かたちなきものへの思いやり

先日、島根の美保神社に参拝する途中で境港市を通る機会がありました。ここは「ゲゲゲの鬼太郎」の作者の水木しげるさんが生まれた故郷です。私も幼い頃からこのゲゲゲの鬼太郎が大好きで、いろいろな妖怪たちの存在を身近に感じたり、人間と妖怪がどのように仲良くできるかとそのつなぎ役として鬼太郎が悩む姿に共感したことを覚えています。

目に観えない世界を描き続けていると、目に観えない世界があるかのように思えるものです。かたちあるものとかたちなきもの、かたちなきものへの畏れが失われた現代において妖怪の存在はどこか懐かしく感じるものです。

今の時代は、目に観える形があるものしか信じなくなりかたちなきものの存在はあまり大切にされることはありません。それは単に幽霊や妖怪の存在だけでなく、ご先祖様や神様など目には観えないけれど確かにいて自分を見守ってくださっている存在のことを感じなくなっているようにも思います。

かたちがないものは、自分の信じる気持ちがなければ存在を感じ難くなるように思います。かたちなきものへの思いやりを持っている人は、路傍の御地蔵さんや、過去に大切な出来事があった場所の前を素通りすることはありません。存在を確かめ一礼をし、お導きへの感謝を述べて通っていきます。

かたちなきものは確かにこの世に存在すると信じる人は、いつも目には観えないけれど確かにあるご縁を辿っていくことができます。ご縁を活かす人というのは、目に観える世界だけを信じません。目に観える世界と目に観えない世界がつながっているその中間に存在しご縁をその両面から捉えていく力があるのです。

私は幼い頃から子ども心に、かたちがないものを信じてきました。妖怪の存在や幽霊の存在、そして先祖の存在や神様の存在など常に自分と一緒にこの世にある存在として共に歩んできました。その心は今でも失っておらず、物へも接し方一つでさえまるで生きている人のように接します。特に懐かしい古いものや、出会えた仕合せを感じるもの、そしてご縁が深いものは特に家族や親友のように思えるからです。

人間はかたちなきものへの畏れを失うとき、傲慢になります。

もう一度、伝え聞くむかしの日本のように目に観えないかたちなきものをみんなが畏れるような世の中にならないかと願うばかりです。そしてその心を持った人たちが信じることで、かたちなきものへの思いやりもまた広がっていくでしょう。

たとえ、奇人変人や宗教だと罵られても子どもたちのためにも、私自身が常に堂々と「かたちなきものへの思いやり」をもって一緒に生き切り、これからの未来の純粋な子ども心のためにも見守っていきたいと思います。

人類の希望のため

人間はどれくらいのスパンで物事を観るかでその行動の本質が変わっていくものです。その人が100年単位で物事を観るのか、1000年単位で物事を観るのかで観え方が変わるからです。短期的にしか物事を見なくなってきた現代の風潮の中で、長い目で物事を考えて行動する人のことが分からなくなるのは仕方がないのかもしれません。

かつての日本は七世代先のことを考えて今を行動するという指針があったそうです。七世代といえば約300年くらいですがせめてその頃の子孫のことを慮り自分がどのような暮らしをしていけばいいかを考えたのでしょう。

私の場合も、なぜ暮らしの復古起新をとか、なぜ自然を味方にとか、やっていることには民家の甦生からお米作り、そして見守る保育という生き方の伝道、さらには初心を磨き伝承することなどをしていますがなかなかやっていることの本質が他人には理解し難いものかもしれません。よく不思議で変なことばかりしてと指摘されますが、長い目で観たらどれも今、必要なことしかしていません。

それに「子ども第一義」という理念を掲げる以上、子どもの今から発想を組み立てますから短期的なことは後回しになることが多いのです。もちろん短期的なことは、現代の課題を解決するために具体的な保育環境を変えていきますが、本来は子どもの仕事だからこそ1000年先のことを考えて今をどう生き切るかを考えなければならないのです。そして人の世には道理として因果律がありますから自分がどのようなことを今するかで未来の姿が変わっていくことを自覚しなければならないのです。

