流れ行くことが不易

中国に来て、改めて流行というものについて観察をしていると気づくことが沢山あります。以前との変化の中で如実に表に出ているもので若者たちの食文化の変化があります。

最近の中国の若い人たちは日本食や欧米の食が人気で、今では当たり前のように外国の料理がスーパーの陳列に並んでいます。寿司やハンバーガー、サンドイッチからまるで日本と同じようにそもそもこの国の人達が何を食べているのか分からない程に混ざり合った食生活がはじまっています。

そしてデパートなどでも、たくさんの人たちが回転寿司を食べていたり、日本のラーメン、たこ焼きやカレー、ピザや世界のスイーツなどを楽しんでいます。若い人たちにとっては、当たり前に他国のものを食べているうちに自国のものが何かも思い出せないように変化しています。

実際、いくら国家や誰かがこうあるべきだと教え込もうとしても若い人たちはそれに反発するものです。なぜなら、流行というものは時代に合った考え方でありいくらそれを誰かが意図的に防ごうとしてもそれは止められないものだからです。

若い時の反抗心というものは、体験させることを防ごうとする大人側の都合に反抗しているのであって本来は流行してきた時代の体験に自らを合わせていこうとする本能があるからどうしてもやってみたいと思うのです。何かを一方的に正しいと押し付ける前に、自分たちが流行から遠ざかっていないか、自分の思いばかり強くて本当に大切なことを忘れているのは本当は自分の方ではないかと矢印を自分に向けることが重要であろうと思います。

好奇心は体験していなければ減退していくものです。自分の減退していく好奇心をよそに他人の好奇心まで奪っていくようであってはならないと思います。体験を積み重ねていくことは、私たちのもっとも叶えたい願望の一つです。

そもそも、これらの記憶を忘れたくないということはどういうことかといえば人生で大切な体験をしたいという願望です。例えば、人間の間に存在する愛や勇気、真心や親切、いくら時代がどのようであっても人としての素晴らしさ、感動を忘れたくないと本心で思っているから人は生きて体験をしたいと強く願うのです。

先に経験した人たちが体験をいくら暗記させ忘れるなと誰かに刷り込み管理しようが、経験をしていない人たちはそれが自分にとっては単に知識上の産物のみであるのはすぐに見抜いてしまいます。だからこそ若い人たちは素直に、その同じ体験をしたいと願うのです。同じ体験をすることで、その大切だと忘れてはいけないとしていることを思い出すからです。親にできなかったことをやりたいと願うのも、自分にしかできない体験をしたいと願うのもまた大切なことを忘れたくないという記憶があるからです。

この大切な記憶というものは、そもそもなくなることはありません。人間には常に心があり、その心は大切なことを失わないのです。何万年も何十万年も前から愛することを知り、感謝を知り、自然を知り、協力の尊さも知っています。他にも、悲しみの中にあるもの、歓びの中にあるもの、幸せの中にあるものなどもすべて覚えていて忘れることなどありません。

そういう元来のものを忘れないようにと伝えることが本来の歴史のあり方ではないかと私は思います。しかしそれを便宜的にいくら一方的に押し付けても、ただの暗記の強要にしかならず、若い人たちはそれを素直に反対するように思うのです。

良し悪しの基準ではなく、人間というものの基準で物事を捉えることが不易と流行を見極める本質であろうと思います。

生きていれば誰でも齢をとります、かつて若い人たちは今では年寄りです。だからこそ、その時代時代に体験したことはその時代時代に体験を通して引き継いでいくように思います。つい人は体験したことでそれをさせたくないとかさせようとか押し付けようとしてしまいます。

そうではなく、その体験の中にある尊いものを実感できるよう見守ることが体験をいつまでも忘れていない証拠だと思います。せっかくこの世に生まれてきたのだから、人間としてしかできない体験、その人でしかできない尊い体験を重んじていけるようになりたいと思います。

