自分のままでいられる場所

自分のあるがままを受け容れるということは大切なことです。それができないと苦しでいる人が多いといいます。では、なぜその自分のあるがままを受け容れることができないのか。言い換えれば、自分のままではいけないという他者や周囲からの影響を受けるからです。

例えば、全部がまっすぐに同じ大きさと長さ、形で同じスピードでと求められる植物があったとします。他はみんなそう育っているのに、自分だけ他と異なる状態になればこのままではいけないと焦るものです。しかしどうやって演じてもそうならない場合は、自分を責めてなぜこんなことになど悲嘆にくれます。あるいは、開き直って諦めてしまうこともあるでしょう。しかし、周囲と比べて奇怪な目で見られたり差別や排除されると苦しくなるのです。

本能的に私たちは社会をつくりますし、周囲と調和したいと思うものです。生き残るためには、周囲のお役に立ちたい、自分の存在が認められたいと思うものです。だからこそ、頑張って自分もそうなろうと思うのです。

しかしその自分が周囲から求められる姿が、あまりにも自分とは異なる歪なものであれば本人はとても苦しみます。鳥にカエルになれと言われても無理ですし、蛇にライオンになれというのも無理です。しかし、人間の可能性は無限で特に小さな子どもならほとんどどんなものにもなれるような気もするものです。

人間は、誰がどのように育てるかで変わります。動物に育てられれば、動物のようにもなります。そうやって、どのようなものにするのかというのが教育というものです。

自分らしくいられなくなるはじまりは、みんな同じように金太郎飴のようになる社会設計に組み込まれるときにはじまっています。

お互いを尊重しあう社会というのは、持ち味を発揮する社会です。持ち味が発揮されるというのは、その人がその人らしくいることができてそれをみんなもわかっているという社会です。みんなもそれをわかっているから、それをそのままに活かそうとします。自分がこれを役にたちたいと思っても、もっとお役に立てるものがあるとみんなが気づいてその人を尊重できるのです。

その人らしくいられる環境というのは、みんなが持ち味を活かせる場があるということです。こうならねばならないという、無理や頑張りは心を痛めていきます。

居心地のよい場所は、自分のままでいられる場所ということです。

子どもたちにも無理をしないでいいように、場の大切さを感じてもらいそれぞれの個性や持ち味、自分らしさをみんなで活かしあう豊かで平和な社会になるようにその実践事例やモデルケースを場でととのえていきたいと思います。

洗脳からの解放

パソコンを扱うのにOSがあります。これは基本ソフトウェアです。それを最初にインストールされていると、その機能が中心になります。私たちの思考や脳も、最初に何がインストールされているかというものがあります。

その一つは本能というものがあります。生まれながらに身に着けていることであり、最初から持っているものです。それは昆虫にしても、そして植物、バクテリアに至るまで持っています。

その最初にインプットされたものを発揮していのちをもってこの世で役割を全うしていきます。地球や宇宙も同様に、それぞれの役割を全うします。

しかし人間は、これとは別のものをインストールしていきます。言い換えれば、刷り込みや洗脳というものです。思い込みや価値観、そして先入観や想像など脳にインプットしたものでこの世界を認識していきます。そこは自然にあったものと切り離され、人間だけでイメージする世界に住んでいるようなものです。

気が付けば、地球の資源を使いつくすようになり、本来の自然の役割を果たさなくなり、人間の思い通りに世界を書き換えて塗り替えていきました。その結果、本来の洗脳や刷り込まれていない自然からメッセージがたくさん訪れて目覚める人も増えました。

この自然災害をはじめ、あらゆる気候変動や日々の身近な生物たちの絶滅は私たちにその仮想の思い込みによってできた世界が本来のものとずれていることを証明していきます。

どんなにOSにインストールしてみても、電気がパソコンに届かなければその機械はどうしようもありません。私たちが地球のエネルギーを活用し、人間の好きなように世界をつくってきましたがエネルギーが枯渇すれば電気のない世界に急になってしまうように、本来の自然がどうだったかの元の状態に戻ります。その時、人はどのような光景を目にするのか。

廃墟となってただのガラクタになった建造物や道具などが散乱した姿を見ることになります。子どもたちは、なぜこんなになるまで先人たちは使いつくしたのかと思うかもしれません。

脳の発達だけを優先して、目に見える世界だけに突き進むとどうなるのかということはある程度はわかってきました。そしてこの先に待ち構えているどうにもならない制度設計が破壊されるまで今のOSの機能と新しい機能を探してギリギリまでいのちや資源を削り取っていくのでしょう。

