存在価値

人間の存在価値に対して、承認欲求というものがあります。これは認められたい、理解されたいという欲求です。他人の評価が気になるのは、人間は自分はどれくらい価値があるのかを計算しているということもあります。

誰にどれくらい理解されているかというのはその人にとっては重要なことであり、承認欲求によってその人の価値が決まります。しかしその人の価値は本来は、他人の評価で決まるわけではありません。

その人の価値は、その存在自体が価値があるのであり誰かの評価は存在とは異なり、自分を主軸にした価値基準ということになります。そう考えてみると、もっとも厄介なのはこの承認欲求であり、真心や至誠を盡すと決めていても相手にとって自分がどういう存在かを確かめ続けていたら気が付くと嫌われたくないや好かれたい、愛されたいという感情によって自分に向いてしまい初心を忘れてしまうこともあるかもしれません。

人間は、結局は自分との修行であり、自己を研鑽して自他一体の境地に入っていくために日々に向き合い魂を磨いていくしかありません。本当の喜びや仕合せは、、評価を超えた存在価値にこそあります。

自分が何の使命があってこの世に生まれてきたのか、そして天は自分に何の用を与えているのかに気づく道でもあります。まさに誰かに何かを理解されていようがいまいが、必ずその人には天から与えられた大切な役割があるのです。

李白に「天、我が材を生ずる、必ず用あり。」があります。

今は、自分が何の価値があるのかを分からなくても誰に与えられなくても必ず生きているだけでその意味は必ず存在します。だからこそ生きていればいいのです。この時代、生きていくことは弱さを力にして弱さを絆にしていく必要があります。

人はみんな弱いのだと強さに憧れるのを休め、弱さの本質を受け容れるところにこそ、自分というものを受け容れる鍵があるように思います。

真心や至誠は、天に観照していただき真摯に自己を磨くのみです。

子どもたちのためにも、憧れる世の中に易えるために精進していきたいと思います。

自由縁人

ご縁を辿っていると、絶妙に未来とつながっているものを感じます。今度はそのご縁を遡ってみると、絶妙にそれが創造されていることにも気づきます。未来と過去というものをご縁を中心に観直すと面白いことが分かります。

時というものを無視してみれば、その交差する点の中に私たちが2つの側面で生きているのを感じるからです。それはワクワクして色々なことを感じたいと感情が味わうための目的、そしてしみじみと真理を悟りたいと心が味わうための目的。それが絶妙に相調和しているのです。

私たちが今に集中するといいというのは、その両方を実感することができることによって人生の妙味を実感することができるからです。

私たちの人生は、先に決められたことのように感じるのは心があるからです。そしてどうにでも変えられると感じるのは感情があるからです。心と感情が整ってくると、私たちは子どもの心のように自由であり自分であることに仕合せを感じます。

あるがままの自然と一体になっている喜びを知り、それを客観的に理解している喜びも知れます。歴史を振り返れば、この真理に気づき、真理を遊ぶところに人間の醍醐味があるようにも感じます。

生き方として運のいい人という人がいます。

偉大な何かに流されながらもそれを深く味わって楽しんでいる。行雲流水というのでしょうか。いのちの時を生きる人たちのことです。一度しかない人生の中で、今を深く味わい今に生ききる人は、心も感情も自由自在に自己合一しています。

限られた体で、限られた時間で、永遠の魂と、無限の時空を往来する旅人のような存在です。

子どもたちには、この世で迷うことがあってもまた道に出会えるように先人たちと同様に融通無碍を歩んでいきたいと思います。

煤払い

昨日は、東京のカグヤライトハウスで煤払いを行いました。煤払いといえば、一般的には煤が出るような竈のそばやおくどさんの周囲をイメージしますが東京では火を使っておらず排気ガスの煤くらいなものです。

今回の煤払いはそういった物的な煤払いではなく、心的な煤払いということでクルーが提案してくれたものです。それぞれに、心の煤もまた同時に溜まっていきますからその煤を払おうということでみんなで煤を出しながら清掃していきました。昨日は、煤が結構溜まっているなということはわかったようですが清掃をここから丁寧に行っていきます。

