囲炉裏の場~火を守り続ける~

朝から炭を熾し、囲炉裏で鉄瓶の一杯の御茶を呑むのはとても仕合せな時間です。囲炉裏のある暮らしというのは、温もりのある生活です。この日本の囲炉裏にはとても不思議なチカラがあります。

縄文時代より家の中心には囲炉裏が設置され、暮らしの中心は火と共に行われました。囲炉裏が真ん中にあると、冬は暖かく夏はカラッとしたと言います。灰や炭が防虫効果や病気が入ってこないこともあり、火の神様は一家の守り神として大切に日々に接してきたと言います。

その後、日本家屋は「土間」、「居間」、「座敷」の3つの空間に分かれました。「土間」は出入り口とつながった空間で農作業をする場所、「座敷」は人を招きおもてなしをする場所、そして、寝起き、炊事、団欒などの生活の場所として「居間」と分かれます。

得に囲炉裏はは火の神の祭り場であり、火の神は家を守る神でしたから家の中では最も神聖な場所に設置されました。そしてそこに足を踏み入れたり、穢れたものをくべることは禁じられたほど神聖な場所でした。それだけ火は、私たちの先祖が大事に信仰してきた家の守り神であり、一年中、神棚に火を祭ることで暮らしが継続できたとも言えます。

以前、石川県で「火様」という風習が残っているのを聴いたことがあります。これは毎朝、小枝をくべ炎がおさまると灰をかぶせ手を合わせて祈る。これを300年も継承されていると言います。

これはまさに原始の心、火の神様を祀り奉るための神事であることが分かります。

今では当たり前になっていますが、この「火」が絶えないことが家が絶えないことであり、囲炉裏を中心に家族が団欒して集い暮らしが存続できたことの御蔭様が火の神様であったということでしょう。火の神様がいらっしゃる神聖な場所、そこが「囲炉裏」であったのです。

囲炉裏は家の魂とも言えます。

家の中に囲炉裏があるということは、そこに一家の魂が宿っているということです。その一家の魂が常に火がともし続けられ、その火を守り続けるということは家運を守り続けるという家主の実践の一つだったのです。

囲炉裏を大切にするということは、その家の暮らしを大切にするということですから温もりを絶やさずに神聖な場所を守り続けたことで囲炉裏と共に代々が続いていくのだという歴史の歩み方を伝承しています。

最後に「永遠の燈火」として800年間火を絶やしていない千葉家の家訓で締めくくります。「いろり火の焚火はな、先祖が焚きつけた火じゃで、消すことはならんぞよ。代々伝えてくりょ。なんとしてでも、山があるもんやで火を絶やさずやってくり」とあります。

そして火はこうやって残すのだという心得を続けて語ります。

「いろり火を絶やさないコツは、朝起きたら、夕べの火種を掘り起こして、火をおこし『おき火』をたくさん作っておくこと。昼間は灰をかけて、その上から十能一杯分の籾殻をふりかえておきます。そうすると夕方まで火が残る。十三時間くらいは大丈夫。夕方は、朝と同じように火をおこして同じことを繰り返します。かつては薪も山の木を割ってくべていました。今は、若い者の仕事が忙しいので、買った薪を使うこともあります。火を守り続けて感じるのは、昔は、簡単に火をつけることができなかったので、大切にしたんやないかということです。今は、火を守る必要がないと思われるかもしれませんが、先祖からの火なので尊く感じられて…。先祖あっての自分ですから。この家には家族五人が暮らしています。家のものは、先祖からの言い伝えをただ大切に守っています」

・・・先祖からの火なので尊く感じられて・・・。

火が絶えないということは、先祖からずっと火を守り続けてきたということです。囲炉裏は火が絶えない場所なのです。囲炉裏が今もあることで、私たちの暮らしは復活していきます。

引き続き、子どもたちに伝承したい暮らしを味わっていきたいと思います。

 

 

 

自然循環の力

冬が終わりに近づいてくると、冬に水をはった田んぼでは新しいいのちが準備に入っています。オタマジャクシをはじめ、イトミミズや蜘蛛などの小さな小虫、その他、水の中には何らかの卵がたくさん泳いでいます。