だからこそ、人類は時として電気を切る勇気も必要だと感じます。明かりを消してみると、暗闇の中に星々も火もそしてぬくもりを感じるものです。

子どもたちに、そういう体験や知恵が残せるように色々と試行錯誤して伝承していきたいと思います。

未来世代への思いやり

昨日は、赤村の光明八幡宮でお掃除やお手入れ、歌枕を実践してきました。朝からみんなでお掃除をしますが、みんな主体的で真摯に取り組んでいるため隅々まで美しく綺麗に整います。やらされている掃除とは異なり、みんなが主体的なので積極的に普段はしないようなところまで丁寧に取り組んでいきます。

その土地への配慮や、先人たちの遺徳に感謝するのは心地よく、お互いを思いやりながら場を磨いていきます。こういう縦のつながりを感じながら取り組んでいくことは、私たちがこれまでどうやって暮らしてきたのか、そして今、なぜ自分があるのかなどを実感できる機会になります。

スピード社会のなかで、忘れがちな立ち止まる時間、そして自己を振り返る時間は尊いことで生きている喜びや実感、そして感謝があります。

先人たちが子孫へ向けて放ってくるメッセージを受け取る感性というのは、受け取る側の力量によります。これは文字だけではなく、生き方もまた同じです。私も先祖の一人になる人間ですが、子孫へどのような真心や思いやりを以って今の世代を使命を果たしていくのか。

同じ思いで取り組んだときこそ、先人たちのやさしさや祈り、その真心が共感できます。みんな未来世代のために、自分の世代をどうととのえていけばいいかを真摯に向き合ってこられました。

現代は、今だけ金だけ自分だけという風潮で目先のことに追われては何かと先送りすることが是とされている世の中ですが先送りしたものは未来世代のツケとして残っていきます。

未来世代は、なんでこんなことをしたのだろうと先祖になる私たちの世代のことをどう思うのでしょうか。たまに、うちの祖父の代がどうしようもなくてなどといっている孫世代の愚痴を地域で聞くこともありますがそのツケがあまりにも大きいと苦しい気持ちになるものです。

例えば、ダムの問題をはじめとした環境問題や、バブル景気のときにやった観光事業が廃墟の建物ばかりで景観がボロボロになっていたり、風土の伝統文化を捨てて都会のコピーになり衰退していたり、これを目の当たりにした子孫たちは先祖に対してなぜだろうと思うのです。

本来、これは子孫のためにならないと思えば判断しなかったり、未来の世代にツケを残すと思うと敢えて別の道を残してくれたおかげで今の世代が恩恵をいただいているものもあります。それはその世代や個人は多少損をしたと感じても、長い目で長期的な視点に立てばそれは損にはならず子孫繁栄の礎になっているものです。

現代は視野も狭く、短期的目線で個人や世代のメリットを優先して短絡的な判断をしているものが多いように思います。特に経済においても、すぐにリターンがないものを選ぶのは愚かなことのように思われます。余裕もゆとりもないといいますが、それはそうではなく目的に対して長期的に取り組んでいこうとする気持ちが定まっていないからのように思います。

私は活動をするのに、長い時間を設定していきます。目的がはっきりしていますから、休み休みであってもそれは時間をかけて取り組みます。そうすると、そのうちに目的が近づいてきて本懐を遂げることができるようになります。

未来世代のことを考える仕事というのは、長い目で、私心を取り除き、お金を気にせずに純粋に取り組んでいくものでしょう。そしてそこに後からついてくると信じて勇気を出してやっていくことです。

この後からついてくるというのは、子孫の恩恵と共に増えていくという意味です。

後世のために、子孫のために、あとに続いていく人たちのためにと喜び勇んで実践していきたいと思います。

橋渡しという天命

昨日、京都で素晴らしい僧侶にお会いしました。この方は、橋渡しという意味の新しい造語で僧侶を「アンセストリスト」と名乗っておられました。確かに、人は誰しもが橋渡しです。

改めて橋渡しとは何かということを深めてみようと思います。

現代では、橋渡しというと核のことをよく国内では耳にします。唯一の核被爆国として、核兵器の廃絶、そして核原発をどうするかなど、私たちは常に核というものがどういうものかを直接的に体験してきました。

