朝夕生死一に帰す

一日を一生に喩えて言えば、朝に生まれ夕べに死ぬともいうように思います。

毎日が不止不転に変化していく中で、天与の出来事に遭遇しその中で人事を尽くしていく中で沢山の生き方を体験して学んでいきます。それは呼吸のように阿吽の中に私たちの生死が存在しているように思います。

この身体も、そして身のまわりの全ても天のものでそれをお借りして生きているのが私たちで死んだらそれをお返しするというのが生死の間にあるということだと思います。

どうしても私利私欲ばかりを追ってしまうと、こういう当たり前であることを忘れ時間も感覚も金銭も全部自分のものだと勘違いしてしまうことがあります。そういう時には、生の中にある煩雑なことばかりを憂うのではなく、死を想えばいいようにも思います。

しかしそういってもまた毎日は自分の方へと流されてしまうものです。そういう時こそ、道心が必用のように思います。自らが定めた道を往くという覚悟、この世に来た以上は何か恩返しをしようと行動に移せば次第に意識や考え方が定まってくるように思うからです。

この道心というものは、道を歩む人の背中から学ぶようにも思います。本来の生き方、この世に生まれてきて何を為すか、そしてどう死ぬかということを真摯に取り組んでいる人にご縁をいただき感動し、その時に感化されるように思うからです。

その道はそれぞれに異なりますが、然し本来は生死の中にあるものとして同じです。

二宮尊徳にこのような話があります。

「たとへばロウソクに大中小あるに同じ、大ロウといへども、火の付きたる以上は、4時間か5時間なるべし。されば人と生れ出でたるうへは、必ず死する物と覚悟する時は、一日活きれば則ち一日の儲け、一年活きれば一年の益なり。故に本来我が身もなき物、我が家もなき物と覚悟すれば跡は百事百般皆儲けなり。予が歌に「かりの身を元のあるじに貸渡し民安かれと願ふ此身ぞ」それこの世は、われ人ともにわづかの間の仮の世なれば、この身は、かりの身なる事明らかなり、元のあるじとは天をいう。このかりの身を我身と思はず、生涯一途に世のため人のためのみを思ひ、国のため天下の為に益ある事のみを勤め、一人たりとも一家たりとも一村たりとも、困窮を免れ富有になり、土地開け道橋整ひ安穏に渡世のできるやうにと、それのみを日々の勤めとし、朝夕願ひ祈りて、おこたらざるわがこの身である、といふ心にてよめるなり。これわれ畢生の覚悟なり。わが道を行はんと思ふ者はしらずんばあるべからず。」

意訳ですが、自分の主は、天である。そして我身はそれをお借りしているだけである。だからこそ少しでも人々の平和や安心を願い祈りて行じていくために朝夕怠らずに勤めていくのが我が身の使い方である。それが私の道を行おうとする人の覚悟であると読めると思います。

自他を大切にするというのは、死を想うからこそかもしれません。生死は常に一にして御目出度いことなのでしょう。今日もお返しできるものを求めて、実践を積んでいきたいと思います。