教わること

生きていく中で謙虚で素直であるかということはとても大切なことである。

いつも自分が自分を守っていたら誰もその人に本当のことを教えてくれることがなくなってくる。そのまま大人になってしまえば、プライドばかりが残り、大切なものに気づかずに感情に呑まれてしまっていることもある。

例えば、恥ずかしいということも知らなかっただけで知ってしまえばできなくなるのだけれどいつの年齢になってもそう思えないのはそれまで誰も教えて下さる人がいなかった、いやそういう人を自分が遠ざけているからでもある。

誰かが教えてくれるということは、自分では気づけなかったことを伝えてくれているのであり自分が気づかなかったのはそれを聴く心の姿勢ができていなかったからでもある。

いつも周囲に心を開き、素直な気持ちで話を聴けば自分のためになることを言ってくださっているのである。それをいちいち否定してしまうのは自分の中に心を閉ざした場所があるからでありそれを受け容れたくないと最初から心に重しがのっかっているからでもある。

もともと歪むという字は、正しいことの上に不が乗っている字でできている。

これは何でも正直でない捉え方をすること、何でも否定から入ってしまうような心境を持っていることを歪んでいると定義しているのである。

もしもそれが自分のために言ってくださっていると素直に感じ入るならば、感情的になるよりも前に諫言や助言は有難いことだと感得しすぐに改めるというのが教わるという境地なのである。

モノゴトを教わるというのは、今まで知らなかったことを教えてくださっているという姿勢を正すことである。それは今まで知ろうとしていなかったことを恥じて正しいことを素直に学んでいきたいという心の曇りのない状態を言うのである。

人はすぐに否定されると心が波立つのは、自分の心の中にそういう部分が存在しているからである。それを独り慎み、すぐに改善していくことこそが学問をしていく本懐であり意義であろうとも思います。

まだまだ自分は表面上に流され、感情的になることがあります。

しかし、他人は皆教師だということを学べるよう正直な自分を大切にしていきたいと思います。

感謝