日本の初心

現在、英彦山の宿坊の甦生に取り組んでいますがいつものことながら困難続きです。だいぶ、これまでの経験から慣れてはきていますが信じているものの現実の対応には決断ばかりが必要で心身の疲労は蓄積していきます。

振り返ってみると、これまでも古民家甦生は無理難題ばかりの連続でした。当然ながら、費用の問題。大工さんや職人さんたちは一生懸命に取り組んでいますからそのお支払いが必要です。なぜ今までなんとかなってきたのが不思議で、その都度に知恵を出したり周囲の方々からのご寄付があったりして何とかなってきました。

そして次に建物の問題。私がやるところは皆が手入れをやめて荒廃していよいよ最期かというところのものしかご縁がありません。中もぐちゃぐちゃで、木材などもシロアリ被害にあっていて思った通りに工事が進みません。

他にも私の無知からの不手際でご迷惑をおかけしたり、本業の仕事ができなくなりみんなに迷惑をかけたり家族との時間が減り家事を任せきりになっていたりと、いろいろとあります。

何よりももっとも大変なのは、本質を守り続けるためにブレないで最後まで貫遂するための自分自身との正対です。

私が取り組むときに最初に決めるのは、「家が喜ぶか」「本物の和にしたか」そして「子どもに恥じないか」と定めます。今回の宿坊はそれに加えて、お寺ということもあり「布施行」を貫き仲間を増やし、「いのりの場」として子孫に繋ぐためのプロセスを重んじたかと、取り組みの際の自戒を定めてやっています。

何度も費用のことや、楽にやろうとしたり、時間がないなかで時間を敢えてかける方を選択したり、ブレないで自戒を大事に守り取り組んできました。夜中に夢に魘されたり、山の中の寒さで冷え切り体調が著しく崩れたり、心ここにあらずで怪我をしてしまったり、ストレスで頭痛や胃腸を悪くしたりと、思っていた以上に堪えました。

しかし、そんな時こそ足るを知り、いただいている方を観て感謝して同時に信じてくれた自分や周囲の御蔭様に勇気をいただき前進してここまで来ました。周囲からは、順風満帆で明るくやっていますし私自身も弱さを公開せずに徳を積む仕合せをこぼれさせようと顔晴っていますからなかなかこんなことを伝えることがありません。

むかしの諺に「武士は食わねど高楊枝」があります。 これは誇り高い武士はどんなに貧しくても、腹いっぱい食べたかのように楊枝を使って見栄を張っていたというものです。これは見栄をはっていたのでしょうか?

実際には、江戸時代の武士の多くは今でいう政府や役所のお役人でした。彼らの多くは私利私欲に走ることなく世の中のため、民衆のためにと働いた公人でした。現代のように裕福でモノに溢れた時代もある中でも為政者としての武士の倫理規範をもち、無私の奉仕、誠実な生き様を痩せ我慢をしてでも実践した言葉です。

この時代、価値がないと捨てていく大切な伝統や本物の文化が荒廃していくのを見すごせないと私のようななんでもない凡人でも環境がなくても真摯に取り組めば甦生はできるとその姿に何かを感じてほしいと宿坊の甦生に取り組んでいます。

かつての山伏もまた、山で暮らし山を守り、日々に修行に精進して気品高く人々のために盡してこられました。私にとっての山伏は、先ほどの武士は食わねど高楊枝で尊敬する先人であり先達なのです。

その暮らしを甦生するためにも、私自身が同じ境地を少しでも感じたいとこの今も甦生に取り組んでいます。今回の宿坊の甦生、英彦山の甦生は、できる限り多くの方々のお布施や托鉢、そして英彦山を愛し、日本の誇りを甦生するための寄付をなるべく多くの一人ひとりから集めたいと願っています。

それが日本人の心のふるさとを思い出し、日本の初心を甦生させることになると信じているからです。途中経過になりましたが、今の私の心境です。皆様の心に何かが伝わり、一緒に徳を積むことの仕合せや喜びがこの社会をさらに磨き上げて素晴らしくしていくことをいのっております。

宿坊が甦生し、皆さんにお披露目できるのは新緑の頃になると思います。

ぜひ、この「いのりの場」に来ていただくご縁がありましたら心に懐かしい未来の美しい風景が宿りますことを念じております。残りの期間、しっかりと取り組みます。

一期一会

暮らしの修行

人にはそれぞれのそれぞれのお役目というものがあります。他人と比べるのではなく、自分の天命を生きるとき、その天命を通して自分の役目に少しずつ気づいていきます。その役目を受け容れるとき、私たちは諦観を得て安心の境地を感得するのかもしれません。

