真心と実践を尊ぶ

今の時代は知識や技術ばかりが優先されますが、本来は実地実行こそが正直、誠実というものであろうと思います。

二宮尊徳にこのような逸話が残っています。

富田高慶という江戸の聖堂で10年間儒教を学び、尊徳に面会を求めて桜町へやってきました。会ってくれないのでとそこで青年夜学校を開いて面会の機会を求めていました。約半年後に面会を許されると、尊徳がいきなり「お前は豆という字を知っているか?」と問いかけます。それに高慶が、「勿論、知っています」と紙に書きました。すると尊徳は、「お前の書いた豆はたぶん馬は食べない」と言って門弟に蔵から豆を持たせました。そして「俺のつくった豆は馬が喰う」と言いました。これで高慶は理屈の勉強では他人は救えないと知り、尊徳の弟子になり誠心誠意実践に生きるようになりました。

同じような話に、京都から来た書なども修めた学者で会ってくれるまではと7日間断食をし尊徳に会ってほしいとお願いしたところ面会を許され、その時も「お前は学者だそうだが茄子という字を知っているか?」と尋ねてその学者が茄子を書いたあと、「茄子が先にできたか、それとも字が先か」と話されたようです。

これはいくら才知弁舌で技術や説明することができたとしても、真心を籠めた実践がなければそれでは誰も救えないと言っているのだと思います。いくら勉強して沢山のことを知ったとしても、テクニックで方法論を学んだにせよ、実践をしないのならば誰一人感化し生き方や人生を易えることはできないのだという真理を話しています。

今の時代は、すぐに便利な方法で解決しようと選択がどうしても実践とは結びつかないところで議論されることが多いように思います。知っていても救えないのは、そのために何を実践し、何を遣り切るか、何を行うかということを決めるということが先であるのです。

先に実践を決めないで人が救えるほど、世の中は甘くはありません。

誰かや何かの御役に立とうとするならば、当然、自らが実践しようと決めたことを行うのが先であるということなのです。豆や茄子のことを知っているだけでは、豆も茄子もできず、それを育てることができているからこそまた豆も茄子からも互いに与えることができるのです。

最後に尊徳はこのことをこう諭します。

「我が道は至誠と実行のみ。故に鳥獣虫魚草木にも皆及ぼすべし。況んや人に於いてをや。故に才智弁舌を尊まず。才智弁舌は人には説くべしといへども、鳥獣草木を説く可からず。鳥獣は心あり、或は欺くべしといへども、草木をば欺くべからず。それ我が道は至誠と実行となるが故に、米麦蔬菜茄子にても、蘭菊にても、皆これを繁栄せしむるなり。仮令、知謀孔明を欺き、弁舌蘇帳を欺くといへども、弁舌を振つて草木を栄えしむることは出来ざるべし。故に才智弁舌を尊まず、至誠と実行を尊ぶなり。古語に至誠神の如しといふといへども、至誠は則ち神と云ふも不可なかるべきなり。凡そ世の中は智あるも学あるも、至誠と実行とにあらざれば事は成らぬものと知るべし。」

つまりは意訳ですが(私の道は、真心と実践のみです。だからこそすべての命に影響を与えることができる。常に真心かどうか、実践したかどうかを尊ぶのです。今の世の中でいくら智慧があっても学問ができても、真心と実践がなければ事を為すことはありません)となっています。

どんなに悩んでも、相手の立場に深く共感し、やはり気づいたことを実践に移して後は天に任せて全身全霊人事を尽くすことほど他力が働くことはないように思います。常に尊徳の言う、至誠と実行を尊び、自らが天に御祐助の依り代になれるように精進していこうと思います。