感情を愛する

人間は感情の生きものだと言います。

感情というものは自分の中に居て、外側の現象にあわせて常に変化し続けます。これは外界と内界のバランスを維持するためでもあり、その時々の状況に合わせて状態を合わせてバランスを保とうする生存本能の一種であろうと思います。

この感情というものは、時としてプラスにもマイナスにもなることがあるように思います。例えば、仕事でも日常でもそうですがその感情がマイナスのときは捗らず、プラスの時はスムーズに進むことのように気分に影響されてしまうからです。

しかし気分がどうだからといって現実には期限もありますし、周りもいますし、本質も変わらないのだから感情とどう上手く付き合っていくかというのは基本の技術の一つであろうと思います。

これをメンタルとも言い、如何に自分が本番で自分らしさを発揮できるか、最高のコンディションを維持できるかということで研究されてもいるのです。

自分なりに感情を深めてみると、感情は情熱から派生してくるものだから感情が激しいことがいけないわけではないと思います。よく冷めているという言葉もありますが、まったく感情がない無機質になると情熱が湿っているともいえます。

これらの情熱は志を立てるところからはじまりますが、薪をくべ続けるにも感情を育てていく必要があるようにも思うのです。そしてこの感情というのは、どのようにプラスへ転じるかというものが技術のように思います。

例えば、よくないと思うことがあったとき感情が激しく揺らぎます。その時には感情を善い方へと移し替えるという技術を用います。自分の感情を転じて善い方へと移すようなものです。

これは生き方とも関係していて、よくプラス思考とかいわれますがピンチをチャンスと捉える発想だったり、禍転じて福になるのと同じで、如何に悲観的な状況であっても、こんな体験は二度とさせていただけないのだからと感じたり、自分がするのではなく謙虚にさせていただけるのだからと真心を尽くそうと転じたり、やるのではなくなるのだと人事を尽く天命に任せようとしたり、こういうことを自分自身が実践することで移し替えができるのです。

言い換えれば移し替えとは転じるということは、自分が変われば転じられるのです。自分の方を変えずにいつまでも粘ると感情は混濁し負のサイクルを呼び込みます。しかしもし自分を変えようと感情を移し替えて転じれば正のサイクルが発生してきます。

つまりは感情とは自分を変えるタイミングで発生してくるものであり、その感情を見つめてその感情を活かす、つまりは自分の何を変えればいいのかと前のめりに自分を改善していけば感情は次第に善いものへと転換されていくように思うのです。

これらのメンタルトレーニングというのは、いつも善い方へと自分をコントロールする機会を求めてはそれを実践により継続することで練習を積んでいくしかありません。自分にとって最悪のように思える機会であったとしても、そこで諦めず不貞腐れずにきっと何か大切なことを学ばせていただいている、感謝と御恩返しのために遣り切らせてくださいと真摯に取り組むことで感情も生き方も丸ごと生長していけるように思うのです。

これらの感情というものは、変化の時には必ずつきものですから避けてはならないと思います。感情を伴っての成長とは痛みも伴いますし、また苦しさもあるかもしれませんがそれが楽しいと思えるほどの努力によって抜けていけるように思います。

この感情ある自分も愛し、感情をもつ人も愛し、より善い方へ転じていこうと思います。

志道の心得

吉田松陰に「士規七則」というものがある。

これは従弟の玉木彦介が元服したときに作り送ったものを歿後に子弟たちが復刻しそれぞれが持って自らの規範としたものです。

そこには道を歩むものとしての心得が書かれています。先日もまた新たに松陰先生とのご縁があり実践の大切さとその心構えについて学び直すことができました。

まずこの士規七則の冒頭にはこういう言葉ではじまります。

『冊子を披繙せば、嘉言林の如く、躍々として人に迫る。 顧ふに人読まず。即し読むとも行はず。 苟に読みてこれを行はば、則ち千万世と雖も得て尽すべからず。 噫、復た何をか言はん。然りと雖も知る所ありて、言はざる能はざる人の至情なり。 古人これを古に言ひ、今我れこれを今に言ふ。 亦なんぞ傷まん、士規七則を作る。』