時代のことをとやかく言う前に、自分の体験を高めて新たに求め続けたいと思います。

 

血を遺す

中国での変化を来て観ていると、文化や文明がどのように入れ替わっていくのかを実感することができます。これらは急速に変化する中で観えてくるものがほとんどで、必ず大なり小なりどこでも起きていることですが自分の体験から観えてくるものはニュースや本で得る知識よりも確実です。

私が中国に居た17年前と今と比べると、目に見えて著しく変化し定着したところは交通手段、通信、住居です。

圧倒的に、自家用車の数が増えタクシーの数が少なくなり、新しい住まいとしてのマンションや別荘が建ち、携帯電話やパソコンを使ってインターネットをしています。経済が発展していくと、今まで憧れていた生活を手に入れるために過去の考え方を若い人から順に捨てていきます。

現在の中国の若者は、先進国の文化や流行に敏感でかつての古い考え方を次々に否定して新しいものを吸収していくのです。その憧れとして、文明や文化の潮流を読み、そこに自分たちを移動させていくようにも思います。

特に不便な生活から便利な生活へと向かう力は凄まじく、どんなにかつての古き善きがあったとしても突然生活が変わった人たちを前にすると人はその生活に憧れるものです。

こうやって古いものが新しいものにとって代わるということは私達人類はかつて何度も起きたように思います。もちろん、ゆっくりと移動していく民族と、過激に吸収していく民族がありますが、本来は真似をし受け容れることで変化していくように思います。

かつての縄文時代から弥生時代に入る際にも同じようなことが起きたのではないかと私は実感しています。

昔から道徳と経済というものをどのように一致させていくのかというのは、この温故知新を和合させていく人物の課題でもあります。どちらかが良し悪しではなく、そのどちらの価値も正しく受け容れてそれを合致させていくところに人々の主体性が必要になるように思います。

単に時代に流されるのではなく、互いの善いところを吸収してそれを新しいものへと創造していくということができるとき、そこに持続可能な社会のテーマがあるのです。

不思議なことに、いくら外見を変えたとしてもその中身まではなかなか変わることはありません。これが民族の持つ血脈と血筋なのかもしれません。いくら表面を同じにしても、そこに流れる血がその血で在る以上、私たちはその血を活かして他の文化と混ざり合いつつ新しいものへと変えつづけていく宿命があるように思います。

風のように過ぎていく時代の中でも、どのような生き方、働き方をしたのかは、その文化文明の中で自らを生き切った私たちの血を如何に残していくのかが大切なことのように思います。

異国にいて同質を確かめればその血の彼方と行方の間に生きている私たちの存在を感じました。引き続き、由来の旅を続けてみようと思います。

学志一如~独りでになる~

昨日、不思議なことに自分の人生に大きな影響を与えるお寺に参拝することができました。このお寺は、赤山法華院といい円仁と非常に深い所縁があるお寺です。この円仁は日本人最後の遣唐使と言われていますが、世界でも有名なのはその旅行記です。

この円仁の記した「入唐求法巡礼行記」は、玄奘の「大唐西域記」、マルコ・ポーロの「東方見聞録」とともに、三大旅行記のひとつとされ、唐の国や仏教中心地の様子が鮮明に窺える古代史の第一級資料となっています。

特に他の2つのものは誰かに口述したものを記入させたのに対し、円仁のものは自筆で記したものです。その内容は、9年半の中国での滞在記ですが全てのことが思うようにいかない中で、それでも真理を求めて已まず命を懸けて人々のために学ぼうとする姿勢が感じられ、少し読んだだけでも心が震え魂が揺さぶられる思いがします。

帰国後は、円仁は天台宗の指導者として、比叡山において教えを伝授するだけでなく、当時文化の遅れた東北の人々の苦しみ悲しみを救おうとして、寺院の建立、土地の開発、産業の振興に力を尽くしました。青森県にある恐山菩提寺なども円仁が開基したものです。

