固定概念という世界

人にはそれぞれ固定概念というものがあります。それは自分の生きてきた中で常識であると思い込まされてきたものです。しかしたかだか今の時代の数十年の歳月のみを真実とし、それがこの世界だというのはあまりにも視野狭窄であろうとも思うのです。

本来は、人類だけではなく世界もまたあの宇宙も滾々と湧き出し連綿と続いてきた悠久の時の流れの中でその真実というものも変化し続けてきたのです。その時だけを生きている人がいくら切り取って真実を知ったかのように思っても、そんなものは知った気になっただけです。

なぜなら人はその時、不可能だと思っていることも、かつての人は可能にし、これからも可能にしていくからです。それが固定概念というものがあるという証拠です。

この固定概念というものは、自分の生きてきた身近なことや周りの人達、影響を受けたものから出来上がってきます。自分の中でできることやできないことなども、その人の固定概念によるものでそれを壊していかなければ新たな境地を実感することはありません。

頭でっかちに考えていると、どうしても固定概念に縛られて感性も鈍り直観も働くなってきます。ちょっと変であるという方が、ちょっとおかしいのではないかと言われるくらいでなければ自分の信じことを自分で行じていくことはできないのです。

しかし人間は、周りも常識であってほしいとお互いのことを縛ろうとするものです。その時代を生きる人たちの固定概念こそがその時代ともいえます。その固定概念の連鎖こそが私達のこの目に映る世界を創りだしています。そういうものをひとつひとつ変えていくことが時代を創る事でもあろうと思います。

そして時代を変えるとは、時代を変える人がいるということです。

それは時代に対して、自分の中の固定概念を壊して新たな創造を働かせてそれを周囲へ信じさせることができる人。坂本竜馬のようにビジョンやイメージを描き、そういう社会、近未来を予測しそういうものがあると感じさせてくれるような人が顕われるといってもいいのです。

人間がすぐに世界を諦めてしまうのは自らの中にある固定概念があるからです。
畢竟、人生は自分の中の固定概念を壊せるかどうか、己に打ち克てるかどうかなのです。

世界がこれからどうなっていくのか、その鍵を握っているのは子ども達で子どもたちの創造力こそが新たな豊かで幸福な社会を創りあげていくのです。固定概念を取り除くことは、刷り込みを取り除くことと同じです。

もともと備わっている自然を取り戻していくことは、固定概念をひとつひとつ外していくこととイコールです。常に今の自分と向き合い、自分の固定概念を外していき可能性を広げていくことで新たな世界を切り開いていきたいと思います。

新世界は常に今、此処、自分の中にあるとし、いのちを産み出していこうと思います。

道義

世の中には、筋道というものがあります。それを道義といいます。

例えば、天に照らせば感謝することや人に照らせば恩に報いること、そういう生きていく上で大切なことを学のが道義です。

一般的には、今の時代はあまり誰も叱らなくなったといいます。この叱るというものは何かと言えば、道義に反することをするから叱るわけであって意味もなく叱るのではありません。

昔は、親や先人たちが親身になって自分の将来のことを長い目で観てくれてよく叱ってくれました。私にも人生の岐路や大事な場面は、必ず善い師や先生、友たちが自分を間違った方向へと歩まないように叱り飛ばしてくれたものです。

そして今があるから、その感謝に報いたいと真摯に道義を重んじて生きたいと願うようになったように思います。

叱る方も叱られる方も、どちらもとてもそこに深い信頼関係があることに気づきます。叱られるということは、相手から叱られる自分でなければ叱られることもないからです。

自分がそれだけ叱られる自分をさらけ出して頼り甘えることができているということが一つ。そして甘えないで必ず学びモノにしていこうとする真摯な信じる姿勢があることが一つ。

