法灯と宝珠

英彦山にある霊泉寺の本堂向かって右側の宝珠一帯の木材が雨により傷み壊れていたので修繕を報謝させていただくご縁がありました。こういう機会をいただけたことに深く感謝しています。

この霊泉寺を調べると、英彦山修験のはじまりだといわれます。幕末に修験道は神仏習合で信仰を禁止され一気に廃れていきました。この霊泉寺は、元々の英彦山修験のはじまりであった霊仙寺の法灯を継ぎ昭和30年(1955)復興、そして平成元年(1989)には本堂や寺務所、庫裡が完成したとあります。

元々は英彦山は北魏の善正という僧が531年に英彦山内の洞窟に籠り、修行して仏教を広めたことがはじまりです。この時期は日本に正式に仏教が伝えられるよりも7年前ということになり、日本の仏教のはじまりはこの英彦山ではないかといわれます。この善正法師は最初は大宰府に来て仏法を弘めようとしましたが光が日子山にさすのを見て、山中の石窟にこもりその時機まで待つと決め修行をしたことがはじまりです。そして豊後の恒雄という猟師が善正に弟子入りし「忍辱」と名乗り英彦山修験が興ります。

この場所が、現在の玉屋神社がある玉屋窟です。この窟で忍辱は一心不乱に修行を積んで、如意の宝珠(世の中の人々を救うために役立つ不思議な力を持つ珠)を授かります。その珠は窟の奥から小さな倶梨伽羅(竜)が口にくわえて細い水の流れにのって現れたそうです。その珠が出現したことから、それまで般若窟と呼んでいましたがそれを改めて、玉屋窟と呼ばれるようになりました。この霊泉は今でも現存して滾々と湧いています。

その後、有名な修験宗開祖の役小角もここで修行したとされ、以後も義覚・義玄・義真・寿元・芳元(五代山伏)などが続きます。さらに弘仁10年(819)以降、宇佐出身の「法蓮」という行者が堂宇、伽藍、社殿などを造営し、霊山寺と名付けます。

この霊山寺という名前が霊仙寺になるのは弘仁13(822)年、嵯峨天皇より、「日子を改めて彦となし、霊山を霊仙に改め、四方七里を寺の財産とし、比叡山に準じ3千の僧を置き、天台の教えを学ばしめ、70州を鎮めて海宇の豊かなることを祈れ」とお言葉をいただいてからです。そこから900年間、英彦山はますます荘厳になりその信仰圏は九州一円、40万戸にも及んだともいわれます。元禄9年(1696)、英彦山は幕府により別本山と定められます。そして霊仙寺は江戸中期には坊舎800、山伏ら僧衆3000を数えるほどだったともあります。

今ではその霊仙寺は名前を変えて法灯を継ぎ霊泉寺となり玉屋窟から銅の鳥居に場所を移動させこの先にまた興るであろう未来の時機をじっと待ち、この先の修験道や山伏たちの御縁を見守っています。私は、時空や時間を旅をするのが好きですから約1500年以上の月日をその場で味わい、その中でどのような方々がここで暮らし、そして生きたのかに想いを馳せては徳を感じ心を潤します。

現在でも「不滅の法灯」といって比叡山延暦寺で最澄が御本尊の前に灯して以来、1200年間一度も消えることなく灯され続けている明かりがあります。今でもその灯りを道を継いだ志のある方々が偉大であり、その光はいつまでも心を照らします。

この英彦山には、宝珠がありそして法灯があります。

甦生させていくというのは、言い換えるのならこの法灯を守り宝珠を使うことです。私がさせていただけるのはどこまでかはわかりませんが、心の声に従って使命を果たしていきたいと思います。

 

プラットフォームの意味

プラットフォーム(platform)という言葉があります。これはIT用語としては、アプリケーションやソフトウェアが動作するための土台を指します。一般的には、モノやサービスなどがつながる場とも定義されます。そもそも「プラットフォーム」の語源の原義は「一段高くなった平らなところ」という意味です。この原義から「プラットフォーム」の別の意味が生まれていったといいます。

これを日本で考えてみると今では「舞台」が近いように思います。そしてそれは別の言い方では「場」とも言います。どのような場になっているか、そこに○○プラットフォームという言い方をするようになったのではないかと思います。