秋の収穫が終わっても、水のめぐりを止めなければ生態系の循環は冬の間も行われます。生物多様性は、自然循環と共に行われますから自然循環の邪魔を如何に行わないかで多様性はより豊かになるとも言えます。

農薬も肥料も蒔かずに稲を育てている田んぼは、年々、そこで暮らしていく仲間たちの姿も変化してきます。4年目くらいからはよく見かける草草、5年目くらいには定着しているカニワナや沢蟹たち、上手に周りの生き物たちと共生をはじめています。

生物多様性をみていたら、一つ一つの生き物たちがそれぞれに関係を結び近くて生きていることに驚きます。あの生き物がいるということは、近くにこの生き物がいるはずと一つ一つを結んでいたらまるでどこかから集団移動してきたのではないかと思えるほどに無数の生き物たちのムラが出来ています。

土の中も一握りの土に地球の人口以上の微生物が棲んでいて、場所場所によってはその微生物の種類も分布も異なりますから数年でここまで変化してしまうのをみると如何に自然の循環の力が偉大かが分かります。

人間がその土地を改良するために様々な薬や肥料を散布してもここまでの変化は創りだすことができません。自然の持つ循環力は、あるがままそのままにしておくだけで発揮されています。むしろ邪魔をしないでいることがもっとも自然の循環力を引き出しているとも言えます。

この邪魔をしないというのは、余計なものを足したり耕したり、持ち込まなさい持ち出さないということですが言い換えれば自然のままにしておくということです。しかし何もしないで自然のままなら作物が育ちませんから、人の手を入れることも自然の一部として自然にしてしまうのです。それは自分の作物を育てるのに、周りを排除するのではなく「一緒に」育てていこうとするのに似ています。

自分だけがよければいいという考え方はとても利己的で自然ではありません。循環というのは利他的であれば、相手も自分も、また皆が善いのがいいと考える発想です。これは「三方よし」とも言いますが、みんなが倖せになるためにどうすればいいかを考え最善を盡していくのです。

自然循環はいつも全体を最適になる様に動いていますから、全体が最適になっていると思うことがまず循環の力を邪魔しなくなるための第一歩になると思います。そのままでいい、このままがいいと丸ごと認めてからその上で全体が最適化するのを見守っていくのが一つの方法論かもしれません。

今年の自然農園の田んぼも、いよいよ苗を植えるまでの準備と手入れの時機に入りました。小さな生き物たちが土を柔らかくしてくれて、冬の草草の根が土の中にたくさんの空洞をつくってくれています。ここに苗が移植されていきますが、循環のタイミングをみてはお引越しです。

また今年の循環を観察し、自然がどう変化しているのかを味わってみたいと思います。

 

 

八十八

春が訪れ、いよいよこれからお米の苗作りの季節に入ります。毎年この時期がとても待ち遠しく、今年も一緒にお米と季節の廻りが学び合えること、見守りを味わえることに仕合せを感じます。

お米というものは八十八の手間暇がかかると書いて「米」と書きます。この手間暇は意識していなくても自然に手間暇をかけています。こういう時間が何よりの味わいであり、自然農はさらにその手間暇を手作業で味わい盡すことができる豊かな農です。

以前、熊本県人吉にある国宝青井阿蘇神社に参拝したことがあります。そこの大神宮拝殿の入口付近に下記のように書かれてあったのを覚えています。

「わたし達の主食であるお米は、天照大御神からいただいたものといわれています。その「米」という文字は、「八十八」、つまり88の手間をかけ大切に育てるという意味です。太陽・星・月の光を受け、大自然の恵みとしては雨水をいただき、風で害虫を防ぐ、稲妻の光で稲の実が膨らみ、わたし達の命の根(イのちのネ)、命の根源となります。お米は撒けば1粒が万倍にもなります。これは自分1人だけでなく、他人の分までも賄えるという神道における調和と共存共栄の思想です。平らかに【平】、禾(イネ)をを口にする【和】。神様からの賜りものを平均して皆がいただける状態を「平和」というのです。」