つまりは、自立ということと自律ということを体現しているからこそ人との間に尊い信頼関係というものを一期一会の人生の中で邂逅していくことができるように思います。

長い目で観た時や経験から感じた時、そして誰よりも相手のことを思う時はその道義を説かなければなりません。しかしそれはとても難しいことであり、自我感情などを超えてその人そのものが自分であったらと思う必要があるからです。

もしも自分がその人だったらと思うなら、気持ちは分かるけれどならぬものはならぬとその筋道を正しく伝える技術もいるからです。

いくらコンサルティングをして経験を積んだとしても、その一つ一つの正対というものは常に真剣勝負ですから試行錯誤、錬磨研鑽していくしかありません。

自分が今、学ぶ必要があるのは何か、筋道に従って全て実践により掴んでいこうと思います。

たくさんの愛をいただいて育ててくださった方々のことを心に刻みその恩義に感謝と実践で報いていきたいと思います。

行事の見直し

行事のことを深めていると改暦のことにすぐに辿りつきます。

もともと私達日本人は、明治に入るまで太陰暦を使っていました。そこから太陽暦(グレゴリオ暦)を採用して今のような時間と月日に設定しなおしました。アジアの一部では、今でも旧暦が使われていますが日本ではその矛盾を月遅れなどというやり方で乗り切っているようですが本質的なズレは改善されているわけではありません。

例えば、本来の正月は2月15日頃でこのころが春に入るため四季の生まれ変わりの時機として一年の計を立てるのもこの時期が相応しいとしていました。他にも五月晴れは本来は梅雨の最中の晴れ間のことを言っていますから今でいう6月の中旬頃の晴れ間のことになります。他にも、お盆は7月15日頃のことをいいこの時期の月がお盆のように美しいと詠われたこともあるほどに月が冴えていたから七夕などもこの時期に行われたとのことです。

そもそもの私たちの歴は月の運行によって計算されていました。

例えば、1日をついたちと呼ぶのは「月立」から来たものですし十五夜というのは新月から満月になるまで15日かかるので十五夜というように常に月を基準に1年の運行を読んでいたようです。

月を観ては、日々を感じ、そして朝日を観ては一日のはじまりを感じて過ごしてきた民族とも言えるのです。私たちの一日のはじまりも、今では深夜0時に日付変更線によって変わると信じられてしまいましたが本来は朝日が昇る時が一日のはじまりで日が暮れるときが一日の終わりであったと自然と共に暮らしてきたのが私たちの一日でした。

今では明々とした電灯の中で、時計をみて一日を過ごし、せかせかとスピードを上げた中で行事をこなしていますが本来の行事は自然とともに季節と共に味わっていたものなのです。

新暦か旧暦かを問う前に、本来の自然と寄り添い生活してきた私たちの本来の姿が何かを見つめ直す必要がるように思います。間違いを子孫が正していくのも、先祖の方々から受け継いだ使命の一つであろうと思います。ですからこの行事の見直しは、子どもたちのためにも必須のことです。

日本人らしさとは何か、日本という国が自然から手ほどきを受けてきたものは何か。自然に取り組み、自然を取り込み、改悪された刷り込みに打ち克ち、身近な自然をもう一度、見直し実践していこうと思います。

 

世界への挑戦

世界に出てみるとコミュニケーションの取り方に気づくことがあります。

中国でもそうですし、西洋でもそうでしたが、はっきりとイエス・ノーを話さなければなりません。これは別に当たり前のことですが、日本の場合は相手をまず気遣いながら話す文化があるのでなかなか急にノーとは言えないのです。

他にも、個のアイデンティティを重要視するあまり私かあなたかということがはっきりしています。先日の交通の乱れでトラブルが合ったときも、我先にと列に並ぼうとはせず周りのことなどはお構いもなく自分の主義主張ばかりを相手と戦わせるのです。