私の意訳ですが、(本を読めばどれも善いことが書かれていてそれを学ぶことができる。しかし考えてみたら、それは読んだとは言わないのではないか。それは読んだことを実践しないからだ。正しく読みもしも実践するならばその書かれたものを永遠に実践してもし尽くせるはずもないほどのものだ。それなのにここにまた私は書こうとし言おうとするのは知っていることをどうしても伝えたいという人の情から興ってくるのです。先人たちはこれを昔から言っていますが、私も今ここにこれを言うことにする。心配しても仕方がない、ここに士規七則を創ります。)

つまりは、ともかく「実践」することが全てにおいて何よりも重要だということを述べているように思います。論語読みの論語知らずではないですが、実践してこそ価値のあるものを読むだけで分かった気になるような人物にはなるなと諭しています。

真理ひとつ、先人の人生で掴んだ叡智ひとつ、すべては実践することで永遠に学ぶ価値があるままだとしています。

今回はその中の一つの言葉と出会ったので自分なりに刻んでみます。

「士の道は義より大なるはなし、義は勇に因りて行はれ、勇は義に因りて長ず。 」

これも意訳ですが(志の道は、大義を超えるようなものはない。大義は勇気によってはじめて実践され、勇気は大義によって伸びていくのです。)と書かれます。

孟子の「自ら顧みてなおくんば、千万人ともいえども我行かん」(自分で素直に内省し、そこに正義があると思うのならば、たとえその道を一千万人が塞ぐことがあろうとも私は全うする)という意味でしょう。

吉田松陰は文字通りの人生を歩んでいます。孟子の講義をしながら、学問とは実践することであると何よりも背中で示したのが松下村塾だったように思います。

本ばかりを読み漁り、実践をしないような生き方をするのは勇が減退しているからかもしれません。もしくは義が弱体しているのかもしれません。天地人の中で、老子や孔子があってもそのどちらにも偏れば実践よりも盲目な批評や評論ばかりに陥るのかもしれません。

自らの決心やその真心にどれだけ純粋にいられるかは、日々の心掛け次第、自分次第なのでしょう。

克己復礼、胆力を磨き、実践を高めていく努力に邁進していこうと思います。
吉田松陰先生には鏡としていつも生き方を正していただけます、有難うございます。

理念の実践

人は自分の状況を判断し、バランスを見直すときどこから見るかというものがあります。

よくバランスを崩すというのは、どこが中心であったかを思い出せないことに似ています。そしてそれは何か特別なところや特異なところばかりを探しては、これのせいだとか、あれのせいだとか最もらしく聞こえますが実際は当たり前過ぎて気づかないところがほとんどであるのです。

それは例えば呼吸や心拍、体温、また日頃の食事や睡眠、口癖のように潜在意識が全自動でやっているところが乱れることにあるのです。

プロ野球監督の落合博満さんがこういうことを言っています。

「精神的なスランプからは、なかなか抜け出すことができない。根本的な原因は、食事や睡眠のような基本的なことにあるのに、それ以外のところから原因を探してしまうからだ。」

これは同感で、非常に微細な所の生活習慣が日頃から次第にズレているのに気付かないことに根本があったりするのです。

精神的スランプの場合などは、ほとんどが自炊や食事内容、また睡眠の質から日々の夜の過ごし方などが影響があるのです。

何かのトラブルが発生するとき、そのトラブル自体に翻弄される人とそれを客観的に冷静に対応し日頃から平常心を失わい人がいます。この前者と後者の違いとは、ほとんどが生活習慣の乱れから来るといったらきっと驚くだろうと思います。

しかし実際は、平常心を失う理由は「正しくない」ことを続けていることから発生しているのです。正しいこととは何かといえば、本来の自然の姿が観えているということです。これらの自然を見失わない技術、本来の状態が観え続けて動じなくなる胆力が基本ということなのでしょう。

例えば、玄米を主食に、早寝早起きをし、先延ばしをせずに今に丹誠を籠めてお勤めをする。

こういうこと一つができる人は、ズレるということはありません。日々の環境は変化していくし、ややもすると流されることがあるのが人間でしょう。流されないというのは、基本的生活習慣を正すということから直すのが根本ということです。

潜在意識を変えるというのは、潜在しているところを変えるという意味です。顕在化してくるところは、すべてその基は潜在するところが握っているのです。基本から練習するということ、基礎練習を続けるというのは、その基となるところを鍛え直すということなのです。

