暮らしの修行

人にはそれぞれのそれぞれのお役目というものがあります。他人と比べるのではなく、自分の天命を生きるとき、その天命を通して自分の役目に少しずつ気づいていきます。その役目を受け容れるとき、私たちは諦観を得て安心の境地を感得するのかもしれません。

まだまだ心が定まらないのは、自分のお役目よりも自分の我が先行して執着に囚われているからかもしれません。そんな時こそ、内省をして自分本来の心が実践したがっていることを素直に取り組んでいくことで心の平静を保てるように思います。

人は人に影響をされるし、及ぼされる存在でもあります。その影響は、自分を中心に変化していきますから体験した気づきを学びながら日々の暮らしをととのえていくことで時を味わい時に素直に学べます。

日々の暮らしの修行の面白さというのは、常住坐臥の境地を遊べることかもしれません。

私たちは修行というは何か厳しいものという認識を持っています。しかしよく考えてみたら、生きているというのは自然界では当たり前の厳しさはあります。食べていくだけでも大変ですし、気候の変化や災害、そして病気や外敵などすべての生命はその当たり前の自然の厳しさの中で暮らしています。同時に、自然の慈愛や恩恵もいただき自然界ではいのちを謳歌して何百年も何千年も同じようにこの自然界で楽しみ豊かに生きています。

自然から離れてしまうと、私たちは何か厳しさで何が慈愛なのかを感じにくくなっていくのかもしれません。本来は厳しい中にこそ慈愛があり、恩恵の中にこそ厳しいものがあったりもします。自然はどちらかに偏るのではなく、陰陽調和のように常に中心を保とうとして変化しています。

私たちも自然の一部ですから同じようにすべての生命と同様なことに共に中心を保つように取り組んでいくのです。言い方を換えれば、調和のためにバランスを保つのが私たちの中心であるということです。

心はその中心の軸を保つものです。

心をととのえていく暮らしは、先人たちも今まで行ってきた懐かしい暮らしの中に見出すことができます。私が取り組んでいる暮らしフルネスの中には、その知恵がたくさんあります。

子どもたちに、先人の知恵が伝承され、この地球で健やかに長く平和に暮らしを豊かに楽しんでいけるようにお役目をはたしていきたいと思います。

甦生の意味

私が取り組んでいる甦生は、様々なことを結び直すことです。途切れそうなもの、途切れかけているものを結び、それを子孫や未来へと確かに繋いでいくものです。

例えば、伝統文化の甦生は何を甦生としているか。それは伝統が途切れないように様々な工夫で今の時代に甦らせていきます。新しい発見をし、その知恵が今の時代でも愛され続けるように改善や修繕をしていきます。あるいは、新しい価値を見出してその価値を人々が理解できるようにしています。

それがもし形のないもの、例えば信仰だとしたら同じように甦生させていきます。今までは、当たり前に信仰されていたものが失われてしまいそうになればそれを結び直すために今の時代ならこうやったらいいという提案をします。

よく周囲から発明家やアーティストなどといわれたりしますが、私はただの甦生家です。

丁寧に甦生を続けていくことで、人々が捨ててしまったような荒れた荒野や土地を耕してそれをまだまだ無尽蔵に生きる場所にととのえていくのが本命です。私からみたら、なぜこんなにいいものを捨てるのか。手入れをせずに手放していくのか、理解に苦しみます。

便利な都会で新しい知識や知見は人々の好奇心を揺さぶりますし、楽しいでしょう。しかしそれはすぐに使えなくなるから、すぐに新しいものを生み出しています。そこに本物の知恵はありません。本物の知恵は普遍的であり、ほぼ永遠に活用できるものです。

それは古いものを新しく磨き上げるときに誕生するのです。

私が思う、最先端のテクノロジーとは、もっとも古いものともっとも新しいものを掛け合わせることで磨かれます。この思想を学ぶためにこの「場」があり、私はそこで生き方を実践する道場長ということになります。

周囲には遠大で理解されませんが、甦生を続けていればその価値に気づいた子どもたちが後を受け継いでくれると信じています。

生きている間、少しでも次世代の舞台づくりができるように真心を籠めて精進していきたいと思います。

小さな努力、小さな成功、偉大な志

一つ一つをカタチにしていく中で小さく試すというものがあります。いきなり大きなものをやろうとしても本当にそれができるのかがわかりません。それにもしものことを考えたら足が止まってしまうものです。

