子どもが憧れる生き方

先日、地上でもっとも偉大なショーマンと呼ばれた実在の興行師を演じたミュージカル映画「グレーテストヒューマン」を観る機会がありました。この映画は、差別や偏見のトラウマに打ち克ち、人間の本当の仕合せとは何かを見出していく映画だったように思います。

私が特に映画の中で感動したのは、それぞれが仲間を得て誇りを持ち自分らしくいることを大切に生きるようになった人たちの姿でした。その証拠に映画の後半に一緒に働いてきたパートナーが「あなたのせいで全てを失ったが、愛と友情と誇りを持てる仕事を手に入れた」という言葉が出てきます。

この全て失ったというのは、権力や地位や名誉や富のことです。それらを手放して新たに手に入ったものが愛と友情と誇りをもてる仕事であったのです。それは決して金銭で買えるものではなく、生き方を換えることによって得られることです。

世の中には、大多数の人たちが持っている価値観があります。これを常識とも言えます。皆と同じようなものを手に入れて自分もそれを持つことを保守ともいい、少数派になることを革新だとも言えます。

私はかつてこの映画のように、みんなと同じようなものを手に入れたいと世間の評価に従い自分をその場所へと運んでいきました。しかしある時、自分の人生に素直になりたいと決意し、世間の評価からは程遠く、オリジナルで絶対的少数の方へと生き方の舵をきりました。

その御蔭で私も、愛と友情と誇りをもてる仕事に巡り会うことができ今があります。

人生は一度しかなく、自分というものは一人しかありません。自分らしく生きることは、自分自身の今を最善であると肯定し、自分のあるがままであることに誇りをもって生きていくことです。

周りから何と言われようが、他人からどう評価されようが、本人が仕合せを噛み締めながら自分らしく生きられればそれで世界も幸福になっていくのです。それが自然であり、自然界のようにすべての生命は有機的に繋がっているからこそ自分がもっとも自分の天命に従いその天命を遣り切っていけば周囲のお役に立てるのです。

そして金子みすゞさんの蜂と神様の詩にあるように、どんなに小さな存在であっても神様の内にあるのだから、幸福を見せびらかす必要もなく、むしろ自分らしくいることの仕合せを味わって生きていけばいいだけなのです。

私は子ども第一義の仕事に誇りを持っていますが、これは自分の中にある子ども心に正直に誠実に生きていくことで子どもが憧れる存在になりたいと思っています。それはひょっとすると世間ではおかしな人と笑われたり、変人や狂人だと罵られたり、気持ち悪がられたり差別されたりするかもしれません。

しかしせっかく生まれてきたこのたった一つのいのちの花を、自分なりに咲かせたいと願うのは子どもの夢ではないかとも思うのです。子どもたちに寄り添う見守る仕事をするからこそ、私自身は自分の子どもに嘘がない生き方をしていきたいと思います。

引き続き、愛と友情と誇りをもって初心伝承に邁進していきたいと思います。

むかしの保育

昨日、かつて廻船問屋だった家を修繕し保育園にしている施設を見学させていただくご縁がありました。江戸末期に建てられた家が、今も息づき子どもたちを見守り育てている様子にただただ感動をしました。

昔、大きな蔵があったところは今ではたくさんの乳児たちがお昼寝中でしたが、上品な階段箪笥で二階にあがれば嫁入り道具が入っていた長持がいくつもそのままにありました。確かに家が今でも生きて、子どもたちを見守っている存在を感じ懐かしく有難い気持ちになりました。

こういう古民家を遺そうというのは今の時代では大変難しいことで、新築を建て直した方が安くできるし簡単で維持をしていくことや修繕していく方が何倍も何十倍も苦労をします。それでも大切に敢えて修繕を続ける理由を前園長先生にお聴きすると、「ご先祖様が遺してくださったものだからそれを大切にしたいだけです。」と仰っている姿に日本人の文化と精神、生き方を改めて感じることができました。

このように昔からあるものをいのち永く使われた中で保育されることが、子どもたちの未来にどのような影響があるだろうと思うとこの保育園の存在自体が大変貴重であることが分かります。「もったいない」ということを口先で教えるのではなく、まさに今の大人たちの生き方や家の体現する姿で教えずにして教えていると実感するからです。

