分かろうとしないということ

人にはみんな思考の癖というものがあります。人が困るのはその思考の癖から抜け出せないからとも言えるのです。困るという字にあるように、困るのは今までの経験や知識といった枠があり、その枠が外れずに煮詰まってしまっているとも言えるのです。

またそこに陥るのは、何処かバランスが悪くなってしまうからのようにも思います。

古語に「一理を学べば一理を行え」というものがあります。

それは日々に本質から考えて得た調和して気づいたことをすぐに実行に移し、それがどういうことなのだろうかと知識を使って掴み取っていくことに似ています。しかし実際は、学問が習慣になるまでは知識だけに偏って行動を伴わなかったり、行動しても意味づけや内省を怠ったりするとバランスが崩れてしまうように思います。

論語に「最も賢い者と最も愚かなものだけが、決して変わることがない。」があります。

偏ることで人は大切なことに気づけず、いつまでも偏った場所を中心にするから変わることができないとも言えるように思います。もともと融合してあったものを分けたのは人間で、それを分けたからこそ分かるようになり分からなくなったとも言えるのです。

分かるはずのないものを分かると思い込んでいることこそが愚かであろうと思います。

分からないままでいるというのは、考えないということですがこれは信じるということです。この信じるというのは、内面の自分から出てくるものを信じるということです。そういう自分の信じるものを信じて行じていく人は分からなくても大丈夫という境地があるのです。

先ほどの一理を学べば一理を行うということ、学問と実践をちょうど同質同量を正直に分度を定めて等身大で素直に行う人だけが真の賢者であろうと思います。

変化というものの本質は、その学問と実践の間にこそ存在するように思います。それはまるで自然に発達していくことと似ていて、私たちは頭で生きているのではなく、全体のつながりのなかで分かれずに存在しているということなのです。

真の生き方を取り組むとして、気づいたことを学び実践することをひとつひとつ丹誠を籠めて取り組んでいきたいと思います。