常に相手と自分、自我と自我のぶつかり合いのなかでコミュニケーションを発揮していくのが便利な言葉の使い方であろうと認識しているようです。

しかしそれを深く掘り下げてみるとどうでしょうか。

日本人は古来から、相手を自分のことのように思いやること、もしも相手が自分だったらと置き換えて考えること、また世間様というように自分だけではなく周りのことを省みて自分はどうするかということを大切にしてきた民族です。

これはコミュニケーションの本質、共有から共感までを一貫して発展させてきたものであり、私たちの持つ空気を読むとか行間を読むといった、間の文化であろうとも思うのです。

私たちは一神教ではなく多神教で、もともと繫がりやご縁の中で私たちが活かされているというように「私」ではなく「私達」という言い方をよくするものです。これは私達という概念のバックボーンには、常に八百万の神々がおわしますといった自分が生きているのは自分だけではないのだから周りを常に思いやって大切にしていこうという生き方があるのです。

自分に余裕がなくなってくると、また間違った個人の文化を鵜呑みにしてしまうとついて相手か自分か、敵か味方か、右か左かと、分けてばかり考えてその中心にある一円融合している場所を掴むことができなくなるものです。

西洋のように、正・反・合という概念はまだまだ未熟であり、本来は一円融合することが最も物事の本質を捉える成熟した方法なのです。これは若い人がすぐに議論をぶつけ合うのに対し、老熟した人たちが沈黙して物事を理解していくのとの違いに似ています。

様々な出来事をそのままにせず、それをよく玩味し、自分も相手のない全体のところで常に物事のご縁から答えを導き出そうとする智慧を持つ民族。そういう私達だからこそ、「もったいない」「おかげさま」「ごえん」「みまもる」「ありがとう」などといった一円融合した言葉を生み出していくのです。

もっと私たちは日本人であることを実践していく必要があります。そうしてそうしたことで生み出した技術や道具を今こそ世界へ発信していく必要があるのです。人口が増え続け、世界は渾沌とした情勢をみているとますます危うさを感じます。

新しい世界へ導くには、この日本人の融合思想が今こそ必要です。今はもう対立から結びの時代に入っていかないと今を生き切る私たちが進化したとは言えないからです。

子々孫々の平和のためにも、一円融合、一円融和していくためにも矛盾を内包できる胆力を人と人の間で磨き、強くしその土台を持って世界へ挑戦していきたいと思います。自分が日本人であることに深く感謝し、安易な言葉を使わず、思いやりのある言葉を大切にしつつ東西の融合を進めていこうと思います。

自分を知る旅

人は自分のことが分からなくなるとスランプになるものです。このスランプというものは、自分以外の周囲のせいにしているときに起こります。問題を自分のせいだと気づく時、はじめて人はスランプから抜け出すからです。

矢印を自分に向けきるというのは、逃げないと覚悟を決めることとイコールですから実際は口でいくら矢印は自分と言っていても実践するということはとても厳しいことなのです。

人は皆、一体自分がどういうものなのかというのは自分が一番よく分かっていないものです。いくら客観的に自分の感情や周りのことを冷静に分析し理解できるとしても、一番身近な自分の弱さがどのようなものか、そして強みがどのようなものかはそこに自分の我が入っているから分からなくなるのです。

スランプに入る時に感情に呑まれるのも、本来の自分が観えなくなっているからなのです。

本来は、信頼できる人に委ねて自分の強みと弱みを発見してそれを転じていくことでその両方を活かすこともできるのですが、本当の自分に向き合うのはいくら師や友がいても自分の問題ですからその正対も自分でやることになるのだから苦しいものなのです。

特に変化するときや、チャレンジするときは、今までの自分の認識をひとつひとつ削ぎ落としていく必要があるからどんな人でも必ずその時はスランプに陥ります。そうやって乗り越えていくことで自分の確固とした人生を生き抜く土台を築くのです。特に若さとはそういうものでしょうし、その時にどのような「心がけ」があるかで道筋が決まるのです。