そういう時は、まず小さくはじめるというのがコツだと私は思います。それが一つの知恵です。

以前、北海道で植松勉さんと一緒に紙でつくったロケットを飛ばす体験をしたことがあります。あの時も、小さいながらも実物を縮小したものを触った感覚でそれが大きくなったのが宇宙にいくものになります。石風呂をつくったときも、波動石の温度や質感が本当に思った通りになるのかが不安で何回も小さく試しました。小さいものでできたら、それを大きくしていく。これがもっとも成功への近道であったように私は思います。

私はもともとはむかしから慎重で石橋を叩いて渡るタイプです。臆病なのかもしれません。没頭すると、忘れてしまうので余計に試してからと思うようになったのかもしれません。

よく考えてみると、不可能を可能にするのはこの小さくはじめていくことかもしれません。最初から大きいことにすると、可能なことも不可能になってしまいます。周りがどんな風に思おうとも、志があれば小さなことを積み重ねていく努力は続けていくことができます。

本当に偉大なことをやり遂げたいと思うのなら、小さな成功を積み重ねていくことを大事にしていくことだと私は思います。私の取り組みも、今はまだなかなか理解されずにご迷惑をおかけしていますが1000年後の子どもたちのためにも着実に小さな試行錯誤と小さな努力を続けています。

この私が準備していく舞台がいつの日か、子どもたちの未来に結ばれていくように真心を籠めて取り組んでいきたいと思います。

薬草の面白さ

薬草のことを深めていると、むかしの人たちの観察力の偉大さを感じます。そのものの何が毒で何が薬になるのか、これは特性を見極めないとできないものです。そしてこれを思う時、全ての存在には、その両面を併せ持つという素質のことを洞察していたことに気づきます。

例えば、毒だけの存在はないし薬になるだけの存在はほぼありません。個性も同じく、偏りがあるからそれを活かせば薬になるし、場合によっては毒にもなります。上手に個性を活かせば、社会の中で非常に有意義な使用もできれば、間違えれば残念なことにもなります。

そのものをどう活かすか、そのためにその素材がどうなっているのかを見極めて使うのです。ある時は、毒をもって毒を制すようなこともやってのけるのです。

薬草の知恵は、そのものの素材素質の活用の中にあるように私は思います。

もちろん、分量、加工法、また使い方、投与の仕方、きめ細かく丁寧に使用します。これは、人間活用もまた同様でそのものをどのように活用するのかは、全体を観ながら使う薬草と同様です。

食材で面白いのが、発酵の技術です。発酵させることで、毒を無害化させたり、菌と共生させることで非常に長い間、人間に有益なものにもなっていきます。つまり、同じ菌であっても人間との相性もありその菌の特性を上手に組み合わせるのです。

お酒が薬になるのもまた、その組み合わせの知恵を活用したのでしょう。

この薬草の知恵を深めていると、観察眼が深められ、同時に活用方法によってアイデアも広がります。温故知新の面白さというのは、この懐かしい人たちの心や感覚に触れるときです。

子どもたちにも、先人の叡智が伝承できるように色々と場を遺していきたいと思います。

場で遊ぶ

私は、場の思想や場の道場をしていますがそこには5次元という空間を体験できるようにしています。現在は、メタバースなど仮想空間とリアルと合わせた造語も出ていますがもともと空想と現実は常に一体になっていますからそれを目に見える形に科学技術で実現したということでしょう。

この先は、量子論などが取り入れられそのうち4次元という空間も科学技術で可視化できるようになるのかもしれません。

もともと私たちは感性や感覚として次元や空間というものを直感できるものです。例えば、ある場所にいくとなんだか心が安らいだり、もしくは畏怖を感じたりするものがあります。

これはその場所に、目には見えない様々な次元が集中していることを直感しているともいえます。私が使う「場」は、単なるプレイスではなくあらゆる次元の集積場ということになります。

