時間と観察

人は時間をかけて観察していくと、本当のことは次第に浮かび上がってきます。短期でその時だけをみるとわからないものが、時間をじっくりかけるとその人の目指す方向性が出てくるものです。

方向性が同じであればいいのですが、時間をかけて方向性がズレていくとそのうち完全にズレてしまうこともあります。お互いに折り合いをつけながら取り組む中で、明らかに逆の方向に向かっているものはなかなか一緒になることはできません。その方が遠くに飛ぶというような弓のようなしなやかなものであれば別かもしれません。

しかし一般的に進む方向が同じなら情熱が分かち合えますが、別だとエネルギーが纏まりません。もともとエネルギーというのは、それぞれのエネルギーの集合体であるからです。同じ目的や方向に対して、全力で自分のエネルギーに集中することしか、エネルギーを合わせることはできません。誰かに依存したり期待しすぎることはそもそもエネルギーが纏まらなくなるようにも思います。そこには、お互いへの信頼や信用、そして夢の共有などがあります。

その目的を忘れずに自分自身に集中することで、またエネルギーは蓄積されていきます。誰かに無理に合わせるということや、誰かに我慢して委ねるというのはタイプにもよりますがそれでは難しいように思います。

どちらにしても、時間をかけて観察することで本当のことが浮かび上がってきます。そのうえで、内省をし、冷静に素直に改善をすることで最後まであきらめない忍耐力が出てきます。

忙しかったり余裕がない時こそ、視野が狭くなりますからそんな時こそよく自己を見つめ直して静かな心でよく観察することが善いように思います。

改善というものは時間が必要です、まさに時間こそ貴重な投資であり人生の醍醐味を磨き上げる妙法です。

色々とこの一年を振り返りつつ、新たな春を迎え、自分自身の生き方を見つめ直していきたいと思います。

一夜漬けと知恵

昨日は、高菜の一夜漬けを食べましたがとても美味しくみんなで舌鼓を打ちました。古漬けも美味しいですがこの新漬けの美味しさは旬の味わいもあります。

もともと高菜はそのままでも美味しいのですが塩が入り漬物になると絶品です。ぴりりと鼻にあがってくるからしの風味が食欲を濯ぎます。本当に美味しい一夜漬けは、ご飯の御供としては最高です。

戦後、昭和のころまでは私たちは各家庭でみんな漬物をつくってきました。世界に誇る漬物大国が私たちの食文化でした。しかし今では、家で漬けることもほとんどなくなりお店で添加物で味付けした漬物風のものを食べるようになりました。

当然、むかしのように美味しい漬物はなくなり今では漬物を買ったり食べたりする食文化も衰退しています。

しかし本来、日本の風土は高温多湿で発酵に向いている風土でもあります。カビや腐敗をふくめ、多様な細菌たちが大勢共生している風土です。この場所では、自分の身体も同時に発酵をよりよくしていく必要があります。

そのため、日ごろから自分の身体を漬物と同じ原理で好発酵状態を保ち、その状態でいることで抗菌効果がでて病にかかりにくい身体を保っていたともいえます。

今では冷暖房や冷蔵庫、除湿器や乾燥機など機械に頼っていますが本来の日本の風土の中では大変な費用がかかってしまいます。

むかしの人は、美味しいものを食べれて健康になり、漬物にすることで未病を保つという一石二鳥を行っていたともいえます。美味しい、そして元氣になる、こんな好循環を発明した先人たちには尊敬の念が湧きあがります。

引き続き、私もむかしの人たちに倣ってその知恵を結び直していきたいと思います。

徳が循環する結づくり

昨日は、伝統固定種の堀池高菜を収穫しました。もともと30年間、耕作放棄地だったところを畑にし無肥料無農薬でもう10年以上になりますが今年の出来栄えもまた素晴らしいものでした。

虫もほとんどついておらず、葉も青々とし、茎などはまるで樹木のような頑丈さ。鎌で刈り取るとその周辺には高菜の香ばしい香りが満ちてきます。今回は、一緒に取り組んでいる仲間も参加しみんなで和気あいあいと畑ライフを楽しみました。

みんなで畑で歓声をあげながら、高菜の出来栄えを喜びそして分け合うと深い喜びと仕合せを感じます。種を蒔いてから半年間の間、猪被害に遭い、草とりもあり、何度も足を運んだことが報われる瞬間です。昨日はそのまま高菜を天日干しにし、高菜漬けをつくりこのあと古漬け作業に入ります。