特に子どもたちの保育環境においては重要で、私たちが用意した保育環境によってそれを舞台に次世代の子どもたちが新たな時代を切り拓いてくれます。その時に、連綿と受け継がれた根のチカラを使い活かせるのか、それとも養分が断裂された根無し草のようになるのか、それではいよいよこれから世界が一つになり和合していくぞという変化の中で日本人の特性が活かせません。

希望というのは、子どもの未来のため自分のエゴを少し置いてでも徳を積み環境を整えていくときに出てきます。それは一つは仕組みといった智慧の伝承もあるでしょうし、他にも真善美といった日本人としての生き様もあるでしょう。

そういうものを少しでも遺し大切に譲っていけば、いつか子どもたちは舞台で大躍進を遂げ、活躍していきます。その舞台の未来には、主役も脇役もなく、一人ひとりが全員主役として共生して仲睦まじく助け合い思いやる社會を創造してくれるでしょう。

・・・本当の平和とは何か。

もう一度、今の世代の人たちは愛されてきた子どもたちとして、そして愛する子どもたちのために少し立ち止まって長い目で物事を観て自分と向き合ってほしいと願います。

引き続き、人類の希望のため、自分のできること、自分にしかできないことで人類の平和に貢献していきたいと思います。

いのちの養分

植物たちや動物たちをはじめ、すべての生き物たちは養分をいただいて成長していきます。その養分は地球でいえば自然の恩恵をいただいていのちを分け与えて活かされています。しかしこの自然の養分と別にもう一つ大切な養分があると思うのです。

それは愛のことです。

人間は、愛という養分をいただくことでいのちをいただくことができます。その愛は、慈悲ともいいますが思いやることによって育っていくのです。

例えば、誰かが育つとき、厳しいかとか甘いかとか、環境がいいかどうかとか色々と議論されますが実際はもっとその手前にある大前提に「愛」があるかないかの方が重要になります。

愛がしっかりと入っているのであれば、厳しくても甘くても育ちます。また環境のせいではなく、思いやりがあるかどうかの方がよほど人間が育つには大切なことです。

いのちの子育てというものを思うとき、すべての生き物たちは「愛」を与えます。愛が不足すれば、いのちの育ちが悪くなるのは明白です。人は何かを食べなければ生きていけないように、人は愛がなければ生きてはいけません。そしてこの愛とは「いのちの養分」なのです。

愛のある環境こそが、本来の育つ環境であり、愛がなければどんなに仕組みがあったとしても生き物たちは育ちません。愛情をかけるというのは、熱量もそしてストレスも、忍耐も、信じることも必要ですがそれがすべていのちの養分になって周りの成長を助けてくれるのです。

もしも相手が自分だったらと相手の苦労を親身になるのも愛です。

もしも相手が初心を忘れて間違っていると思って厳しく諫言するのも愛です。

もしも相手が孤独でつらそうなとき心寄り添って味方になることも愛です。

もしも相手が信じられなくなりそうなときに最期まで信じきることも愛です。

いのちはこの愛の養分を得て、成長して自立していきます。私たちが取り組む会社の実践や保育は、この愛や思いやりを「つなぐ」ところこそ本業ともいえます。何をする会社なのか、自分の何を使って誰かのお役に立つのか、これは大切な自問自答です。

引き続き、子どもたちの仕合せが未来永劫に循環するように愛がめぐるような生き方を譲り遺していきたいと思います。

自分を遣り切る意味

日々の自分の直観やご縁を信じて歩み、その意味を深めていくことはルーツを辿ることです。その理由は、真理として人間は因果律の中で様々な体験をしていくものだからです。因果の法則に従って、自分が何かをすればその原因が必ず結果を生む、そしてその結果がまた次の原因になるというように永遠に因果は巡ります。