あまりこういうことを言葉にすると誤解があるかもしれませんが、これからの時代は「場」こそもっとも世界が関心を持つものになると思います。

そもそも私たちはご縁の世界に生きているともいえます。今の自分があるのもこの世界があるのも、長い歴史の中で、常にあらゆる繋がりを創造し意識は融合されていきます。その場に、人だけではなくあらゆる物や意識も集まっていきます。まるでブラックホールのように、一度、高密度で存在をはじめた場には、何かを引き寄せるような吸引力が働きます。私たちの生命は、遠心力と同時に求心力も働きます。つまり、陰陽、拡大と縮小、相反するものを同時に循環させ一つのいのちとして調和させていきます。

これをもっとも小さくすると分子レベルでそれを行い、もっとも大きくすると無限の宇宙のレベルでそれを行います。こうなってくると仏陀の世界観になります。そう考えてみると科学は仏陀が感得していた境地をある程度修行もせずに誰でもそれが利用できる状況にしていこうとする試みに似ています。

しかしそれでもどうしても境地には到達できません。真理をなぞることができたとしても、真理そのものにはなりません。真理に近づいていく過程で真理に学ぶことはできます。真理を遊ぶ人は、道理を遊ぶ人でもあります。自然や宇宙を観察するのが好きな人は、そのうち遊んでいるうちに偶然にあらゆるものを発見したのかもしれません。

場の道場では、これからさらに場を磨き上げていきます。場を科学するアプローチは、まだまだたくさん発想できます。ワクワクしながら五次元を試行錯誤し、子どもたちと共に場を科学して遊びこんでいきたいと思います。

求道者の学

布施行をしていると、お布施を集めるという言葉がズレていることに気づきます。そもそもお布施は集めるものではなく、お布施は修行ですから修行しにくのです。修行をする中で、徳を磨いていくことでお布施をする人たちが集まってくる。その中で、本当の意味で布施による徳の磨き合い、つまり徳を積むことが醸成されていくように思います。

今まで常識として知っていることを学び直して刷り込みを取り除いていくためには、自分自身が実体験で学び、その本質を理解してその実践を高めていくしかありません。

余計な知識があるから、どうしてもおかしなことをしてみんなでそれをやるから常識がますます本質から外れ歪んでいきます。歪んだ社会通念の中で、学んでいると本来の真実や本質まで間違って認識してそれをさも本当のことのように他人に語ってしまうものです。

本当は何か、真実は何か、それを知りたいと思う心の中には道があります。求道者というものは、常識を毀し社会通念を妄信せず、太古のむかしから普遍的に流れている真実に生きようとする人たちのことをいうのかもしれません。

知識は常に分別知でもあります。分けるために言葉が生まれ、それが無限に分け続けては膨大な知識が溢れていきます。IT化が進み、さらに知識は人間の認知を超えるほどに増えていきます。

だからこそ私は、原点回帰の必要性を感じています。分別知を元に戻していく。つまり、知識から知恵へと学び方を換える必要があると思うのです。それは知識の否定ではなく、知恵そのものが知識であると統合していくことに似ています。

例えば、先人の知恵を学び直しそれを現代に活かすということ。あるいは、子どもから学び、自分たちの生き方を換えるなどもそうです。

そうやって普遍的なものを砥石にして学び直していくのです。そのためには、目利きが必要になります。つまり何が本物であるのかを知っているということです。その本物とは、自分自身の中にあります。仏陀が言う、自灯明法灯明です。

現在、英彦山の甦生に取り組んでいますが宿坊からたくさんのことを学び直しています。坊主(ぼうしゅ)が宿る場には、それだけの知恵と道があります。先人に倣い、自分の在り方を見直していきたいと思います。

心の時

出会いというのを人を変えていきます。その出会いは時との出会いというものがあります。私たちは時を通して、今何に出会っているのかということを直感できるからです。

これは四季のめぐりにも似ています。四季折々に私たちはその時々の風景に出会います。その風景を観ては、その時を感じ、出会いの意味を知るのです。

例えば、この時機は冬から春にかけて空気も光も風もそして鳥、虫たち、植物たちも冬のもっとも冷えている環境の中で春を待ちます。この透明で凍てつく寒さの中で、春を待つ景色にその時の様相を感じます。それは時が止まったようで、ゆっくりと音も静かに流れている景色です。