訪問した赤山法華院はこの円仁を大切にしてくださった新羅人たちの建立した寺院です。中国で仏教が弾圧され、旅券も発行されず、帰国できない、すべてないもの尽くしの中で円仁にインスピレーションを与え、具体的な方法までを与え、そしてその道を諦めさせないで見守りその求める道を陰ひなたから助けてくださった所縁の場所です。

天啓というものは、いつもピンチの時こそその周囲に必ず有難い見守りがあるものです。すべてのものは一人でなるものではなく、独りでになるものです。その独りでになるものは必ずそれを助け導く周囲の存在があるということです。

同じように円仁もここで仏様に出逢い、その道を示されたのではないかと現地で改めて直観しました。この時の助ける方も助けられる方も、その人間の間にある思いやりや真心が共に天に通じたことを忘れまいと今でもその赤山禅院では大切に語り継がれていました。

この新羅人とは、韓国人の先祖であり言語のルーツを辿ればそこに至ります。その当時からずっと私達日本人と韓国人、中国人が交易をし、共に助け合ってきた歴史に改めに感無量の思いがしました。1200年前のこの三国間の関係と、今回、韓国の友人とのご縁で中国の方に導かれて訪問したこの機縁に不思議な感謝と感動を覚えました。

時代が変わろうとも、私たちが大切にしているものは何かを見失っていけません。

真理を求めて旅をすることも、その旅の中で大切に受け継がれたことも、如何に世界が変わろうとも変わらないものがあるのです。その変わらないものを大切に暮らしていくことが、真理を体現することになり、その脈々と受け継がれた血縁と記憶をこの時代にも復興させていくことが私達子孫の使命の一つではないかと思うのです。

今回の仏縁は本当に意義深いものになりました。

東北の巡礼から、縁を辿り、気が付けば赤山での教えに至りました。帰国後もまた辿りたいところが大いに増えました。まだまだ所縁を楽しんで、直観の赴くままに学び続けていこうと思います。

学志一如、実践を貫いていきたいと思います。

発展経過の体験

久しぶりに以前見たものを思い出し、その差を実感するのに「発展」というものがあります。この発展の「展」という字は伸びるや開くという意味があり、以前にも増して広がっていき高まっていくという言葉です。

例えば、中国の訪問でも気づくのですが以前私が留学していた18年前と比べてその量が変わったことはすぐに分かりますがその質も高まっています。それは建物だけではなく、文化、人間性、全てにおいて成長しているのです。

以前と比べて建物が建設ラッシュで創りつづけているのは同じです、しかしその質を観れば明らかに技術は進歩し、センスも高まっています。他にも、洋服から生活、文化、思想にいたるまで質が高まっていくのです。

この場合の質とは、洗練されていくというもので発展するということは同時に全てのことが磨かれてより高度なものを生み出していくという意味です。

人間の成長というものは、より質を高めていこうとするところに発展があるように思います。発展しているかどうかを観察するのは、量の方ではなく質を視るということです。

質が高まるというのは、どれだけ洗練されたか、どれだけ高尚になったか、時代の中でその人が磨かれ技術が磨かれ心が磨かれるというように確かな変化になった証なのです。

成長とは何回も同じことをしているようでも、以前よりもどれだけ質を高めたか、それは揉まれて練られて洗われるように一つ一つを開いていくことに似ています。

発達を実践するのに私たちもよく「DOSEEPLAN」でと言いますが、この発達の本質とは一つ一つの物事をよく観てそれをどう発展させたかということに尽きるように思います。そしてそれを促すには、「遣り切ったこと(DO)をよく反省(SEE)し改善(PLAN)する」ということで実現できるように思います。

何でもあの当時は無理だと思っていたことが、この国に来て実現しているのを観てやはり遣り切った後に確認することが大切であることを改めて実感しました。常に発達は「今は無理「と思えることが後で「実現可能」になっていることの連続なのです。今だけを見てすぐに諦めるというのは、発達を自ら先に否定してしまうということになるのです。如何に自分を信じ切るか、今が不可能でも今を念じて質を高めていこうとするのが、発達をし続けていく根本姿勢なのでしょう。