このご縁の鎖は途切れることはなく、今まですべてつながり合ったままに存在しています。自分が生きているということは、先祖の血が流れているということでありそれまでどのように先祖が生きてきたか、つまりは原因を創ってきた結果を受けて生きているのです。

その結果とは、自分の体験することのことです。この体験の意味を深めていくほど、なぜこんなことが起きるのだろうか、この体験は何だったのだろうかと直観すると先祖の中でこういうことがあったのではないか、もしかしたらあの原因がこの結果になっているのではないか、そして私が創る結果が未来への新たな原因になっているのではないかと思いを馳せるのです。

私たちはつい自分に起きたことは自分の人生の範囲だけのことだと思い込んでしまいますが、実際に自分に起きることはその原因はもっと過去につながっていることであり、そしてこれから起きることも実際は今がつながって発生してくるのです。

例えば、何かをしようとするときには様々な出会いがあります。ある人は支援をしてまたある人は邪魔をする、しかしそれは過去のつながりから発生して出会うこともあるのです。また今出会っている人への行いで未来が変わっていくこともあるのです。徳を積んでいればその徳や恩によって周りがその人を手伝おうとしますし、それを使い切ってしまうようなことをすれば同様に仇になることもあります。恩も仇もご縁ですが結ばれていく内容が変化していくのです。

また先祖の遺徳を辿る生き方をする素直な人は、その遺徳が輝き先祖がもっとも託したい志や願いを叶えるために今世で使われていきます。私たちの先祖は死んでいますが、魂は死ぬことなく血の中で今の自分の方向性やご縁を導いていくようにも感じるのです。

選ばないというのは、先祖への恩徳感謝を忘れずにご縁を大切にして一期一会に生きていくということです。そしてルーツを辿り、先祖の生き方を学び今の時代にその生き方を活かしていくことです。

親祖が臨んだ生き方が連綿と連鎖し、全体として一つの芸術のように歴史を創造します。その歴史の一部として私たちは存在しながら親祖の物語をつなげていくのです。親祖が原因であり、私たち子孫はその結果なのです。

親祖の初心が何だったのか、それを知るのが今の私たちが生きている人生の体験です。人生の体験を通して私たちは親祖の初心を思い出し、それを実現するために生きるのでしょう。

引き続き子どもたちのために、ルーツを辿る選ばない生き方を貫き子孫たちが純度の高い物語を受け継いでいけるように自分を遣り切っていきたいと思います。

伝統美の面白さ

昨日は新潟県十日町で古民家再生に取り組んでいるカールベンクス氏とお会いするご縁がありました。25年前にこの土地に移住してから現在までに50棟ほどの古民家を再生しており、カールベンクス氏が住む村には今ではたくさんの若い方々が同様に移住してきて奇跡の村と呼ばれています。

「日本の木造建築は世界一である」と語られこのような文化が失われていくのは何よりも残念であるといい、職人さんにとっても子どもたちにとっても絶やしてはいけないと仰られておられました。

本来は日本人の子孫である私たちが語るはずであろう言葉を、ドイツ人の方から直に聴くと目が覚める気持ちになります。

例えば、「日本人がドイツにいけばその土地に古い町並みや懐かしい風景を感じにいくのになぜ日本人は自分の国のそういうところに興味がないのか」という言葉であったり、「ドイツには昔から古い建物は壊してはいけないという法律がある、その法律によって子どもの頃から古民家は貴重なものであるという認識をみんな持っている」ということなどまさに何が本当の価値なのかを気づかせてもらう言葉ばかりです。