今の時代は様々な誘惑によってそこに引きずられてしまうように思います。油断すると気が付くと自分の都合の良い方へと正当化されてしまい流されることもほとんどです。

だからこそ、正しいことをすることにこだわるのが基本の元、つまり実践ということなのでしょう。

生活習慣を直すということは難儀なことですが、それが正しく身に着くことでまた自分自身の自由が増えていきます。理念があるからこそ潜在するところを見つめることができますし、理念があるからこそ本質を見極めていくことができるのです。

理念の実践を積み重ねて、自重慎独していきたいと思います。

自他一体~残心~

武士道の死生観の中に「残心」というものがあります。

辞書にはこう書かれています。

1 心をあとに残すこと。心残り。未練。2 武芸で、一つの動作を終えたあとでも緊張を持続する心構えをいう語。(goo辞書)

これはそれぞれの解釈があるのかもしれませんが、この心構えというものが何かというものが何よりも大切ではないかと思うのです。

そもそも残心とは読んで字の如く、心を途切れさせないという意味で使われます。何かのことが終わったとしても常に心を途切れさせないという意味ですが、私の意訳ではそうではなく常に心を切らすことはない状態を維持し続けるという意味です。

例えば、お仕事でも生活でも家庭でも心を常に配り続けて注意を切らさない、油断をしないで心で物事を観続けている状態、言い換えればいつも死を覚悟しつつ判断は常に死に照らして物事を観ている状態のままの自分でいるということです。

心をきらさないというのは、頭で考えている最中であってもその心は覚悟を決めているということです。悔いのないように今を遣り切っていく生き方を続けていき、その中で全身全霊の全部を出し切っていくような生き方を続けていることが一つの残心であるように私には思えます。

そしてもう一つの残心でいう余韻の意味は何かといえば、必死に真心を尽くして取り組んだあとに自分の力だけで遣り切らせていただいたのではないと感謝の心に満たされ続けて活きているという意味ではないかと思います。

つまりは必至で真心を尽くして尽力するとき、自分の思ってもみないような最善の結果、奇跡のような巡りあわせや出逢いに感動し心を深く打たれるときにしみじみと心の平安と幸福がその場を共有する人々全体と味わうときの感覚。

「自分が遣り切ったのではない、神仏のご加護や御蔭様が入って遣り切らせていただけたのだ」これは勝負の跡でもそうで、心から負けたくないと願い必死に努力するときその後に訪れるのは「自分がやったのではない、(何かの恩力)で勝たせていただいたのだ」と感謝に満ちるのです。

そしてその時なのです。

自他一体の気持ちが起きてきます。それはもしかしたら相手は自分だったかもしれないという直観、自分がこの人だったのではないかという結びの境地に入るのです。これらの気持ちはとても言葉で言い尽くせないのですが人生の道の真の歓び、楽しみなのかもしれません。

自他一体という言葉は、頭では理解できないのはそれは生き方や生きざまで感じる言葉だからかもしれません。必死の努力を続けていく中でどれだけの奇跡に出会うか、真実に出会うか、ご縁を尊び、一期一会の今を生き切るときにのみ学べるのかもしれません。

自分とは自他ではなく自自であり、他は他ではなく他他なのかもしれません。真心や思いやりが通じていけば心は一体になっていくのでしょう。

この武道芸道の「残心」はかんながらの道の大切な心構えと同じです。
より真心を籠めて、心を澄ませ清め続けて八百万の神々とともに歩んでいきたいと思います。

 

丹念を積む

人間は目的を見失ってしまうと本質から外れてしまうものです。

これは、全体と部分の物の見方にあるようにも思います。全体のことを最初に考えてから部分に入れば、全体としてどうしたいのかというものは確認することができます。しかし部分に入ってしまえば、途端に全体が見えなくなってしまい問題がすり替わってしまうというものがあります。

以前、大工の棟梁の話の中で、棟梁は常に全体を観るから作業をしないということを聴いたことがありました。職人というものは、入り込んでしまうのでどこまでやるのかということを見失い没頭してしまうので常に全体を視通す役割を棟梁がしているということです。

