伝承的な暮らし

歴史には、知識の方面と知恵の方面のものが二つあるものです。知識としての歴史は、過去にこうであったと切り取られたものです。しかし知恵としての歴史は、今もこうであると生き続けているものです。本来、歴史はその両面を持ち合わせていたものでしたが今は専門家や分類わけが進み知識の歴史の方ばかりが重視されるようになってきました。

例えば、私は暮らしフルネスの実践の中で先人たちが知恵で生み出した知恵の暮らしを伝承していますがそれを使うには自分の五感をはじめ、身近なむかしの知恵の道具たちとの協力が必要です。囲炉裏で何かをしようとすれば、囲炉裏に関わる道具たちと火を上手に調整するための道具たちで構成します。

生活文化の歴史の本では、江戸時代の生活様式と紹介されイラストと一緒にその様子が描かれています。知識としては知っていても、それを使ってくださいとなると簡単には使えません。なので、実際には日々の暮らしで実践してみるなかで知恵を習得し、そのうえで知識としてこれはどのような意味や価値があり創造されているものかを語るとき、先ほどの知識と知恵の両面を持ち合わせることができるのです。

つまり歴史というものも同様に、まずは実践を通して知恵を学び、そのうえで知識を得ることで真実の歴史を伝承していくことができるように私は思います。

私は現在、英彦山の宿坊での伝統的な暮らしを試行錯誤したり、郷里の観音霊場の甦生などに取り組んでいます。失われた伝統文化などを甦生するには、自分の足で自分の身体を使い時間をかけて感覚を優先して会得していくことからはじめます。それと同時に、文献や地域の人たちの口伝、あるいは似たような文化圏を歩いて辿っていきます。

すると、不思議ですがかつての場に遺っている余韻のようなものと和合してかつての暮らしが甦生していきます。これは単に暮らしを追及したのではなく、日本人の追及の上に醸成されたとも言えます。

私たちの本来の日本人の原型というものはどういうものだったのか。先人たちの知恵の結晶の中には、日本人が語られていることに気づきます。自然との共生や真心を持ち、水のような謙虚さや光のような純心さがあります。

親祖から連綿と続いているやまと魂に触れることはとても仕合せなものです。子どもたち、子孫にその仕合せが永続していけるように伝承的な暮らしに取り組んでいきたいと思います。

伝承革新

昨日は、福岡県にある秋月鎧揃え保存会のメンバーが英彦山の守静坊で合宿を行いました。合宿というのは今は多くの人が同じ宿舎で一定期間ともに生活して共同の練習や研修を行うことをいいますが本来は暮らしを通してお互いを見つめ合う一つの作法だったのかもしれません。

郷に入っては郷に従えということわざもあります。もともと何かを取り組むのには目的や初心というものがあります。それを確認するためには、その中に一本流れている筋道やルール、そして理念のようなものをどう理解するかが大切になります。

浅いところしかわかっていないのでは自由に動けば周囲への迷惑にもなります。深いところでお互いがよく理解しあい、規律と方向性を知ることはお互いを活かしあうためには大切です。

宿坊では、朝のお掃除の作務から歴史の勉強会、瞑想や座禅に加え、お昼には精進料理を食べ、振り返りを車座で行いお山の参道をのぼり休憩をして理念を唱和してお礼とお掃除と記念撮影をして終えるという具合でした。

当たり前のことをやっているようですが、私が司る場の中に入り、暮らしを体感するなかでそこに流れている生き方というものが加わり心身が調います。このような体験や気づきは、唯一無二でありその人の一生の思い出にもなります。

人は思い出があることで意識が変わることもあります。どのような思い出をお互いが持っているかは、一生において何よりもかけがえのないものです。

時代が変わりますが、歴史は終わることはなく今に生き続けているものです。その歴史を生きる人たちにとって思い出をさらに甦生させて歴史を刷新していくことは伝承する喜びに満ちています。

本来、歴史を生きるというのは単なる金銭を優先する観光イベントや文化交流ではありません。それは生き方をどう実践するかという、どう生きるかというという話です。

それぞれに人はどう生きるかというものに向き合っています。そこに尊敬する先人たちや今も心に共に生きる先達がいるというのはとてもありがたいことです。

守静坊は、歴史の今を生きる存在であり静的な修行をし続けている場です。これからも、本質を守り、静けさを保ち、本来の宿坊のままに生き続けて伝承革新していきたいと思います。