私の考えているプラットフォームは「繋がる場」ということになります。どのような繋がる場を用意するか、場に繋がる環境を整えていくか、そこにプラットフォームを創造し磨いていく面白さがあります。

つまりプラットフォームを提供するというのと、場を提供するというのは同義であるように思います。

私は場の道場を運営していますが、場づくりと場の提供こそ道の本質となります。どのような道を歩んでいくかを設定していくにもこの「場」の提供は欠かすことはできません。

何かをやり遂げたいと思うと、まずは「場」を産み出すこと。そしてその「場」を通して繋がること、さらにその「場」を結び合うこと。これによって場と道は実践され永続的に循環されていきます。

この「場」とは、先ほどの「プラットフォーム」であり、こういうものを具体的なアナログでの場で実現させるのと同時にデジタルの空間の中にプラットフォームを実現させようと試みているのが今の私の取り組みということになります。

人類はこれからどのような場を創造しくかにかかっていて、そこには理想や哲学や初心が入っているものでありその価値観を結び合わせて居場所をどう醸成していくかにかかっているのです。

そしてそこには、自己組織といったDAOの考え方、またスマートコントラクトといった透明性、ブロックチェーンの持っている特性が活かせるのです。そして私は世界に古来からある「徳」に着目し、徳を循環させることでいのちもまた甦生していくことを発見しました。

私が実現したいプラットフォームは、徳のプラットフォームであることはこのブログでもたびたび発信してきたものです。古民家甦生もまたその場の創造をアナログで実現してきたもの、そしてこれからデジタルで場を創造していきます。

ハイブリッドに取り組むのは、暮らしフルネス™を創造して提供しています。子どもたちのために、未来の世代のために挑戦を続けていきたいと思います。

DAOの意味

ブロックチェーンにはDAO(Decentralized Autonomous Organization=自律分散組織)という言葉があります。最近は、このDAOについての話も増えています。このDAOの理解は、一般的には中央集権の反対の意味に捉えられています。つまり特定の一部の管理者によって管理運営する仕組みではなく、みんなで平等にお互いに見守りあって主体的に運営する仕組みです。

これをブロックチェーンで、このシステムを用いることで参加者がスマートコントラクトを使いある一定のアルゴリズムの共通のルールに従い、そのルールによって自律的に運営することができるようになっています。

会社で例えるならば社長だけが決定権や責任をもっているトップダウンの管理型のタイプか、もしくは社員が全員経営者でありフラットに尊重し合って働くタイプかのような違いになるでしょうか。

シンプルに言えば、どれだけ一人ひとりを尊重して大切に経営するかということができているかということがこの自律分散型の要諦ということになると私は思います。

ブロックチェーンそのものが改ざんできない、そしてオープンで隠せない仕組みになっていますからそこに参加する人たちはお互いを信頼できます。そのうえで一つの共通ルール、価値を設定します。そこに参画する人たちは、みんなでその取り組みに対して自発的に主体的に関わり協力していきます。

この自律分散の本質は、協力と相互扶助を実現させるところによります。つまり単に自律が目的ではなく、協力しあう関係をさらに一層深めていくために自律分散をするということです。

自律=協力であり、この2つは同じ働きをするものです。今の時代、人間が成熟し自立していくためにも自律は必要不可欠でありそしてそのためには協力を通して自律の本質を体得していくしかありません。つまりブロックチェーンのDAOの仕組みは、自律分散型という意味で理解するよりも如何に人々が思いやり助け合う仕組みを理解するかの方が私は重要だと実感しています。

その理由は、古民家甦生を通して「結」という考え方を実践し、そこで協力し合う仲間たちが自律分散し助け合う中で垣間見るからです。

人類にこの技術が必要なのは、みんながつながって関係していること、そこにみんなが平等に関わっていること、つまり一人ひとりの投票や行動が世界をよくもわるくもできるということをブロックチェーンの技術で実現できるというところにあります。

子どもたちが未来に、今の世代が好き勝手やったツケがまわっていかないように今の世代の責任がDAOで果たせるように仕組みを開発していきたいと思います。

お金のトレーサビリティ

ブロックチェーンではトレーサビリティとの相性の良さがありよく利用されます。このトレーサビリティとは、「その製品がいつ、どこで、だれによって作られたのか」がはっきりすることで原材料の調達から生産、消費、廃棄までを追跡可能な状態にすることができる仕組みです。