話を戻しますが本当の自分がどういうものなかということを知るということは本来の自分の中に深く入っていき、そして強く探りとっていくものです。

人は環境の中で自分というものを理解します。現代であれば現代の中の自分であるし、古代であれば古代の環境の中での自分が存在するようにです。つまり本来の自分というものは、周りとのつながりの中でできている自分というものがあるということです。

しかしそれは単に外側の環境に影響を受けている自分であって本来の何からも影響を受けない根幹の自分、無中の有というものはまた別に存在しています。言い換えれば、環境に左右されることのない命としての自分のことです。

その命の元である自分がどのようなものなのか、それを向き合い認めるには限りなく素直にならなければなりません。しかし人は素直には簡単になれず、何かが自分の思い通りになると思っているうちは自分に気づくことはないようにも思うのです。

よくこの時のことを感じれば、人は思い通りにいかない中に、必ず思い通りにいかせたくないものがあるのではないかと私には思えます。つまり私には、思い通りにいかないときに思いどおりにいくのを邪魔している存在があることに気づきます。その存在というものは、本来の自分とのバランスによってそれが執り行われるからです。

自分を知るというのは、耐え忍び信じ念じる中に顕われてくるものです。長い時間をかけてじっくりとゆっくりと沁み渡るように自分のことを理解していくもの人生なのです。思い通りにいかないときの方が、自分のことをよく知れ自分のことを理解し、本来の自分と向き合っているともいえるのではないかと私には思います。

自分を知るのは苦楽がつきもので、この苦しみの中にこそ楽しみの中にあり自分がそれを望んでいるという。ここに自我一体、自我一如、正しい自己の認識を掴んでいく鍵があるように思います。

すべてにおいて楽も苦も無も有もすべて自分との正しい向き合いという実践を通じて味わっていくことでそれを学ぶように思います。

いつまでも永遠に流れる自分を知る旅は、果しない彼方の先にまで続きます。一つの旅の中でまた新たに出会った自分の中のすべてを受け容れ、その強みも弱みも日常の中でつながりに活かしていこうと思います。

求法の旅4

慈覚大師円仁の「入唐求法巡礼行記」を読み終えました。

全4巻が織り成す様々な物語を読み進めていると、改めてその旅路の凄まじさが伝わってきます。特に、武宗の行った仏教弾圧は厳しいもので廃仏をはじめ僧侶たちが突如として様々な迫害を受けました。

それを逃れつつ、多くの方々に援けられ見守られ仏法を学びそれを日本へ持ち帰るといった偉業を為しているのです。

後半の部分には、行間に苦しかったことが書かれています。あまり日記全般の中には、そういう感情が入っている部分は少ないのですがこの後半の旅が如何に厳しかったかを物語ります。

例えば、(五月二十四日。朝早く出発した。夜十二時前後、淮水の注ぐ海に着いて停泊した。逆風と猛り立つ高波のため淮河の中に入っていくことができない。持っていた食糧が全くなくなってしまって窮迫、非常な不安と疲労におののいた。)

(七月二十日。出発して山や野を行く。草木は高く深く繁り人にもめったに逢わない。一日中、山にのぼったかと思うと今度は谷にくだって入って行き、泥水の道を踏み歩いてつらく苦しいことはこれ以上ないと思うほどである。)

(八月二十四日。文登県に着く。円仁たちは山を越え野を渡って衣服はぼろぼろに破れ使い果たした。県の役所に行き県令に会い、「当県の東端にある勾当新羅所に行って、食べ物を求め乞うてただ命を延べつなぎ、その間に自ら舟を求めて日本国に帰らしてほしい」と請願した。)

他にも、次々に厳しい勅が降りて仏教弾圧の最中を駆け抜けていくところや食事がろくにできない状態のまま休憩もさせてもらえずに厳しい扱いをうける所なども多くある。

また同時にその中で仏弟子に出逢い、丁重に大切にしてくださった人たちもあり、一期一会に感動する場面もあります。この日記には、その円仁の生き方そのものが詰まっており、これが与えた影響は本当に大きいのではないかと思うのです。

