ZEN

今日、11月1日は釈宗演氏の命日です。この人物は、日本人の僧として初めて「禅」を「ZEN」として欧米に伝えた禅師として有名です。ちょうどZEN2.0とご縁ができ、鎌倉に学び直す機会ができましたので改めて深め直してみたいと思います。

釈宗演氏は安政6年(1859)福井県高浜町に生まれ20歳のときに鎌倉円覚寺に修行の場を移し25歳で今北洪川老師より印可を受けています。その後は、27歳で慶應義塾にて福沢諭吉より洋学を学び29歳のときにスリラカに留学します。そして明治25年(1892)34歳で円覚寺派管長に就任します。

1893年にはシカゴで開催された第1回万国宗教会議に日本の仏教代表として参加し日本人として初めて欧米諸国の人々の前で仏教についての講演をされたといいます。その後は47歳で建長寺・円覚寺の管長を退き、廃寺寸前であった東慶寺の復興をされたといいます。大正8年(1919)、11月1日、61歳で遷化されました。

この釈宗演氏の遺した修養座右の銘は私の提唱する「暮らしフルネス」に通じるものがあるのでご紹介します。

1)「早く起き未だ衣を改めず、静坐一炷香」
早起きして、40~45分くらい線香の香に包まれて背筋を伸ばし、肩の力を抜いて正座しながら、静かな時間を過ごしましょう。

2)「既に衣帯を著くるば必ず神仏を礼す」
着替えたら、神仏に手を合わせましょう。

3)「眠は時を違えず、食は飽くに至らず」
就寝時間は規則正しく、食事は食べ過ぎないようにしましょう。

4)「客に接するは独り処るが如くし、独り処るは客に接するが如くす」
人前では独りでいるときのように、ありのままの自分を出し、独りのときは、人前にいるかのように、慎みを忘れずに過ごしましょう。

5)「尋常苟くも言わず、言えば則ち必ず行う」
禅は必要ないものを捨て去ることが修行だから、余計なことは口にせず、言ったことは必ず実行しましょう。

6)「機に臨みて譲ること莫かれ、事に当りて再思ず」
「機」とは仏の教えに従って活動する心を意味する。その心を譲ることなく、なにごともよく考えて行動しましょう。

7)「妄りに過去を想うこと莫かれ、遠く将来を慮れ」
過去にとらわれず、これからどうするかを考えましょう。

8)「丈夫の気を負い、小児の心を抱け」
立派な大人の気概をもちつつ、同時に子どものような純真無垢な心も忘れないようにしましょう。

9)「寝に就くは棺を蓋うが如くし、蓐を離るるは履を脱ぐが如くす」
寝るときは、お棺に入るときのように静かに寝よう。起きるときは、靴を脱ぐときのようにさっと起きましょう。

孔子の大学にある、天子から庶民にいたるまで如何に暮らしを整えていくのかというのは普遍的な道理です。この釈宗演氏もこの日々の暮らしの実践を重んじていたのがわかります。

明治の廃仏毀釈で仏教はとても荒廃しました。現代の仏教が原点回帰して発展したのにこのZENは日本だけではなく世界的に大きく貢献しました。一期一会に今の環境を受け容れ、敢えて世界への布教し日本に回帰するという生き方。

学ばせてもらうことばかりです。ご縁を大切に、英彦山甦生の参考にしていきたいと思います。

場と智慧

日本の神話で最初の合議によりアイデアを出して実行して世の中を明るくしたことに天岩戸伝説というものがあります。この伝説の中心人物が、私の運営するBA(場の道場)に御鎮座する神さま、八意思兼神(オモイカネ)です。この神さまは他にも、国譲り・天孫降臨など重大な局面で智慧を出してみんなで物事を解決していく「場」を創造していきました。