まだまだ心が定まらないのは、自分のお役目よりも自分の我が先行して執着に囚われているからかもしれません。そんな時こそ、内省をして自分本来の心が実践したがっていることを素直に取り組んでいくことで心の平静を保てるように思います。

人は人に影響をされるし、及ぼされる存在でもあります。その影響は、自分を中心に変化していきますから体験した気づきを学びながら日々の暮らしをととのえていくことで時を味わい時に素直に学べます。

日々の暮らしの修行の面白さというのは、常住坐臥の境地を遊べることかもしれません。

私たちは修行というは何か厳しいものという認識を持っています。しかしよく考えてみたら、生きているというのは自然界では当たり前の厳しさはあります。食べていくだけでも大変ですし、気候の変化や災害、そして病気や外敵などすべての生命はその当たり前の自然の厳しさの中で暮らしています。同時に、自然の慈愛や恩恵もいただき自然界ではいのちを謳歌して何百年も何千年も同じようにこの自然界で楽しみ豊かに生きています。

自然から離れてしまうと、私たちは何か厳しさで何が慈愛なのかを感じにくくなっていくのかもしれません。本来は厳しい中にこそ慈愛があり、恩恵の中にこそ厳しいものがあったりもします。自然はどちらかに偏るのではなく、陰陽調和のように常に中心を保とうとして変化しています。

私たちも自然の一部ですから同じようにすべての生命と同様なことに共に中心を保つように取り組んでいくのです。言い方を換えれば、調和のためにバランスを保つのが私たちの中心であるということです。

心はその中心の軸を保つものです。

心をととのえていく暮らしは、先人たちも今まで行ってきた懐かしい暮らしの中に見出すことができます。私が取り組んでいる暮らしフルネスの中には、その知恵がたくさんあります。

子どもたちに、先人の知恵が伝承され、この地球で健やかに長く平和に暮らしを豊かに楽しんでいけるようにお役目をはたしていきたいと思います。

お手入れ

現代社会は消費の時代です。消費することでお金にして、冨を増やします。消費することを善として、消費しないことを悪ともしています。環境が消費を中心に動いていますから次なる消費を産み出した人が富を持つという具合です。

結局は、その前提となっているこの消費をなんとかしない限り私たちは消費を手伝っていることにすぎません。消費することはもちろん必要ですが、本当に消費なのかということをもう一度考え直さなければなりません。

私たちは生まれてきた時から、何かを生産はじめます。この生産という字は、生まれると産まれることで存在します。そして最後は死を遂げて甦生します。本来、死は更なる生への更新ということです。これは消費ではなく、甦生です。

私が甦生家で甦生にこだわっているのは、消費も原点回帰しようといっているのです。つまり寿命のことです。

寿命を大切にするというのは、これは動植物に限らずこの宇宙のありとあらゆるものが大事にしてきた本質です。

寿命を伸ばしていくことは、私たちが本来の消費に原点回帰することです。そのための手段として甦生が必要なのです。

この世は、ありとあらゆるものが有機的につながり、そしてそれは時とつながり、場とつながり、記憶とつながり存在しています。その存在は生産というよりも、ご縁です。

このご縁を結んでいく中に、私たちが今、存在していることの中心があり、そのご縁を生きているからこそつながりは永遠に織りなしていきます。だからこそ、時にはそれをひも解き、もう一度結び直します。複雑に絡み合って身動きができなくならないうちに、丁寧に解いていきまたはじめから結直していきます。

それが私の言うお手入れです。

お手入れをしていくというのは、寿命を全うするための手助けです。

暮らしフルネスのもっとも重要な要諦はこの一点です。子どもたちのためにも、徳を積み、徳に報い、真のあり方を仲間たちともに伝承していきたいと思います。

希望を育てる

人は、どうしようもないと思うと諦めるものですがそれが本当に大切なことであれば諦めることで思考が停止してしまうものです。諦めるのにもいくつかあり、人事を盡して天命を待つのような諦めと、あとは周りがそう言っているのだからと諦めるものでは意味が異なります。

例えば、コロナによって私たちはマスクをつけて今の人と集まらないということを制限されていますがこれがこの先もずっと続くわけではありません。マスクをつけ続けることで発生している様々な問題や、人が場に集まらないことで発生する社会の問題や人間関係や心身の問題なども出てきます。