高菜漬けもまたみんなで行いましたが、こうやって素材そのものが出来上がるプロセス、そして素材が美味しいままにみんなと分かち合える仕合せ。これはゼロから生産するからこそ味わえるものです。

私たちはいのちのバトンというものを繋いでいく存在でもあります。そのバトンをつなぐことが大切なのは当然ですが、実際にはそのバトンをつなぐまでの喜びが仕合せが幸福でもあります。

与えられた場所で、与えられた種と共に一緒に育ちあい、そして一喜一憂しながらも様々な物語を体験し感謝してみんなと分け合う。こんな仕合せは他にはありません。

私はこのような取り組みをする仲間を集めたいと、徳が循環する結づくりをしています。それが子どもを見守ることになり、私のバトンをつなぐことにもなります。

この人生は、自分のものですが自分だけのものではない。いのちはみんなのものであり、みんなとつながるなかで私たちはその恩恵や恩徳を実感できるのです。

私にとって今日の日は、特別な日の一日でもあります。陽気な春の気配と、ひなたの喜び、いのちがイキイキと躍動して仕合せを分け合える日。こういう素晴らしい日のような心のままに歩んでいきたいと思います。

苔の生き方

山にいくとたくさんの苔をみかけます。苔が日陰でキラキラと輝いている様子はまるで宝石のようです。触ればふかふかで、観ていたら癒されます。苔の魅力は山にいくたびに増えてきて、それを身近に置きたくなるものです。

この山苔とは、一般的にはホソバオキナゴケ(細葉翁苔)とアラハシラガゴケ(粗葉白髪苔)のことをいいます。そのどちらもシラガゴケ科で、乾燥すると白髪のように葉が白くなり逆に過湿な状態では濃い緑色になるのが特徴です。見た目は、かわいいまんじゅうのようなコケで「まんじゅうごけ」 とも呼ばれています。

ついついこのまんじゅうごけを見つけると、足を止めて心惹かれます。

苔はまだ完全に分かっていない植物ですが、植物と同様に光合成を行います。クローンをつくる無性生殖と、受精して胞子でふえる有性生殖があり、その種類によって、雄株と雌株が別々にある雌雄異株するものと雌雄同株があるといいます。基本は胞子で増え、維管束をもたず多細胞性の生殖器官と胚をもつともいわれます。

君が代にある苔むすまでとあるように、長い時間をかけてじっくりと生長しそして偉大な杜を形成する苔に古代の人たちは尊敬の念を持ち生き方を学んだように思います。

現代では、苔は身近にありませんが私のいる場所は苔を要所に活用しています。なかなか環境に合わずに根付きませんがそれでも回数を繰り返すうちに、どういうところが好きでどういうところが苦手なのかも次第にわかってきます。

場というのは、その生き物が好きな場所で棲み分けますからそれも次第に仲間を形成したり、周囲と共生することもあり一概にこの場所がいいとはいえません。

こうやって仲間たちと一緒に、苔のように棲み分けていけるのは仕合せなことです。子どもたちの未来のためにも苔からも学び、この苔の生き方を伝承していきたいと思います。

真の合理

本来、自然に則った法則のようなもの、これを道理ともいいます。この道理とは、正しい道筋や理念のことをいいます。しかし最近は、合理性を追求され道理が失われているともいえます。物事の本質よりも人間のその時々の理屈での便利さや都合が優先されていくというのです。

本来、合理というのは物事の理屈にあっていくことをいいます。これは理を曲げるというよりは、中庸であること、正反が合わさって福になっていくように本当の合理とは最善の状態になったということです。

この最善であるというのは、今が最も相応しいと思う心に似ています。今が最善ということの連続を歩んでいる人は、今はこうする、今はこうあるというように、その時々の今に生き切ることができます。

本来はそれが合理性であり、その時々の勝手な都合ではなく理念や初心、そして道理に照らして今はこれが最善であるという決断と行動をし続けるということです。

現代はどうなっているかというと、それまでにつながってきた日本の風土の道理などは度外視して西洋から流入してきた道理を優先しています。そのうえで合理性を追求するから今がおかしなことになりつづけます。本来の今というのは、古来から連続した今のことです。つまりは、私たちの真の伝承文化に照らして今はどうあるべきかを連続して行動していくなかに中庸があり合理があります。

私が、暮らしフルネスで伝承文化に取り組むのもまたこの日本の風土、そして過去から今につながるところに真の合理を実感しているからです。

理を合わせるというのは、自然の道理と伝承の道理、あるいはいのちの道理や宇宙の道理、さらにはつながりの道理や天地の道理などあらゆるものを合わせていくことをいいます。