とても素晴らしい文章で、古来よりお米が神道の行事、また儀式や祭礼として私たちの生活に密接につながっているのを感じます。昨年は島根で注連縄づくりも実践するご縁をいただきましたが、お米の持つ神聖神秘的なもの、その稲神様が寄り添って暮らしてくださっていると実感することは私たち民族が何を初心に生きていけばいいかを忘れさせないための工夫にもなっています。

八十八の神様宿るお米だからこそ、八十八のお世話をつとめさせていただけるという仕合せ。御米作りの有難さというのは、いのちのねが育つ歓びでもあります。

すでに自然農園の山の湧き水のたまりに10日前に設置してきた昨年のお米の種籾から新芽が出てきていました。これから苗床を用意していよいよ6年目の実践がはじまります。さらに今年は、一昨年前に川口さんにいただいた古代米にも挑戦し、また苗場も使い分けて取り組みます。

子ども達のためにとはじめたものですが、田畑から数多くの見守りをいただき確実に八十八がしみ込み浸透してきています。また青井阿蘇神社にはこう書かれていました。

「お米を炊き食事をつくる場所を台所と言います。これは母親が幼い子どもの食べ物の有難さや、大切さ、事の善悪を教えるなど、人間の生き方の基礎となるべき土台を形成する場所だったからだとも言われます。全国の神社で五穀豊穣を「祈願」するのが2月17日の祈年祭で、「感謝」するときが11月23日の新嘗祭です」

愉しみはいつも道の中にあります、道縁無窮です。

今年も御米に携われることに深く感謝して、丹精を籠めて丁寧に学び直してしていきたいと思います。

 

 

 

 

忍耐力

ベランダに実生のクスノキとイチョウが育っています。ちょうど3年目に入りますが、また春に合わせてそれぞれ蕾をつけて準備をしています。クスノキについては、沢山の葉をつけたままに冬の寒さを耐えて乗り越えました。イチョウについては葉を落とし、枝だけになった姿で春の来るのを待っています。

同じ冬を乗り越えるといっても、木々によって乗り越えて方が異なります。常葉広葉樹であるクスノキは、常に光合成を維持するために葉を広げ続けます。光合成ができなくなった葉は落とし、まだできるものは残しています。常に光合成をし続けることで生き続ける太陽の光を一年中浴びて成長し続ける戦略とも言えます。

またイチョウは分類は針葉樹になるのですが落葉します。冬に一斉に葉を落とした後は、枝ぶりのままに今まで蓄えた養分をしっかりと守り春が来るのを待つ戦略です。

どちらの木々も冬を乗り越えるために智慧を働かせるのですが、タイプの異なる木々を一冬観察してみたらそれぞれの持ち味があり、それぞれの乗り越え方が合っていいと安心する気持ちになります。

冬はどんな生き物にも到来するものです。その冬の乗り越え方は、決して一つではなく有る生き物は土中に潜り冬眠し、有る生き物は木の皮に隠れて身を寄せ合ってじっと固まり、またある生き物は人間の住む屋内に入り込み春を待ちます。鳥などは街に降りてきて南天の実や庭のあちこちで越冬したり、渡り鳥になって暖かいところへと移動しているものもあります。

冬は私たちに忍耐を教えてくださいます。これはどの生き物たちも自然に忍耐を学んでいるのを感じるからそう覚えます。この忍耐というものが如何に人生において重要なものか、冬がなければ私たちは忍耐の妙味を味わうこともないのかもしれません。

二宮尊徳に「小にして忍耐せざる者、長じて速やかに亡ぶ。 桃李これなり。小にして忍耐する者、長じて久しく存す。楠樫これなり。人あるいは幼にして学を勉め、長じて身を立て、死して名を存す。またあるいは幼にして遊惰、長じて家を失い、死して名無し。これ忍耐と不忍耐とに由るなり。人よろしく桃李を見てもって戒慎し、楠樫を見てもって発憤すべし。」があります。