ここから空也、法然、親鸞が顕われてくるのです。特に法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったと言います。これらの実践の様子は、常に仏の教えの鑑となって法を求めることの価値を後世の人達へ与え続けています。

人の業績というものは、何をやったかというものもあります。しかしそのプロセスとしてどうあったかということはあまり論じられることはありません。師の果たせなかった夢を受け継ぎ、謙虚にその真理の実現のために尽くした至誠の人、この慈覚大師円仁にどうしても深い魅力を覚えてなりません。

これはまるで異種ですが私には、源義経、高杉晋作、直江兼続、松尾芭蕉など義に共通するところが見え隠れするのです。

人はどのようなものを信じて生きたかということは、最期には遺るように思います。何を信じてその人が生きたかというものは結果を見なくても、そこに何か映し出されてくるものがあるからです。

人が生きるということは何に生きるかということです、そして人が死ぬのは何に死ぬかということです。

法を求めて旅をして、その法の求める中に掛け替えのない間人の絆があったということ。日本人らしく生き切った円仁という一個の人に心から敬愛と尊敬の念が込み上げてきます。

今回いただいた機縁と「入唐求法巡礼行記」との出会いは、私にとっての勇気になりました。

有難うございます。

求法の旅3

自覚大師円仁のことを深めていくと、その生は大義のために生きたことを実感します。

日記を読み進めていると円仁は、最澄の志を受け継ぎその教えを自らが成し遂げるために求法した生涯であったように思います。

夢枕に最澄が何度も立ち、円仁のことを思いやる言葉を遺しています。そこには師弟の絆があり、その御恩への感謝へ報いるために仁義を尽くしたのではないかと私は思うのです。

高齢でありながら、3回目の渡航でようやく唐へ渡ってからも、9年の歳月をかけて師が求めたものを探し出し、持ち帰り、竟にはその思想や文化、技術を日本の各地へと赴き天台の真理として仏の心を弘げるのです。

その証拠として、全国に円仁が開基、あるいは中興となって寺院が600か所以上になります。(天台宗典編纂所の調査による)昨日も、福岡県田主丸にある最澄と円仁が来て改宗をした寺院に参拝することができましたが、そこに遺志を感じることができました。

師を大切に慕い、その恩恵や感謝を自らの実践とその体現によって顕そうとする真心の人。その人柄が浮かんでくるのです。遺言では、「私の墓には一本の木を植えておけばいい」といい、これは二宮尊徳と同じように謙虚に分を超えずに生き切った人の最期の言葉として深く尊敬します。

また帰国後も、中国でお世話になった人たちへの恩返しを忘れずに来日の際の衣服や住まいなどを提供するようにし、また岐路で大変お世話になった赤山明神を奉るための寺院も遺言によって弟子たちが実現しています。

どの業績をとってもみても、大変な謙虚な姿に感動することばかりです。

表の中には出てこない、陰にあるものの偉大さ。その蔭の働き手の縁の下の力持ちによって今の人達の心にいつまでも生き続ける仏心仏道がある。その仏弟子の鑑のような生き方をされた円仁の義から学び直すことができました。

一代では成し遂げられない夢を実現するには、表裏一体、自他一体、仁義一体、師弟一体の業績があってのことかもしれません。その純真な思いに応えるのもまた真理です。曼荼羅に、胎蔵界と金剛界があるように、宇宙にも陰陽があるように、すべてはバランスの中にある一筋の光の中に真実が存在するのかもしれません。

1200年の時を超えて、成し遂げた偉業を観ればまだまだ学ぶ事ばかりです。

先人の生き方から学び、今の自分を尽くしていきたいと思います。

求法の旅2

慈覚大師円仁の日記を読み進めているとその旅路の難しく厳しかったことを実感します。酷い蚊やアブに悩まされたり、雷雨をはじめ天候に悉く恵まれなかったり、病を得たり、役所の人達の理解が得られなかったり、数えきれないほどの困難と遭遇しています。