この天岩戸伝説は御存じの人の方が多いと思いますが、簡単に言うとアマテラスの弟のスサノオを悪さをしてショックを受けたアマテラスが岩戸の中に隠れて引きこもってしまった。そのことで太陽が消えたように世の中が暗くなり混乱が起きた。それを解決するためにすべての神様が一堂に集まり、場で話し合いをし智慧を出した。そのファシリテーション役がオモイカネが行い下記のようなアイデアにまとめました。

一つは、常世の長鳴鳥(ニワトリ)を集め、鳴き声で夜明けを知らせること。二つ目は天安河の岩と、金山の鉄で鍛冶屋の天津麻羅に鍛えさせること。その鍛えたもので伊斯許理度売命が「八咫鏡」をつくること。三つ目は玉祖命が「八尺瓊勾玉」を繋いだ珠を作ること。四つ目が天児屋命と布刀玉命が雄鹿の肩の骨を抜きとって朱桜の枝で焼くという占いをして事をはじめることなどです。

実は三種の神器の勾玉と鏡はここの智慧で出てくるものです。

それを使って神様たちが作戦を実行しアマテラスを岩戸から出てきてもらいます。有名なのは実際にはアメノウズメノミコトが岩戸の前で必死に踊っていたら裸踊りになってしまいそれをみた神さまたちが笑い転げているとその様子にアマテラスが気になって岩戸から出てきたという具合です。それで鏡をつかいアマテラスの純粋な美しさに気づかせ真榊と勾玉で出てきたところを岩戸を開けて戻らないようにみんなで頼んだという話です。オープンに協力して持ち味を活かし、神さまたちの笑いが「和来」(わらい)となって、みんなが心和むことでまた調和が訪れて世の中がまた明るくなったというシーンでしょう。それから禍が転じて福が続いているという日本人の親祖たちの智慧で今があります。

本来、場と智慧があって禍福が一円になっていくものです。

私の取り組んでいる場が、現在の世界の課題や問題を解決していけるように真心を込めて磨き上げていきたいと思います。

 

智慧の集積

人間は、よりよく生きるために心を鎮めるための手段をたくさん発明してきました。心の乱れや穢れをどう穏やかにして静かに洗い清めるかはそれぞれにあり、今でもそれは多くの場所で活用されています。

例えば、宗教の儀式や伝統的な暮らし、また芸術芸能などの行事、他にも聖地巡礼や道、作法などです。如何に、浄化していくか、そしてその心の乱れをととのえていくかを何千年も前から行われているのです。

これはもう運命的というか宿命的なものを感じるものです。

その格言も、世界中の思想家、実践家によって今も変わらずに語り継がれみんな子孫たちもそれに従って精進を続けています。

むかしある人に、人は何かを理解するために相対的にしたということを聴いたことがありました。「理解」するために私たちは脳を働かせ、文字を発明し、文明を発展させ、今でもそれをやっているのです。

理解して何になるのかというものもありますが、理解したいという欲求はもう長いこと刷り込まれていますからそれはなくなりません。理解してそれを捨てるというのは、心の力が必要になります。そこには矛盾が発生してくるからです。

不思議な話ですが人間は元々の状態、「純粋無垢」になろうとし体験を経て様々な知識を得て世の中を渡り歩きますがまた元の状態に回帰しようと何度も続けています。それは人の一生でも然り、人類の時代でも然りです。言い換えるのなら、宝石を磨き続けて拭き清め続けて光を放ち続けることに意味があるようで、汚泥の中の蓮の花を美しく咲かせ続けるようで、そこに意味を感じるのでしょう。

私たちはそれぞれの時代にどう磨いていくか、心を穏やかに沈めて純粋に回帰するかは時代を生きるテーマです。今の時代、世界がIT技術で結ばれ世界のあらゆる場所と物理的に繋がってきました。

その御蔭で今まで知らなかったあらゆる知恵が結ばれるようになったともいえます。智慧を集めていくことは、この先の子どもたちの未来に新しい世界を拓いていくためにも大切だと私は感じます。