現代建築の日本の住宅はプレカット方式といって機械によって加工しやすいため外材を用い木材を人間の手を使わずにカットしていきます。大工さんは昔ながらの手仕事はほとんど必要なく、まるでプラモデルを組み立てるようにトタンや合板で効率よく作業していきます。このような仕事をしているうちに日本の大工さんの技術も心も伝統も失われていくことを嘆いておられました。世界一の木造建築を建てる心と技術と伝統を自分たちから捨てていき、古いものを壊して便利な新しいものばかりを建てようとするのは設計士たちの欲がやることであるとし「本来、家は財宝なのだからいつまでも大切にしなければならない」という言葉に徳の人柄と思いやりを感じました。

カールベンクス氏の設計された建物を具体的に見学すると、ドイツ人の感性で自由に古い日本の材料を用いて古民家を再生しておられました。現代人が住みやすいように断熱を工夫し、断熱に必要な窓や暖炉などはドイツから輸入しておられました。新築を建てるよりも古いものを用いた方が本来は費用がかからないといい、創意工夫をして扉を本棚にしたり、そこにもともとあった古材料や道具を別のものに見立てて家の改修やデザインに活用されていました。

家全体が昔からある日本の古い懐かしいものを活かしながらデザイン全体を楽しんでいるようにも観え、まるで「ドイツの伝統が日本に馴染んでいるような感覚」に新鮮さを感じました。一言でいえばそこは「ドイツ人の美意識が創造する日本の風土を取り入れた古民家」でした。

お互いの善いところを引き出し、持ち味を活かし新しい美意識を創造するというのは芸術そのものです。今まで設計やデザインというものを知りませんでしたが、カールベンクス氏の生き方を拝見することによって「伝統美の面白さ」を学び直した気がします。

未来の子どもたちの心に、大切な日本の心が遺せるように自由に伝統美の表現を楽しみ遺っている文化を上手に活かし和合させ復古起新していきたいと思います。

ありがとうございました。

 

縄の智慧

むかしから歴史を紐解けば社會というものはみんなで創るものであるという感覚がありました。自分だけで生きることはできないのだから、自分の居場所はみんなで創っていくという具合に社會をみんなで育てていきました。

現代は、社會だけではなく小さな組織でさえ自分さえよければいいと自分のことを主張してはかえって社會を崩して希薄している風潮もあります。自分が所属するこの社會を善くしていきたい、もっとみんなが居心地が善い環境になるように自分を活かしていきたいと思う、人間として当たり前の仕合せが忙しさと共に消失してきています。

人類は太古のむかしより社會を形成してみんなでお互いを見守り合いながらお互いの一生を充実させていきました。そして人類は助け合い思いやることで自然環境の中で今まで生き延びてきて、一緒に協働することで考えられないような大きな力を発揮してきました。それができたのは、みんなの居場所を用意し居心地が善い場をみんなで育ててそれが永続するように見守る「結び」の智慧を使ってきたからです。

現代はその結びつきが次第に解かれて、それぞれがバラバラになってきているように思います。歪んだ個人主義は人々を孤立させ、孤独にします。その穴を埋めるのをお金で行うことでより断裂は進んでいきます。

例えば「縄」を観てすぐにわかると思いますが、小さな糸も多くの糸と結びつき絡まり合いそして強く大きくしなやかな切れることのない縄になっていきます。出雲大社にあるしめ縄のように私たちは古来からその縄を結び続けて大切にしてきた民族です。

この「縄」は、「社會」のことを示すように私は思います。

縄をどのように結んでいくか、その結びつきや結び方にこそ民族の生き方がありお互いに見守り合い、心を寄せ合い、愛を与え合い、一緒に協働作業をしていくことによってその「縄=社會」を創造していくのです。

お米を育てるように子どもを育てること、しめ縄を結び神様に奉げ奉るように暮らしていくこと、古来から続いていく縄が切れてしまわないようにその時代時代の人々が子どもを見守っていく社會を育ててきたのです。

そういう意味では今の時代はかつてないほどに、人々の結びつきが失われてきている厳しい時代です。だからこそ私たちが取り組む「見守る」ということは、その結び直しをする大切な実践になるのです。