自然道の伝承

英彦山の守静坊の周囲のお手入れをしていますが、長年放置されていた状態の分だけお手入れは大変です。特に石垣の周囲には、野生の植物たちが入ってきていて人工的なものを壊していきます。先日の大雨で水路も崩れ、道もところどころ陥没していてそれも少しずつ直しています。

一日にできる作業はそんなに多くなく、コツコツと取り組んでいくしかありません。周囲の小さな昆虫たちをみていても同様に、雨で崩れた巣や環境の変化にあわせてそれぞれで調えています。

山に住んでみると、一見同じような木々や植生に見えてもどれが人が関わったものでどれが人が関わっていないのかということに気づきます。人の手が入ったものは、お手入れしなければ必ず崩れます。それが自然の仕組みです。自然はそれぞれの生き物たちが関わっているものによって成り立っていますから、その自然の場がどの生き物が作用してそうなっているのかはその生き物の徳によって醸成されているのです。

精神というものは、場に影響しあいます。その人の精神が場に顕現するともいっていいものです。その人物がその場をどのように清め調えているのか、あるいは荒廃したものをまたどのように甦生し以前よりも善いものへと磨き上げていくのか。これは伝承や文化の話でもあり、生き物たちはそうやって常に自然といのちと向き合いながら豊かに仕合せに生きているともいえます。

暮らしの豊かさというのは、自然の中での営みと共にあります。他の生き物たちと一緒に同じ時代、同じ場所でそれぞれの生活を豊かに営んでいくこと。お互いに環境に配慮しあいながら生きていく喜びは格別なものです。それはそこに思いやりがあるからに他なりません。

生き物たちは、私たちが思っている以上に思いやりをもって関係を維持しています。自分だけでいいとはなっておらず、お互いの境界線のぎりぎりのところで場を調えていきます。ここまではいいのか、ここはよくないのか、それはお互いの暮らし方や営みの間で距離をとっていくしかありません。

しかし植物たちも昆虫たちも、それはなんとなくわかっていて仕方がないことも知っています。謙虚さというのは万物を活かしあう真心と共にあります。

思い通りになることが良いのではなく、お互いに活かしあうことの方が善しとする生き方と暮らし方。

先人の歩んできた道を甦生し、子孫へ新たな道を伝承していきたいと思います。

今と暮らしフルネス

現代は、過剰な経済競争と都市化によって様々な心身の病気が増えています。また将来のためにとこうすれば幸福になれるという方法論や動機を増すことを教育やメディアによって日々に発信されています。先日、友人の送料がDOINGとBEINGの違いを説明していましたが、まさにどうすれば幸福になれるかといったDOINGばかりを躍起になっている世の中ともいえます。

そんな中、マインドフルネスをはじめ未病のために色々と工夫する方法なども増えてきています。おかしな話ですが、大金をはたいてマインドフルネスの体験をしてまわっているビジネスマンもいます。経済効率をあげ、さらに能力を発揮するためにマインドフルネスを活用するという具合です。それもまた先ほどのDOINGと同じではないかと思うのですが、今の世の中ではなんでも経済、なんでもお金にしないと評価されず、そして認められません。

そういう時代背景こそが病んでいるのではないかと思うのですが、現代は病気も個人の問題として社会や時代のことは他人事のようになっていますから結局はあまり改善することはありません。

私は暮らしフルネスという仕組みを考えて、日々に実践していますがそれは今に集中することができるからです。そもそもこの今に集中するというのは、日々の暮らしを調えていくということです。頭で考えていても、実際には日本古来からの暮らしを丁寧に取り組んでいたらあまり頭で考えるだけで時間を使うことはできません。

朝起床してから夜就寝するまで、実践することが多すぎて考えるだけの時間がありません。なので五感を用いて体を使って暮らしを実践していると気が付くと今に集中しているということになっています。

今から離れることで、人は不安になり体調が崩れます。生きているのが今ですから、今しかないのです。今ではないことを考えるのは、今から切り離されるからです。今に居続けるというのは、今を味わうということです。

頭でわからないことは実践することで身についていきます。引き続き、子どもたちのためにも今と暮らしフルネスを実践していきたいと思います。

徳の宝

明日の守静坊の夏至祭の準備で宿坊を調えています。もともとこの宿坊の伝承では、夏至に太陽の光を鏡に受けるという行事があったといわれています。今は、もう文献も残っていませんがそれを甦生させてみようと試みています。