世界では核のもつ因果と実態をまだ経験しておらず、未来や子孫のためにはこの危険で不確実な核にどう向き合い、そして人類はどう対応していけばいいかの答えを出し、伝承する大切なお役目があるともいえます。もし世界を巻き込む核戦争が起こったら、もうどうにもできません。だからこそ、そうならないようにと今こそ安心と安全な橋を架けてそうならない道に導くことができる存在でもあります。

その他では、文化の橋渡しというものがあります。言葉も生い立ちも違う国の人たちがお互いの文化を交流する中で互いを理解しあい学び合うこともできます。仲立ちともいい、間を取り持つ人ともいえます。それだけ文化を尊重できる素地がある、共通のものや普遍的なものを共に学んでいるということでもあります。

そういえば、僧侶のお役目の一つはむかしは喧嘩をすれば間にたって仲裁していたという文献を読んだこともありました。村に人徳のある人格者がお寺に住んでいただくことで、村の治安を安心安全に守っていたのでしょう。まさに、思いやりの実践を通しての修身斉家治国平天下です。

つまりは橋渡しというものの本質は、この思いやりによって「結び、つなぐ」仕事ともいえます。

私は自分のことを私心なく少し考えてみると、子どもたちや子孫のためにと未来世代のために今を存分に使っているともいえます。「子ども第一義」という使命で、会社を起業し、今では徳を積むための活動に専念しています。これは親祖から今までという先人たちの遺徳をいただいた今の私が、同じように子孫たちへとより善いものにして橋渡しをしようとする歴史を思いやる事業をしているということになります。

私たちは縦の糸という、太古から流れてくる大河と、そしてその大河がさらに大海へと流れ続けるものがあります。途切れることのないそのお水といのちを安心してそして永遠に続いていけるようにと祈りすべてに橋渡しをするのです。

そういう意味では、他のいのちと同様にすべての人間はこの橋渡しをすることが人生においてのもっとも大切な命題ということになるはずです。子どもをつくり、そして未来のために今を善くする橋渡しをしない人はいないからです。

だからこそ、何が本当に今を善くすることなのか、そしてどういう橋渡しこそがもっとも未来を生きる子孫たちのためになるのか。その答えを誰もが平等に生きていく必要があるように思います。

私はこの時代に徳が循環する新しい結を甦生させようとしていますが、これは途切れかけた歴史や生き方、そして文化を再構築して伝承させていこうとする試みであり先人たちへの配慮と子孫への思いやりを実践していこうと決心したものなのです。遠大な理想へむけての試行錯誤ですが、普遍的な場に仲間はいつも見守っておられます。

一期一会にご縁を辿りながら自分の役割を今ここ、そして天命と実践において徳を磨いていきたいと思います。今日からまた、ご恩が響き合う新たな一日を過ごしていきます。

ご縁に感謝しています。

場の原点

昨日から久しぶりに鞍馬寺に来ています。コロナもありまた色々とあったのでじっくりとお山に来てお話をする機会もありませんでした。改めて、感じるのはお山の持つ場の素晴らしさです。

私は、今、英彦山をはじめ場づくりをしていますがその原点はこの鞍馬山です。鞍馬山で修養してきた十数年が今の私の血肉になりこの感覚を忘れずに実践しています。私たちはお山を大切にすることで、お山からたくさんの気づきをいただきます。その気づきをもってまたいつもの日常生活に活かしていくのです。

太古のむかしから、私たちは言葉ではなくても場によって多くのものを気づいてきました。不思議なことですが、ある場所にいくとそこには何かがあるという気づきがあります。その何かというものが、私たちが気づいていく本体であり正体です。

そしてその場を大切に磨きととのえていく人たちは、たとえ寿命が尽きていらっしゃらなくなったとしてもその場所の他のいのちと共に存在し続けていきます。

私たちは自分や個人といった、自他を分けてものごとを理解するようになってきました。この言葉や文字などもそうですが、分けることで理解する仕組みから世の中は分かれているものとして認識するようになっています。しかし、実際の現実のこの世は分かれているものなど一つもなく渾然一体になっているものです。

この渾然として一体になっているものに気づいているかというのが、先ほどのお山でいただく気づきと同化しているのです。

あらゆるいのちや物質も、分かれているものは一つとしてこの宇宙に存在しないという真実。わかれていないからこそ、場がそれを伝えていくことができるのです。そしてその場を伝える人々は、その場に渾然一体となって暮らしています。

何かを教えるのではなく、何かに気づいていくこと。

人は気づいたことでしか、変わりませんし、気づくだけで救われる境地もあるのです。むかしの先人たちは、なぜ山に入り山で修養してきたのか。そしてその山をお山として心や魂の故郷を実現させていったのか。