来ているものをどのような道に開いていくか、そしてそれをどう展じていくかは常に質を高める創意工夫こそによるように思います。量を与えてもらえる機会に感謝し、その全てを質に転じて生長を楽しんで見守っていこうと思います。

戦略~我を省く~

先日、戦略というものを考え直す善い機会に恵まれました。
今年は我を省くが師と共有したテーマだったので、是に出逢えたことに改めて感謝します。

そもそも戦略がなぜ必要かと言えば、世間は同じようなことを目標にし似たようなことを目的にする人たちが沢山います。世界で実現したいことがあったとしても、それは皆同じように思うものですから力も均衡してきます。

すると同じようなところに大勢の人たちがいるのですがどうしてもそのエリアで競争をしてしまうことになるのです。そういうものをしないでも善い方法、つまりは戦いを省略するという意味で独自性を発揮していこうとするのが本質ではないかと思います。

この戦略ということの本質を考える前に、戦略を実行しようとすること自体が大いなる刷り込みの中にいることに気づくのです。やはりどんなことでもそうですが、その元が何かを掴むまではそのものを真に活かすことはできないということを学べました。

戦略を活かすには、大変な勇気が要ります。

今まで身に着けてきたもの、持っていたいものを捨てる必要があるからです。例えば常識というものもそうです。そういうものを持つと、どうしても戦略が理解できないのは戦略とは何かを捨てて何かを優先する、つまり選択と集中が必要になるからです。

選択しないで集中しないというのは、かつて身に着けた自分の力をいつまでも頼ることに似ています。例えば、今までの会社経営でもそうですが最初にはじめた事業から今は大きく発展しています。それは一つのことをやっていたからではなく、どんどん事業が変化してきて前の事業を手放していくのです。

これはいい加減にやっているのではなく、より本質へ、より面白い方へと変化させていく必要があるからです。

どうしてもかつての成功が手放せないと事業を転換することはできません。それにどうしてもかつて認められた自分や会社をいつまでも手放せないと戦略は実行することはできません。戦略とは、持っているものを捨てる勇気。全部持ったままという発想ではなく、今は何を選択し、何に集中することが価値であるかということを自分の常識を捨て去って取り組むことになるからです。

人は戦略的に生きようとしていても、どうしても柵や刷り込みに縛られてしまって身動きできなくなっているものです。そこでこれは戦略であるのだと自覚し、敢えて強みだったものを弱みだと定義し、思い切って弱みを強みに換えるような勇気を持つといいように思います。

戦略を理解するというのは、我を省くことがあってはじめて成り立つものです。その我とは自信のない自分を、そのままでいいと思う事であったり、励まされたりした言葉を実はそれは自分が励まされたのではなく「戦略」であったと気づく時に出会うものです。

常に人はあるがままの自然、自然を味方について克己するのなら常に省くものは何かということを考えていなければならないのかもしれません。

少し距離をとってみると、面白いようにまた本質に出会います。
やはり、今回も躊躇いはありましたが思い切った「戦略」に向かうところ敵なしです。

戦略を私自身が最も楽しむために、勇気を持って異常なことを増やしていこうと思います。

選ばない意味~人生の仕事~

選ばないということの考え方がどういうものなのかを書いてみます。

人はみんな自分勝手で自分が受け取りたいものとそうではないものを選り好みするものです。その時々の気分や状態で目の前にある出来事を裁いたり仕分けたりしてしまうものです。そうすると、本来、大切な意味があった出来事を自分の捉えた小さな範囲や自分の視ている世界にしてしまえば本質的に学ぶことが少なくなるのです。