どのように清掃するのかはこれからですが、むかしの人たちは若い衆や元気な人たちがこぞって煤払いをしてそのあとは打ち上げのように楽しんでいたようです。そして子どもや病気の人はあまり煤をあびないように奥の部屋や小部屋に隔離して行ったそうです。そして江戸では、煤払いが終われば乾杯して主人を胴上げしたところもあったようです。これは楽しそうな習わしです。

この胴上げというのは、地面から体が浮かび上がった状態を「非日常で神聖」、手で支えられた時を「日常」として表現し、この二つの世界を行き来するのを「胴上げ」という形で表したものだといいます。江戸時代、神事である奉納相撲において、当時の最高位であった大関を「胴上げ」する習慣がありましたが、それがいつのまにか祝福の儀式となり、広く浸透していったそうです。

おめでたいという時に、みんなでそれを事前に予祝する。日本人の福を待つ大らかさを煤払いでも感じます。歳神さまがここからは来てもらえるように、玄関に門松を用意し、場を清め、床の間に御鎮座いただくようにお餅を用意します。

一年の穢れを祓うというのは、ある意味でその人の苦労を労うことです。無理に何かをするのではなく、大変だったということをみんなで労うことで心は清め洗われるのかもしれません。

そしてこの一年の煤をもっとも受けた人に感謝するのかもしれません。煤が出るというのは、それだけその道具も使われたということであり正月はその道具に休んでもらうように労います。ここに私は日本人の優しさや思いやりを感じるのです。

私も多くのハタラキをいただいた一年ですから、周囲に思いやりと優しさを忘れないように煤払いをしたいと思います。

 

自由に磨く

時代の変わり目には、様々な今までの価値観や固定概念が通用しなくなり新しい常識が誕生します。一年前まではマスクは、花粉症やインフルエンザの流行の時期の風物詩のようでしたが今ではマナーとして当然に身に着けています。

他にも、テレワークや在宅勤務などと言われていてそれが特別だったことが今では当たり前になってきています。他にも、色々とありますが以前とは変わってしまっている世界に生きているということです。

これは別にコロナだけではありません、この世にはじめてインターネットが誕生し広がればそれ以前ではないし、核爆弾が発明されたらそれ以前ではなくなります。人類はこうやって時代の影響を受けては、それまでの常識と思い込んでいた社会を刷新し続けてきたのです。

人間は現実的には、自然とは別に人間のみの常識の中で安心しようとします。不安を解消するために、あれやこれやと不安にならない便利なものばかりを追い求めていきます。大きな意味では、危機感からのものですがそれが本末転倒していることもたくさんあります。

例えば、核兵器をつくれば今度は核兵器が使われるのではないかという不安が来ます。ワクチンを開発したらそのワクチンが効かないウイルスが出てくるのではないかという不安が来ます。いたちごっこのようにいつまでも、その不安を解消するために永遠に同じことを繰り返しています。

むかしの人たちは、不安を解消するのではなく自由に生きることを目指していました。自然と調和する生き方というのは、これも自然であると丸ごと受け容れる生き方です。制限のある中での自由、自然の中で許されている範囲の人間社會を謙虚に生きていたように思うのです。

その理由に、里山の循環の仕組みや、日本的な和の暮らしを体験すればその意味が理解できていきます。心が穏やかで和やかに生きていくために、固定概念に縛られず自由に生きた先祖たちの生きざまに感動するのです。

この時代は、知識や思考が何よりも優先されることが多いように思います。そこから正義やルールや評価からあまりにも緻密に膨大に囲われており生きづらさを感じることも増えているように思います。自分らしく生きるためには、何かに没頭するものが必要なのかもしれません。自分自身に没頭するようなことを通して、如何に自己の中にある恒常性を疑い、本来の自然調和の中に実践をするのか。

子どもが子どもらしくいられるというのまた、常に新しい常識ばかりを生きようと心のままでいることを肯定されているからです。成熟していく社會のなかで、子どものように生きる人たちが否定されれば常識がますます固着していきます。子どもたちが憧れる社會を目指して、心地よい常識を自由に磨いていきたいと思います。

無念無想の暮らし

先日、北海道からきてくれた友人と一緒に祐徳大湯殿の原点サウナを楽しみました。サ道の話で盛り上がり、この時代に必要な豊かさやゆとりの時間などについても語り合いました。