本来、神事というものは形式が問題ではなくその本質が何だったかを学び直すことのように思います。繰り返し伝承されるものは、形式が問題ではなくその伝承したものの本体をどう承ることができたかということによります。伝える方がいなくなったのなら、伝える側が使ってきた道具たちやものたちに物語を謙虚に教えてもらいそれをなぞりかたどるなかでその真心を直感していくものです。

私が甦生をするときは、まずよく「聴く」ことからはじめます。この聴くは単なる思い込みを外すだけではなく、そのものがどうしたいのか、何のためにあるのか、もともとはどうだったのかと深く丁寧に時間をかけて取り組んでいきます。そうしていると、早ければ数日、遅くても数年から十数年で次第にその本質にたどり着くまでの情報やご縁があちこちから集まってきます。

そのためには、そのものへの敬意や畏敬の心が必要です。何かを学ぶというのは、それだけそのものから学ばせてもらうための心の姿勢が大切になります。わかるとかわからないとかという心情ではなく、真心に対して真摯に応えるという真剣さが必要になります。それは深く礼を盡して、純粋で素直、そして謙虚であるかという心の基本が立っているかどうかによります。

自然から学ぶ、自然から聴くというのもまた同様です。

今回の夏至祭もまた、どのようなものであったのか。それを今、辿っていますが太陽の徳を感じています。太陽は、広大無辺に私たちいのちがあるものを遍くすべてに徳を与え続けます。その姿は見返りのないあるがままのものです。

そして夏至は、その太陽の光がもっとも長く、高く、広く、私たちの今いる場所を照らしてくれています。植物たちや木々を英彦山の山中でよく観察していたらこの太陽に徳に報いようと一生懸命に成長しているのを感じます。成長するというのは、この果てしなく広大な太陽の恩徳をいただいているからだと気づきます。

一年に一度、私たちは徳の存在に気づくことがこのお祭りの本質であり、そしてその徳を一年、そして一生忘れないで暮らしていこうとする意識こそ太陽を拝む生き方なのかもしれません。カラスもまた、太陽の使いや太陽に住む鳥ともいわれます。英彦山には烏尾観音や烏天狗の伝承もあります。太陽と深く結ばれ、太陽に祈る文化があったように私は思います。

当たり前に気付ける感性、もともとある存在をいつも感じる感性は、徳を磨く中にこそあります。今の時代は変人だと思われるかもしれませんが、太古のむかしからつながっている物語を今の時代も変わらずに実践し、子孫たちへ徳の宝を結んでいきたいと思います。

天命を歩む

天命というものがあります。天命を感じるのはどういうときか。それは誰かの評価や価値観などを気にせずに、与えられた場所で自分の本当に好きなことに出会いその喜びを深く味わっているときに感じられるように思います。理由などなく、すべてをお任せして委ねている喜び。そして心がいっぱいにその今に充たされていきます。

なぜその光景が観たかったのか、なぜその景色に出会えると確信していたのか、あとになって考えてみると「そうしたかった」だけです。理由などは後付けですし、困難や不安や恐怖などは感じていてもどこ吹く風のように流れていくだけ。やっている最中には、ただ偉大な存在と一緒一体なっているという感覚。周囲の嫉妬や批判、差別やプレッシャーもそんな時に当てられてしまいますが、純度の極みのようなその状態に誰も止めることはできません。

そもそもさらによく考えてみると、子どもというのは本来はそういう存在ではないかと思います。子ども心に純粋にやりたいと思ったことを、そのまま思いきりやらせてあげること。それは天の命に素直であることです。そのやりたいことは、完璧にはできなくても今の時代ならこういうやり方があると環境を調えたり、周囲のことを考えて喜びになるのならこうやったらいいと仕組みを整えたりと、色々と大人は工夫するのです。

やってはいけないとそれぞれの天命を尊重しなくなったのなら、人間はその瞬間に仕合せを感じられず人間らしさを失っていくように思います。ある意味で、先人たちの声や子孫たちへと遺してくださった生きざまや言葉もまた天命を生きることの大切さを忘れないようにと伝承してきたものです。

子孫たちはその姿から未来を安心し、魂を発揮させて一度きりの地球の楽園での生を全うしたのでしょう。天命に生きる人はそれだけ仕合せですが、同時に周囲にも本来の仕合せを甦生していきます。

私は私の天命を歩んでいきたいと思います。

祈りの喜び

昨日は、英彦山にある烏尾観音堂のお手入れと甦生を遺志を持つ方々のご家族と一緒に行うことができました。法蓮上人が観音霊場をはじめたとされるとても大切な場所で、この場所を守り遺そうとする方々の想いに触れることができました。