このトレーサビリティは、トレース(Trace:追跡)とアビリティ(Ability:能力)を組み合わせた造語です。

もともとは、食の安全で有名になった言葉で狂牛病が切っ掛けでもあったといいます。現在、牛舎にいけば牛の耳に識別番号のカードがついているのを見かけます。あれは牛トレーサビリティの一環で、牛が生まれてから店頭に並ぶまでの履歴を後追いできるシステムがついています。狂牛病のまん延防止措置の的確な実施を図るため、牛を個体識別番号により一元管理するとともに、生産から流通・消費の各段階において個体識別番号を正確に消費者に伝達するという仕組みです。

ブロックチェーンの相性の良さは、追跡でき情報を集約できること、また改ざんできないことがあります。ここでは食の安全を守るということで、食に関するすべて有機的につながっているものを安心安全に保つ状態にすることをフードトラストともいい、ブロックチェーン技術が活躍しています。

そして最近では一歩進んで、お金のトレーサビリティがはじまっています。

お金というのはよく色がないといわれます。この色とは、お金は手に入ったものがどのように自分の手元にあるのかがわからないということです。つまり一生懸命に働いて誰かのお役に立って入ったお金、もしくは悪いことをしてくすねたようなお金、もしくはどこかに落ちていたのを拾ったお金、あるいはその人が一生をかけて奉仕のために貯金したお金であっても、財布に入ったり銀行に入ってしまえば数字や紙幣といったものになります。

どのようにそのお金がここまで流れ着いてきたのか、どのような経緯で今のところにたどり着いてこれからどのようにそのお金が使われていくのかなどまではわかりません。よくマネーロンダリングなどといって、よくないお金をいろいろなところを経緯して使いまわし洗浄を繰り返せば、汚いお金の汚れもすっかり消えてしまうともいわれます。

同じ100億円であっても、その100億円がどのようにそうなったのかは数字ではでないのです。しかし、これは先ほどの食の安全と安心、フードトラストと同じで、どこかで改ざんされたり、変な使われ方をしたり、偽装されてしまうと一番名枠を被るのは信頼して使っている人たちであることは間違いありません。

その信頼を保つためにも、はっきりとそのお金がどのように流れて使われているのかをちゃんと追跡して、それを集約して明確に可視化されていく必要があるのです。つまり正直に取り組む人たちの信頼を守る必要があるということです。それが目的をもってお金を使うことであり、その目的に合わせてお金を流して目的が達成できるように有機的にみんなが安心して関われるようにできるということです。

これがお金に色をつけるということになるという言い方になります。例えば、地球環境に配慮したものだけを使いたいとなればそのように色がついたものにお金を使います。もしくは、未来の子どもたちのためにつながるもの、もしくは自然物として分解されること、循環を促すための仕組みで取り組んでいる人たちへの投資としてなど使い方は様々です。

実際には、本物をやろう、本当に価値のあることに費やそうとするならばそれ相応の時間や労力は必ずかかります。それは目には見えないところであり、その人たちの志や初心、生き方のところです。安く便利に儲かることだけを考えて本物風や偽物を偽装するようなことをやっている人に騙されるのはいい思いは決してしません。そんなことが発生しないようにこのブロックチェーンのトレーサビリティはお役にたっているのです。

これからの世の中、私たちは無意味にただお金を使うようなことはできなくなります。なぜなら、モノがない時代から物があふれる時代になり、ただあればいいから、本物で善いものを持ちたいと思うように変化していくからです。それは価値観の変化であり、人類はそろそろ本物に回帰したいと願う人が増えてきたからです。それだけ、この世界は流通が行き渡り情報が覆ってしまったということを意味します。

ブロックチェーンの可能性は、この情報の追跡と集積による智慧の活用にあります。私も現在、古き善き新しい仕組みを開発していますがブロックチェーンとの親和性は抜群であり、未来の子どもたちにとっても価値のあるものを譲り遺せると直観しています。