朝焼けや夕焼けもその時を静かに語るものです。

私たちは日々に時と出会い、時に心を映します。

その時々の出会いをどれだけ感受性豊かにキャッチしていくか。それはその出会いに対して、どれだけ純粋に心が味わったことを噛みしめていくかに似ています。その出会いの余韻や、その時の仕合せ、心が時になるのです。

心の時というのは、永遠でもあります。

それは過ぎ去っていないままに、心に刻まれているからです。この心の時を持つ人は、いつも別の次元に時が止まったままで暮らしていきます。先ほどの、四季折々の変化のようにその時とその風景といつまでも出会いが続いているのです。

ご縁の世界というものは、現実的に目に見えるものだけの中ではなく、心の時といった風景の世界でもあります。

二度とない今だからこそ、この二度とない時を生きます。

子どもたちに美しく懐かしい未来を、続けていきたいと思います。

布施行の本質

昨日は、英彦山にある守静坊の甦生でまた多くの仲間や同志たちに見守られ大掃除や片づけ、木材を運び込むことができました。今回で5回目になりますが、いつも新しくご縁が結ばれた人が来てくださいます。本当に不思議で毎回、居心地よく明るく笑顔で豊かな時間をみんなと分かち合うことができています。

金銭での見返りもなく、大変な作業もある中でみんなで主体的に下座行に取り組んでいきます。この甦生中の宿坊は、もともとはお寺であり坊家であったからこそお布施で甦生すると覚悟して取り組んでいますが皆様の徳の行いや明徳に私自身が学び直すことばかりです。

もともと「お布施」というものは、仏陀の布施行がら来ている言葉です。この布施行には、法施と財施と無畏施の三種があるとそのあと分類されています。「法施」は、学んできた法を説いて実践を通して安心に導くこと。次に「財施」は、見返りを求めずお金や衣食などの物資を必要とする人に与えること。そして「無畏施」とは、恐怖しないでおそれずやろうという強い心、その勇気の背中で人々を安心させることです。

よく考えてみると、このお布施は他人に求めるものではないことはすぐにわかります。これは自分が実践する徳行であり修行なのです。よくお布施を集めるという言い方をしますが、これは金銭を集めることではありません。一緒に布施行を実践する人たちを集めるということです。

何を一緒に実践するのか、それがこの布施行の三種を代表に行います。さらに仏陀は布施の具体例に「無財の七施」ということをいいました。これは雑宝蔵経というものに記されています。

「身施」は、肉体による奉仕であり、心身を盡して布施行。「心施」は、思いやりの心を盡す布施行。「眼施」は、やさしきまなざしを盡していく布施行。「和顔施」、他人に柔和な笑顔を盡す布施行。「言施」はあたたかいぬくもりの言葉を盡すこと。「牀座施」は、自分の席を譲り尊重すること。そして「房舎施」家を提供しおもてなすこと。

他にも、布施行はたくさんあります。そのお布施をするのは自分自身であり他人がするのではありません。布施行を通して、自分を磨くのです。自分を磨くための方法として布施行がありその布施行が人々を菩薩にしていくということでしょう。托鉢というのは、つまり布施行を実践するということです。

山伏というのは在家で信仰していた人々だといわれます。私も特定の宗派宗教などはなく、尊敬している方々はたくさんいますが日本人としての伝統的な信仰心は持っています。気が付けば、多くの方々に支えられ見守られ、道を歩まさせていただいています。

今回の宿坊の甦生を通して、先人たちがどのようなお山での暮らしを営んできたのか、そしてどのように周囲の人々にお布施をしていたのか。学ばせていただいています。

人の捨てたものを拾いながら、一つ一つの我を捨てていく日々。

出会いとご縁に感謝しながら、残りの時間を大切に過ごしていきたいと思います。

 

初志と予祝

昨日は、無事に妙見神社の御祭と徳積財団設立2周年の座談会を盛況のままに開催することができました。コロナで人数を限定していましたが、心ある仲間たちが参加してくださり気持ちを一つに真暦での正月と予祝を過ごすことができました。