場所というのは、単なるplaceではなく、そこには今も生き続けている歴史がある場です。場というのは、想いが宿る場のことです。何百年と連綿と続けられ人が祈り続けていた場所には人々の想いが生き続けています。最近、場の量子論をはじめ量子力学の解明によって場は空であるけれど空ではないということ。つまり中庸として目に見える物質的なものと、目にはみえない不思議なものが共に存在することが観えてきています。

今の時代は、物質文明で物質主義ですから目には見えないものは怪しいと思われます。しかし、本来、空気も気体も、風も光もよくよく科学で観察したら目に見えないものの集合体であることは誰でもわかります。むかしの人たちは、その目には見えないけれど、五感や六感で直感的にその存在を感じとる感性を研ぎ澄ませていたように思います。

その一つが、祈りというものです。

祈りに触れるためには、自分をまず清浄にしていく必要があります。その清浄になるには、色々な澱みや穢れを洗い流す必要があります。つまりは、自分の心や目が何か清浄であるか、何が透明であるかを感じる感性を研ぎ澄ます必要があります。そのために、人は己を磨き、場を磨き、志を磨き合うような関係によって場を調えるのです。

場を調えれば、自然に目には見えないけれどそこに生き続けている何かに触れることができます。昨日も、みんなで徹底して掃除をしお堂を磨き、清らかに無心に没頭することによって瞑想のような心地で磨き合いました。磨き合うことで、心は研ぎ澄まされ、晴れやかで清らかな気持ちになって喜びを分かち合いました。

本来、私たちは嬉しい仕合せ、楽しい感謝しますという心地のときに祈る喜びを感じるものです。祈りというのは、つらいことや悲しいこと、大変なときだけにするものではなく、日頃の喜びを味わうように行うものです。

偶像崇拝のように形ばかりを祈るのではなく、自分の心の中にある真の喜びに触れる祈りがこれからの時代には必要になってくると確信しています。子どもたちに伝承が結ばれ、子孫たちが喜びに生きられるように丁寧な暮らしと甦生を続けていきたいと思います。

天地自然の学問

早朝から鳥の鳴き声が聞こえてきます。鳥はなぜ鳴くのか、それぞれに縄張りを知らせるからや雌への求愛からなど一般的に言われています。私たちはほかの生き物を認識するとき、人間が特別で別の生き物は別のもののような認識をします。

しかし実際には、目もあり耳もありそして手足もあります。共通するところをよく観察すると似ているところがとても多いことに気づきます。違いばかりを探すよりも、似ているところを観察すると自分というものと同じところがあることを認識します。すると次第に、その生物のことを深く感得していくことができるように思います。

そもそも多様性というものは、尊重するために必要な言葉です。生物も何らかの天性や個性があり、固有の意識や魂もあります。それぞれに意味があって生まれてきて、この自然界の中で大切な役割を果たしていきます。それを尊重しようとするのが多様性を理解する本質だと思います。

鳥もまた、季節ごとに活動していますが自然の役割があります。その役割をよく観察するとき、豊かに生きることや仕合せであることなどが共通していることに気づきます。

鳥が鳴くのは、私の感覚では感情があるからです。単なる合図だけで鳴いているのでもなく、対話をするだけではなく、私たちが自然に感情がこみあげてくるように鳥にも同じように感情が湧きます。私は烏骨鶏を長いこと飼育していますが、その日その日の感情で鳴き声が微妙に異なっているのがわかります。悲しいときには悲しい鳴き声を発し、怖がっているときには怖がっている鳴き声を発する。自分の感情を鳴き声で伝えているのです。

私たちの体は感情を伝えるように機能が発達しています。例えば、目というもの。目は口ほどにものをいうともいわれますが目は自分の感情をそのままに現わします。鳥もまた同じく、苦しそうな時には苦しそうに目が表情を映します。楽しそうなとき、うれしそうなときも同じように表情が出てきます。

そしてこれは鳥に限りません、犬にも猫にも同じことがいえますしもっといえば、虫や植物にも同じことが言えます。つまりこの「感情」というものは、この地球のすべてのいのちに宿っている共通のものということです。

私たちは変に勉強しているうちに細部がわかっても全体がわからなくなっていきました。本来は、自分と同一であるということを忘れて人間だけが特別かのように勘違いしていきました。ここから学問は崩れ、専門家たちのものになり本来の天地自然を尊敬し尊重するという意識が薄れてきたように思います。