「縄」こそ、人類の智慧であるとし引き続き子どもの社會を見守る大人が増やしていけるように実践を積み重ねていきたいと思います。

種と土の邂逅~つなぐチカラ~

私たちが今感じたり味わったりする文化や伝統は古来からずっと存在しているものです。その存在しているものを引き出し繋ぐことができれば、現代にもその初心を多くの人々と分かち合いみんなで引き継いでいくことができるように思います。

時と自然淘汰のめぐりによってその本体は次第に風化しその姿カタチは必ず失われてまた甦生を繰り返すのは循環のめぐりであり宇宙普遍の摂理です。目には観えなくなっていても確かに存在したものは人々の心に魂の記憶として伝承されており、その魂を思い出す人たちによって常に失われずに甦生していくのが人類の叡智と伝統文化の本質でもあります。

伝統には「古くて新しい」という言葉があります。

これは文化と文明の間の甦生を意味し、本来あった本質を今の時代につなぎ顕現されるといってもいいかもしれません。古代と現代をつなぐ、人と人の心をつなぐ、目に見えるものと目に観えないものをつなぐ、それはこの「言葉」(言霊)のチカラのように和合したものをはっきりと一つに融和し伝えることもまたつなぐチカラの役割です。

そのつなぐ方法や智慧は、代々その土地の風土や文化によって異なってきます。太古のむかしから私たちの国は「言葉の霊力が幸福をもたらす国」であると語られ、いのりの言葉によって永遠の今に言霊を奉げ祀ってきた民族であるともいえます。

それが発展し音楽や芸能とむすびつき、時には神楽になり、時には歌になり絵になり、それが心を顕し神を奉る工夫が発展してきたのです。

しかし時は無常ですから、その本質も広くなればなるほどに薄まっていき、増えれば増えるほどに擦れていき、その本質がたくさんの言葉によって隠れていくのです。

今の時代は情報化社会ですからより一層、スピードが増し、情報が氾濫する中で、私たちは大切な本質を敢えて選ばなければならなくなっているとも言えます。本来の姿、古代からある方向を見失わずに確かな足取りで前進していく必要があるのです。

そのために「つなぐ」ことは、とても大切な使命を帯びた志事です。

一人でも多くの人が、初心に目覚めそれぞれの方法で温故知新し、伝承をしていくことが未来の子どもたちのために確かな種を蒔いて遺していくことのように思います。自然は種があればまた根を張り成長していきます。一粒万倍とあるように、種さえ遺してそれを蒔いてまた育ててくれる人がいるのならその種は未来を自然に明るくしていくのです。

そのためにも「土」をつなぐことが大切です。土の上であれば種は根を張り太古の養分を受け取り成長していきます。しかし人間が身勝手な道路を舗装し、アスファルトで土の上を塗り固めていくことで土が隠れてしまっていますがそのアスファルトが取り払われれば元の土が出てきて地球は甦生します。種がちゃんと根を張れるようにしていく必要があるのです。自然のチカラを使って自然に回帰する、それが私が教育や保育の志事に私がいのちを懸けるのもその一点に集中しているかであり、子どもたちの未来のためにもその初心をつなぎたいのです。

今回の一期一会の沖縄での出会いに深く感謝しています、このご縁によって魂が揺さぶられ多くのインスピレーションをいただきました。引き続き種と土をつないでいきたいと思います。

改心と恩返し

「改心」という言葉があります、これは今までの行いを反省し心を改めることを言います。人生の中で、人は自分がご縁の中で時に誰かに対して何かに対して申し訳ないという気持ちを持つものです。同義語には、覚醒するや、生まれ変わる、立ち直る、仕切り直す、善人になるなどとあります。

人生には因果の法則が働きますから、あらゆるご縁は過去から未来、そして今に結ばれ自分に訪れます。そのご縁をどのように活かしていくかが人生の命題だとして、大切なのはその出来事から学んだことを反省しその心を入れ替える修行をすることではないかとも思います。