この方は、御実家が茶の湯のたしなみがあったようでお母さんの背中に茶の心のようなものを見てきたことがあったようです。私がこの原点サウナに5時間以上をかけてじっくりと炭火をいれて整えた話でまるで茶道のようだと感心してくれました。

また昨日、来られた方からは「一人ひとり、一件一件に真心を籠めて取り組まれている姿に自分の価値観も換えられました」と話をいただきました。1年半ほどのお付き合いになりますが、数字や時間のことなどは気にせず、ひたすら目の前の人にいつものように今を大切に取り組んでいるという印象だったようです。

今に心を籠めると書いて「念」といいます。

本当の念とは何か、それは無念無想のことだと私は思います。この時代でシンプルに言うと、何も考えないで今を味わうといっていいかもしれません。もしくは、ただ心のままに実践を続けるといってもいいかもしれません。

私にとっては無我の境地というものは、別に自我を捨てようとすることでもなく、中庸のようにバランスを保った状態であることなどではありません。自分の使命に熱中することや、ご縁を大切に一期一会を味わい盡すような中にこそ存在しているように思っています。

時代的によく呟かれる今を生ききるという言葉はきっと、心を籠めていきていくということでしょう。心を見失い、心が荒廃してきているからこそ、そういう生き方が憧れられるのかもしれません。

心は悠久であり、永遠のままです。

心を友として、心のままに歩んでいくとき、心は今にしか棲んでいないことに気づくものです。これからまもなく完成する徳積堂で茶の道にも入りますが、磨き澄み切った茶の湯に心を投影し月の雫のような深い味わいに挑戦していきたいと思います。

ぬくもりの灯~場徳の祈り~

私が徳積財団を立ち上げた理由は、子どもたちのためです。子どもたちとは、未来の子孫のことであり先祖たちが私たちのために遺してくださったものを更に磨いて後世のものたちにバトンを渡すためです。

私たちの肉体は滅びますが、精神や魂は永遠に生き続けています。その証拠に、私たちは何千年も何億年も前からこの地球と共に生きてきたという事実があり、この宇宙で宇宙を感じて歩み続けてきている道を感じることができます。

現在は、物質文明に偏り過ぎていて心の荒廃が進んでいますが私たちは心を磨かなければ仕合せにはなれませんから必ず目が覚めて新たな時代を拓いていくことになると思います。

そのためにも、私たちは先人が守り続けてきたぬくもりの灯に炭をくべてその火を絶やさないように火を吹いていく必要があります。この吹くという行為は、福という行為でもあり、磨くという行為です。

先日、中村哲さんという医師がアフガニスタンで亡くなりました。この方は、大医であり、病を治すだけでなく人を治し、国を治しました。まさに二宮尊徳と同様の実践をされた方です。治水を学び、多くの人たちに水を飲めるように尽力しました。そしてこの方はそれを私はただ水やりをしただけだと言っていたといいます。

私も二宮尊徳の「報徳」思想に大きな影響を受け、この時代にもっとも必要なのは一人ひとりが目覚め、各々の使命で徳を積むことだと信じています。この徳積みと何か、私にとっての徳積みとは、「たた磨くのみ」であり、囲炉裏に炭をくべただけだと言うと思います。

この世の心の荒廃は、心を澄まし清め整えることで癒されます。そしてそれは、日々の暮らしの中で生き方を磨くことによって実現します。それが暮らしフルネスです。

徳積活動をするには、私一人だけでなく大勢いの仲間たちが必要です。仲間と磨くと、その光は太陽の如く天照らし、月の如く闇を清浄に満たすことができるからです。

古今の先達が必ず遺す言葉、それは「一灯照隅」です。

徳を共にし、共に磨く同志たち、徳積堂の炭のぬくもりに集まり、法螺貝を響かせ、この世に調和の豊かさを一緒に実現していきましょう。

物は語る

今は、大量生産大量消費の価値観が当たり前の世の中ですから物をただの物(いのちのない存在)としてすぐに使ったら捨てていきます。リサイクルなども、まだ使えるからと再生しますが物であることには変わりません。

むかしは、物にも心が宿っていると知っており物のように扱わずにそこには心があると信じていました。つまり物もすべて生き物であると信じられていたのです。生きているからこそ、関心を持ち磨き手入れをして大切にしてきました。