見守る保育を提案する新宿せいが保育園の藤森平司園長が主催する臥竜塾ブログに、「家こそがルーツ」という記事があります。この記事にある通りまさに日本のルーツを持っている物語に溢れた保育園に直に出会った気がして、魂が揺さぶられ心和やかで豊かな気持ちになりました。

その保育理念も「遊べる子ども」を目指し、世界一楽しい保育園にしたいと語っておられ、見守る保育の実践に取り組んでおられました。

私たちが定義している保育は道であり、道は生き方のことです。

日々にどのような生き方をするかは、かつてからどのような生き方をしてきたかを伝承していくことでもあります。道は永遠に繋がってこの今を創造し続けるむかしから貫かれた生き方がこの今に伝道し人々がその道に感化され歩いていく人が一人またひとりと増えていくことでその大道が踏み固められていきます。日本人とはそうやって出来上がってきたのです。

古街道沿いにあるこの保育園が風土の中で子どもと道を見守り続けているのを感じ、家の持つた日本の佇まいを観ました。私はこの出会いに大いに背中を押され、偉大な勇気をたくさんいただいた気がします。

私が取り組んでいる古民家甦生もまた、日本人の道の甦生を志すものです。子どもたちのいのちの根を日本文化という地下水脈から吸い上げていけるように、「むかし」からある大切なものをいつまでも守り続けそれを譲り渡していくことに使命を感じます。

今では新しいものばかりが価値があり便利なものや流行の情報ばかりに目を向けている環境に溢れています。しかしこうかって「むかし」のものに思いを向けて観ると如何に自分たちの今がどの方向からやってきてこれからどの方向に向かっていけばいいかを省みる機会になります。

過去はまさに未来から訪れるものであり、この今はそのつながりの中で次に譲り渡していく今であるのは明白です。それを伝統の日本の家が見守っている中で行える保育はまさに私の理想のするところです。

子ども第一義の理念を通して古民家甦生の本質を学び直しつつ、子どもたちが安心して暮らしていける社會にしていけるよう社業や使命に専念していきたいと思います。

 

自然の導き

昨日は私の誕生日でしたが、家族をはじめ親戚も集まり花見をしながら一緒にお祝いをしてくれました。家の前にある鳥羽公園は、その池の周りに数十本の桜が植えられ満開で風が吹くとひらひらと花びらが舞っています。満月の下、水面に映りこむ夜桜の美しさは幻想的で時を忘れるほどでした。

振り返ってみると、私の人生は何かに導かれるように次はこれ、次はこれと一つ一つのご縁を真っ直ぐに深めたらまた新たなテーマをいただき結ばれ今になっているように思います。

先のことをそんなに思い煩わなくても、過去のことにいつまでもしがみ付かなくても今だけを観て、今だけに生きることで自然に道が開けていきました。時折、今から離れては後悔したり臆病になったりして導かれている安心感よりも思い通りにいかない不安に負けてしまうこともありました。しかしそんな時、いつも私の背中を押してくれたのは「導き」であったと確信することができます。

この導きは一体どこから来るのか、それはご縁から訪れます。誰といつ出会い、どんなことを感じるのか、その豊かさの中に自分の種から芽が出てその芽が育ち実をつけます。そして円熟したら次の種になるという具合です。

こうやって一つ一つのご縁を育てていたら次の導きが入ってくるのです。

そう考えてみると、私たちは自然の存在として周りの生き物たちと同様に自然と一体になってめぐりの中で生き死にを繰り返しながら自然の導きによって暮らしをしながら生を謳歌していきます。

この世に生きている以上、道理として自然に逆らうことはできず私たちは自然と共に生きて活かされています。導きに生きることは自然なことであり、利己的に生きることは不自然であるのはわかります。自然の生命はみんな自然の導きという絶対安心の境地の中で楽しく仕合せに豊かに生きることがゆるされているのです。

誕生してから今まで私はどのような「導き」があったか、そしてこれからどのような「導き」があるのか、選ばない人生を選択しただけで心はいつも平安無事です。自然の流れや導きに身を任せることが、自分の身を浮かばせて悠久のめぐりに入る方法です。私が研ぎ澄まされた清浄な「直観」を信じるのもまた、その導きを私の利己心で穢したくないからに他なりません。日々に己に克つ理由は、天から与えられた使命、その本物の人生を送りたいからです。