この場所に暮らしフルネスの智慧を集めて、新たな取り組みに挑戦していきたいと思います。

デジタル証明書の未来

役所にいくと今でもたくさんの証明書の発行が必要になります。本人の確認できるものとして使うものとしては現在は、免許証や保険証、パスポートなどもあります。マイナンバーもはじまり少しずつIT化していますがまだまだ進んでいません。

時代の流れでもうすぐ紙の証明書がなくなっていくことは予想されますが、なかなか今までのものが変わるというのは難しいことです。誰もが電気が止まったらどうするのかや本当に本物かどうかを専門家が確認したのかなど、偽物であっては困るものはこれでもかというくらい確認するものです。

よく考えてみたら印鑑なども5000年も前のメソポタミアではじまっていてそこでも証明をするものを用意していたことになります。

人類にとってこの「証明」というものがこれだけ時代を経てもなくならないのはそれだけ証明は人類にとっては重要なことであるということです。

現在はデジタル証明書というものが出ています。このデジタル証明書はインターネット上で行われる取引に関する事実や価値の真偽を証明するために発行された電子ファイル全般のことです。

紙での契約書を電子契約書にし、署名も電子署名になり、それが本人のものであることを証明するためのものです。

このデジタル証明書は、紙での証明書と同じく第三者機関によって発行さることがほとんどです。これをは「認証局」と呼びます。その認証局がデジタル証明書が本物かを認証します。インターネットでいうSSLなどの仕組みも同じです。

このウェブサイトは、本物かどうか、この商品の売買は間違いないかとうかなど認証局を通していれば安心という具合です。それだけデジタルの世界ではコピーが容易く、なりすましや偽装などができるということでもあります。しかし認証局を通さない複雑なやり取りなどがある場合は新しい解決方法を用意しなければなりません。

そこでブロックチェーン技術の登場でこのデジタル証明書が誕生しています。

ブロックチェーンは書き込んだ情報を変更できないことやブロックチェーン上に分散管理することもできること、さらにそれがいつまでもコストをかけずに保存できることができよりデジタル証明書としての機能が発展しています。

これからのデジタル証明書の可能性は、人類が今まで続いてきた偽装や改ざんなどの歴史の中で如何に信頼性を高めた社会にしていくかという課題と紐づいているように思います。それは権力というものがあるからでもあります。

本来、私たち日本人は信用第一にする民族ですが世の中が変われば対策を立てて取り組んできました。それは印鑑、サイン、方言、合図、家系などあらゆるものに出ています。

近未来の社会実験の実証実験を子どもたちの未来のために挑戦してみたいと思います。

感謝を磨く

人間は一生のうちで多くの出会いと別れがあります。そのどれもが一人ひとりの道であり、それぞれの人生です。思い返すと、多くの人たちの真心や親切によって私たちは暮らしを豊かに彩ることができます。

自分一人が生きるのに、どれだけ多くの人たちが関わっているのかと思うと私たちの生活のすべては親切で成り立っているといっても過言ではありません。

あの時、あのタイミングでお世話になったとか、あの時、あの場所で出会ったおかげで助かったとか、まさに人の親切は重なりあいます。

だからこそ出会った時の喜び、別れの悲しみがありますが同時に感謝が結び合っていることに気づくのです。あの出会いも、別れも感謝であったと思う人生は親切を感じやすいように思います。

親切を感じる人は、感謝を感じる人でもあります。

そういう人にとっての出会いもまた別れもも感謝が結びます。感謝を磨いていくというのは、その一期一会の出会いに際にして感謝を忘れないようにしていくことです。

人は頑張り過ぎたり無理をし過ぎると感謝を感じる力が鈍っていくものです。それは自分というものを出し過ぎているからです。本当の自分というものは伴侶であり、とても親切で陰ひなたから自分自身の存在に常に寄り添って見守ってくれているものです。

自他に素直に親切にすることができる人は、他人にも親切にできる人でもあります。そうやって自他との関係が親切にできる人は、感謝を持ち続けていきます。感謝は自他を結ぶ仕合せの絆です。