桃李や楠樫のようにしっかりと忍耐するもののみ長じてのちの大樹となり杜を形成し生き物たちの父母となる。もしも忍耐を怠り、怠惰に流されれば大成することがないということです。

焦らずじっくりという言葉は、自然界の持つ忍耐力の側面です。

理念や初心から決して目を反らさず今に戒慎し、今を発憤して実践を強めていきたいと思います。

 

バイオリズムと融通無碍

人間の体調にはバイオリズムというものがあると言います。これは20世紀のはじめにウィーン大学の心理学教授 H・スウォボタ博士とドイツ科学アカデミー会長 W・フリース医師が患者の容態の変化に周期性があることに気付き、23日周期の身体リズムと、28日周期の感情リズムを発見したことで見つけられました。

現在では主に、人間の場合は、身体(Physical)、感情(EmotionalまたSensitivity)、知性(Intellectual)の3種類の波を用いて説明されています。

生命はある周期で、波の満ち引きのように体調や感情、感覚などが上がったり下がったりしているということです。体調もずっと同じままではなく、知らず知らずのうちに下がっていたり上がっていたりしているということです。それらのバランスによって集中力が高まったり、もしくは感情が落ち着いたり、様々な変化があるということです。

確かに、天候が日々に変化するように私たちのカラダも変化します。それは外側の変化に対して順応しようとする自然の変化であり万物はバランスを取ろうとして変化を已みません。もしも外側が全く変化しないような世界であったなら、こちら側も全く変化しなくても済むのでしょうが実際は季節感、温度、時の流れ、場所の位置、老化に病気まで様々なストレスを抱えて変化は促され続けます。

こういう時には、バランスを整えて変化に適応していくしかありません。しかしバランスが崩れてしまい変化適応が上手くいかない場合が多いように思います。バイオリズムなど無視しては、思い通りにしようとする執着ゆえによりバランスは崩れていきます。

人がバランスを崩すのはどういう時か、それは崩したかどうかではなく崩した時に無理をするかどうかということです。昔、メンターの先生に「調子の悪いときに無理をしても効果がない、調子が悪いときはじっとして調子が上がったらまた動けばいい」とアドバイスをいただいたことがあります。

人は焦ると、かえって調子が悪いときに頑張ろうとするものです。バイオリズムがよくないときに何をやってもそれはもはや単なる執着いがいの何ものでもないのだから思い切って手放し諦めて開き直ることで調子が戻ってくるのが早くなるものです。

時の流れも同じく流れが悪いときはなるべくじっとして、流れがよくなってからまた動けばいい、融通無碍にいることがバイオリズムに逆らわないで生きるための妙法かもしれません。

動中の静も、静中の動もその時々として深い意味が潜んでいます。潜龍のように沼に潜んでは蒼く澄んだ水鏡の天を見据えて鋭気を養いたいと思います。

理屈よりも大河の一滴

3月も中旬を過ぎ、いよいよ自然農での今年の高菜の収穫と稲作の準備に入ります。自然に取り組むとき、そこに理屈は通用しません。単なる本や文字で書かれていることは何の役にも立ちません。実際に役に立つのは、誠実さと真心、後は実践と実行のみです。

そこから人の道も同じく、単なる本や文字で書かれていることも何の意味もありません。言葉遊びばかりしていても、人の世がよくなることはありません。理屈でああすればいいとかこうすればいいとか言いたいことをいう人は沢山いますがそれも何も変わりません。やはりここでも実際に役に立つのは、至誠と実行のみです。

いくら聖賢の学問を学んだとしても、それを実行する方法を持っていないのならそれはやらないとの同じです。いくら学術的な知識を貯め込んでいたとしても、使えないものならそれもないのと同じです。

しかし今の時代は、具体的なものよりも形式的なものや理屈的なものばかりが評価され実際に地味に実践している人たちのことはあまり評価されることはありません。すごいことを知っていて周りから評価されている有名人は沢山いますが、実際に実践を積み重ねて世の中を変えている人のことはあまり有名ではありません。それだけ理屈ではない方はあまりにも地味すぎてこれくらいでは何も変わらないように目に映るのでしょう。