カグヤでは理念ブックの最初の1ページ目に、こう書いています。

「浅き河も深く渡れ、低き山も高く登れ、本質を深め、独立自尊せよ」

これはカグヤの信条としてもっとも大切な徳目で、これがなければ学べないから何よりも尊ぶようにという戒めの意味を籠めて記されています。

学ぶということは、そもそも自分のレベルや自分の範囲で知ったことを言うのではなく、その学びとは何かということを実践の中に気づき自らをより高めて常に変化刷新していくことを言います。それは来ているものを選ばずにどれだけ謙虚に受け止めてその全てを感謝に転じたかという実践をすることになっているのです。

そもそも受け止めるというのは、来たものをあるがままの意味で捉えるということです。それは自分がどうかではなく、来たものは全部自分に必要なことが起きているとその全ての出来事や物事、そのご縁に深く感謝して自然のままに有難くお受けしていくことが本来の姿です。

例えば、病気になったとしてもそこに何かの意味がある。嫌な出来事が続いてもそこに何かの意味がある。そう思う人は、どんな出来事からも学びその教えが入ったことに感謝し、素直に成長し、正直に受け止めてその機縁を活かしていくことができるのです。一期一会の境地も同じく、人生の中で二度とない一度きり一瞬だけの掛け替えのない出会いだからこそ、自分の全てを出し切って清々しくしていこうというものも似たようなものです。

一昔前は実践が追い付いておらず、意味を感じきれずに色々と悩んでは選り好みしていたものです。しかし、選ばないという選択をしてからは日々に来たものを受け止めて自問自答し取捨選択して削り取っていくことで最期に残ったものが何かというものを待つ心境に入っています。

それは全てをチャンスだと思えるか、ピンチをチャンスに換えているか、自分が丸ごと信じているかを優先しているかが問われるからです。実は選ばないというのは、傲慢なのではなく選ばないほどに全てのことを意味があるとして素直に受け取ったのかと自問自答をすることで自らを玉にしていこうという覚悟のことです。

これには実は大変な積極的な力が必要になります。

なぜなら全てを直視し、その全てに手を抜かない、自分を出し切ったかということがモノサシになるからです。できそうなことをやるのではなく、常に一歩先、届かないところまで高めようと精進したか、日々挑戦したかと自分に問い続ける、そして自分が答え続けた結果をチェックしていく必要があるからです。

しかしそうやって人は自分を自分で育てていかなければ、独立自尊していくことはありません。それは環境に左右されるのではなく、自らが環境に流されずに言い訳を断ち続けて自らを磨き続けるということに他なりません。それはどんな日々も流さないようにしていくこと、言い換えればどんな出来事も先生であるということ、つまりは自然の先生が教えてくださったご縁を活かそうとする積極的な姿勢が自らの道を切り開き常に本筋から離れまいと自らに打ち克ち続ける真剣勝負をすることなのです。

出来事全てを自然の大先生からの有難いご指導だと受け取るならば、それにいちいち歯向かったり無関心でいることはあまりにも勿体ないように思います。自分に必要な学びは必ず自分に必要なものを全部今、この瞬間に足元に用意されているというのが私の持論です。

人生は自分のことを信じる事から、そして自分を信じるとは選択した今までを疑わないことから、そして自分の覚悟とはかつて決心したことの集積であることを自覚し最期まで諦めないことを言うように思います。信念とは最期まで守り切ったか、失くさなかったかというものだからです。

まとめると今を遣り切る、今に生き切ることこそが、選ばないということの大切な意味でしょう。日々、学ぶことだらけであること、日々、有難い教えを沢山いただくこと、その来ているご縁に心から感謝して、全身全霊で真心で取り組むことが御蔭様を有難うに換える大和魂です。

須らく、善き人生とは仕合った質のことを言うように思います。生まれてきて今日で13642日目です。残された人生も手を合わせて姿勢を正して、真剣に自分との仕合をしていきたいと思います。

そういう毎日こそが人生の仕事そのものであり、子どもたちに譲り見せられるような背中なると信じています。せめてもの感謝の現れとしての「選ばない」を今後も持続できる自分を育てていこうと思います。