場にはその心地よい余韻がのこり、その余韻でまた夜も直会をして音楽を楽しみ時を忘れて仕合せを噛みしめていました。

思い返せば、もう25年くらい前に国際人とは何か、コスモポリタン、また地球を代表する人類として一体どう生きたらいいのかを模索していました。その頃も、東京の新宿で国際人会というものを私が立ち上げ有志のメンバーでどう生きるか、日本人としてどうあるべきかを語り合っていました。

そのころは、みんな若く情熱だけありましたが実力も時も定まっておらず必死でそれぞれ起業をしたてだったことと、他にも入社したてだったこともあり、気持ちだけで取り組んでいました。

あれからだいぶ経ち、気が付けば日本人とは何か、そして国際人とは何かということがもう身近にあり、今では実力も多少は追いつき、そして時が味方してくれているのを感じます。

初志はずっと変わらず、気がつけばその初志に合わせて人も物も物語も集まってきただけです。

私はこの集まってくるというものがとても多いタイプのようで、身近にはいつも本物や普遍的なものが集まってきます。志を共にする同志は、決して人だけではなく物や物語なども同じです。

たくさんの物語が集まってくると、それが集大成となり偉大な物語になっていきます。

人生は記憶を生きていますが、同時に歴史もつくっています。歴史は決して過ぎ去った過去のことではなく、今もこの瞬間も創られ続けています。どのような歴史を刻んでいくかはその人の生き方、そして信念、志が決めるのです。

他人をみて、他人のことを気にするのではなく、自己を省みて、自己を研ぎ澄まして本来の初心を忘れず初志を貫遂することが自分自身を生きることです。自分自身を生きるというのは、自らの「場」に物語を顕現させ続けることです。

出会いが場をつくるように、歴史が場を育てます。

じっくりと時を遊び、時を活かし、時を信じて、時が集まってくるまでその時を心静かに待ってみたいと思います。英彦山は、日本人の、いや世界人類の心の故郷として間もなく甦生します。

おめでとうござます。

本当の歴史、真実の暦

本日は、旧暦での正月となりいよいよ今年が真にスタートする日です。現在、新暦とか旧暦とかの言い方をしますがもっともここで大切なのは「本当の歴とは何か」ということです。

私は本当の歴である2月4日の正月に、当社の妙見神社(ブロックチェーン神社)を秩父神社と多田妙見宮から勧請して建立したのには深い意味があります。もともと御祭や大祭は一年の中でもっとも大切で重要な御祭りです。かねてからそれを本来の本質的な歴で行いたいという願いと祈りがありました。

先祖や先人たちがなぜもともとこの日にしたのか、なぜ一年のこの場面でこの行事が必要だったのかという記憶に実践をし心を研ぎ澄ますことで直観的にアクセスでき思い出すことができるからです。ある意味、この行事とか御祭りとは子孫たちがいつまでも忘れてはならない「初心を思い出す」ためにあります。この初心を思い出せば、あらゆる記憶や感覚が生まれ変わり新しくなります。神道ではこれを常若という言い方もします。親が子を産み、繁栄していくように繰り返していくなかで初心は伝承されていくのです。それが文化伝承の知恵でもあります。

今年は、午前中にはいつものように初心と甦生を重んじる例大祭を昨年一年の無事と繁栄の感謝をこめて執り行います。そして午後からは、本当の歴史を学び直すための座談会をそれぞれの歴史の道を歩まれる方々と共に語り合います。

そして徳とは何かということを、みんなで分かち合い、先人への感謝と子孫への祈りを共有します。ただの知識ではなく、そこには確かな歴史がありその歴史を私たちは刻み続けている存在であることを学び合うのです。

一年のはじまりに私はこの御祭と理念の共有をするのは、英彦山の予祝でもあります。英彦山がはじまり、このご縁がうまれ、そして甦生が勢いづいてきます。後になって感謝をするではなく、その目出度い吉報とご縁と、そして天命にみんなで先に喜びあうのです。

神様がそうしてくださっているように私たちは真心で取り組めたか、神様にお任せして信じて自分自身の至誠を盡すことができたか。これを先にみんなで覚悟を認め合うのです。

日本の生き方は、先人の真摯な命がけの歴史と共に醸成されてきた一つの大和魂です。素晴らしい一年がはじまることに感謝いたします。

おめでとうございます。