本物の学問は、天地自然を相手にするものだと私は思います。古来の普遍的な大道を生きた先達たちような生き方をこれから結んでいきたいと思います。

暮らしの甦生

人は真理というものを外に求めていく人と内なるものに求めていく人がいます。それぞれに外にも内にも見出せるのかもしれませんが、そのアプローチが人によって異なるものです。実際には外側にあるものを信じさせるようなことが多いと、偶像崇拝のようになって形式的なものになっていきます。本来は、形にこだわるよりも中身だということがわかっていても中身がわからないからより外側にまた推し進めていくように思います。

形にこだわりすぎると中身が薄くなっていき、中身にこだわりすぎると形がなくなっていくということは往々にして行われていくことのように思います。それではどうしたらその両輪、総合的にバランスよく行われるかといえばその中庸というか中心の実践によるものだと私は思います。

例えば、自然というものがわかりやすいものです。自然というものは形もありますが中身もあり真理もあります。私たちが自然に沿って自然と一体になって暮らしていると、何が自然で何が不自然かということがわかってきます。旬なものは旬なものしかないし、変化し続けて変わらないものはありません。人工的な生活をしていたら、不便なことばかりですがそれは中身と形が不自然になっていた証拠に気づかせてくれます。

空調がなければ、自分の体の方をコントロールするしかありません。その時、呼吸をはじめ心身を調えることに意識を向ければ真理というものが自己の内面に具わっていることに気づきます。ヨガなどをするとそれを感じられるのも同様のことのように思います。また自然農で畑をすると、自然の植物や生き物たちがどのように生育して活動するのかで外側との共生や調和に真理が顕現します。自分もその生命圏の一部として営みを共にしていくなかで真理と一体化していきます。

この真理という言葉は、宇宙や自然の道理とも言えます。別に教科書や文字で真理を理解しなくても、山にいき一日、山で暮らしてみれば自然にその道理や調和を学べるものです。

私たちは知識によって真理を得る方ばかりを優先してきましたが、そのせいで当たり前の徳の存在や、自分に与えられている様々な知恵を忘れてしまっています。そういうものを思い出すことは、これからの時代を生きていく子孫への偉大な伝承になっていくように思います。

時代が変わっても、普遍的な真理をどうそのままに継承するのか。そこに私は、暮らしフルネスの役割があるように感じています。本来の先人から伝承されてきた本物の暮らしは、実践するほどに自然に内外と結ばれ真理と調和していくからです。

暮らしを甦生して、本物を伝承していきたいと思います。

暮らしフルネスの体験

楽観的な意識というのは、足るを知る心と通じているものです。私たちはすでにあるものに感謝しているとき、充たされています。一つの型としての暮らしフルネスはその意識の実践ともいえます。

どのような状況であっても、すでにある方に常に感謝を忘れていない。いただいているすべてに感謝できているというのは、常に今を楽しく味わっているということになります。これが楽観的であるということです。

おかしく聞こえるかもしれませんが、不安や迷いや心配、悲しみも苦しみもそして怒りも、本来は味わえるものです。どのような気持ちを今、自分が感じているのかということを味わえるというのはそこに感謝があります。

感謝というのは、何かしてもらったり、得られたりするときにするもののようになっていますが実際にはすでにあるもの、具わっているもの、その徳に対して行うものです。

例えば、味わえるというのは体がなければ体験できません。そして感じられる環境、宇宙や自然がなければその場もありません。さらに物語というのは関係性やご縁が結ばれていなければつながりません。これらは自分で創ったのではなく、最初からあるものをいただいているのです。

こういう初めから存在する徳に感謝している状態こそが、私たちが仕合せを感じている根源ということになります。そしてその徳に報いるというのは何か、それは感謝して前に一歩進めて道を歩んでいくということです。

前向きというのは、楽観と意味が同じようにいわれますがこれもまた感謝の別の顕現したものです。

暮らしというのは、そういう意味ではその徳がすべて具わったものです。この意識や感覚を私と一緒に体験するというのが暮らしフルネスの体験の意味でもあります。それは頭や知識では教えられませんから、体験するしかありません。しかし人生の大切な節目や、本来の自分の魂や天命を見失っているときなどは非常に得難い邂逅になります。

日々の過ごし方のなかで、どのような学びをするのかはその人次第ですが誰と一緒にやるのかというのはまさに徳が結ばれているからでしょう。子どもたちの今と未来のため、子孫の仕合せのためにこれからも味わい深い暮らしフルネスを楽しんでいきたいと思います。