それをなんでも仕方がないと最初から決めつけて諦めてしまっていたらそのうちすべての思考が次第に停止していくものです。歴史を振り返ると人類は、どんな時も困難に向き合う中で主体的に自分の内側にある創意工夫や知恵を働かせて禍を転じて福とすることで今まで以上によりよいものを誕生させてきました。

私が取り組んでいる、様々な甦生もまた同じことです。

古い伝統的なものを捨てていく問題、伝統文化が消失していく問題、子どもに智慧が伝承されなくなっていく問題、それをすべて資本主義だからや時代の流れだから仕方がないと諦めてしまっているのは思考停止になっているに過ぎません。子どもたちの未来のことを思えば、それを最初から諦めるのではなくかえってすべて福にしていこうとする自らの知恵で今まで以上のものに仕立て上げて甦生していくのです。

人はそのものをどう見るかは、その人の美意識や心境、そして思考が決めるものです。ある人が不可能と思えることでも、他のある人ではそれは可能かもしれません。大事なのは、諦めないことなのです。

ある種、その諦めない中には明るさがあります。つまり楽しみや遊び、そしてもっと面白くしようと思う前向きさがあります。マジメジメジメとした悲壮感やマイナス思考ではなく、気楽さや喜び、そして感謝があったりするのです。

私が思う思考停止しない状態というのは、常に明るく前向きで物事を楽観的にとらえ、今まで以上に面白くして楽しもうという境地を持っている状態ということになります。心が常に動いているのです。

マスコミの影響などを受けて情報を他人任せにしているうちにコロナでなんとなくみんな周囲も思考停止しています。ずっと同じようなことが2年も続けば、みんな諦める人が増えてそれは暗くもなるでしょう。しかし、夜明け前のように様々な光の兆しが出ていますからそれを楽しみ膨らませていく中に希望があります。

未来の子どもたちのためにも、希望を育て導いていきたいと思います。

心を磨く

昨日、ご縁あった方々と一緒に滝行を行いました。この滝行は、古来からある修行法の一つで心身を禊清め、鍛え磨く効果があるといわれています。この時期の、とても冷たい水を受けることで心を強くし気持ちを一新する効果もあるといわれています。

本来、日本では大切な儀式のときや人生の節目にはこの禊や潔斎を行いました。その一つに滝に打たれて心を研ぎ澄ますというものがあったように思います。

現代では、楽で便利な環境下ですから厳しく不便な環境は慣れていない人が増えています。滝に打たれると聞いただけで震え上がる人も多く、滝行は人気があるとはいえません。

しかし時代が変わっても、大事な局面で自立して覚悟を決める何かがあるときこそ自分の弱い心を向きあい、乗り越え、強い決意をもって何かをやり遂げる心をつけることもでてきます。

世の中で、逃げようとする心を断ちたいと思う人は大変多いと思います。かの二宮尊徳も、成田山新勝寺で断食や厳しい修行を通して心を鍛え直し、もう一度復興の心を呼び覚まし、そこから最後までやり遂げていきました。

もちろん極端な修行がいいというわけではなく、今の人たちがどのようにしたらその覚悟を持て心身を鍛えられるかを時代時代に考える必要があると私は思います。あまりにも極端な修行や苦行では、自分自身と向き合うことはかえって難しくなると感じるからです。

今の時代は、苦から楽ではなく、楽を真楽にする方が導くのには効果があるのではないかと私は思っています。真の喜びを知ることは、真の喜びの苦を学ぶことです。楽は苦の種ですが、苦も真楽の種です。

この苦楽を共にする暮らしを通して、私たちは真楽にたどり着くのではないかというのが私の提唱する暮らしフルネスでもあります。

実践を通して、気づいたことをみんなで分け合い、子どもたちが仕合せに暮らし続けるような社会に近づけていきたいと思います。

一期一会のご縁、ありがとうございました。

 

薬草の面白さ

薬草のことを深めていると、むかしの人たちの観察力の偉大さを感じます。そのものの何が毒で何が薬になるのか、これは特性を見極めないとできないものです。そしてこれを思う時、全ての存在には、その両面を併せ持つという素質のことを洞察していたことに気づきます。

例えば、毒だけの存在はないし薬になるだけの存在はほぼありません。個性も同じく、偏りがあるからそれを活かせば薬になるし、場合によっては毒にもなります。上手に個性を活かせば、社会の中で非常に有意義な使用もできれば、間違えれば残念なことにもなります。