引き続き、この場から世界に未来の在り方を発信していきたいと思います。

徳治の世とブロックチェーン

ブロックチェーン技術の持っている根本的な特性として興味深いものは、特定の誰かが管理する台帳ではないというものです。つまり台帳の管理を、みんなで一緒にするということです。

つまり「統治主体」が特定の誰かではなく、みんなで統治するということです。住民自治と似ている概念ですが、これはもっと根源的であり人類の目指す一つの平和の理想郷のようなものかもしれません。

ガバナンスやガーバメントなどは、もとは管理、統制などという言葉が語源です。政府があり国家があるのはこの管理統制をするために行います。世界では様々な国家が形成し、今でもその国家によって統治されています。

不正が行われていないか、法令を遵守しているか。最近のコンプライアンスのことや、リスクマネージメント、色々と出てきたプライバシーの問題などもすべてこれは管理統制するために発生してきた事例です。

しかし法で全部を完璧に管理するとどうなるか。それは誰もが息苦しく、幸福などとは程遠い世のなかになるのは理解できます。今までの統治ではなく、新しい統治が必要ではないか。

そこでそれを実現するのにここでブロックチェーンという技術が突如誕生してきたともいえるのです。それは今までの統治法ではなく、新しい統治の方法が誕生したということ。

しかしこの新しい統治というのは、別にかつて人類がやったことがなかった統治をするということではありません。これは実は人類がもっとも長い時間をかけて体験してきた統治に原点回帰することです。例えば、それが縄文時代であれば同様にみんなで安心して暮らしていける社会を築いていました。

現代は、そこに文明が入ってきて狡賢く富を独占し管理する人たちが増えてきました。そうやって全体のエコシステムを保つよりも、自分さえよければいいという欲を優先し欲に負けてきたのが現代の文明構造を構築したともいえます。それが、世界の隅々まで行き渡りいよいよ人類による人類の自滅の危機の領域に踏み込んでいるともいえます。

それを解決するための手段としての技術革新が必要であり、エンジニアをはじめ覚者たちが新しい統治の必要性を発信しはじめているのです。それは決して、現在の政府や国家への反逆ではなく、別の統治法があるという提案でもあります。

この改ざん不可能なブロックチェーンの仕組みは、人類をアップデートする可能性があるものです。正直な世界、安心の世界、かつて人々が幸福感をみんなで味わって思いやり助け合い、豊かな社会をこの時代でも甦生させていこうとする取り組みになるのです。

私がブロックチェーンに取り組む理由は、この徳治の世を甦生することでもあります。そのために徳積財団を設立し、古い文化を伝承し新たに甦生させ続けて場を広げています。

子どもたちが安心した世界で、末永く生きていけるように挑戦を続けていきたいと思います。

トークンからはじまる世界の変化

ブロックチェーン技術の革新が進み、トークンエコノミーという言葉が出ました。このトークンエコノミーは直訳すると代用通貨経済となりトークンと呼ばれる代用通貨を利用した経済圏という意味だといいます。

昨日、そのトークンのコミュニティのことを書きましたが国家や政府の法定通貨で動く巨大なコミュニティや一つの価値基準ではなく、そこでは対処できようもない小さな経済圏、もしくはある一定の地域やコミュニティ、多様な価値基準を含有した仕組みがこのトークン●●ということになります。

もちろん現在もこのトークン●●は発展していますから、トークンエコノミーやトークンコミュニティのようにトークンマルシェとかトークンボランティアとか色々と出てくることは予想されます。

そもそもこのトークンエコノミーは、ただのエコノミーとは何が違うのか。それは今の資本主義経済とは異なる仕組みを創造しようというところにあります。誰もがわかっていることは、現代の自転車操業的に大量生産大量消費を続けていたら地球は持ちませんし人類は滅亡へと向かいます。

理由は簡単で、資源が失われてもお金は増え続けていきますからそれでも生活するためにお金が必要ですからお金を中心にしてお金に支配される経済を続けます。そして個々の比較競争や貧富の差など格差は世界での国家の経済力に左右されます。そうなると経済力こそ権力であり、権力をさらに伸ばすためにひたすらにお金を道具にして支配を強めていきます。これは軍隊と同じで、いつ軍事バランスが崩れたらと軍備を増強し続けているのと同じです。いつまでもそれぞれの国で軍隊を増やし武器をつくってもいつかは勝っても負けたという具合になりかねません。