誰もがいつか人は必ず死ぬ時がきて、それまでに多くの出会い別れを繰り返します。その引き際や別れ際にその人の生き方が出てくるものです。引き際を感謝でというのは人生においてはとても大切だと感じます。

感謝を磨いていくと今まで自分自身そのものの存在が与えてくださった偉大な恩恵にも自然に有難いと感じることができ喜びと仕合せを感じます。私にも2年前から共に感謝を磨こうと、一緒に取り組んでいる同朋がいますが私は本当にまだまだです。

最後に、ローマの哲学者キケロの格言です。

「感謝は最大の徳であるだけでなく、全ての徳の源である。」

徳の源泉、それは感謝。

子どもたちのためにも徳を目指して、精進していきたいと思います。

 

徳の醸成

昨日は、各地から大勢いの方々が手伝いにきてくれて無事に宿坊の掃除や片づけを終えることができました。雨の予想でしたが、作業している間は不思議に雨もなくみんなで気持ちを一つにして片づけることができました。

振り返ってみると、皆さん清々しい人ばかりで一期一会に貴重なご縁をいただいているのを感じます。煤汚れや重労働、大変な作業の中、笑顔で助け合い協力して一心一体になって身体も心も合わせていきます。

誰が指示するわけでもなく、最初に方向性だけ伝えるとあとはそれぞれの役割が自然に分かって自分のいる場所に配置されていきます。

これは懐かしいむかしの人たちの協力の仕方の甦生でもあります。

以前、宮大工の西岡棟梁の話に飛鳥時代の人々はみんな主体として協力し合って建物を建てていたと言っていました。それは建物を観ればすぐにわかるとのことでした。まさに、全員棟梁という言葉を使っていました。

今の時代は、棟梁は一人であとは職人という構図ですが本来は誰もが棟梁の気持ちで家に取り組んだということでしょう。これは神社でもみんなが宮司という気持ちで場を整えていたのと同じだと私は思います。これは国民一人ひとりが国の主という気持ちで働くこととも同じです。実はみんが主体として働けることこそが仕合せなのです。

昨日の片づけではみんなが宿坊の主と思うくらいに丁寧に、隅々まで真心を込めて取り組んでくれました。御蔭様で終わってからの余韻もまた清々しく、「場」が美しく整ったのを実感しました。

そして作業が終わるころには、信頼関係がより深まります。一緒に汗をかいて取り組むことで、人の心は通じ合い、豊かな心を醸成します。こうやって徳を積むことをみんなで体験できることこそが仕合せであり、未来そのものを引き寄せていきます。

真の豊かさとは何か、それを体験するには徳を磨くための「場」が必要です。

これからもこの英彦山を活かして場を用意し、この山に来た人たちが一人でも多く豊かさを味わえるように徳を醸成していきたいと思います。

 

草莽の朋と歩む

本日は、英彦山の宿坊「守静坊」の片づけや掃除を有志の方々と共に行う予定です。この宿坊は、山伏研究の第一人者でもある故長野覚先生のご実家の宿坊です。生前の御縁でお会いしたのはたったの3回ほど。そして期間もわずか3か月ほどのものです。

しかし、気魄と眼光の鋭さ、そして智慧や見識の高さ、どれをとっても偉大な方でした。最期にお電話した時の言葉が今でも耳に遺っています。私を全面的に信頼し、宿坊を託され、後のことを任されたあとにお亡くなりになりました。

きっと来春の枝垂れ桜の咲くころに宿坊が見事に甦生し、エバレットブラウンさんと共に温故知新した山伏の姿、またこれからの英彦山の明るい未来への兆しなど一緒に宿坊から見たかったはずです。誰よりも山伏たちの未来を案じ、誰よりも英彦山を深く愛した人ではなかったかと私は感じていました。

