真の学力

学力というものは何かというものを定義してみます。

世間一般では学力というのは、知識を身に着ける力のように思われているところもあります。学力の差というのは知識や暗記の量で、賢いというのはそういうものが柔軟豊富にあることを意味しています。もしくは天才というように、突出した知識で智慧が働き質の高い創意工夫ができるものも学力が高いというような言い方もしているかもしれません。

しかし本来は、学のが先か生きるのが先かと言えば当然生きるのが先ですから、生きるために学んでいるということになります。言い換えればそれは発達していくことだと思います。

発達とは学び変化していくことで生きるとは学び変わり続けるということだと思います。そうして考えてみると、学力というものの本質は生きていく力であるということになります。

そしてこの生きていく力とは何かとシンプルに定義すれば、気づいたことをすぐに実行に移す力、つまりは学んだことを瞬時に生活に取りいれる力であろうとも思います。人は本気で学び続けていると、変化に気づく感性が磨かれ何が正しく素直であるかどうかを察知していけるように思います。本来の学ぶということは、常に変わるということであり、変わるということは学んだということに他なりません。

知識だけを増やしても変わっていく感性が鈍っていればそれは本来の学力ではないということです。知識でなく、気づき学びそして変える、それを一生涯絶えず行う、それが真の学力ではないかと私は思うのです。

私なりに言い換えればこれらの学力とは発達のことを言い、善く発達するものは善く学ぶということになろうと思います。そしてそれをより善く楽しむために師友が居て、仲間が居て、そして同志が居るように思います。

発達していけるということが無二の幸せで、学びあえることが福でもあります。発達していくには、つながりの中で色々な体験を意味づけしたり、互いに学び合ったりと、常に気づき実践しまた改善するという連続の日々の人生を歩んでいるということだろうと思います。

子どもたちに学力を身に着けさせたいのならば、当然自らが学力を磨かなければなりません。気づき学び変化するという姿で発達をし続けることだと私は思います。我々大人や先人である先生のお役目はこの実践を呼吸のように生死の間、常に止まらないことだと思います。学力が下がるというのは、変化する力が下がったということです。これはその時代の責任を果たすものとして大変怠惰なことだと思います。

最後に、易経の言葉で締めくくります。

「天行健 君子以自彊不息」

子どものお手本になるように、真の学力を磨いていこうと思います。