んだとしても、そのどこかに我が入り混じっているかもしれない、気づいていないかもしれない、そう自戒しているようにも思うのです。

だからこそ無我の境地や素直な姿というのはいつも周りを信頼して今の自分を正しく観つめては道が正しいかを確かめていくのかもしれません。自分の中には、自我と真我が存在していて共存して日々の生活を送っているものですからどちらの自分も自分ですからこのバランスを維持していくには多くの矛盾を抱え込まないといけないからでしょう。

だからこそ、自分でバランスが取り難いのだから他人を頼り、信じている証として、まずは相手の話を傾聴していく姿勢を忘れないでいることのように思います。分からないときは道を尋ねる、不安なときは先覚者に習い道を訪ねていくのがいいのかもしれません。

道は一人ではなく、仲間がいるから楽しいように思います。この時の仲間は別にただ一緒に居る仲間のことではなく、何を信じて生きるかを持っている人たち、同志と一緒に歩んでいるのだという楽しみのことです。

距離も時空も場所も超え、正しい道を一つ心に歩んでいこうとすることが天にお任せしていく生き方なのかもしれません。学びを昇華し、子どもたちに少しでも自分を譲っていきたいと思います。

新しい旅立ち

夢や理想があると、様々な困難や艱難というものはつきものといえます。

それに本当に同じような思いの方々に寄り添おうとしたら、同じように悩み苦しむ人たちと共感できるような体験を持っていなければできません。理想を諦めずに夢を追い続けていくのは、時として愛が枯渇していくような感覚も体験するかもしれません。

そんな時は、同じような体験をしている人たちを思いながら自分の夢を支えてくれる人たちを思いながら、遠くを視ては自分を立て直すように思います。

下を向きたくなる時こそ、上を向いて歩こうと思うような感覚に似ているのかもしれません。

人は誰しも必ず愛を育てていくような体験があるように思います。

そこには誰もが持つ、真我の道が存在しているからです。

道が異なるからと寂しいと思うのではなく、道が異なるのは自分の道を歩んでいるのだと歓びそして自分も道を歩んでいくことに誇りに思うことがいいのかもしれません。一緒に歩んだ道が楽しかったからこそ、心は辛く悲しいと思うこともありますがその先にある希望がその人だけのものであるからこそ信じることをあきらめてはいけないと思えるのです。

信じるというのは、道を信じるということで現象を信じるということではないと思います。
どんな今も丸ごと受け容れていくことが、道の実践者であろうと思います。

未来を信じるというのは、自他の今とこれからを丸ごとで信じるということです。

理念に守られていること、同じ道を辿る仲間がいることに心強く励まされます。
新しい旅立ちを祝福できるような今を愛していきたいと思います。