頭というのは思い通りに事が進むと勘違いしているものです。しかし頭で考えたようにみえてその実は現実に無理やり頭を合わせているだけでその通りにいくことはないのです。実際は理屈では物事はうごいたためしなどなく、全て至誠と実行でのみ動くのです。それが自然だからです。

自然というものを相手にするとき、こちらが具体的に動いた分だけしかカタチになることはありません。例えば、自然農においてもいくら理屈であれこれと対策を立てたとしても、実際には田畑に出て見回り、声をかけ、時折草刈りをし、時折虫たちや土の様子を見て、あとはその時々の状況を真心を籠めて寄り添っていくことで作物は無事に収穫ができます。そしてまた翌年に向けて、蒔き時から収穫時期、それまでに気づいた改善をすぐに実行して直すだけです。

いくら農業知識があったとしても、至誠と実行なくしてはそれは役に立ちません。至誠と実行は、真心をカタチにする具体的な実践のことです。実践を已めるということは学者になるということです。二宮尊徳は言います「茄子が先に出来たか字が先か」と。また「豆という字を書いてみよ、お前の豆は馬もくわん。俺の豆は馬もくう」と。理屈で文字遊びをしているような学問に興味は一切なく、実際の世の中を変革しようとするのなら行動をしたのです。

分かった気になると人は学問をした気になります。分かった気にならないようにするには一つ気づけばすぐにそれを行動することです。行動によって気づいたことが実践となり、実践となったことで世の中が一つ変わります。

自分の日々の小さな実践は所詮、大海の大河の一滴にもならないものであったとしても世の中を憂うのなら諦めきれないのが真心のように思います。真心を優先した一日を状況に左右されずに過ごしていきたいと思います。

気力体力

人間には気力と体力というものがあります。この2つの力をもって活発的に活動しているのが人間だとも言えます。この気力と体力はどのような定義になっているのか、少し深めてみます。

まず気力とは辞書には「物事をなしとげようとする精神の力。また、元気。精力。困難や障害に負けずに物事をやり通す強い精神力。気持ちの張り。気合。」とあります。そして体力とは「ある仕事が行えるか否か、または病気に耐えるか否かという、身体の強さ。労働や運動に耐える身体の力。また、病気に対する抵抗力。」とあります。

気は気持ちの部分が強いのに対し、体は行動する部分が強いように思います。この2つがバランスよく働くとき、気力体力が充実して物事は成就していくように思います。私の場合は気力が強い方でそれに体力が着いてくる感じですが、体力がなくなってくるとどうしても気力が回復しなくなってきます。体力が気力を支えますから体調を崩し病気になるとどうしても気力が減退します。

こういう時は、体力の回復を優先しまた気力が充実してくるのを待つしかありません。体力の維持のためには、規則正しい生活や、規則正しい食事、適度な運動があります。日頃から下支えしてくださっている体力に対してどれだけ感謝し配慮していくかが体力維持には大切なことです。

病気になってしまったなら、静かに体力の回復に努めることです。体力が回復することで病気も平癒します。子ども達の為にも、日常の生活を観直していきたいと思います。

天災と人災

天災と人災というものは異なるものです。天災は地球規模の災害であり、大地震から大津波、大竜巻に大台風、大寒波に火山の大噴火、熱波から隕石の落下まで毎回、私たちの想定を確実に上回る災害が天災でもあります。

それに対して人災というのは、想定内で起きる人的災害のことです。原発事故や工場火災、水道管の破裂に地下鉄事故、交通事故や停電、風評などこれらは人災でありすべてそれは事前に備えることができるものばかりです。

この天災と人災と混同している人が増えてきているように思います。一般的にビル管理などで行う災害訓練は人災対策です。これは日頃から訓練しておかなければ「人災」が起きてしまうということから行われる訓練です。本来、運よく最初の天災から逃れられたとしてせっかく助かったいのちを人災によって失うのを未然に防ぐための訓練のことです。