この遺志は、未熟ながら私が責任をもって果たしていきたいと思います。

振り返ってみると私の人生は、いつもこうやって遺志を継ぐことばかりに導かれてきました。道を歩んでいく中で、後を託されます。どう考えても、私の方が先に死んでもおかしくないくらい毎日すべてを絞りつくして生きていますがなぜか先に朋ばかりが逝きます。託されたあとは、任されたことに報いるように、またみんなが喜ぶように真摯に徳を磨きます。

この遺志を継ぐというのは故人が果たせなかった目的や願いを引き受けること」をいいます。

一代で果たせる夢というのは一体どれだけあるものでしょうか。ほとんどの夢は、何代もかけて果たしていくものばかりです。その夢を託す人は、決して身内だけということではありません。

志を共にする同志たち、草莽の朋たちが一緒に道を歩んでいます。

お金があるからとか、地位や名誉、そして権力をもっている人はアテにはなりません。保身ゆえに行動することができません。もちろんそれぞれに役割がありますがやはり古今、歴史を鑑みても事を為し遂げる人物は草莽の志士たちです。

日の目を見ず、誰にも相手にもされず、それでも只管に一途に志のために邁進する。それはその先に偉大な夢が待っているからです。道は無窮です。だからこそ後を継ぐ者、繋ぐ者、やり遂げるまで諦めない者が現れるのです。

故長野覚先生の分まで、情熱を燃やし、天国までその光が届くようにこの宿坊を世界一の場所に磨き上げてみたいと思います。

改善する

よく反省している人は改善もよくする人です。その理由は、自分の成長のために何が変えることができるかと自分を見つめることができるからです。相手や周囲を変えようとしても、外圧的に変わることはありません。自分が変われば周囲も変わって観えますからそのためには自分の価値観や考え方、在り方を改善することで周囲を変えていくという仕組みがもっとも近道です。

しかしそれができないのは何かに固執するからです。自分をこうしたいと思っているのが自分であるから余計に反省することがありません。自分に素直に反省するには、現実を直視する自信が必要にもなります。

その自信は、足るを知るところからはじまるように思います。

自分が如何に恵まれた存在であるか、如何にいい人たちとご縁をいただき機会を与えられているかと、文句ばかりを言わずに足るを知ることからはじめることのように思います。

もっと言えば、感謝の気持ちが強い人ほど反省もまた深いように思います。逆を言えば、感謝の気持ちが薄い人はあまり反省することもないという具合です。

反省とは謙虚さが必要で、固執しないということ。今の自分に感謝する自信があることで素直さもまた引き出されていきます。

不平不満ばかりを持つと、さらに我執は強くなっていきます。

相手か自分かではなく、自分の現実を直視して自らを省みることを繰り返していくことで何が最善であったかと変化し続ける生き方が改善するということでしょう。不平不満の反対のところに改善があるということです。

日々は一期一会で、その時は二度と戻っては来ません。不平不満よりも足るを知り、今、できる最善を尽くしていきたいと思います。

新旧の調和~原点回帰~

宗像国際環境会議の御蔭で私はとてもユニークな方々とのご縁をいただいています。それはお会いする方々も同様にそれを話しますから如何に豊かな広がりになっているかが毎回わかります。

人を結び合うということはまさに場であり道です。

そしてその場にどのような想いを醸成していくか、まさに祈りの場が甦生し続けていきます。この祈りの場が人を呼び、そしてそこに巡礼の道ができてきます。人が歩いていくところ、人が立ち止まるところ、古くからその道理は変わっていません。

最初の祈りはいつからだったのだろうかと思うと、自分のいのちを結んでくれたものへの感謝からはじまったように思います。自然に道を歩み、いのちを繋いでいく。特に私たちは水がなければ生きていくことができませんから、山に入り水が飲めるとき、空から雨が降るとき、地下から水が湧くときそこに感謝したように思います。

水場には人が集まり、そこで様々なものを交換しあってさらにいのちを生き伸びさせてきました。そこで出会った人たちが結ばれ、家族になり、あるいは一生の友人になり、またあるいは村を形成したかもしれません。