その間に記された行間に、その出来事をあるがままに記していることに返って思うことがあるのです。時折、そのシンプルな文章の中に感激したことを坦々と書かれているのですがその文章を読んでいると求法を実践している円仁の人柄が目に浮かびます。

当初は、最澄の意志を継いで天台山を目指していましたがそうではないと言わんばかりに壁が立ちふさがり、諦めかけたころに五台山に換えるという決心をしました。そこからは仏縁に導かれ、様々な人々との邂逅を得て旅が進んでいくのです。

今、ちょうど読み進めて五台山に辿りついて霊仙三蔵との邂逅があっているところです。

この霊仙三蔵は、同じく日本人で最澄・空海とともに唐に渡った僧の一人です。知名度で言えば、最澄と空海が有名ですがその陰にはこの霊仙がいるのです。この三人は共に入唐しましたが、最澄はわずか八ヶ月、空海は三年で帰国しました。霊仙はその後二十三年の長きにわたり在唐して最期まで帰国はできませんでした。

当時の中国の憲宗皇帝の信が厚く、僧としての最高位を示す称号と位を与え日本人でただ一人の三蔵法師、霊仙三蔵となりました。

円仁はそれを五台山で聴き、そのまま長安への旅路の最中で廃寺となっていた七仏教誡院に立ち寄り偶然にもそこに残された言葉に霊仙からのインスピレーションを受け取ります。

それは霊仙三蔵から託されて日本と中国の間を五回も渡航し行き来した僧、貞素の詩を見つけることで得られます。それを書き写して日記に持ち帰るのです。結局は、この円仁はかつて唐に渡った三人の意志を集大成して吸収していくのです。

また余談になりますが空海の弟子の山城国小栗栖の法琳寺の僧、常暁が後日、偶然にもこの霊仙が遺志として託した太元帥法と法具を日本に持ち帰ることになるのです。それが明治になるまで、国難の時に行う秘法として元寇のときや日露戦争などでも用いられていくのです。

志は決して一人では為らないことをこれらの因縁から実感します。一人では成し遂げられない夢を、同じ志を持つ者たちが観えない糸で結ばれ合い、力を合わせて偉業を実現していくという事実があります。

そこには時空を超えて場所を越えて、必ずインスピレーションでつながっていくということに大義の持つ美しさも実感します。これは武士であろうが、僧であろうが、または商人であろうが、志は必ず人々の間に生き続けていくということを証明しているのです。

人は、その思いや願いこそが何よりも尊く、その意志により出逢いやご縁が生まれ旅が霊妙に寛美に彩られていくのです。旅はその志があってのものであり、それは須らく自らの脚で初志貫徹に歩む時にこそ出逢うように思います。

その後も円仁は、旅の途中で様々な仏縁に導かれていきます。文殊菩薩の智慧を学び、その智慧を発見していく日記には、どのような旅の辿り方をしたのかを垣間見ることができます。縁を辿っていくのは、自らの人生を旅していくことと同じです。

かつて、日本人の先祖にこのような人がいたことをこの歳になってはじめて知ったのもまた尊い仏縁の御蔭であるように思います。毎年、この夏のお盆の最中には仏縁に恵まれ学びを深めることができています。

引き続き、求法の旅路を香りを味わってみたいと思います。

有難うございます。

 

求法の旅

今回の中国での旅は、色々な収穫がありました。

久しく体験していなかった様々なトラブルにも出逢い、友人との思い出も共有でき、変化を味わうこともできました。また同時に、慈覚大師円仁との出会いも今の自分を励ますことにもなり有難い機縁になりました。

思い出というものは、順風満帆であるときよりもむしろ艱難辛苦の時の方がいつまでも忘れないものです。しかし異国で八方塞がりを体験することは、本当に色々なことが試され、精神的に強くなっていたつもりでもまだまだ体験していないことがあることを実感するのです。