人災とは人道のことで、人の道は日々の平常時の訓練を怠るなということで人災が発生しなくなるようにするのが人の道です。二宮尊徳が、「人道は一日怠ればたちまち廃れる」という言葉があります。そもそも一日怠ることが平気な人がいくら人災の訓練をしたとてそれはもう廃れているのだからひょっとしたらしない方が他に影響を与えない分ましかもしれません。日々に防災のチェックをしたり、日々に備品の管理をしたり、大事なのは人の道は「一日も怠らない」ということで人災は防げるのです。かつて二宮尊徳が何度も天災に対して人道を盡して飢饉や飢餓を救ったり、水害を防いだり、沢山の人命を救助できたのもまた二宮尊徳が「一日も怠らない実践者」であったからであり、その徳恵によって仲間や家族が救われたのです。その遺徳は今でも人災対策の鑑です。

それに対して天災はどうかということです。

天災は時の運です。この天運というのものは、不思議なもので例えばちょうど地震の時に出張で遠くにいたり、津波の時にそこに近づいてしまったりします。自然界に生きている生き物たちは台風が来る前にはみんな避難していると言います。メダカなども流されないように石を呑みこんで深く潜っているといいます。鳥や野生の動物は、事前に天災を察知して避難していのちを守ります。

これは野生の勘とも言えるものです。自然から離れず、自然により沿っていきている生き物たちは自然の観察に長けています。それは固定概念に縛られず、危機意識を怠らず、自分のいのちを最優先に守り、自然への畏敬を忘れず、ピンチの時こそ野生の勘が働いているから助かるのです。

これを運が善いとも言います。この運とは、天運に対して自分の運を合わせていくということです。日頃から自然を畏敬し運が悪くならないような生き方をすることで、救われます。たとえば謙虚さや素直さを持っている人は、なぜか人のアドバイスや周りの見守り、環境の組み合わせによっていのちが長らえます。

これは日々の生き方が天道に逆らわない、昔の言い方をするのなら「お天道さまに恥じない」生き方、つまり正直に謙虚に素直に己に打ち克って初心理念を優先して生きているからです。お天道さまがいつも守ってくださるのはその人が「正直」だからです。そして正直が守られるのは天運に沿っているからです。これは会社経営も然り、生き方も然り、本来の日本人は環境の変化、天災が世界一多い国だからこそ先祖代々、「正直こそ無敵」であると、お天道様を信じて取り組んできたのです。そしてこれらの努力こそが、人道の極みとも言えます。

いくら体調を崩してこのブログを已めないのは、それが人道であるからです。一日怠ればたちまち廃れるからこそ、天理に沿って人道を重んじるのです。人道を怠らないことが己に打ち克ち天道に従うことになります。

引き続き、子ども達のお手本になるように日々の生き方の方を平常心・平常時の方を大事に実践を積み重ねていきたいと思います。

緊急の常態化の怖さ

便利な社会の中で、今ではワンクリックでありとあらゆるものが手に入ります。また都会では何でも人間の思い通り、人間の都合通りになるように仕上がっています。24時間空いているお店、病院、タクシー、ありとあらゆるものがすべて整っています。都会に住むというのは、その便利な生活の中に入るということでもあります。

しかしこれをよく考えてみると、すべて緊急時の対応ができるということが便利さであるという事にも気づきます。わざわざ準備してなくても、日頃から備えがなくても、都会に住めばお金があればなんとかなるというものを便利だと定義しているのです。

本来は、お金があろうがなかろうが緊急時の対応ができないから日頃から備えをし準備をします。例えば、病院も近くにないから早めに診察にかかります。お店も早くに閉まりますからある程度必要なものはストックします。前もってちゃんと平常の方を大事に保つのです。しかし今は緊急の方があたりまえになっているので震災や災害、天災の時にまったく対応することができません。

いくら24時間対応のエレベーターですと謳われていても、都内の全部が停電したら対応できるはずがありません。ガス、水道、電気が止まることなど想定などしているはずがありません。それが緊急時が常態化しているという危険な状況なのです。