大切にされた物は、心が通じ合いますからお互いに無言の対話を続けていきます。そして何かのご縁から結ばれ、偶然の物語が生まれます。そうやってお互いのいのちが輝き、生きていることの豊かさを共有し共感しあってこの世を彩るのです。

物が溢れてしまうことは、ある意味で贅沢なことのように思えますがその分、機会が減ってしまうこともあります。以前、大阪の藤井寺で尊敬する室礼のメンターにお会いすることがありましたが、そこは本当にすべての場所に丁寧に物が置かれ、場がイキイキとしているのを感じたことがあります。

あれだけの物をすべて丁寧に配置する配慮の仕方に、物との接し方を学んだことを思い出しました。その方は、雛人形を毎年お祀りし3000人ほどの人に無料で公開しておられますがお祀りする姿勢にたくさん学ぶことがありました。

私たちは物と接するのにどれくらいお祀りするつもりで関わっているかが問われます。物はただの物ではないと感じられるのは、物に対しての接し方がいのちのあるもの、心があるものと思って暮らしを生きるから観えてくる境地でもあります。

それを単に人間の都合のよい便利な物になれば、不便になればすぐに粗末するのでは物のいのちも見えなくなり、物がゴミのように扱われて捨てられます。都市のいたるところにはゴミ山だらけです。ゴミばかりが毎日、大量に捨てられ便利なものばかりに囲まれて生きることは果たしていのちは仕合せなのか。

子どもたちに譲りの遺していきたい未来のために、今の生き方を見直し、物を手入れし磨き直して大切にしていきたいと思います。

炭の豊かさ

急に寒くなってきて、家は冬支度をととのえています。冬といえば、もっとも重宝するのが炬燵です。現在、西洋建築が中心に建物はたっていますから炬燵の需要は減少しています。

しかし、暖房とは異なる炬燵の暖かさや豊かさは炬燵でしか味わえないものがあります。思い出せば、冬の寒い日に家族がみんな炬燵であったまりながらそれぞれに好きなことをゆったりとして過ごす。時折、みかんやおかし、そしてご飯を食べながらまた団欒する。お互いに場所を分け合いながら、みんなで炬燵に入ってほっこり過ごすところに和の心を感じます。

私の使っている炬燵は、一つは炭団(たどん)といって炭(木炭、竹炭、石炭)の粉末をフノリなどの結着剤と混ぜ団子状に整形し乾燥した燃料を使う炬燵です。櫓炬燵といって、炭団をいれておく陶器があってそこに炭団をいれると8時間くらいはぬくもりが拡がります。まるで温泉にでも入ったかのような温かさで、遠赤外線で炬燵からでても体がポカポカするものです。聴福庵では、冬はいつも2階で過ごしますが居心地がよく穏やかに冬を楽しむことができます。

もう一つはBAある炬燵でここは豆炭を使っています。この豆炭(まめたん)は、石炭や低温コークスや亜炭や無煙炭や木炭などの粉を混ぜ、結着剤とともに豆状に成形した固形燃料のことをいいます。炭団とは異なり、多少の臭いもありますが熱量は強く超機関燃焼します。あんかとしても使うことがありますが、豆炭をサシコマット(ガラスウール)でくるんで燃焼させる燃焼器を櫓の中にいれて使います。うちで使っているのは、通風口の開閉により強弱の調節や使用する豆炭の個数による調節もでき温度調整ができます。

今では電気の炬燵が便利だと思われていますが、火力の強い豆炭を岩綿でくるんで酸素の供給量を調整することで使えるようにするというのはその時代は大発明だったでしょう。

やっぱり電気と異なり、豆炭も遠赤外線で芯から温まり使うと冬がまた格別です。火は、危ない側面もありますが私たちの暮らしをいつも支えてくれている大切な存在です。その火の徳性をよく観察し、それを上手に活かした日本人の智慧には感動と感謝が湧いてきます。

子どもたちに、この暮らしの豊かさを伝承し和の心を育てていきたいと思います。

暮らしの幸福論

先週から、暮らしフルネスの体験をしているピザ職人の人と一緒に一円対話を行う機会がありました。今は遠隔でオンラインとオフラインになりますが、振り返りの機会を設定し初心を忘れない場が持てることは素晴らしいことです。