これに似ていて全体にとっての問題の解決と、部分にとっての問題の解決に視野の隔たりがあるように思います。常に全体や部分を行き来しながら問題を解決していくというのは、御互いが役割分担をしつつ大きな目的のために心ひとつに取り組もうということです。

そして本質や目的から外れないというのは、常に全体も部分も「つながっている」「無駄は一切ない」と信じ観えるようになっていること、言い換えれば私心が入り込んでおらず真心で取り組んでいるということを忘れないということであろうと思うのです。

真心で行うことは、そこには自分の都合や自分さえよければや自分の私心といったものが入り込む余地はありません。人間はどうしても自分の計算を入れていくからそこに自分寄りに物事を運ぼうとしたくなるものなのです。

先ほどの棟梁のお話ですが、飛鳥時代の大工はみんな棟梁たちのような仕事をしていたともありました。先人たちは、丹念や丹誠を籠めてひとつひとつのいのちを大切にして過ごしていたのかもしれません。目的を忘れずに取り組むプロセスそのものを何よりも重んじたということは、そこに道や信念があったということを覚っていたからのように思います。

先人たちに見習い、どのような御仕事も本来は何のために行うのか、そもそも目的は崇高な理念や大切な志のためではないのかと、自らのいのちのある時間に真心を尽くして手間暇を惜しまず手入れをしていこうとするのが本質から外れないことのように思えます。

本質というものは、自分のいのちの遣い方なのです。

意味のないものはなく必用なことを行うのだから、増えるとか減ったとか、遅いとか早いとか作業のような観念に縛られるのではなく、そのどれも勿体ない尊いお仕事をさせていただくのだと有難く一つ一つを丹誠を籠めて丹念に取り組んでいくことが目的や本質そのものと一体になっていることなのでしょう。

師走に入って何だか気分から忙しなくなってきている気がしますが、どのお仕事にも丹誠と丹念でと戒めていきたいと思います。毎日に流されず作業にしないで、その一つ一つの意味を丁寧に見極め意味づけし自分のいのちの時間をじっくりとかけること。

増えることや手間暇かけられることに、真心をさせていただく機会が増えたのだと感謝し、気持ちを鎮め、お腹の丹田から熟慮して時事を判断していきたいと思います。

仲間と一緒に集まり取り組む尊い機会が初心の確認となっています。
有難うございます。

力の本質~変化を味わう~

よくあの人は営業力があるなどと言われるような場合があると思います。他にも学力が高いとか、能力とか〇力とつくものを語る時、その人がよほど何か自分と異なる才能があるからと分別していることが多いように思います。

しかし実際はどうなのかということを深めていることは少ないように思うのでここで書いてみます。

そもそも何でも力というものは、最初からあるわけではありません。よく「力が具わってきた」とか言われるように力というは次第についてくるものです。最初はないものが次第に身に着いてくるというのが力の本質です。

それでは何によって備わって来るのかといえば、当然のことながら「努力」であることは自明の理です。人は最初はできなかったことが、次第に何かを行うことによってできるようになってくる。

その何かとは、それだけの努力の賜物によって得られるということなのです。

よく努力してますがと思い込んでいる人もいますが、ほとんどは今もっている才能だけで乗り切ろうとしているだけで新しいことを真摯に勉学しようとまでの努力はしていないように思います。今までのやり方で通用しなくなっているからこそ、新しいことを常に学び直し、学び続けていくことで新しい力を具えていくように思うのです。

なので力の本質とは努のことです。この努の語源を辿ってみると その「努」は「奴」と「力」でできています。つまり「奴」は「女」に「又」を加えた文字。「又」は手を表す形です。つまり「奴」は「女」を「手」で捕まえて奴隷にすることからその意味に「めしつかい」「しもべ」「やっこ」となっています。また「奴」に「力」(鋤)を加えて、農奴が農耕に努めることを意味する漢字が「努」となりそこから「つとめる」「はげむ」意味ではないかと言われているようです。

これらの努力というのは、それだけ地道に仕えるということを連想させ、つまりは自分に自分を従わせていく力をつけていくことかもしれません。目標管理というものも、これは自分が自分を変え従わせるために必要になるのではないかと思っています。