今では水はコンビニでも自販機でもどこでも買えますし、水道をひねればすぐに出てきます。そのことで、水に対する自覚が失われていって感謝もまた失われています。

こうやって本来、非常に価値があったものもあまりにも人間にとって便利になりすぎることで価値が失われていきます。しかし感謝という本体は実際には何も変わってはいません。水がまたなくなれば、誰もがその水を有難く思い感謝するからです。

存在というものは、時代の価値観と共に変化していきます。

シンプルに言えば、存在価値があるかないかが必要不必要によって選別されていきます。気候変動であれば、今は危機で重要ですが少し前まではあまり重要なことではありませんでした。

つまり目先の変化で一喜一憂しながら価値もまた変化し続けていくのです。しかし本当に大切なこと、真に重要なことは普遍的で何も変わってはいません。それに”気づいて”いるか、それに”目覚めて”いるかが実は人間にとって重要だと私は思うのです。

真理というものは、常に身近にあり人間を守ってくれています。その真理に気づいているか、そこが原点であり、道理です。

価値観が多様化多重化することばかりに対応して日々に目まぐるしくスピードアップばかりをやっていますが、子どもたちの未来のためにも原点や道理から大きく外れていかないように新旧の調和、その原点回帰に取り組んでいきたいと思います。

ご縁に感謝しています。

いのちの存在

昨日から英彦山最古の宿坊「守静坊」の甦生に取り組みはじめています。英彦山神宮の高千穂有昭さんに御祈祷していただき宿坊での取り組みの安全と故長野覚様のご供養とみんなで行いました。

いつも甦生の初めに取り組むときは、御祈祷と供養をしてから私は行います。これは今での歴史や物語を尊重しながら大切に心を盡していくための一つの作法です。そこにあるものは、単なる「もの」ではありません。いのちがあったものです。そのいのちをそこできちんと終わらせるのも大切な尊重です。

私は家や物と話をするとよく言いますが、決して精神世界がとか霊的にとか宗教だとかいう意味ではありません。物には物語があり、ものがそれまでの歴史を語ります。その歴史の中で、甦らせられるもの。もう甦ることができないものがでてきます。ただなんでも捨てないというわけではなく、ここで供養した方がよいものはある意味で捨てるのです。

人には様々な執着というものがあります。それが我からのものなのか、それが無我のものなのか。例えば、祈りというものがあります。人が真心で祈り続けてきたものは透明ないのちが宿っています。その宿っているもので、それを受け継げるもの。その場にいつまでも遺しておきたいものはそのまま磨いて光らせていくだけです。

しかし故人の思い出のものや、何かしらの約束のものなどは引き受けられない場合はあの世というか天の蔵にお送りする気持ちで供養します。供養というのは、感謝をすることです。この感謝は相対的な感謝ではなく、全体的な徳に対する感謝です。

伝来物の中には、とても美しいものが宿っているものがあります。

子孫への祈り、平和への願い、いのちへの深い愛情などもそうです。

私たちは我がありますから、自分の都合で勝手にそのものを判断して思い込んでいきます。しかし丁寧に心を配ってもう一度、澄ませて観るとそれが何であったかを思い出すことができます。

今の時代、忙しく味わう暇もないほどに次へ次へと生き急いでいるように進みます。そんなに急いで一体何をしたいのか、どこに行くのか。大事な足元の宝を観ずになぜそんなにないものねだりばかりをするのか。これは達観しているから言っているのではなく、現実として豊かさというものを味わう時間もないままに何を求めているのかということを感じます。

物質的な豊かさというものは、その時だけ一瞬です。しかし、心の豊かさは永遠でありいつまでも何度でも無限に味わえます。

この英彦山のこの宿坊周辺の谷での暮らしの美しさは、言葉で説明できないものです。仙人たちが棲む桃源郷のような洗練された見事な場です。この場が、日本一研ぎ澄まされた場になるように私自身の魂を込めて枝垂れ桜と共に仕合せに取り組んでいきたいと思います。