田舎では停電は当たり前、断水、ガスがこないなどよくあることです。そのために、もしもそうなったらということで日頃の備え、つまり平常時を油断なく準備しています。緊急時で乗り切れるのはたまたま運が善かっただけとし、緊急時を主をしておらず、あくまで平常が良くなかったと反省しすぐに改善をするのです。

それが自然の中で備わってきた智慧であり、人間の努力によって未然に災害を防ぐコツのように感じています。緊急時を当たり前にし、緊急の時にうまくいかなかったらクレームをつけてもっと緊急時に合わせようとさせる愚策、緊急でも何も気にすることがない生存本能の鈍さ、自然界では淘汰されるようなことを当たり前に行っているのです。

あの原発事故でいざあの事故が起きた時まったく政府も東電が緊急対応すらもできなかったことを思い出します。あの事態になって何かしてもどうしようもないのです。それが緊急が危険だということなのです。平常時に一体何をしていたのか、そして他の原発は今はどうなっているのか。緊急の対応すらできないものを平常などとあったものもありません。まだ緊急対応できるのなら平常の備えもできますが、現に対応できないことがわかったのならば平常を全部見直す必要があるのです。そのうちだれかが新しい技術を産み出して原発を管理してくれるだろうと問題を先送りしておいて、どうやって対応と対策を立てるのかと疑問に思います。

話を戻しますが緊急時になることを恥として、本来緊急時にならないように不測の事態に備えて平常を養うことが本来の人間に具わった生き残る力だと思います。一度緊急で乗り切ってうまくいったからとそれを基準にするのではなく、「備えあれば憂いなし」と平常の実践を確実に積み重ねたいと思います。

人間の傲慢さが目先の対応で済まそうとし、子孫へツケを遺すような生き方をしてしまいます。自分たちの生き様が、後輩をはじめ後人たちに受け継がれることを忘れないように実践していきたいと思います。

 

御恩と感謝

都会に住んでいると、全てが便利なものに囲まれています。今ではインターネット一つでありとあらゆるものが宅配されます。さらには都心に居れば即日配達というものもあります。ボタン一つで氷から飲み物、食材まで簡単に購入でき配達されてきます。

先日からインフルエンザに罹り寝込んでいますが、有り難いのは周りの心配や祈りをいただけることです。便利になってすべてはお金で手に入れられる時代になったようにみえても、その実は人と真心や親切、祈りや繋がりはお金では買うことはできません。

今回の病でふと以前のことを思い出していました。幼い頃は、氷なども冷蔵庫のものしかなく桶に水と氷を入れてはタオルで絞り頭に乗せて看病してもらいました。祖父母も心配で遠くから何度も様子を見に来てくれては食べ物を置いていってくれました。弟も自分のことのように心配し、遊ばずに大人しくしてくれました。近所のおばさんも体調を気遣い見守ってくれました。犬までも心配して気にしてくれていたのを思い出します。

沢山の愛情をかけてもらって今まで生きてこられたこと、病気のたびに思い出します。便利な世の中になり、確かに色々なことがお金で済むようになりましたがその実は大切なものは何も以前から変わることはありません。一人になればなるほどに今までかけてくださった他人様の御恩の尊さを実感し、一人で向き合えば向き合うほどに他人様からかけてもらった人情の温もりを感じます。

今のような便利さで溢れている時代、何でも当たり前になる怖さを感じます。当たり前であればあるほどに感謝を忘れ、感謝を忘れたら他人様の恩情を見失ってしまうのかもしれません。

自分一人で生きていけるなどと言うのは、お金が産み出す幻想であって人は一人では決して生きていくことはできません。それは人が一生を送るには、無数の人たちが関わってくださっているからです。その恩に報いたいと思い生きること、それができるなら人生は迷いなく倖せに生きられるはずです。孤独死など恩に報いて生きていく人には存在しない境地です。

どんな時も、いただいた御恩や御厚情を忘れずに日々に感謝で歩んでいきたいと思います。