長くなりましたが、営業力とは営業努力であること、学力とは学努力であること、他にも〇〇力という言葉もすべてその間には「努」が入るのだということなのでしょう。

努力なしに目標も産まれず、目標なきものに成功もまたないように思います。以前、顧問の方から教えていただいた言葉がようやくここでつながりました。その方の尊敬していたリクルート創業者江副社長の言葉だと紹介してくれました。

「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ。」

これは営業に限らず全ての努力に通じる言葉だと思います。それだけ大量に最大に動いたか、どれだけ本気で沢山のことを遣り切っているか、その機会を産み出した分だけのものをはじめて掴み、そうした努力の上に他人に分け与えることができる、そしてその成果としてのみ変化があるということ。

まずは自分からチャンスを産み出す努力をすることのように思います。それらを本人自らできるようになるまでがコーチの真の役割かもしれません。

最後に、努力の人というと思い浮かべる方に王貞治さんがいてその人の言葉に勇気をいただきます。

「努力は必ず報われる。もし報われない努力があるのならば、それはまだ努力と呼べない。」(王 貞治)

自分の都合でやる努力ではなく、自分を従わせるほどの高い目標に向かって真の努力を積み上げていくことのみが努力と呼んでいいのでしょう。ただ努力に悲壮感がでてくれは人生が勿体なくなる気がします。一期一会のご縁は天からの贈り物ですからその天に応援されるほどの報われる努力の先に出会ったことのない奇跡が待っていることを楽しみに、日々にワクワクドキドキと好奇心の情熱の炎に薪をくべ、その時々の変化を味わい新たな心で挑戦していきたいと思います。

家訓の価値

家訓というものをご縁があり深めていると色々なものがあることに気づきます。

有名なのは、上杉謙信、徳川家康、伊達正宗、保科正之など一家を為した人たちが子孫のために訓戒を遺したように思います。一家において、一家を維持継続していくために子孫は何を守るかということを説いているように思うのです。

「創業は易く守成は難し」といいますが、新しく事業を興すことよりもその事業を受け継いで守り続けることにほうが難しいという意味で用いられるものです。

何代も先のことも慮り、どのように生きていくべきかということを自分の代を真摯に生き切る中で得られた叡智を語り継ごうとした姿がそこに観えます。伝える方も必死だったあの時代、生き死にの中で大切なことを伝えようとした重みを感じるものが家訓のように思います。

また江戸時代の藩体制の基礎をつくった藤堂高虎家訓200箇条はとても興味深いものがあります。ご縁のあることから調べていると、正確には204箇条からなる手引きが書かれています。

「第1条 寝屋を出るより其日を死番と可得心かやうに覚悟極る ゆへに物に動する事なし 是可為本意」 (寝室を出る時から、今日は死ぬ番だと心に決めること。そういう覚悟があれば、物に動じない。本来、こうあるべきだ。)

というように死生観、生き方の心得からはじまります。

「第204条 物事聞とも根間すへからす」(物事を聞く時に、根本のことを聞いてはいけない。)

で終わっています。この文章を最後に持ってくるもの、また味があるように思います。細かく具体的にこうするべきであるとしたのは、それだけ大切なことなのだとそれぞれの意味を深めて書き記したものが残っています。

この家訓を読んでみると、その人柄が伝わってくるものもありお会いしていなくてもその思想や願いが伝わってくるからとても不思議な感覚を覚えます。

また何かある時にすぐに思い浮かべるものに柳生家の家訓があります。これは有名なものなので知っている人も多いと思います。

「小才は、縁に会って縁に気づかず。中才は、縁に気づいて縁を生かさず。大才は、袖振り合う縁をも生かす。」

すべてのご縁は活かすものです—とこれはシンプルですが、そのチャンスを活かすということの価値をこの一文で全て語り尽くしています。タイミングを逃さないというものは、君子時中すとあるようにご縁に活きる、活かされているという智慧そのもののことなのかもしれません。

家訓には、大切な現場の智慧が入っていますし伝えようとする側の真心が籠っています。伝承していくことが役割だとしたときに、そこをもう少し奥へと親しんでいきたいと思います。