引き続き、この先どのような導きをいただき、また四季のめぐりを残りあと何回体験させていただけるのかわかりませんが常に謙虚に素直に学びを深く味わいながら一期一会の暮らしを感謝と共に歩んでいきたいと思います。

ありがとうございました。

無ではない

昨日は、福岡にある自然農の畑で無事に今年の分の妙見高菜が収穫することができました。大きく葉をつけて成長して、イキイキとした高菜の姿を観ていたら感謝の心で満たされました。

種を蒔いてからいつものように新芽が食べられもうダメかと思うほどに枯らされそうでしたがそこから追加で種を蒔き、さらには枯草を丁寧にかけ、何度も足を運び応援の声をかけ、青虫を手で一つ一つ取り除いてきたことを思い出します。また生き残った高菜を別の場所に移植するのは仲間たちにも支援してもらいました。みんなで育つといいねと最善を盡して祈ったことに応えてくれたようにも思います。

こうやって妙見高菜とのめぐりをじっくりと振り返っていると様々な苦労が報われる瞬間が訪れます。苦労こそ仕合せの種であり、苦労こそが感謝の源泉であることを感じます。手で触り無事に成長している姿を観ては育ってくれたこと、よくぞ自然の中でしっかりと逞しく成長したことを誇りに思うのです。この気持ち、ミマモルということは信じることを優先するということです。信じるというのは、自然を丸ごと信じ、どんな結果になっても最善を盡しては受け容れてそこから学び仕合せに転じ続けていくということです。

活きた学問は常に人の仕合せの道なのです。

また年々歳月繰り替えして実践してきた畑が、しっかりとその育つ環境を醸成してくれているのを感じます。他の野菜や生き物たちもみんな活き活きと育ち、無肥料無農薬で数十年経った今も、他の野菜に見劣りなくとても元気に大きく成長してくれます。見た目の大きさだけではなく、内容もびっしりと詰まったものは一朝一夕にはできません。このように人間もまた、会社もまた同様に、自然を信じ続けていくことでその人も育ち、環境も醸成されていきます。

私が会社経営をはじめて17年目に入りますが、それぞれが自分の居場所を見つけて育ってくれているのを観ると安心します。そして会社という畑を耕し続けて環境が整ってきているのを実感し、その畑で豊かに楽しく農や暮らしを実践できる歓びを味わっています。

「何のためにこれをやるのか」というのがはっきりしている人は、ブレることがありません。世間の常識や、世間の風潮、流行などはあまり影響もなく、初心を貫くことだけに真摯に誠実に生き切っていきます。その中で、様々なご縁があり一期一会の今があり、来たものを選ばずにすべて天の声であると受け取って無為自然に感応する好奇心を頼りに生きていきます。

しかしその自分は無ではない。

今までの長い歴史の中で活かされている自分、自然の中にあって活かされる自分、様々なご縁によって導かれている自分と同居しているのです。

禅語で私が好きな言葉に「無一物中無尽蔵」という言葉があります。私の解釈ですが同様の意味に「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉もありますが、自分に執着をせず初心に生きていくことが自分の魂の声に従うということでしょう。

初心に生きることができにくいこの時代、しかし生き方は自分で決めることができる。子どもたちにもそのお手本を一つでも譲っていけるように引き続き、信念に従い実地実行にニコニコ顔で命懸けで取り組んでいきたいと思います。

 

ゆるし

今年は「ゆるし」をテーマに、様々なことを深めていますがとても奥深く発見することばかりです。よく考えてみればみるほど、私たちはゆるされている存在として今があることに気づきます。周囲に助けてもらわなければ生きてはいけない存在だからこそ自分がゆるされていることを感じるからです。

例えば、私たちは重力という恩恵を受けています。重力がなければ立ったり座ったり、運動することができません。そして空気という恩恵もあります。空気がなければ呼吸できませんから生きていくこともできません。そして太陽に水の恩恵、あらゆる恩恵を受けて私たちはゆるされてこの世に存在することができているのです。

このゆるされて存在するというのは、一人では生きていけないということでもあります。ここでのゆるすは、相対的に許す許さないで使われるときのゆるすではありません。本来のゆるすは、「恕す」ですから思いやりによって活かされているという意味です。