そのものをどう活かすか、そのためにその素材がどうなっているのかを見極めて使うのです。ある時は、毒をもって毒を制すようなこともやってのけるのです。

薬草の知恵は、そのものの素材素質の活用の中にあるように私は思います。

もちろん、分量、加工法、また使い方、投与の仕方、きめ細かく丁寧に使用します。これは、人間活用もまた同様でそのものをどのように活用するのかは、全体を観ながら使う薬草と同様です。

食材で面白いのが、発酵の技術です。発酵させることで、毒を無害化させたり、菌と共生させることで非常に長い間、人間に有益なものにもなっていきます。つまり、同じ菌であっても人間との相性もありその菌の特性を上手に組み合わせるのです。

お酒が薬になるのもまた、その組み合わせの知恵を活用したのでしょう。

この薬草の知恵を深めていると、観察眼が深められ、同時に活用方法によってアイデアも広がります。温故知新の面白さというのは、この懐かしい人たちの心や感覚に触れるときです。

子どもたちにも、先人の叡智が伝承できるように色々と場を遺していきたいと思います。

只管打座の暮らし

先日、ある禅僧の方と一緒に瞑想をするご縁がありました。この瞑想というものは一般的には、足を組むなどして座り目を閉じて心を落ち着ける行為のことを言われます。広辞苑(第六版)には「目を閉じて静かに考えること。現前の境界を忘れて想像をめぐらすこと。」と書かれます。

私はこの瞑想の自分なりの解釈は、整えることを言うと思っています。常に暮らしの中で整えながら生活をしていくということ。私の暮らしフルネスは、この暮らしを整えることをベースにしています。

かの道元禅師は、「只管打坐(しかんたざ)」という言葉を遺しています。これはそのまま「ただ ひたすらに坐る」という意味です。その解釈としては下記のように説明されているといいます。

「瞑想を行い、そこから様々な功徳を得ている人は数知れない。あまりにも単純な方法だからといって、その可能性を疑ってはならない。今、自分が存在している場所で真実を見つけることができないというなら、一体どこに真実があるというのか。人生は短く、何人も次の瞬間が何をもたらすかを知ることはできない。心を養いなさい。その機会はいくらでも訪れる。やがて、すばらしい知恵を発見することになるだろう。そうすれば、今度はその知恵をほかの人びとと十分に分かちあい、彼らに幸福と平和を与えることができる。」

そもそも考えてみると、悟りとは何か、修行とは何かということを思います。悟りがあるから修行するのであり、修行するから悟ります。つまりこの悟り=修行は一体のものであり分けられるものではありません。悟ったから修行を終わるのではなく、修行したから悟るのではありません。常に、修行しながら悟り続けていく姿こそが真の道であるということです。

すると座禅というものもそこから考えるとわかります。ただ、座ればいいというものではありません。自分のいる場所で、修行し悟り続ける。この座るという字は、据わるともいわれます。居場所を保つことです。そして坐るというのは動作の漢字であり、座るというのは場に座すということです。

英彦山にも座主がいるように、このその場を創る人は座っているのです。私の場合は、「場の道場」(BA)の座主であるともいえます。どんな状況や環境であっても、自分の生き方や信念に座り続ける。まさに、道元禅師という方はそのような方だったのだろうと想いを馳せました。

私も、このような現代社会の中で人類の本当の生き方、そしてあり方などと正対しているとこの座禅は何よりも必要であることに気づきます。子どもたちが安心して自分の天命を生きられるように私も只管打座の暮らしを実践していきたいと思います。

 

山のこと

英彦山に関わりはじめたことで山のことを深める機会が増えています。今の時代は、山は一つのスポーツのようになっていますが古代から日本では山は信仰の原点であったことは間違いありません。

山に入るということは、信仰に触れることでもあり、登頂するというのは拝山するということであり神域に入り修験を積むということでもありました。俗世から離れた、深山の聖地で自己を鍛錬し、自然と調和する力を顕現させていく。それを神人合一、山人一体として山伏や修験者たちが悟り、それを里で暮らす人たちに恩恵を与えていました。

もともと仏教でも、本山や山門、出家などという言葉もありますがこれは山に入るという意味で俗世から距離を置いて暮らしの中で聖人に近づいていこうとするものだと思います。

山という言葉の語源は、不動の意味で止まるという意味のヤムから来ているということを聞いたことがあります。じっとして動かずそのうえで、全てを守るという存在でもあります。不動明王が祀られていることも親和性があるように思います。