道導~みちしるべ~

人は道を通して学問を深めていくもののように思います。道があっても道に入らぬではないですが、同じ道を歩くのならやはり道なのだと決心して歩く方が楽しいのです。

少し考えてみると、自ら歩み出したものと誰かによっていつも歩かされたのでは同じ道であっても大変勿体ないことをしているように感じるものです。

人は何かの判断をするとき、辞めればいい、避ければいいという発想が元にあるとします。すると、そこから道から外れようとするのでしょうが結局はどこにいっても道はあり、”どの道やらないといけない”のです。それが自分のたった一度の人生、「生きている」という自然の摂理だからです。道に気づけなければ一生なんとなく終わることもできるのでしょうがやはりそれではもったいないのです。

この「どの道遣る」というのはとても大切なことのように思います。遣ると決めれば道が顕われ、遣ると決めないから道が観えないとしたら、まず今立っているこの道を、とことん遣り尽くそうと覚悟を決めることでどの道もまた開いていけるようにも思います。

そもそも学問というものは、理屈や名誉のためにしているとおかしくなるように思います。どのような学問を見てきたか、どのような学問をしてきたかというのは自らの人生の判断基準になるように思います。目的があって学ぶのですが、その目的を見失うから道が観えなくなるものになるのかもしれません。

中江藤樹にこういう言葉が残っています。

「人間、学問に志すというのは、道に志すものでなければならぬ。ところが今の学問は、己の知恵を磨くより、人に誉められたいという名誉心、はなはだしきは、金銭のために学問をするということで、その志たるや実に卑しい」

道に志すというのは、正直に学問をすることのように思います。正直であるというのは、日々に真心を持って体験したことを内省し改善しまた新たな実践を積み重ねて精進していくということであろうと思います。

しかしそういう体験を避けて思い通りにしようとし、反省ばかりをしては実践を怠り後悔ばかりというのでは自らの道を歩もうとしていないのではないかとも思えるのです。

道は、決心するところに顕われ、正直に行うときに歩んでいるように思います。そして志すにはそこに大義や正義があり、目的や理念に立ちかえって初心のままでいることのようにも思います。

昨日は、リーダー研修がありましたがリーダーの心得とは何か、愛敬するということや人格を磨いていくことの大切さを改めて感じ得ました。善い先生の道導があってこそ、はじめてその道は伸び拡がっていくのかもしれません。善い師善い友とのご縁は掛け替えのないものです。

「それ学問は心の汚れを清め、身の行いを良くするを以て本実とす」(中江藤樹)

真心を尽くして一日一日、またそのご縁を活かしていきたいと思います。

維新継承

昨日、リーダー研修があり最後の話で藤森代表から「主人公」と「伝承」という役割の話がありました。先祖が真摯に生きて今の自分があるからこそ、尊い御役目が自分にも必ずあることをもう一度よく考えるという機会になりました。

日常が当たり前になっていると自分だけで物事を考えますが、今の自分があるのはどのような御蔭であるのか、連綿と続いてきた風土や結縁、生死のめぐりのなかで受け継いできた魂やいのちの存在を実感します。

そういう自分をそういう今をどれだけ愛しく大切に生き切っているかを思うのです。

語り継ぐものに出会うとき、受け継ぐ側の覚悟を省みます。本気で生きているかというのは、本気で死んだ人たちの積み重ねの上に自分がいることを決して忘れないことかもしれません。

それは、今を真摯に生きぬくことで自分の御役目に感謝していることかもしれません。

今、自然農然り、古神道然り、大和魂然り、一つ一つのことを紐解いて自然からの手ほどきを受け学んでいますがこれも受け継ぐ側の覚悟があってはじめて語り継がれていくものです。外来の思想や、人工智が高く評価されてそれすらも誰も気にしないくらい浸透した昨今では、かつての風土の思想や自然智の価値を新たに実感する人も少なくなってきているように思います。

先祖たちがどのように生きてきたのかを知ろうともせず、周りだけをみて今までもずっと今のような生き方だったのだと思い違いをしてしまうことがほとんどです。戦争のことでも、私の祖父の代の話であったのに、受け継がれなくなるとすぐに感覚がマヒしているのが分かります。

これだけ継承していくことや伝承するということは、その時代の生き方の反映であり、そこに語り継ぐものと受け継ぐものの価値を等しくしていないと互いに成り立たないように思うのです。そう考えてみたら、それぞれが真摯に真剣に主人公として生き切った跡にこそ最も価値のある口伝が存在するように思います。