この感覚を忘れずに、丁寧に自分の今いる場を磨き上げていきたいと思います。

子どもから学ぶ

子どものことを思うと、主体性というものが如何に大切なことであるかがわかります。私の恩師も、先日のセミナーの中で見守る保育には、選択すること、参画すること、自由に遊ぶことの意義を伝えておられました。

そもそも、自分で自分の生き方を決めるというのは私たちがこの世に生まれてきて体験していく醍醐味でありそれを見守る社会というのはこの世の楽園にするための大切な要素だと私は思います。

一度きりの人生を、自分らしく生ききることができるときいのちは光り輝いていきます。それぞれの人には、それぞれの天命や役割がありそれを全うしていきます。そう生きられない、それはしてはいけないと、刷り込まれていくことは人間社会においての不自然さを感じます。子どもは、自然に未来を創造していきます。本来は、余計なことをしなければ自然に調和をし、世界をととのえていくものです。

そこに大人のあらゆる編重した教育や、歪んだ自由を与えられることで、思考停止して元氣が失われていくものです。

現代病の大きな一つは、その元氣さというものによります。こういう言い方をすると誤解されるかもしれませんが、目が輝き、元氣溌剌として魂を全快に愉快痛快に楽しんでいるのが子どもの姿でもありました。生まれてきて好奇心旺盛で、思考は自由自在にのびのびと働きます。

海外の保育を視察した時には、カンボジアをはじめ何か所かの国ではそういうところもありました。日本のむかしも、子どもたちは安心して育つ環境があったように思います。

本来、私たちは自然から自然を学ぶように子どもから本来の子どもを学ぶ必要を感じます。誰かが言ったからや、海外で評価されているからや、科学的だからというものもあるでしょう。しかし、子どもの本来のあるがままの姿をよく観察して学べば、子どもがどうありたいのか、子どもが何を求めているのかを見守ることで本来のいのちの姿を実感することができるように思います。

自然であれば、土や種、そしてどのような環境だと元氣になるのかを学び直します。同様に子どもも学び直せるものです。

時代が変わっても、普遍的な道は変わることはありません。子どもの姿は変わらないものがあるのです。そういうものをよくみんなで学び、保育をさらに磨いていく。私たちは保育の道を提案する会社でもありますから、引き続き真摯に学び続けていきたいと思います。

子どもを思う

問題の先送りというものがあります。これは問題の根本、根源的な理由を解決するのをやめて目先のことだけに対処していくということです。これは対処療法とも言います。確かに、すぐに対処しなければならない問題を対処するのはいいのですがそのうち対処療法だけしかなくなっていくでは問題の先送りになるのは自明の理です。

誰でも人は、大きな問題や時間がかかる問題はすぐに結果が出ないので目の前のわかりやすいことに取り組みます。あるいは、余裕もなくなってきますからとにかく今の目の前のことだけをやろうとしていくものです。

しかし気が付けば、目の前のことをやっているうちにみんながその目の前のことだけをやっていればいいとなってしまえば必ず未来に大きな禍根を残していきます。それが問題の先送りというものです。

今本当にしなければならないことをやるのはいいのですが、それよりも目先のことを解決するのが先とばかりにやっていたら時機を失してしまうということです。つまり対処療法というのは危険なことだと気づいているかということでもあります。

これは人間の身体も同じです。とりあえず今の痛みだけなくなればそれでいいとの考えでやっていたらやがて大きな病気を引き起こす原因になります。腫瘍や癌なども同じです。

つまり本当の病気というは、ここからとりあえず目先のことだけを乗り切るということであることがわかります。

しかし時代や周囲を観ては今はどうでしょうか。環境問題も人口減少も、資本主義も、国家間の争いも全部目先のことばかりをやってはいないでしょうか。行政も地域も、学校も病院も宗教も企業もみんなそうなっていないでしょうか。

では誰が根源的なものに向き合い、誰が長い目で観て根本的なことに取り組んでいくのか。誰かがしてくれるだろうか、そんな仕事の人たちがいるではないかとなるかもしれません。しかしおかしな話で、それを解決する人たちもそれが単なる分業された仕事になってしまってはそれは名前を換えた対症療法というだけではないでしょうか。

例えば、環境問題というのは人間の問題です。人間の問題を解決しなければならないのです。そして人間の問題は心の問題です。心の問題を解決しなければならないのです。心の問題は、生き方の問題です。みんなで生き方のことを見つめる必要があります。