それに難が有ると書いて「有難い」ですが、その難こそが自分の信念を鍛え、自分の精神力を磨き、自分の運気を高めることを思えば、人は誰でも大変な時にもっとも学び生長していくのだと実感します。

帰国して、これから円仁の日記、「入唐求法巡礼行記」を拝読していく予定にしていますが思い通りにいかない中でも自ら求めて倦まず弛まずに前進し続ける姿にすでに大きな感化を受けています。

思い通りにいかない中に思いがけないこともある、そして思いがけないことがあるとき、そこに法が存在していることに気づくように思います。信じるということは、五体投地のように身を投げ出してでも真理を求めたいと願う心にあるのかもしれません。

それは自分のいのちよりも大切なものがあるときや、大義を優先したいと願うときにこそ、顕現してくるものかもしれません。

まだまだ自分には時間やスピードについての刷り込みもたくさんあるようですし、自己中心的な刷り込みも便利な生活の中で刷り込まれてきています。一生に一度の人生、それを忘れてしまえば目先の損得に自分を埋没させてしまうかもしれません。

常に初志が何か、何のために生まれて、どう死に逝くのか、常に一貫して忘れないままに旅を味わいたいと思います。敢えてゆったりと悠久の流れに身を任せつつ遅々と歩むことを恐れずに前進していきたいと思います。

幸福の秘訣

毎回、旅を終えるときに思うことがあります。

それは旅の意味についてです。

人は何かを学ぼうとしているから学ぶのではないように思います、同時に何かを欲しているから欲するのではないように思います。つまりは、不学不欲というように学ばず欲さずときこそがもっとも学び欲したということになると思うのです。

例えば、自分では学んだ気になっていても実際は自分の考えの及ばないところでその学んだと思っている以上のことが発生しているとします。それを学ぼうとすれば余計に学べず、学ぶのをやめてみてその後の意味を味わっていると自然に学びに達します。

また同様に自分では欲している気になっていても欲している以上のことが発生しているとすれば、欲するのをやめてみれば自然に欲したものがその中に手に入っていることに気づきます。

このように意味が後で着いてくるものを旅と定義したとしたら、旅とはそのものをそのままに味わう中にこそ何とも得難い邂逅の記憶になると実感するのです。

そしてそのほとんどは日々の何気ない生活の中にこそ存在しているように思います。

この何気ない生活というものは、先ほどの不学不欲の中にあり、来たものを素直に受け取ることができるとき、過ぎたことを澄んだ心で意味づけができるときにこそ、無尽蔵の教えや学び、また人生の求道で得られる感謝の醍醐味も味わうことができるということです。

人生、そのものの意味をどのようにつけたのか、その意味をどのように味わったか、そこに幸福の秘訣があるように思います。どんな出来事があったにせよ、それに感謝していけるような人生、そしてあの件もこの件もまたそれは偉大な見守りの中であったといつも実感できた人生。

自分がいつも何か偉大なものに助けられてこの地上の旅ができることに感謝するのです。

その一つ一つ分かれていない太古からの旅の記憶、その意味を日々に紐ずけていけば、自ずから学ばなくても学べているのです。この人生という美しい秘境の楽園にいる自らの意味を感じることが旅そのものの本来の味わいなのかもしれません。

旅とはつながりなのです。

このつながりの中に歩んでいることは、目には観えないものを実感するときにこそ顕われてきます。自分の中に或る無邪気な子どもの心が旅を求めてはいつも遊びたがっています。日々の遊び場にすべてを投じていきたいと旅を思うほどに好奇心が働きます。

「ゆめうらら うみの小舟と 流れゆく はるかかなたの 星旅のなか」 藍杜静海

内省を味わい意味を楽しみ、この旅の記憶の醍醐味と人生の妙味を尽くしていきたいと思います。

有難うございます。