思いやりの中で存在しているのだから、少し損をして生きるのは当たり前のことだとも言えます。それを実践していくことを古語には陰徳とも言います。陰徳は、活かされていることを実感し活かされていることへの感謝に生きることを言うのかもしれません。

私たちはどうしても自分勝手にするあまり、自分がゆるされてもいいと周囲に押し付けようとするものです。しかし謙虚に自分がゆるされていることを感じていれば、自ずから与えてもらっている偉大な恩恵を実感し感謝の気持ちでゆるされていることに気づけるようにも思います。

当たり前に与えていただいている恩恵こそが「ゆるし」そのものの存在であり、謙虚にその恩恵に感謝するとき自分がいつも見守られ非常に多くのものに活かされ助けられていることを思うとき「ゆるされている」と感じるのです。

私の好きな言葉に「信じて聴く、ゆるされて聴く」という言葉があります。これは親鸞上人がノートのメモに書き残したものを偶然見つけたところの文章です。私はこの文章がとても好きで、聴福人の根底の理念にはいつもこの言葉が座右として存在しています。

引き続きゆるしを深めながら、子どもたちの今と向き合っていきたいと思います。

自己との対話

他人の成功ばかりを羨んで生きていたら自分の本当の価値には気づけないものです。自分の価値が何であるかを自ら気づくことは、自分のたった一度の人生を充実するためには必要なことです。それを歪めてしまうのは、自己との対話が少ないからのように思います。

自己との対話とは、自分の心の対話ということで自分がどうしたいのか、何を求めているのかを静かに考えて対話をする時間を持つということです。そしてそのうえで必ず思い出すのが「初心」ともいいます。

しかしこの初心は誰かと比較し自分がその誰かになろうとして承認欲求ばかりが強くなればすぐに忘れられてしまいます。自分が求める欲望に従い、周囲に認められたい自分を演じることで忙しくなるからです。

心が安らがなくなれば人は心を亡くします。忙しいという状態は初心を忘れている状態であり、穏やかで少し薄暗い中で目を半分閉じて瞑想している状態ではなく、明るく眩しい光の中で目を見開いている状態です。心の目で観ることをせず、目に見えるものばかりを見てしまえば心を閉ざしてしまいます。心が閉じないように常に初心を感じ続けることもまた自己との対話とも言えます。

自己との対話を続けることは、本当の自分に気づくためです。人は本当の自分に気づければ、自分自身であることに自信と誇りを持てます。そのように生きている人の周りには、同様にあるがままに自由自在に生きている人たちが集まってきます。それを仲間とも言います。

仲間が増えれば、みんなで仕合せで福世かな社會を創造していくことができるのです。自分を知るというのは、世界の幸福のためには必要なことで自己との対話は何よりも優先する人生のテーマでなければなりません。

今のような情報が氾濫する世の中において子どもたちにはもっとも大切なことを見失わないように御先祖様たちが行ったように仕組みを創造していきたいと思います。

日本の精神文化

日本人には脈々と受け継がれてきた日本の精神文化というものがあります。私たちは当たり前になってしまい思い出しもせずに使っていますが、それは日ごろの様々な暮らしの中で見直していくことができます。

今のような情報化が急速に発達する時代において、如何に情報を取捨選択していくかはこの世代に生きる者たちの責任であり使命であると私は思います。

私が日本文化や日本の精神にこだわるのもまた、今のように情報過多の時代で言葉が氾濫しているからこそ私たちは何を守るのかということからはじめなければならないと思っているからです。

例えば日本語というものには精神文化が色濃く反映されています。「ありがとう」「おかげさま」「おたがいさま」「もったいない」「ごめんなさい」なども日ごろから使っていますがそのどれもが日本の精神文化と深くつながっているものです。

昨年、手掘りで井戸掘りをしたとき6メートルを超えたところで地下水脈に出会いました。そこには膨大な地下水が常に流れています。その水に触れたとき、懐かしさといのちと感じました。また日本に流れ続ける風土の文化を直に感じた瞬間でもあったように思います。