子どもたちにも過去から今に続いてきた合理を伝承し続けられるように私自身がその生き方を磨き今を高めていきたいと思います。

水の不思議

私たちは水を飲んで生活をしています。水がなければ生きていけません。この水というものは、あらゆるものが溶け込んでいるものです。その溶け込んだものを私たちは吸収し、それを分け合いいのちを繋いでいます。

当たり前すぎて水の持つ不思議な力を忘れてしまいますが、水が如何に重要かは学べば学ぶほどに実感します。

先日、井戸水のことを深めていましたがそれぞれの場所にそれぞれの地下水があります。私たちは今では水道水を飲んでいますが、むかしは湧き水や井戸水、あるいは雨水を貯めて飲んでいました。川の水は不衛生であり、煮沸したり濾過すれば飲めましたがあまり飲んでいなかったように思います。

以前、カンボジアに訪問したとき水道のない村で大きな水甕に雨水などを貯めその中にボウフラ対策に蟹をいれていました。今でもその水を煮沸して飲んでいました。

その土地に相応しい水があり、その土地の養分が溶け込んだ水はその土地の食べ物と一体になっています。私たちが食べる野菜なども、その中には水中の鉄などが溶け込んでいます。その御蔭で私たちは野菜から鉄分を吸収することできます。その鉄は水を通して私たちの身体に溶け込むのです。

消化したものというのは、水に溶け込んだものともいえます。その消化液もまた水でできたものです。私たちは水を調整して、いのちを保つ仕組みなのです。自ら学ぶと、いのちの原理や原則が学び直せます。

子どもたちにも水を大切にすることを伝承していきたいと思います。

結果よりも

私たちは結果というものを意識すると、その結果に対する不安からマイナス思考になることもあります。結果がいつも善いというのは、本来、経過が善かったということでもあります。つまりは結果は度外視して、経過のために真剣に打ち込めた時、そのものに意味があり価値があるというものです。

人生の中ではどうにもならない状況になることがあります。どれだけ真摯に打ち込んでいても周囲の思惑に適しないと批判されたり認められないということにもなります。しかし、天を相手に真心のみを盡したり、子孫や未来のためにと徳を優先していこうとすればそのうち結果は後からついてくるものです。

そう考えてみると、結果というのは誰かがそれを結果としただけで続いていないものはなくいつまでも終わりはないのだから大切なのはその時々の今にどれだけ真心を籠めるか、そしてどのような方向性にむかって誠実に取り組んだかということが重要であることに気づきます。

歴史を省みても、現在の教科書の歴史も過去に色々なことがあって書き換えられたものがあります。勝者の歴史というように、その時代時代に後の人が書き換えることができるようにつくられています。

特に明治時代以降は、世界との関係があり国家を形成するために都合よく書き換えられたものが多いといいます。その中で、結果がこうだからと決めつけていたり、きっとこういう結果になるからとマイナス思考になっていたら真心や誠実さは閉じていくものです。

時代が変わっても、その行った行為や意味、そして価値は普遍的なものです。正解かどうかではなく、そして間違っているかどうかばかりを議論するのではなく、その取り組みの意味や実践して挑戦してきた価値を学ぶことが本来の歴史から学び直すことかもしれません。

先人たちが真摯に取り組んできた人生のさきが今の私達です。そして今の私たちの先に子孫たちの新たな今が創造されます。想像力を膨らませて共感力を高め、今もむかしと同じように天を相手に誠実に今を磨いていきたいと思います。

暮らしと修養

人生というものは、今の連続で存在していますからその時の今は二度とない今ともいえます。毎日、私たちスケジュールを考えていつまでにと考えてしまいますがそれも大事なことですがそれと同じようにこの今のこともよく考える必要を感じます。

未来から逆算して今どうあるかという発想と、今何をしているから将来にこうあるだろうという発想です。むかしは今で今はむかしであるということは、今に集中するほどにそれを感じやすくなるからです。

未来というものは不確定なものです。周囲の影響を受けて、いくらでも現実は変化します。特に人間は社会を形成しますから、集合意識が変わるたびに社会も変化を続けます。それに翻弄され続けていたら疲れもたまります。むかしから時代の変化と共に、その影響を受けますからこれはどうしようもありません。

そんな中で普遍的な生き方を貫いたり、世の中の潮流にもバランスよく調和して自分をやり遂げて一生を送られた方もたくさんいます。その方々は学問をし、自学自修を実践し心の持ち方によって変化に順応していきました。