世界はみんなで豊かになる方法か、誰かだけが豊かになる方法かとその選択をしてきました。本来、人類は全体でどのように豊かになるのかを模索してきましたが富の独占によりこの2000年間ずっと似たような争いをし続けそして現代を迎えるまでに来たのです。

しかしここで私たちは別の方法を技術革新によって行おうと挑戦をはじめました。それは、言い換えれば持続可能、永続するために現行のシステムとは他のものを創造し、同時に世界を調和させていこうとするプランを模索しはじめているのです。

例えば、戦国時代は常に戦乱で世の中が争い乱れていました。しかしよく調べると、農民たちは結構平和な世の中でいつも通りに農作物をつくり暮らしをしていたことがわかります。

もちろん資料を読めば戦になれば地域の人たちも協力をして子どもや物資、手伝いをしたとありますが基本は農民は農業に専念しながら生活を成り立たせて暮らしを豊かにしていたのです。その理由は、農民がいなければ武士も大名も食べることも戦もできなかったからです。当たり前ですが、現在でも同様にいくら国家が経済戦争をしていてもそのもとになる資源を循環させ続けなければいくらお金があってもどうしようもなくなります。

そういう意味で、気づいた人たちがどうやって小さな循環を増やして真の豊かな世界にしていくかと挑戦をはじめているのです。

私は戦国時代にとても参考になるものに茶の湯があります。千利休が戦国時代に新しい価値を創造したのです。私が徳積堂を現代に甦生した意味もこのことによります。新しいトークンエコノミーはこの茶の湯にヒントがあると直観したからです。

大名たちは戦国の世の価値観を憂い、人にして人にあらずというような心の荒みを体験しました。その心を癒し、新しいシステムに移行していくのにこの茶の道は大きな役割を果たしたように思います。

今までにない価値観をこの世に創出するのは確かに大変なことかもしれません。しかし小さなものでも形にして、小さな集団でも実践して可視化していけば人々は次第に今の価値観とは別のものがあってもいいと思うように変化していくものです。

そうしていくうちに、新しい生き方、これからの未来に向けての統合がはじまっていくように思います。このブロックチェーンの技術は、それを近づけるのに大きな役割を果たしていくのです。

ブロックチェーンストリート構想は次のステップに入っています。子どもたちのためにも、この地から世界を易えていきたいと思います。

 

素直さの意味

人間はみんな我があるものです。この我とは、一つは欲であり一つは情です。他にも細かく言えば我ばかりですがその我があるから真実や本質が見えにくくなっていきます。なぜこうなっているのかと、真摯に洗い清めて透明になるまで磨き上げていけば真実は見えやすくなりますがその間に様々な穢れがこびりついてきますからどうにも本当のことがわからなくなります。

そうなると、人は「素直」であることができません。素直というのは、単に従順になることではないことはすぐにわかります。他にも、ただ性格が良いことだけを言うのではないこともすぐにわかります。

素直さというのは、ある意味で無の境地であり、謙虚に我が省かれている状態であり、何か偉大な自然と直につながり直観が働いている心境であったりのことです。

つまり何物にも囚われない澄んだ心の姿勢の時こそ、人は素直になっていると言えます。人の話が素直に聴けるというのは、人の言うことを単に逆らわずに聞くことではなく心が澄んだ状態であるがままのことを聴けるということです。

よく他人に質問して何かを訊いているのに話をまったく素直に聞かない人がいます。それは自分の我があるからですが、素直ではない状態だから訊かないのはすぐにわかります。自分自身の心が澄まないので、澄ませていきたいと思って訊くのならその人は謙虚ですから素直に近づいていくこともできるかもしれません。

しかし最初から我が強く出て自分の思い通りにしたいと思っているのもがあるのなら、本当のことを素直に直観できる感覚はそこで働いていないと私は感じます。

素直さというものは、直観力であり、そして浄化力であり、研磨力でもあります。どれだけ研ぎ澄ましていくか、そして洗い流していくか、心を清らかにして真実を明らかにしていくかというものであろうと思うのです。

素直にいきましょうと声掛けするのは、お互いに心を澄ましていきましょうという掛け声をすることです。みんなが素直になるのなら、本当のことがわかり本質のままにお互いに協働して助け合い、清々しく明るく物事に取り組むことができます。