まるで井戸掘りと同様に、伝統や親祖から連綿と続いている歴史の深奥、その地下にはまさに精神文化という水脈がいつまでも流れています。表層は何もないように見えても、掘り下げていけば必ず地下水脈に中ります。それを如何に掘り出していくか、情報の氾濫する川の流れの中でそんな川に翻弄されるのではなくじっくりと悠久を流れる地下水脈に身を委ねられるか、それは今の私たちの生き方にこそ懸かっているともいえるのです。

現代は視野狭窄になり、近々のことだけや自分たちの世代のことしか考えない人たちが増えています。もっと古いものや懐かしいものに触れて、本来の日本人であること、日本の精神を自分たちが受け継いで子どもたちに伝承していくことなど本来の使命に立ち返る必要があると私は思います。

特に子どもの仕事をしていれば、日本の文化伝承は欠かせない一大事であることは少し掘り下げて考えてみれば誰でもわかります。

連綿と流れ続けているものを掘り起こすことは道を拓くことであり、子どもたちに歴史を繋ぐことは未来への希望の懸け橋になります。いのちを懸けられる仕事に出会ったことを仕合せに思います。

引き続き、子ども第一義の理念で生き方を観照していきたいと思います。

待つ文化~自然調和~

私たちの精神文化の根元には「待つ」という考え方があるように思います。なぜなら古いもの懐かしいものに触れていると、自然淘汰というやさしさを感じるからです。この自然淘汰はどこか悪いことのように認識されていますが、本来はそうではなく自然が調和させるという意味で元の姿になるといってもいいかもしれません。

この自然淘汰の意味は辞書では「自然界で、生態的条件や環境などによりよく適合するものは生存を続け、そうでない劣勢のものは自然に滅びていくこと。転じて、長い間には劣悪なものは滅び、優良なものだけが自然に生き残ること」(goo辞書)と記されています。

滅ぶことが自然淘汰という意味になれば印象も悪くなりますが、そうではなく自然調和されるとなると意味も異なります。淘汰の語源は、 「淘」は水洗いして選り分けることを意味し、「汰」は勢いよく水を流してすすぐことを意味する。水で洗って選り分けるという意味です。

自然に循環するものは、水によって浄化されていくものです。私たちの呼吸する空気の中にも大量の水分があり、水分が洗うことで元の水の状態に戻るために不純物を取り払っていきます。長い時間をかけて水が通ることで私たちは自然調和を取り戻します。

水があるからこそ私たちは生きていくことができ、水があるからこそ私たちは滅びていきます。水が万物生命の根源であることは揺るぎない真実です。日本の国土は、美しく瑞々しい水に包まれています。新鮮な生き物たちが多く、そこには水と共に暮らして順応した生き物ばかりです。私たちは水から学び、水を通して文化を形成してきた生き物です。稲作などは水の文化の代表的なものです。

水は循環してきますから、次にどのようになるかを観察して私たちは水を上手に活かしてどれくらい長持ちさせられるかを考えます。水は扱い方次第でいくらでも調和の技術を活かせます。その最も根幹にあるものは「待つ」ことです。言い換えるのなら「調和を待つ」といってもいいかもしれません。

長い時間をかけて待つことができるのは、水の循環を直観しているからです。水が循環するのを学ぶ人は、地球が「待つ」ことで調和するのを知っています。如何にその「待つ」速度に合わせて調和の中にいるか、先祖はそれを見極めて暮らしを充実していたのでしょう。

天から降る雨をただの水とは思っておらず、地下に流れる水もまたただの水ではない、さらには地球を循環する気化水のこともただの水とは思っていない。私たちのいのちの原点としての水を観ることが日本の文化を学び直す近道になるように私は思います。

引き続き、待つ文化を学び直しながら水を深めていきたいと思います。

道を歩む

人生の中には、選べない道があるように思います。いくら自分が避け続けていてもその道は必ず自分の前に現れてくるものです。一度ならずも二度も三度もその道が現れるのならば運命だと思ってその道を進むことで人は救われることがあるように思います。

実際には、その道があることがわからずその道すら現れない人もいます。前に進むのをやめてしまえば、道は現れずいつまでも停滞を続けていくのです。自分が否定した道や避けてしまった道は、目の前にあっても気づくことがありません。他の道ばかり探していると、結局はその場所をぐるぐるとまわっているだけで通過することができないのです。