彼方のご縁

彼方から来たものを選んでいくというのは、自問自答するときの方法論の一つです。

人生も等しく、何が起きるのかは全く分からないものです。自分の思い通りにいくことなどはなく、思い通りにいこうとしつつも思い通りにいかせたくないと心の奥では思っているのです。矛盾があるものですが、矛盾があるから現実と理想の間のこの地上にいるとも言えます。

自問自答というのは、単に考えることと思っている人がいますがそうではない気がします。

そもそも自問自答とは、来ているもの、出来事や事件に対してどれだけの意味づけをし、その意味を自分なりに選ぶのかということです。選ぶというのは、全て消去法でありどれが自分の答えであるのか、何が自分の持つ真実かを耐えて待つことに似ているからです。

人は選ぼうとするあまり、色々と余計なものを捨てられなくなるものです。捨てられないから選べなくなっていくのです。いつも捨てられないでいると、自分がどうしたいのかまで次第に分からなくなってしまいます。

なので選ばないという選択を決めれば、来ているものの中から何が一番ベストな選択になるのかをギリギリまで待つのです。待っていると、これだという感覚が訪れます。それは自我がないところでそのものと一体になった感覚のようなものではないかと思います。

例えば、仕事と一体になり没頭するというのは単に仕事だからではなく誰かのため何かのためと遣り切っているとそれが自分のためであると思える場所があります。恩着せがましくなく、感謝をし尽くしている場所です。そういうところで納得した決断のときこそ選んでいないとも言えるのです。

日々というのは、 流されなければ物凄い情報量が入ってきます。その一つ一つを大切に過ごし、意味づけし、今は何なのかとその他の部分を削り落としていけば自ずから自分の真の役割が降りてくるように思います。

自分でも気づかないものですが、この世はつながりの中にありどんな小さな小石であっても世間ではゴミと呼ぶものであっても何かの役に立っているものです。そしてそれは目には見えない偉大なつながりで役目を果たしているものです。

お役目は最期まで分からないものだから、真摯に生き切ることが人生なのかもしれません。しかしその役目を謳歌できれば、これほどの幸せはないのもまた生命の神秘ではないかと思います。

ご縁に感謝します。

日本美の創造

零戦(零式艦上戦闘機)の設計主任として有名な堀越二郎という人がいます。戦後は、航空機づくりが禁止された日本ではあまり知られなくなったのかもしれませんが、宮崎駿さんの映画でまた今の時代に広く知られたように思います。

堀越二郎さんが居た頃の日本は、航空技術は世界より大幅に劣っていると言われていました。マラソンで言えば、2周も3周も周回遅れしているところから走りだしているというように今さら追いつけるはずがないと思われていたものです。

それを一気に追いついただけではなく、西洋でも理解できないような独創的なアイデアと技術で周囲を凌駕し最先端に躍り出るのです。まるで、うさぎと亀のレースに気が付けば亀に羽が生えて飛んでくるようにうさぎにはびっくりしたものでしょう。

これは私も同じ信条で、2周も3周も遅れたものを真似しようなどとは思ったことはありません。今さら真似をしてただ必死で走っても、向こうも必死で走っているのだからそう簡単に差は縮まることはありません。

しかし、創造力でそれを補えば一瞬にしてその場所まで追いつけるであろうという確信があるから遣る価値があるのです。私は、それをシンプルさの中に見出します。例えば、どんなに凄い技術があったとしても実績があったとしても、その元になっているものは必ず同じであるはずです。

鳥をモデルに航空機を創ったのであれば、その元になっているのは鳥の自然美であるはずです。そういうものをどれだけ観察して現実の技術にまで昇華するかはその人の観察眼と、審美眼、また具体的にそれを具現化する錬磨と直観によって行うものです。

もちろん視察をすることで、本来、周りの人たちがどれくらいのところまで技術を発達させているかを感じることは大事ですがそれを創造するのは自分でなければならないのです。