神主とは私の中では、自然のバランスを司る者、つまりは一切の無駄というものがない”しくみ”そのものになる者と定義していますが、これも受け継ぐにはそれ相応の覚悟があって先祖の叡智を直観するのでしょう。

刷り込みに誘惑されないで正しく受け継ぎたいという畏れと尊敬と謙虚さがあってこそ伝承は成り立つのです。先祖の素晴らしさを思うほどに、自分の襟を正すことばかりです。頭で理解することではなく、語り継ぎ受け継ぐという意味、つまりは真実の思想の継承なのです。

その人の時代があるとき、自分の時代があることに気づかなければなりません、同じ生き方をしても同じ時は共にできません、だからこそ自分の代を真摯に生き抜かなければなりません。そこには思想を受け継いでそれを正しく新しくしなさいといったメッセージと意志を感じました。

「飛鳥から江戸は旧邦なれども、その智慧は維新なり」

これは今年ご縁があった保田與重郎の言葉です。

そして中江藤樹の訳した孝経こうあります。

「旧邦を興して天命新たなり」

時代が変われども、受け継ぐ人がいることを教えてくださいました。思想など目には観えないものかもしれませんが、心に響いたことを心に刻み、志を貫徹していきたいと思います。

大事なことを直観しました、いつも本当に有難うございます。

 

自生のサイクル

昨日、シイタケやヒラタケ、キクラゲなどの種菌を榾木に仕込む作業を行いました。昔は、山の中に自生するのを待ってうまくシイタケがつけばいいと何度も繰り返し菌が降ってくるのを待っていたそうです。空気中には色々な菌がいて、シイタケがついてくれる可能性というのはどれくらいあったのでしょうね。

今は何でも簡単便利に購入して、種菌も移植できますが昔の人達の長い長いゆったりとした自然時間をかけて繰り返し大事にされてきたいのちをその気持ちになってみつめてみたいと思います。

榾木は森の中に休ませ、菌たちの生活するための住居を用意し、それを見守り約2年後には沢山のきのこが出てくることと思います。自然が共生するというのは、それぞれの生きもの生活を用意してその恩恵によって少し分けていただく中にこそ有難みがあるように思います。

約2年後というのは、私の見解ではきのこの菌が榾木の中で繁殖し確立したらまた別の棲家を求めて旅立つ際に協力してきのこになるというものです。ここできのこになるというのは、増えすぎた棲家を若い種たちが離れて新しい棲家へと子孫を残していくための自立になるということなのでしょう。

菌という生きものは、そのものが種であり種であるから繁栄発展していくように思います。そこから推察してみると、私達一人ひとりも大切な種でありその種が次世代へと希望を繋いでいくようにも思います。

種が散らばって土に落ち、地上で花を咲かせて実をつける。
こんな当たり前なことも、菌や植物や生きものから学び直しているところです。

さて発酵を学ぶ中で次第に発展して、菌というものを身近に感じるようになりました。発酵というものも、菌が活性化することで行われるものです。ある一定の菌の食べものさえあれば特定の菌たちがそれを食べ尽くす際にエネルギーを放出していきます。

私達のご飯と同じように、食べるから元気がでてその元気さが発酵の証とも言えます。どの食べ物を食べるかでお腹の中の菌の種類も、また菌の構成も変化するのですから如何にそのものの環境に相応しいものを用意していくのかというのは大事なことなのでしょう。

そう考えてみると、きのこではないですが私たちの身体は榾木のようなものなのかもしれません。菌が私たちの身体に棲みついてその体で繁殖し移動していくのですから。植物や木々も、根っこには菌があって菌がそこに棲みついてきます。

あながち、生命の本体が菌であり私たちはそれを助けるために身体を構成したのかもしれません。人間の細胞も60兆にもなるといわれますから、そこには何か菌の不思議な力が働いているのかもしれません。

マクロもミクロも宇宙ですから、これはこれでまだまだ見極め研究も実践も楽しんでいこうと思います。これから数年の自生のサイクルできのこの見守りがはじまりますがゆったりとした時間の流れを寄り添いながら味わっていこうと思います。