私たちが「すみません」と使う言葉にも、謝罪と同時に感謝が入っている複雑な日本語を用います。このすみませんの語源は澄む・清む・済むから来ているといい、それでは私の心が澄(清)まなく気持ちが済みませんという意味だといいます。

先日、30年ぶりにお会いした方に子どもの頃に私がいたずらでご迷惑をおかけした方にお会いして長年心に引っかかっていたことを謝り恩返しをしていることなどをお伝えしたら気持ちが少し楽になりました。その方からも「子どものことだから、それにもう済んだことだから」と言われたとき「すむ」や「すみません」の本当の意味を学び直した気がします。

人間は自分の心に誠実に生きていけば、そのご縁によって或いは因果律によって必ずまたその人に巡り会います。ご迷惑をおかけした人も、親切をいただいた人にもどこかで必ず巡り会います。その恩というものを、お返ししたりお送りしたししながら私たちは助け合ってこの社會を形成していくのです。

自分がその因果律により善くないと反省したのならすぐに心を入れかえて改心していうことは、ご縁を活かしているということになります。

そして私たちは心を澄まして、素直なままに自分らしく自然体に近づいていくのです。「すみません」というのは、このままではすみませんという意味でもあり、このままではすましませんという自反覚醒の覚悟とも言えます。

すいませんが軽々しく使われている現代は色々と言われますが、本来は軽々しいものではなくこのすみませんは「覚悟」が問われているものです。人は心を入れ変えるとき、素直にすみませんが言えるようになります。

そしてそのすみませんに対して誠実であるとき、人は反省をしそのご縁をさらに善いものへと発展させて社會に恩を還元していくのでしょう。よく反省し変わっていくことは、ご縁を活かし心を磨き素直に成長していくことです。

素直に成長した自分を見てもらい許されることもまた、思いやりの恩送りでしょう。徳を積み、さらに御恩返しの人生に舵をきっていきたいと思います。

夢を磨き志を貫徹する

人間の夢には、自然体で理想を追い求めていく本来の夢と世間から理想だと評価され認められるという迎合する夢があるように思います。自分の夢を追いかけていたはずが気がつけば周りからの評価が気になるばかり諦めて周りに合わせてしまえば本来の夢がすげ換ってしまうことも多いように思います。

人間は誰しも世間の評価を気にするものです。特に自信が持てないでいるといつまでも周りがどうかを基準に自分を創り上げてしまいます。しかし本来の自分らしさとは周りの評価ではなく自分がどう生きたいかという自分の目指す生き方への純粋な動機を実践し続けていくということです。

自分らしく自分のままでいいと思うためには、自信と誇りが必要です。世間や周りがどのようにあなたのことを評価したとしても気にしない、自分の目的は自分がもっともよく知っているのだと自分の真心を盡していけば自分を信頼できるようになり誇りと自信を持つのです。

自分らしく生きるというのは、自分への信頼と自信と誇りを必要とします。何のためにやるのかと自問自答を続けて、自分の我と折り合いをつけながらも己に打ち克ち純粋な理想の方に舵を切る勇気と身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれとあるように成長を続けていけば必ずその志は為るのです。

志をもっとも揺さぶるのは成功です。世間の成功を求めるあまり、本来自分が何をやりたかったかを忘れてしまうのです。「初心を忘れるべからず」という世阿弥の格言もありますが、初心こそが夢を間違えさせない大切なお守りなのです。

初心を挿げ替えることなどはできず、挿げ替えるのは自分の願望のために自分が先に諦めてしまうことです。初心さえ失わなければ人は希望を失うことがありません。しかし先に成功を手に入れてしまえば人は希望を失うことがあるのかもしれません。そう考えると成功するかどうかというときこそもっとも志にとっては試練かもしれません。

高杉晋作に「人は艱難はともにできるが、富貴はともにできぬ。」があります。これは人間は理想や志への挑戦に対し大勢が一緒になって苦労することはできるが富や名誉を求めるために大勢が一緒に行動することはできないと詠まれます。成長は共にできても成功は共にはできないとも言えます。