その振り返りの言葉の中でとても印象深いことを聞かせてくれました。例えば、「毎日、毎日最高の日々を刷新していく」「他人軸ではなくて自分軸でいることを感じられる」「感情も心も整っていく」「ここのどの場所でも居心地が善く自分が解放されてく」「感覚が研ぎ澄まされて毎日が充実していく」など発言を聴くとこちらの方も仕合せな気持ちになっていきます。

私は特に研修をしているような自覚があるわけではなく、ただ一緒に暮らしをしているだけです。しかしこの一緒に暮らしをする中で、自然発生的に勝手に幸福を感じられ、自分自身であることの喜びを感じています。

それはきっと私自身もこの暮らしの中で、自分自身を精いっぱいに生きているからかもしれません。そして同時にこの一緒の中には、物や道具、そして環境などのいのちもまた精いっぱいに自分らしくあるからだと私は思います。

私にとっての暮らしの定義は、このいのちが輝いていることであり、それはお互いに尊重し合いながら豊かに仕合せな今を生きることで精いっぱいの喜び、つまりフルネスを生きる幸福に満たされるということなのです。

暮らしフルネスの幸福論を書いてほしいとある人に言われて書いていますが、そもそもこれは文字で伝えることは至難の業です。言葉にすると、もうどうでもいい気がしてきてすべてあるのだから何も言葉にしなくてもいい気持ちになります。

ただ仕合せを感じる今があるということ。

この今に生ききるというのは、一期一会のいのちを輝かせていくということです。そうなってくると、未来も過去も関係なく、他人も世界も関係がない、一切関係がない中にこそもっとも深い全生命との関係があり、まるで細胞の一つが全体と合わさって元氣になっていくようにいのちが丸ごと充実するのです。

表現としてはここいらが限界ですが、鳥の鳴く声、太陽が昇る音、風の揺らめき、光のシャワー、澄んだ空気に温かい影、この感覚のすべての世界が調和と共に暮らしは整っています。

暮らしを見直すことで、人はいのちの本体を見直します。

磨き続けていきたいと思います。

暮らしフルネスのお裾分け

昨日、聴福庵で新婚の記念撮影を行いました。白無垢姿の花嫁と紋付袴の新郎が、懐かしい結婚式の様子を思い出させてくれました。私自身は式場しか知らない世代ですが、むかしはみんな家で結婚式をしていました。

二間続きの部屋が和室に残っているのは、冠婚葬祭をふくめあらゆる記念式はこの場所で行われていたからです。家の中で行う安心感は特別で、いつもの暮らしの場がそのままハレに日に代わり、そのままその家で暮らしが豊かになっていくのを感じ、その場に思い出と仕合せが残っていくからです。

私たちはこの残っているものを福として、それを分けることでさらなる豊かさを積み重ねていくのです。まさにこれが仕合せの本質であり、福の本懐です。こういうのを福分けというのでしょう。

仕合せというのは独り占めするよりも、多くの人たちと分けた方が仕合せが増えていくのです。これは物資的な増減とは反比例し、心の幸せは分けることで増えていきます。

聴福庵では、昨日は親戚にいただいた米粉でピザ職人と一緒に炭竈門でのピザ焼実験をしている最中で昼にはみんなでそれを味わい美味しく食べました。これもお裾分けです。そして長年付き合いのある友人が奥さんとお子さんをはじめて連れてきてくれてお菓子をいただきそれもお裾分けしてみんなでいただきました。さらに、新婚の二人の愛し合う姿をみんなで見守り、一緒に笑い、記念日の幸をいただきました。また室礼のお花も、誕生日の息子たちのものをお借りして家を美しく彩り花の豊かさに満たされました。その夜には息子たちの誕生日のお祝いの食材も、分け合いみんなで美味しくいただきました。

こうやって時を分け、物を分け、愛を分け、福を分ける。

このお裾分けこそ、もっとも仕合せと豊かさの象徴なのです。日本人はむかしからお裾分けし合いながら、豊かさを増やしていきました。暮らしフルネスの中でも、このお裾分けはとても大切な実践の一つになっています。

私がお裾分けするのは、私がお金持ちだからではありません。それにただサービス精神が旺盛なだけではありません。シンプルに、豊かさの本質を磨いているのであり、それが福の正体であることを感得するからなのです。

子どもたちの心に、偉大な先人からの豊かさが文化と共に伝承されていくように福分けの実践を楽しんでいきたいと思います。