つまり素直にという意味は、「清々しく明るく」いましょうということだと私は思います。人間は、常に相手がどうかではなく自分が澄んでいることが重要です。そうでばければ、この世にいて本当に起きている事象や出来事、ご縁を理解していくことができなくなるからです。

日々の喧騒や荒波、濁流の中であっても深海のような静けさ、水面の鏡のような美しさを保ちたいと思います。子どもたちのためにも、むかしからある日本人の智慧を伝承していきたいと思います。

一枚板の価値

藁ぶき古民家にご縁をいただいた古木の一枚板のテーブルを入れてこれから甦生していきます。もともとこの一枚板というのは、長く育った古の大木から取り出されたものです。そこには偉大な生命力を感じ、いつまでも長くいのちをつないできた歴史を感じます。

まさにこの古木の一枚板は古民家に相応しいテーブルであり、ここでこれからどのような暮らしがはじまりそこでどのような団欒があるのか。ここで暮らす人を支え、豊かさの一つの象徴となるようにテーブルには特にこだわりを持たせました。

もともと一枚板は一生ものといわれるように、それだけ価値のあるものです。費用も高額で数十万から数百万するものもあります。なぜ高いのかといえばそれは希少でありかつ長持ちするからです。

本来、古民家というのはどのような定義をしているのかはわかりませんが私にすればこの一枚板のようなものと同質のものであると感じています。

長い年月を経て、艱難辛苦を乗り越えて育った立派な大木を木挽き職人がしっかりと丁寧に選別し丁寧に取り出していく。それを見事なまでに磨き上げ仕上げたものが一枚板です。当然、長持ちするのは当たり前で数百年を持ちこたえるものもたくさんあります。

木は一般的には、木の時に生きた年数以上は耐久できるといわれます。樹齢200年であれば、200年はもつのです。というと、古民家で使われている素材(私の言う古民家は年数ではなく日本の本物の民家のことを言う)は、同様に数百年単位の木材を使って梁や棟に使われています。

それだけ長持ちし、寿命があるということです。つまりそれだけ価値があり高額であるものなのです。しかし実際に今では、新築信仰で張りぼてばかりをつくり古民家の価値はほとんどありません。むしろ迷惑な存在のように扱われます。

これは本物がダメになったのではなく、本物の価値をわからなくなった人が増えただけともいえます。なんという悲惨な時代だろうかと思うことばかりですが、町に出れば安価で偽物、便利ですぐにダメになるもの。量産型で画一的で希少なものなどはほとんどありません。

そんなものを使っても、すぐに壊れますし、先ほどの一枚板のテーブルのように暮らしの中心を支える大切なものとして働きはどうなのだろうかと思います。

善いものがわかる、つまり本物を知るというのは私は人生において何よりも重要なことであろうと思います。私の甦生する古民家が、なぜ皆さんに喜ばれ感動されるのかといえば別にセンスがいいからやデザインがいいからというわけではなく、本物にこだわっているからだともいえます。

その本物は何でも本物という自然物だけにこだわっているわけではありません。時代的に文明のものを使って仕上げますからそこには自然物ではなく人工物です。しかしこの時の本物という私の言葉は、「本質的か」ということも本物の理由の一つにしています。

つまり何のためにやるのかということにこだわっているということです。

長くなりましたが、一枚板というものを通してこれからこの説明をするときにはこの古民家の価値と一緒に伝道していけるように思います。木造建築の価値、木の持つ徳を子どもたちにつないでいきたいと思います。

苦労し甲斐~メリハリのある人生~

人生には「苦労し甲斐」というものがあるように思います。時が経ち、後で振り返ったときに苦労した甲斐があったなと感じるもののことです。苦労したからこそ、得たものがあります。それはそこまでに経てきた体験からの気づきであったり、智慧であったり、そして技術であったり心身の練磨による成長であったりです。

これをやろうとすれば苦労すると最初に誰もがわかっていてもそれを厭わずに挑戦し突進していく。そこに人生の真の妙味があるように思うのです。

人生の妙味を知る人こそ、苦労し甲斐を知る人でもあります。

周りからすれば、何でこんなことをと思っていますがそこには苦労によって誰でもわからない境地に生きているからです。私の場合は、未来の子孫のためにと初心を定めていますからそのためには苦労を厭わずに何でも来たものは選ばずにご縁と導きを信じて取り組んでいきます。