この心の持ち方のことを考えてみるとそれは今の心の在り方ともいえるようにも思います。今の心をどのように調えるのか、そしてどのように生きるのか、そういうことを常に忘れずに心の平安をつくり続けるのです。

別の言い方では一つの幸福の在り方でもあろうと思います。不幸せにならないように、今を丁寧に暮らしていくのです。人の幸不幸はこの今の暮らし方によっても決まっていきます。

暮らし方というのは、生活のことではなく心の持ち方のことでもあります。そしてそれは幸福の在り方ともいえます。

日々の今をどれだけ大切に過ごしていくか、引き続き丁寧な暮らしを通して自らを修養していきたいと思います。

懐かしさとは

むかしの遺跡や和歌を深めていると、その時の情景や心情がどうだったのだろうかと感じるものです。今は、ほとんど景色も様変わりしており、遺跡の周囲は近代的な建物や資材置き場など価値のない場所として使われています。そもそもこの価値が変わってしまい、昨日ブログでも書いた種よりもお金が大事になり、歴史よりも経済が大事になればその土地の本来の価値も失われていくのは当然かもしれません。

私達が懐かしいと思うものは、ただ思い出があるものだけではありません。そこには、今にも「つながっている心」であったり、その当時から人間が持っている普遍的な情緒や感情、気持ちに「共感」するときに懐かしいと感じるのです。

この懐かしいという言葉は、慣れ親しむもの、手放したくないものという意味でもあります。つまり、いつまでも失いたくないもののことのことでしょう。

私達が懐かしいという言葉を語る時、忘れてはいけない初心や、いつまでも失いたくない大切な記憶のことをいうのです。

今の時代は、懐かしいものが減ってきています。ほとんど懐かしいという言葉を使うことがないほどに、なんでも新しくし、近代化を進め、過去を否定し、価値を換えてしまいました。

しかし、子孫のことを思う時、これはいつまでもなくしてほしくないもの、そして忘れてはいけないもの、そういう先人たちも一度きりの人生で深く味わった大切な体験をずっと宝ものとしていのちのままとして後世に伝承していけたらと思うのです。

伝承は、この懐かしさと一体になっているものです。

初心伝承をしながら、子どもたちに懐かしい未来をつないでいきたいと思います。

種を守る

現在、私は故郷で在来種の高菜の種を山間の特別な畑で守っています。まもなく収穫時期ですが、有難いことに最近この高菜の種がほしいという志のある方が増えています。少しずつですが種を分けて、もう一度この地域に伝統の在来種の高菜畑が広がっていくことを夢見ています。

想えば、はじまりは亡くなったお義母さんが病気が平癒後に一緒に高菜を育てようと元氣づけることからはじまりました。それが供養として続けようとなり、家族が育つための畑になり私の心を癒し、そして今では初心を忘れないための大切なパートナーになっています。食べれば元氣が湧き、漬物にして保存すれば菌たちも参加してみんなのいのちを守ります。

そもそもこの種は誰のものでもありません。連綿と1200年以上、この地で根付いてきた歴史そのものであり今でも一緒にいのちを分け合う大切な仲間です。そもそもですが、山は誰のものか、海は誰のものか、種は誰のものか、これはすぐに考えればわかりますが誰のものでもありません。これは徳そのものであり、その徳をいただき私たちは生かされている存在です。

だからこそ、種というものも大切に先人たちが守ってきたように今の私たちも守っていくのは本来当たり前のことです。お金にならないからやらない、暇がないからしない、メリットがないからやらないではありません。本来、感謝しているから当たり前にそれをやるのです。

今の時代は何をするのにも自分や私、誰かという人間の都合ばかりで物事を判断されていきます。しかし、むかしはそんなことよりも大切ないただいている存在に何か恩返しをしたい、言い換えれば徳に報いたいという気持ちがあったように思うのです。

二宮尊徳も同じように、種を守り、田畑を守り、先人の心を守りました。今の時代、何が一番恐ろしいことか、それは種を守らないように自然を守らず、自分たちにいただいてきた先人の心も守りません。

環境破壊の本質は、心の荒廃です。心を如何にととのえていくか、そこには暮らしの甦生が必要だと私は感じています。

これからどうやってこの在来種を守るのか、そのためにも私は徳積み循環経済をまわす仕組みが欠かせないと感じています。私のやり方で私ができることで、種を守り続けていきたいと思います。