人生というのは面白いもので、自分に与えられた道があります。道の良し悪しを選びたくなる気持ちもよくわかりますが、問題は道そのものではなく道をどのように歩いたかの方が本質的に生きることになるのです。

その道を歩まないという選択は、その道を味わうことがないということです。自分の人生の目的地に行くためにはその道は避けては通れないとしたらどうするか。怖くても辛くても苦手でもその道を通る必要が出てきます。

その時、その似たような道を通った人からの助言をもらったり、自分と同じ道を歩む人と一緒に歩いてもらったり、無我夢中になっているうちに勇気が出て歩んでいたり、歩み方はいろいろとありますが歩む必要は誰にしろあるように思います。

人生の旅路は、みんな大変でも目的地に向かってその道を歩んでいきます。その歩む道すがらに仲間がいたり、同志がいたり、パートナーが顕れます。その人たちは自分の代わりに歩いてくれるわけでもなければ、自分が歩かないのでと頼んだりすることができません。

その仲間たちはみんなそれぞれに苦しくても辛くてもその道を歩んでいくなかで、共に励まし合い、声掛けをし、時にはその背中を見せて勇気をくれたりする存在であって自分の代わりにその嫌な道を歩いてもらうことはできないのです。自分から先にその道が嫌だからと歩くのやめれば、道は閉ざされてしまいます。

道を歩むというのは、現実のことであり空想や妄想で誤魔化すことができません。だからこそ、その道を避けるのではなくその道を歩んでみようと敢えて足を踏み入れる勇気を出して前進していくことが人生の仕合せの王道のようにも思います。

その時、見守ってくださる存在があることの有難さはかけがえないものです。

私たちの会社は、道しるべになることを目指していますが道すがらに見守るお地蔵様のように道を歩む子どもたちを見守りたいと思うのです。自分の道を歩む人が次は他人の道を見守れるようになる。

子どもたちのためにも道を守り続けて歩み続けて味わい続けていきたいと思います。

時の流れ

昨日は時の感覚について個人差があることを書きましたが時には同時に遠近によって待つ長さも変わってくるものです。遠大な目的や目標がある人は、時はゆっくりと時間をかけて動いていくものです。それは例えば自然界のように徐々にゆるやかに変化を続けていきます。

地球誕生の45億年といいますが、宇宙などは私たちが想像を超える年数を経て今でも変化を続けています。その時の流れはあまりにもゆるやかで私たち人間からみるとまるで何も変化がないように見えるものです。

しかし実際は、ゆるやかで大きい流れはとても偉大な変化であり目に見えることとは異なり目に見えないところでは想像を超えた変化を続けていることになります。私たちは目に見える変化をみては一喜一憂して迷い悩み、判断ばかりを焦ってしまいますが実際にはこの偉大な変化の方に心の目を向けて観れば流れに任せるしかないという境地に至るのです。

偉大な変化の中で自分に与えられる役割というものは自分の目からはわからないものです。それは自分を超越したものに身を委ねるときに大任を預けられていることを直観するときに天の目というか偉大な変化に任せようという心持ちになります。

どうにもならないことに身を任せながら与えられた今に最善を盡していくという生き方は、まるで変化そのものと一体になった姿です。そうなることで絶対安心を感じられ、安心立命の心を持つこともできるように思います。

しかしそうならないことが多いのは、迷いがあるからです。その迷いは、目先のことに囚われ視野が近くなり遠大でゆるやかな変化を感じることがなくなってくるからです。自我の欲望を捨てることや、執着を忘れることや、自利をゆるすことは迷いを取り払うためには必要です。迷うことで人は心を亡くし、迷いから覚めて素直に反省し心が甦るようにも思います。

素直さというものは丸ごと信じきることで、言い換えれば自分には運があるという物の観方、また時に任せて委ねて信じて歩む生き方ができるということです。時はそういう人の味方になり、時がすべてを解決してくれるようになります。

時の流れというものは、誰にも平等ですからまた時がすべてを司りすべてのご縁を結んでくれるように思います。時を信じきる、時を信じ抜くという実践こそが、見守られていきるという私たち人間の目指す生き方かもしれません。

伝統と伝承を守りながら新たな道を切り拓いていきたいと思います。