以前、教育も日本のものは3周遅れだとある人に言われショックを受けたことがありました。しかしだからこそ、独創的なものを創造し、世界をアッと言わせるものを生み出そうと覚悟するのが本当のものづくりをする者の魂だと私は信じています。

私達の国は、過去にも何度も他の文明が流入してそれを組み合わせて和合させてきました。聖徳太子が神道仏教儒教を合体させて国の理念を決めた時のように、私たちも今の時代のものを単に真似をするのではなく日本人としての誇りを持ってそれを合わさったものを自ら発して生み出していかなければ先祖にも申し訳ありません。

どんなことからも学び、どんなことも自分のものにしていく、そしてそれを自然の高さに限りなく近づけて清々しいものまで昇華していくことが日本美ではないかと私には思えます。

ものづくりとは、況や自分創り、人生創りそのものです。
自分が目指したことが、自分のものとなるのです。
妥協などはあってはなるまい、必ず同じところ、必ず繋がるところがあるはずだとかんながらを信じることが真の大和魂です。

日本美の商品を開発し、子どもたちの未来や世界へ貢献していこうと思います。

本元和合

大学に「物に本末あり、事に終始あり」とあります。

私の考えですがこの本末とは、本末転倒などで使われる時の本末のことです。物事の元にある根本を忘れて、枝葉末節のつまらないことに囚われる時などに用いられます。そして終始というのは、終始一貫などで使われる終始のことで、始めも終わりも終始筋道が一本通って変わらずにいることを言います。

そして物事とは意味そのもののことであると私は定義しています。

先日、有る事に気づいたのですが私たちはその本があるということを忘れてしまうものです。外側の現象を見てはそこでの比較対象や、勉強して得た知識を使って安易に右とか左とか、陰とか陽とかを分けてしまうものです。

言い換えれば自分を中心にして、左右に分別する分別智のことをいいます。しかし、ここには落とし穴があり中心にしたもののことは入っていないことがほとんどです。つまりは、物事を△にして観えていないのです。例えば、右・左・自分、陰・陽・自分というように三方の角に置いてその元が、その本がどうなっているのかを気づかないのです。

分別智というものばかりに囚われていたら、その本がどこにあるのかが次第に分からなくなります。初心を忘れるのも、その元を見失うのもこの分別智ばかりを優先して勉強することで悟れると勘違いするからです。頭でっかちになるというのは、分別智の刷り込みに呑み込まれてしまうことをいいます。

私たちは幼少の頃から、教育によって様々に分別された知識を暗記させられ詰め込まれます。それを勉強と言い、その分別智を学んではそれを頼りに様々なことを理解します。しかし、それを体験しないで理解するというものではその本がどこにあるのかが分かりません。言い換えれば、それを実践する人間は誰かということです。

実践する人間が生み出したのが末であるならば、末ばかりを探してはその本が分からないというのは本末が転倒しているとも言えるのです。また終始というものもそうですが、どこから湧き出たものかを忘れて、向こうから来たように思って順序を忘れてしまえば道に迷ってしまいます。

順序とは、筋道のことで私達であれば日本人としての民族性、その血縁の由緒に元ずく流れを一貫しているかということです。最近では、日本人が西洋化し、西洋の人が日本の文化を学んだものをわざわざそれを日本人が教科書にして学ぶような可笑しなことが起きています。

本来は自分たちから湧き出たものであるならば西洋によって分別されたものをいちいちやらなくても、自学自悟に自明していけばいいのです。本来、自分に由緒があるものを西洋の解釈したものから勉強するという時点でその順序が間違っているのです。世間では、海外のものをさも素晴らしいと取りいれますが、自分の中にあるものを忘れてやっているちは本当のことは掴めないと思います。

そして出来事、つまり「物事」というものは、全てにあますところのない真実の意味が存在していてその意味を真剣に深めていくことで自然に為るように思います。その意味づけを根本のところでどのように行っていくのかで、本末と終始は素のままになり常に道に中るように思います。