過去の経験や何かそれを実現する才能などは特にありませんから、毎回新しいことに挑戦することになります。周りからは、苦労するよと言われてもそうですねと笑いながら取り組んでいきます。失敗したり困難があると、ほれ見たことかといわれることもありますがそんなことは最初から分かっていることだから特段何も影響はありません。

問題は、この苦労は苦労のし甲斐があるかどうかというところが重要なのです。そしてそれは「道」として必ず通らなければならないのであれば正面から向き合って取り組んで味わい通過、もしくは突破していくだけです。

そうして振り返ったとき、今の自分が育てていただいたこと。今の自分の信念や勇気、そして生き方や生き様を創造してくださったことに感謝できるのです。

人生は一期一会であり、今は唯一無二です。

何事も遣り甲斐があることに挑むことが、メリハリのある人生が送れるということになります。このメリハリとは、緩むことと張ること、つまり弓のように適度に弦がはっている状態をいいます。いい意味で、充実して心身が調和している状態のことです。

何かに集中するというのは、そのものを実現するために真剣に打ち込んで苦労をしていくということです。苦労のない人生は、ハリがありません。ハリのある人生は、苦労を通して人生の妙味を知りそしてそれをゆったりと振り返りその時の思い出を豊かに味わい感謝していく生き方です。

これは苦労のし甲斐があると、偉大な目的に向かって生きるとき人は人生が真に豊かになり充実するのです。若さ、情熱、青春は苦労と共にあります。大変でも目的に生きる苦労の多い人生の価値を、子どもたちに伝承していきたいと思います。

お手入れの循環

最近、捨てないということについての動きが活発になってきています。資源が枯渇してくればくるほど、資源のリサイクル化は進んでいきます。しかし実際には、膨大な量を生産していれば捨てなければこの世はまるでゴミ溜のようになっていきます。

現在は、資本主義経済を循環させることが大前提ですから両立するというのは如何に経済を回すかということですがそれでは本当の意味で解決することはありません。

私は捨てないということよりも、本物にするということだけで十分解決すると感じています。

例えば、日本には伝統職人さんたちがいます。彼らは、自然物を上手に活かし、里山循環の中にしっかりと溶け込み、自然の一部としての役割を見事に果たしています。藁ぶき職人であれば、その地域の藁やカヤ、葦などを用いて家の屋根を葺きます。また左官は田んぼの土などを活かして土壁を塗ります。また森林を手入れし炭焼きをし、大工さんらはその木を用いて家を建てます。竹の手入れによって数々の暮らしの道具を人々はつくります。かつて、私たちは「何が本物であるか」を知っていたのです。

その時、私たちは捨てるのでもなく作り続けるのでもなく「手入れする」ということだけに専念したのです。

私は今の時代、もしも世界が変わりこの人類の方向性を導けるとしたらこの「手入れ」をするということだと確信しているのです。そのことから、徳積財団を設立し、暮らしフルネスを起草し、「お手入れ」のための活動と実践をこの地から発信しています。

物を大事にすること、もったいなくいのちをいただき伸ばすこと、このすべては「お手入れ」する心から育つものです。自分の心をお手入れし、身体をお手入れし、そしてお導きやご縁にお手入れする。当たり前のことかもしれませんが、自然はみんなでお手入れをすることで循環を守り続けてきたのです。

現代はこのお手入れの反対のことをみんなでやってます。やりっぱなし、なげっぱなし、捨てっぱなしで作りっぱなし、これがゴミの正体であることに気づく必要があると私は思います。

日本にはそもそもゴミという概念がありませんでした。八百万の神々の一つであり、それが他の神様のお役に立つ大切な存在でした。だからこそ、ここ日本からこの思想や生き方を伝道していくのが今の世代の使命だと感じています。

子どもたちがこの先、100年後、1000年後、どれだけの自然に見守られているのか。自然の回復力と人間の魂の真の成長を信じて、子どもたちのために日々のお手入れ、修繕を伝承していきたいと思います。