私も徳や伝承、場づくりなどとやっていますがこれは目先の問題を解決するものではありません。時間をかけてじっくり醸成していくものです。しかし目先の問題とは異なりますから、それを今すぐにやろうとはならないものです。でもそれを誰かがやらなければ、誰かが挑戦しなければ子孫へ問題を先送りしてしまいます。

先送りしないという意志は、この問題を自分たちの世代で片づけるという強い思いが必要です。長くそして短い人生のなかで、後悔しないように生きていくためには今の自分が大変で、忙しく、厳しい環境に置かれていても愚直に遠くにある目的に向かって初心を忘れずに仲間たちと共に一歩一歩ゆっくり急ぐことだろうと私は思います。

善く見渡すと、そういう生き方を実践して精進している人たちはたくさんいるものです。私も子どもたちのためにも先送りしないという覚悟を定めて、引き続き精進していきたいと思います。

 

普遍的な道

本来、何かを生産するというのは時間がかかるものです。それた種をまき、見守り育てていくのに似ています。植樹であれば、3世代先がその木で生計を立てられるように考えて取り組みます。

しかし今の時代は、生産するよりも消費、いや没収や搾取をするような感覚でそれぞれの場所で時間をかけずに我さきと急いで消費できるものを奪い合っている様相です。

特に地方や田舎、あるいは世界の果て、今では宇宙の利権にまで手を出し、ここもまだ手付かずという場所がないほど探してそこから搾取しようとしています。この搾取というのは、そもそも占領や奪取でありそこで得たものはすべて自分のものとして財を貯えます。この財を貯えるという方法も、かつて日本の偉人、二宮尊徳が実践したような積小為大にあるような自然的なものではなく、まさに機械的なもの、人工的なものになってきています。

こういう構造の問題を解決することなしに、問題を先送りしたところであまり本質は変わらないように思います。

影響力の大きな環境があるなかで、為政者やリーダーたちがそのことに気づいて挑戦しようと君子が出てくるのをある意味では待つしかないのかもしれません。しかしそうしていても、民衆や自然は苦しみが増していきますから已むに已まれずに自らの場所で生き方として実践していく人たちが歴史を顧みるとたくさんおられることに気づきます。

無名であっても、何か有名なことをしていなくても、志で自らの役割を全うする人たち、天命を成就していく人たちは普遍的な道を照らしてくれます。

そういう場所は、普遍的な道の存在に気づく人が増えていくものです。普遍的な道を歩んでいく後ろ姿はそのものが尊く、ああ、この道を歩んだのだなと共感するものです。

時代がどれだけ変わって巡っても、そういう先人たちや普遍的な道を歩んでいくことは仕合せなことです。

子どもたちにもそういう普遍的な道があることを伝承伝道していきたいと思います。

知恵の破壊と自然との共生

先日、スリランカに訪問した友人から色々とお話をお聴きする機会がありました。スリランカには、アーユルヴェーダというものがあります。これは「生命の科学」「生命の知識」といわれる5000年以上続く伝統医学です。予防医学・治病医学にとどまらず、高度な生命哲学としても今でも活用される知恵の伝承の一つです。

国内には、たくさんのアーユルヴェーダの医師もいるそうです。しかし最近は、西洋医療が入ってきてたくさんのドラッグストアや病院も増え、伝統医療は人気がなくなってきているといいます。医師を志す若者も、西洋医療の方が人気が出て伝統医療の方は関心が薄れているといいます。それにアーユルヴェーダの医師は、薬草をふくめほぼ無料や寄付のみで運営しているところが多いということで経済的に苦しくなるので両親も、アーユルヴェーダの医師にはなるなと子どもたちに話しているといいます。

むかしの日本も医師は僧侶と同じく、ほぼ無報酬で人々の心身を救っていたといいます。藪医者ともいい、藪に住んでは、村の人たちのことを見守り、未病といって病気にならないようにあの手この手で診療していたといいます。いざ、病気になったら治療をして同じようにならないように色々と指導されていたといいます。正月には、そのお礼として村人たちがお布施をしていたそうです。立派で私心のない人たちが、人々の心を支えていたようにも思います。

スリランカでも伝統や文化は今、岐路を迎えているそうです。時代の流れというよりも、どの国でも資本主義や利己欲主義が蔓延していくと似たように伝統や伝承が破壊されていくのをお聴きします。

一見、便利なもの、すぐに結果が出るもの、科学的に証明されるもの、政府や偉い人がいうもの、流行っているものなどに飛びつきます。不安というものや不信というものが増えれば触れるほどに、情報が偏り、中庸というかバランスをとるのも難しくなるのでしょう。

