天命と存在

居場所というものがあります。これは自分のままでも存在が認められる安心基地があるということです。別の言い方では、愛されている実感がある場所ということです。いくら人があなたを愛していても自分が愛されているという実感がなければ愛が枯渇しているように人は感じるものです。

自分が自分のままでもいいと思えなくなったのは、色々と事情がありますがその一つに教育による評価というものがあります。頑張ったら認められると人は刷り込まれると、頑張らないことは悪であると信じ込み我慢して耐え、自分を殺してまでも頑張ろうとするものです。それによって病気になったり、もっとも悲惨なのは自死を選んでしまうのです。

本来、この自然界に不必要なものなどあるでしょうか。そんなものはありません。誰かが不必要とするからゴミが生まれ、居場所がなくなるだけで本当はこの世の楽園というものはみんなで存在していい場所です。誰のものでもない、みんなのものです。そして自分もまた、自分だけの存在ではなくみんなの存在の一つです。

例えば、ただ生きているだけの存在になったとするでしょう。それは生きているだけだと不必要と思うのならすべての生命は不必要になります。みんな何かしらの役割があり、必死ですが楽しく暮らしています。それはまず大前提として生きる喜びを知っていて、その中で苦しいことはあっても喜びだから楽しむのでしょう。この時の楽しむとは、味わうという意味です。味わいたいと思うから、体験したいと思って生きるように思います。誰かの評価を気にしていたら、自分自身が味わう喜びを忘れてしまいます。味わいたいと感じる人は、ないものよりもあるものに気づきやすいように思います。それが愛であっても仕合せや感謝であってもです。

ないと思っているから求めていきますが、すでにあると思っているとないものねだりはなくなってきます。そうしてすでにあるものに感謝していくと、次第に自分の与えられている天命に気付けるようにも思います。

自分の体も、与えられた環境も、そして人生を振り返ってもあるものを観ていけば味わえるように思います。それを天から与えられた道というのかもしれません。道は、楽しく愉快に歩んでいくことで旅も楽しくなります。

道は夢の途中ですから、この夢が豊かに幸せになるように自分を調えていきたいと思います。