よく考えてみると、私たちの水をはじめいのちを育むものはすべて山から降りてきます。山があって生命が保たれるのだから、その生命を産み出す山を尊敬して崇拝するのは当たり前でもあります。

信仰のはじまりは山からというのは、それはいのちを産み出しているということがあるのかもしれません。山には、母樹がありその木によってまた森が広がります。そして里での生活を潤していきます。もしも山に水も木もなければ、里は潤わず荒野のようになります。

私たちが山を大切に守るのは、それが私たちの暮らしを永続的に守ることを先祖は知っていたのでしょう。

子どもたちに山の甦生を通して、自分たちが知らず知らずにいただいている存在に畏敬の念や信仰の真心が伝承されていくように丁寧に甦生していきたいと思います。

求道者の学

布施行をしていると、お布施を集めるという言葉がズレていることに気づきます。そもそもお布施は集めるものではなく、お布施は修行ですから修行しにくのです。修行をする中で、徳を磨いていくことでお布施をする人たちが集まってくる。その中で、本当の意味で布施による徳の磨き合い、つまり徳を積むことが醸成されていくように思います。

今まで常識として知っていることを学び直して刷り込みを取り除いていくためには、自分自身が実体験で学び、その本質を理解してその実践を高めていくしかありません。

余計な知識があるから、どうしてもおかしなことをしてみんなでそれをやるから常識がますます本質から外れ歪んでいきます。歪んだ社会通念の中で、学んでいると本来の真実や本質まで間違って認識してそれをさも本当のことのように他人に語ってしまうものです。

本当は何か、真実は何か、それを知りたいと思う心の中には道があります。求道者というものは、常識を毀し社会通念を妄信せず、太古のむかしから普遍的に流れている真実に生きようとする人たちのことをいうのかもしれません。

知識は常に分別知でもあります。分けるために言葉が生まれ、それが無限に分け続けては膨大な知識が溢れていきます。IT化が進み、さらに知識は人間の認知を超えるほどに増えていきます。

だからこそ私は、原点回帰の必要性を感じています。分別知を元に戻していく。つまり、知識から知恵へと学び方を換える必要があると思うのです。それは知識の否定ではなく、知恵そのものが知識であると統合していくことに似ています。

例えば、先人の知恵を学び直しそれを現代に活かすということ。あるいは、子どもから学び、自分たちの生き方を換えるなどもそうです。

そうやって普遍的なものを砥石にして学び直していくのです。そのためには、目利きが必要になります。つまり何が本物であるのかを知っているということです。その本物とは、自分自身の中にあります。仏陀が言う、自灯明法灯明です。

現在、英彦山の甦生に取り組んでいますが宿坊からたくさんのことを学び直しています。坊主(ぼうしゅ)が宿る場には、それだけの知恵と道があります。先人に倣い、自分の在り方を見直していきたいと思います。

心の時

出会いというのを人を変えていきます。その出会いは時との出会いというものがあります。私たちは時を通して、今何に出会っているのかということを直感できるからです。

これは四季のめぐりにも似ています。四季折々に私たちはその時々の風景に出会います。その風景を観ては、その時を感じ、出会いの意味を知るのです。

例えば、この時機は冬から春にかけて空気も光も風もそして鳥、虫たち、植物たちも冬のもっとも冷えている環境の中で春を待ちます。この透明で凍てつく寒さの中で、春を待つ景色にその時の様相を感じます。それは時が止まったようで、ゆっくりと音も静かに流れている景色です。

朝焼けや夕焼けもその時を静かに語るものです。

私たちは日々に時と出会い、時に心を映します。

その時々の出会いをどれだけ感受性豊かにキャッチしていくか。それはその出会いに対して、どれだけ純粋に心が味わったことを噛みしめていくかに似ています。その出会いの余韻や、その時の仕合せ、心が時になるのです。

心の時というのは、永遠でもあります。

それは過ぎ去っていないままに、心に刻まれているからです。この心の時を持つ人は、いつも別の次元に時が止まったままで暮らしていきます。先ほどの、四季折々の変化のようにその時とその風景といつまでも出会いが続いているのです。

ご縁の世界というものは、現実的に目に見えるものだけの中ではなく、心の時といった風景の世界でもあります。

二度とない今だからこそ、この二度とない時を生きます。

子どもたちに美しく懐かしい未来を、続けていきたいと思います。