もともとあったものの価値や、ずっと篩にかけられても失われなかった知恵の大切さは現代の経済とは関係なく、人々を経世済民してきました。みんなで相互扶助の仕組みをつくり、自然の循環が已まないようにみんなで場所を守り協力しあって社会を保ってきたものもあります。

これらの知恵は、本来は生き物でありいのちそのものでした。例えば、いくら機械で似たような食べ物を成分分析をして即席で同じ味のように実現しても、それはいのちではないのと同じです。

本来は、知恵はいのちのことでありいのちはいのちとして最後まで壊さないように接してこそいのちも知恵も保たれます。

私たちが今、行っているのは知恵の破壊なのです。それは言い換えれば、いのちの破壊ということです。

いのちが破壊されていくと、私たちは思考停止していきます。そうやって世界は、思考停止して加工された人工物で満たしていくのですがそのことで自然が満たされなくなっていきました。都市化というのは、機械化であり知識化であり人工化したということで不自然化ということです。

自然との共生というのは、そんな自然をちょっと使ったことではなく、まさに自然の中に暮らしをするということです。自然の中で暮らすというのは、すでにあるもので十分満ち足りて感謝で生きていくという生き方のことでもあります。

本当のことを観続けることや、もともとあったものを大切に継承していくことは、それだけで自然から離れずにすむものです。自然を身近に、子どもたちにも自然との共生によるいのちが循環しあう喜びや仕合せを場を通して伝道していきたいと思います。

 

聴福人の実践

先日、あることで松下幸之助さんの生前の講演動画を拝見する機会がありました。そこでは、私心を消すことについて謙虚にお話をされておられ色々と省みる機会になりました。

そもそも私心というのは、小我やエゴなど自分がという己の存在を過少過大評価をしている状態のことです。何物もでもない、存在している自分をよほどの存在として独善的になっていくと私心に囚われた状態になります。

本当の自信を持つというのは、難しいことでそれだけ日々に自分というものと向き合い、自分の中の私心がどうなっているのかを見つめ続ける必要があるように思います。

松下幸之助さんも、自分の私心が毎日出てくるからそれを危険だと思って気を付けていると。賢い人こそ、危険であるから要注意であると。賢いからこそ会社をつぶすことがあると、使い方次第であると仰っていました。

確かに、今の能力も才能もそして自分というものもそれをどう使うかというのは心が決めるものです。それを世のため人のため、そして社会のため世界のためにと自分を天から預かりものとして使うときは私心はなくなっていきます。しかし、それを自分のものだからと勘違いして特別な存在だと勘違いしてしまうと私心にまみれて判断がすべて己の方に引き寄せようと欲望に吞まれます。

この世のすべてはみんな天が与えた存在であると自覚すれば、天命というものの声も聴けるように思います。しかし、天命がわからなくなるのは自分勝手、得手勝手に勘違いし視野が狭くなるからのようにも思います。

視野の広さとは、自分はとても小さな存在と思えるとき視野は広がります。永遠から結ばれている先祖からの自分を感じたり、この世のすべてのいのちは繋がっていると感じたり、宇宙や星々、光や道を感じるときもそう感じます。しかし便利さや自分の権利が当然のような環境の世の中では、そういう感覚は麻痺してみんな私心まみれ我欲まみれになりたいように思います。

夏目漱石が晩年の境地に「則天去私」(天に則り私を去る=てんにのっとりわたくしをさる)ということを語っておられます。天命に生きることの要諦で、亡くなるまでずっとその道に挑戦されたことを想像できます。

また松下幸之助さんを尊敬されておられた稲盛和夫さんもこう仰っています。

「私心を捨てて、世のため人のためによかれと思って行う行為は、誰も妨げることができず、逆に天が助けてくれる。」

動機善なりか、私心なかりしかと、自問自答を日々に繰り返されたいたそうです。毎日、私心はないかと自分に尋ねるというのは本当に大切なことだと反省するばかりです。

最後に、私が大好きな良寛さんの遺した言葉だそうです。

「おらがおらがの「が」を捨て、おかげおかげの「げ」で生きよ」

感謝や御蔭様というのは、私心を毎日お手入れすることに似ています。自己の徳を磨いていくのは、それが天命であることを忘れないようにしていくためかもしれません。

よくよく反省して、自ら勘違いしないように周囲の声に耳を澄ませ、聴福人の実践を真摯に取り組んでいきたいと思います。