道を学ぶということは、この「本」ということにどれだけ当たり続けるかということであると大学では言っているかのようです。本当のことは全てが混ざり合ったところにあるものです。それは「分別しない」ところにあると言ってもいいと私は思います。

これを和合とも言いますが、それは今を真摯に実践していきその意味の由緒を顕現させていくことのように思います。

宝さがしのような日々、この地球の楽園にいることに感謝し、物事の本末と終始を大切にしていきたいと思います。分別する魔の入る余地がないほどに、その物事と一体になって取り組んでいこうと思います。

 

芯の強さ~ミマモリングの芯~

人は逆境をたくさん体験することで強くなっていきます。この強くなるというのは、優しくなるということです。真の優しさというのは強くなければ発揮されないからです。

男の生きざまとして、強い男に憧れるものです。その憧れは強さへの憧れですが、単に喧嘩に強いとか権力があるとかが決して強いと定義しているのではありません。ここでの強さとは、どんな時でも優しくいれる強さ、相手のことを思いやれる強さのことを言うのです。

ラグビーの伏見工業の教育者で有名な山口良治さんの「信は力なり~可能性の限界に挑む」(旬報社)にこういう一文があります。

「『もう嫌だ。好きなことして、好きなこと言って、何もかもどうでもいい』そんな風に思う時というのは、自分のことしか思っていない。人間というのは、自分ひとりだけのことしか見えず、自分の外への回路を閉ざしてしまうと小さな弱い存在になってしまう。他人のことを自分のことと同じように考えられる、そういう優しさが人間を成長させ、困難な局面に立ったときにそれを乗り越えられる強さになるのだ。」

自他一体にいるというのは、その人のことを自分のことと同じように考えられるかどうかによります。つい人は自他を分けて、自分のことばかりに囚われてしまいます。私も忙しくなる時こそ、大変な時こそ、自分の身の上のことばかりを心配して初心や大義を見失いそうになってしまうものです。

そういう心のブレを芯の強さに換えるには思いやりや優しさで抜けるしかありません。

また信じるということは、言葉で書くほどに簡単ではなく意味を感じる力に比例しますから内省し自らを高めていき日々の道場で鍛えていくのみです。どんなに高望みしても、その日一日の真剣勝負の中で強く優しくありたいと実践していくしかないからです。しかしその有難い日々の機会に感謝しながら自学自習することや、前進できることが生きている歓びにもつながっているように思います。

山口良治さんの指導者としての姿勢は、本当に学ぶことばかりです。私達の掲げたミマモリングにも通じているもので、このようになりたいと思うばかりです。さらに本ではこう続きます。

「99%信じても、1%の不安があったらその通りになる。100%信じる事が大切」

丸ごと信じるということに生きざまを懸ける、そこに感動を共にする自他一体があるように思います。

通称「泣き虫先生」と呼ばれ、いつも感動しながら生徒と共に泣いて笑って感激していくことで強さも優しさもまた味わい深いものにしていくことが大切だと教えてくださっているようです。

「僕は涙というのは素晴らしいと思うんです。 みんな子供達に「負」をつける前に、涙が込み上げてくるぐらいの気持ちを出してやることによって、自分の思いが涙に変わっていくくらいの気持ちになってくれれば、もっと違ったものが生まれてくるんじゃないかな、伝わって来るんじゃないかと思うんです。  僕に涙がたくさんあって良かったなと思います。」

耐えて信じるものだけが持つ美しい涙を私も学び直したいと思います。自分の刷り込みに気づいたなら、迷わずに自分の方を変えるチャンスだと感謝を信に換えて心の芯を強くしていきたいと思います。

芯の強さこそが優しさであることを忘れないようにいたいと思います。
子どもたちを見守る信を育てていくのが私たちカグヤの強さの源にしていこうと思います。