諺に「艱難汝を玉にす」、「逆境は人を賢くする」という言葉もありますが、困難な状況こそ純粋さは保たれ苦労があるからこそその魂は磨かれ純粋に澄み切っていくのです。

成功こそ幸福だと思い込むことは、自分らしさを手放すことかもしれません。本当の仕合せは自分自身になることであり、独立不羈、独立自尊、唯我独尊のたった一人の自分になることだともしも定義するのなら魂の成長こそが幸福だと気づきます。そして魂の成長は常に艱難や苦労によってのみ行われます。

生まれてきた意味やその目的を知ることは、心魂の歓びです。それを貫くためには、研ぎ澄ませていくほどに磨き続けていく必要があるのです。

引き続き、初心を忘れずに日々の実践を高めていきたいと思います。

自分を知る

人間はその人らしい時、もっとも自分が何のお役に立てるのかを自覚することができます。自分にしかできないことに出会ったとき、人は幸福感を感じるものです。それは全体の中に自分が活かされ、自分が活きたことが周囲を活かすことを実感することができるからです。

しかしこの自分というものを知るためには、素直でなければなりません。あまりにも周りを塗り固めて本当の自分を隠し続けてきた生き方をしてきた人は、裸になることができない分、自分らしさにも気づきにくいようにも思います。

さらけ出す勇気というものは、自分自身でありたいという心の声でもあります。そういうものを隠し続けて偽物の自分を演じ続けていたら、自分らしさが分からないだけではなくお役に立つところが見えずに幸福感を感じることができなくなってきます。

周りを見てはこれでいいのだろうと言い聞かせることは、自分を生きることではなく周りの空気や評価を気にして生きていく方を選んだことにもなります。自分という物がどのようなものか、そして自分のままでいいと自分が認められるということがどういうことか、それが自分を知るということでしょう。

自分を知るためには、先ほどの裸になってさらけ出してみてありのままの自分を見つめてみる必要があります。みんな馬鹿になるのを嫌がり、普通でいたいと思うばかりに他の人と違うことを避けようとします。馬鹿になるのは馬鹿にならないくらい重要なことで、一度自分という物を素直に見つめてみてはじめてその両方が分かるようになるのではないかとも思います。理屈ばかりで学んでいると、馬鹿になることや恥をかくことを嫌がりますが人生において失敗や辛酸をなめることは自分らしく生きるためにとても重要な経験ではないかとも思います。

馬鹿になるという言葉でいろいろと格言を探してみると

「修行中は馬鹿になっていなければ上達しない。馬鹿という言葉を言い換えれば、ものに拘(こだわ)らない素直なことである。理屈っぽいのが一番修行の妨げになる。」(宮崎道雄)

「馬鹿になれ とことん馬鹿になれ 恥をかけ とことん恥をかけ かいてかいて恥かいて 裸になったら見えてくる 本当の自分が見えてくる 本当の自分も笑ってた それくらい 馬鹿になれ」(アントニオ猪木)

「利口なんだったら、バカにもなりなさい。バカは利口にはなれないんだから。」(永六輔)

これもまた馬鹿であることの価値を語った言葉です。馬鹿になることは決して悪いことではなく、自分を知るためのもっとも最善でもっとも価値のある方法なのです。そして恥だからという言葉は、恥を知っている人が使っていいということがここからもわかります。恥を知りなさいと言われるのは、自分をさらけ出しなさいということで、もっと自分自身を認める勇気を持ちなさいといわれたのです。

最後にとても心に響く永六輔さんの応援メッセージです。

「コラ!あんまり勉強すると、バカになっちゃうぞォ!」

いつまでも本当の自分を知らないで死んでしまうようなバカにならないように、恥を知りさらけ出す勇気を大切に生きていきたいと思います。