有難い心の持ち方

有難いという言葉があります。それがありがとうになっています。言葉の意味から有り難しですから、滅多にないこととでしょう。時代劇などをみていたら、かたじけないという言い方もします。これも滅多にないほどに畏れ多いことという意味だといわれます。それだけ貴重なこと、一期一会であること、二度とないほど、また自分にはもったいないほどのことという解釈だと思います。

この反対語で使われるのが、当たり前。いつもあるもの、当然に貰えるもの、普通なことといいます。これは、その人の感覚でどちらにもとることができます。空気があるのは当たり前、空気があるのは有難い、同じ空気でもそれは人の感じ方で変わるものです。つまりこれは、生き方のことです。

確かに、親がいて自分が誕生しました。今の自分があるというのは、両親があったのですがこれは当たり前の真理です。しかし、両親が偶然出会い自分がいるというのはこれは滅多にないことです。他にも、今自分が置かれている環境や条件においても本当は相当な巡りあわせの奇跡であるといえば滅多ないことですが、そうやって歩んできたから当たり前という言い方もできます。

こういう言葉はどこから産まれてきたのか、長い年月、様々な代を経て、私たちの先祖たちは生き方的に大切なことを気づいてそれはそういうことを忘れないために言葉にして使おうとしたのではないかと思います。

足るを知るというのもこれに似ています。同じコップの水であっても、これだけしかないと思うのか、それともまだこんなにあると思うのか。同じ条件、状況下であっても観えるもの、感じるものが変わってしまうのです。

物の観え方が変わる、それは心の持ち方次第ということになります。

同じ人生を送っても、心の持ち方である人は仕合せで裕福で満足し、ある人は不満で不幸で貧しい人生を送ります。それは何がその分岐点になっているのか、まさに心の持ち方であることは間違いありません。

自分の人生が選べないとして、運命だとして、それをどう感じるか、生き方だけは自由に決めることができます。善い人生を生きたい、そして素晴らしい生き方をしていきたいと憧れた先人たちが言葉を遺してくださったのかもしれません。

ありがとうという言葉には、生き方をどうありたいかがいつも寄り添っています。日々を見つめて、子孫のためにも一期一会を生きていきたいと思います。